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(ここはbewaad institute@kasumigasekiの過去ログ倉庫です。コメント等は仕様上受付けを停止しておりませんが、こちらではご遠慮いただければ幸いです。何かございましたら、現行サイトにお願いいたします。)
2005-01-25
■ [law]mojimojiさんへのお答え
NHK問題に端を発した法と正義についての議論ですが、webmasterのテキストに対してmojimojiさんからコメントをいただきましたので、それについてのwebmasterのリジョインダーを以下まとめました(なお、上記コメントは2つのエントリからなっていますが、議論の流れの関係上、mojimojiさんの記載順とは逆順としています)。
保守主義者と放言左派の共通点について
一番わかりやすく、かつwebmasterの見解を端的に示すことができる部分として、戦前の日本が生んだ悲劇である従軍慰安婦問題について、戦後の日本政府が黙殺するという形でその悲劇を温存し続けてきているという事実をどう評価するのかは語られない
とのご指摘について、その評価は語っているのだというところから始めたいと思います。「悲劇」かどうかは確定していませんし、仮に「悲劇」であることが事実だったとしても、それに政府として対応することが「正義」であることが確定していないのは言うもさらなりではないですか、と。
志の低い話をしますと、以前イラクでの人質問題で山形浩生さんが語っていましたが、公共リソースは予算制約に服し、無限にあるわけではありません(この点、経済学にも造詣のあるmojimojiさんにはご理解いただけると思います)。とすれば、政府に何らかの「正義」の実現を行わせることは、このリソースの制約−厳密には政府の手元にあるものに限りますが−がある以上、他の「正義」の政府による実現を阻むことになります。
では、そうしたあまたある「正義」にプライオリティをつけ、どの「正義」にどれだけの政府リソースを用いるかの意思決定のプロセスとしては、少なくとも現時点においては、立憲民主主義的意思決定プロセス−身も蓋もなく言えば、いわゆる間接民主主義=代議制民主主義−が、およそ人類が歴史上経験してきたあらゆるプロセスの中で最も欠点の少ないものだということになるのでしょう。
形式的に手続を踏んでいれば中身はどうでもいいのか、と言われそうですのであらかじめお答えしておきますと、そのとおりです。とりわけwebmasterは官僚ですから、個人としてそれに賛成か反対かにかかわらず、国会において立法がなされれば、その執行を担う行政府の一員としてその忠実な履行に努めます(法において許容される行政府の裁量があれば、その範囲内で自分の思うところに沿った運用を行いはしますが)。
更に言えば、あまり女性国際戦犯法廷の中身に踏み込むつもりはないのですが、事実認定の真偽の如何を問わず明らかに結論が間違っている−今般の議論の応酬の文脈で言えば、「正義」らしさに欠ける−と推定される部分がありますので、指摘しておきます。それは、昭和天皇を有罪としている点です。なぜそれが間違っていると言えるのか、理由は簡単、大日本帝國憲法第3条においては、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」とあり、天皇は無答責であることが明文で規定されているからです(どの意味において無答責であるかには議論が分かれます(例えば道義的責任をどう考えるか)が、少なくとも法的には何ら責任を負わない点においては一致しています)。
この条文と有罪という判決をどのようなロジックで整合的に整理しているのかを見ると、「女性国際戦犯法廷」認定の概要の記載によれば、次のとおりです。
この「法廷」に提出された証拠の検討に基づき、裁判官は天皇裕仁を人道に対する罪について刑事責任があると認定する。そもそも天皇裕仁は陸海軍の大元帥であり、自身の配下にある者が国際法に従って性暴力をはたらくことをやめさせる責任と権力を持っていた。天皇裕仁は単なる傀儡ではなく、むしろ戦争の拡大に伴い、最終的に意思決定する権限を行使した。さらに裁判官の認定では、天皇裕仁は自分の軍隊が「南京大強かん」中に強かんなどの性暴力を含む残虐行為を犯していることを認識していた。この行為が、国際的悪評を招き、また征服された人々を鎮圧するという彼の目的を妨げるものとなっていたからである。強かんを防ぐため必要な、実質的な制裁、捜査や処罰などあらゆる手段をとるのではなく、むしろ「慰安所」制度の継続的拡大を通じて強かんと性奴隷制を永続的させ隠匿する膨大な努力を、故意に承認し、または少なくとも不注意に許可したのである。さらに我々の認定するところでは、天皇は、これほどの規模の制度は自然に生じるものではないと知っていた、または知るべきであったのである。
・・・えーっと、その主張が、おそらくはあなたたちが忌避してやまないであろう戦前の全体主義者の主張と類似のもの、もっと正確に言えば、天皇親政を唱えた皇道派の主張と類似のものだと理解した上でおっしゃってます?
