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2005-01-22
■ [media][politics]NHK問題再論−「圧力」とは何か
しまった、と思ったのが、大屋先生の「かわいい娘さんですよね」という台詞を無害な隣人が言った場合と、立ち退きを迫っている地上げ屋が言った場合とでは意味が違うだろう、というわけの一文を見たとき。同じことを書こうと思っていたのに、というやつです。とまれ、同じことを書いても仕方がないので、その延長線上で少し。
大屋先生の出した例は言葉を発する側によりその意味が変わるパターンですが、受け取る側によりその意味が変わることもあります。本件について言えば、安倍・中川両氏があのような意見の持ち主なのはわかりきった話で、かつ、NHKで国会議員のところに説明に行く(その対象が予算であれ番組であれ)役割の人間は、当然ながらそうしたことは承知で行くわけです(知らずに行っていればそっちの方が問題でしょう)。とりあえず報道されているような発言があったことを前提として、こういうことを言われるだろうなぁ、と思っていたらやっぱりそのとおりのことを言われた、というのは、少なくともそれを聞いた人間にとっては、圧力とは受け止めない可能性が高いわけです。
もちろん、例えば番組内容を変更しないと予算を認めないとか、総務省に言って放送法に基づく監督権限を行使させるとか、そういったところに踏み込むものであれば、仮にそれが予想どおりの発言であっても圧力でしょうが、今のところ、報道レベルではそこまでの発言があったという事実があったことを伺わせるものはありません。誤解を恐れず言ってしまえば、ある種のお約束というものがあるわけで、当事者間では単にお約束のやりとりであることが、第三者から見ると圧力をかけているかのような場面に映ることもあり得ますが、なんとなく憶測すれば、本件はそういうものでありそうな雰囲気がします。
もちろん、こうしたお約束は狭い世界のなれ合いに過ぎず、むしろ圧力と感じない方が感受性が摩滅しているだけという可能性もありますし、一応政府に身を置いている立場としては、自分がお約束のつもりで言ったことが相手に意図せざるプレッシャーを与えてしまう危険性は常に念頭に置いておかなければ、と改めて自戒したいと思います。
■ [law]非正当の法の存在と正当の法の不在について
上記エントリでのリンク先の大屋先生のテキストについて、正当な法が(少なくとも従軍慰安婦問題に関して)そもそも役割を果たしていないという事実をどう評価するのかを抜きにして、非正当の法がしゃしゃり出てくるなという発言をするとの批判がmojimojiさんからなされています。当事者でもないwebmasterがなぜここでこのテキストを引っ張ってきたかというと、同じエントリにおけるこうした傾向は、稚拙な右翼とは違う形で、それなりに聞くべきものもある左翼批判を展開する人たちに共通して見られるとの指摘、そしてそのエントリで引用されている過去のエントリにおける放言左翼に辟易するのは分かる。分かるけれども、そのアホさ加減を批判できるのは、同じ問いを問いながら、別の答えを探す努力をしていることが前提ではないのか、と思うのだ。僕は放言左翼は嫌いだけど、放言すらしない保守主義者はもっと嫌いだというテキストを見て、少し議論の整理に貢献できるのかな、と思いましたので。
まあwebmasterが「それなりに聞くべきものもある左翼批判を展開する人たち」に入れてもらえるかどうか(笑)はさておき、また、大屋先生やその他の人々が同じ見解である保証もないのでそれも脇に置いておきますと、webmasterはそういう問いにこだわらないこと、放言しないことに意義があると考えています。そういう問いというものが何かといえば、演繹的な価値体系とでもいいますか。
宗教であれ共産主義であれ全体主義であれ、その手の価値体系、理想といってもいいと思いますが、そうしたものは得てして現実がその価値体系と食い違ったときに、おしなべて現実を修正すべきという方向に行きやすいわけです。ここで問題なのは「修正すべき」ではなく「おしなべて」の方なわけですけれども、だからこそ歴史上いくらでも悲劇を生んできたわけです。
ただそうは言っても、何ら演繹的な価値体系を持たない社会というのも問題で、経験則や信条を含め、人間はなにがしかのその手の価値体系を必ず持ってしまうものですから、その価値体系同士の調整コストを削減する観点から、generally accepted accounting principlesならぬacting principlesの存在には意義があります。であれば、そうした価値体系をいかに築いていくかが問題になるわけです。
この「いかに築いていくか」をルールとして定めているのが立憲民主主義であって、(一度でも政治運動をした人であればわかると思うのですが)なにがしかの成文法を立法化するのは大変なコストがかかるわけですから、そのコストの高さにより、それを乗り越えるだけの何かが存在するであろうと考えられるので、それは集団として依拠すべき演繹的な価値体系として用いることができると考えるのです。その中身は二の次。
だから、勝手に大屋先生の心中を察すべきではないかもしれませんが、存在する法は少なくとも存在すること自体により正当性は推定されるべきですし、ある法が不在であればそれは正当でないことが推定されるべきだ(厳密にはここでいう法とは成文法に限りますが)、というのも法が存在する以上、存在を可能とするためのコストに見合う何らかの働きがなされたからである、という前提があると思います。そうしたコストを払っていないものがコストを払ったものと同じ地位を要求するのは、要求すること自体はいいとしても、要求が認められないことは甘受せよ、と。
このあたり、法律屋にはなじむ考え(例えばデュープロセスが遵守されていない裁判は、結果が仮に「正しい」ものであっても否認される)だと思うのですが・・・。
なお、この問題、乱暴な結びつけかもしれないのですけれども、ネット認証の問題とパラレルであるような気もします。日本のPKIを殺した真犯人は誰かを見て思ったのですが、ネット認証の手続に瑕疵がないのでアクセス自体には問題がないですということと、そのサイトを運営している団体等がいいかどうかは別問題ですが、前者がダメなところへはアクセスすべきでないということが、あたかも後者の意味においてダメだと考えがちなところに混乱のもとがあるということです。内容云々を論じる前に手続における適正性を確保してはじめて土俵に上がってよいと認めてもらえるのだよ、と。そこを問題視しているのに、後者をもって反論されても困る、といいますか。
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20050124#p1
bewaadさんへの応答を載せました。ご一読くだされば幸いです。
ども。ええと、24日付けエントリで私自身も書きましたが、おおむねお書きになったとおり考えております。しかしまあ、これが一般には理解されにくいからdue process clauseをわざわざ書くのでしょうなあ(タメイキ)。