大日本帝國憲法下でその手の指示を天皇が行った事例を具体的に挙げればただ1つ、いわゆる聖断だけです(二・二六事件際のの戒厳令は微妙ですが、形式要件を見れば、一応勅令には国務大臣の副書がなされています)。これは、御前会議において政府としての意思決定が不可能であることを理由に「大政奉還」がなされたという極めて特殊な状況下で行われたものですが、そういった事態でなくても、政府や軍部が合法的に行った意思決定を超法規的に覆すような天皇であれと、そういう主張をしているわけです(事実認定は「法廷」のそれが正しいと仮定してます)。
そういった矛盾した主張−判決本文がネット上では公開されていないので、仮に、「概要」には掲載していないが、皇道派の考え方があるべき・望ましいものなのでそれを採用して判決を下したというなら、「矛盾した」という形容は撤回しますが、そんな判決ではないですよね?−を優先的に「正義」として採用せよというのはいかがなものかと言わざるを得ません。この世の全ての法は神ならぬ人の生み出したものですから何らかの意味で矛盾を抱えているのかもしれませんが、ここまで明らかな矛盾のあるものがそうでないものに比べリソースの割り当てにおいて優位に立とうとするなら、それなりの努力が必要でしょう。
そうした努力を行わずして、理解をしない政府や国民が悪いという世界に閉じこもって満足するというなら、永遠にその「正義」が実現する日はこないでしょう(若干脱線ですが関連で、先の「判決本文がネット上では公開されていない」との点につき、書籍で出版しているんだからそれを買って判決本文を確認すべき、という反論は却下。「正義」の実現を目指して少しでも多くの他人に同意してもらおうというなら、タダでいいから是非読んでみてください、という選択肢があってしかるべきです。そうしたマーケティング的な努力もせずに理解が広まらないと嘆くのであれば、殿様商売といいますか、長文のラブレターを一方的に送りつけて読んでもらえないと憤慨する迷惑な片思いといいますか)。
なお、3点補足させていただきます。
僕としては、放言も放言を禁欲した結果としての沈黙も同じように悲劇を引き起こすのだから、どっちもどっちだ
との点については、ここまで述べてきた立場は、決して「放言を禁欲」するものではないと申し上げたいと思います。「自ら」が「正義」と信ずることを放言するのは自由です。ただ、それが「政府」なり「社会」なり「組織」の「正義」とはイコールではなく、前者を後者足らしめるためには一定の要件が必要だ、ということです(例えば、mojimojiさんとwebmasterではリフレ政策に賛成であるという点では共通していると思いますが、つまりはwebmasterは決して放言を禁欲していません。しかし、同時にそれが後者の意味での「正義」ではないという認識も持っているし、だからこそ、その実現のためにはどうすればよいかということを考えて、アレコレ行動したりサイトでテキストを公表したりしているわけです)。- 前回のエントリで、成文法(mojimojiさんが正しく拡張したように、それに基づく判例を含みます)と限定してwebmasterが議論しているのは、以上にかかわらず、社会や集団で共有される規範が変わってしまえば、正規の手続なしに法の効力は事実上変わってしまうからです。歴史上有名な事例はナチスの政権奪取や戦前日本における全体主義体制の合法的な構築(誤解なきよう断っておきますと、政権構築自体は合法手続に則って行われたという意味で、その過程で違法な行為を行っていないということを意味するものではないです)でしょうし、最近で言えばアーレフ(旧オウム真理教)の事実上の移転の自由侵害でしょう(そうした事実上の法の趣旨の変更に対抗するという意味でも、手続的公正性の確保は大切なのですが)。
- にもかかわらず、実はwebmasterは、語源どおりの革命的な事態というのは、形式的手続を無視してしかあり得ないと考えています。法の存在はその正当性を推定されるべきと言いましたが、法解釈における推定とは反証を許すものですから、実際には正当でないこともあり得るわけです。そうしたものは通常は形式手続に則り法改正がなされますし、またそうであるべきですが、そうした手法では何ともならないほど現実と法制度が乖離した場合には、革命によりすべて−よいものも悪いものも−を一括してひっくり返すしかないでしょう(時系列的な前後関係や一部制度における革命前後の連続性は当然ありますが、概念的にはということです)。その際には、webmasterのようは保守派は・・・小栗忠順でも見習って蟄居でもすることにしますか(笑)。
bewaadさんへの応答について
こちらについては、mojimojiさんのコメントを見て、むしろネット認証の問題とパラレルであるという当てはめが正しかったんだなぁ、と実感いたしました。抽象化すれば、特定の第三者によるチェックを経なければ形式基準で正当性がないと推定されるものとパラレルであるということですが。
具体的には、正当な目的が正統な手続きを無視する理由になるという見解を僕は持っていないし、かつ女性国際戦犯法廷の適正手続は十分確保されている、というのが僕の見解
という部分を見て、そういう実感を持ちました。
前回のwebmasterのテキストは、「民衆法廷」は、それが立憲民主主義体制下において立法府の承認を得ていないというただ一点を理由として、基本的には現実の法廷の代替物たり得ないということを説明することを意図していました。それに対して、法廷に比べてさほど遜色ない適正手続を確保しているという反論は、その事実関係を脇に置いても−そこは大屋先生の守備範囲ということで−、そもそも反論たり得ていないわけです。
例えば、Microsoftがある組織をInternet Explorer等において認証機関として認める基準においては、WebTrust for CA監査を完了するか、あるいは同等のサードパーティ証明書を提供すること
が求められています。つまり、実際の認証手続自体がいくら適正・的確であったとしても、それが権限を有する第三者による承認を受けなければ意味がないわけです。
別の例として監査つながりで言えば、前回触れた企業会計基準についても同様で、いくら企業の経営者が我が社の決算には粉飾などないと言い、さらにそれが事実であったとしても、基本的にはそんな言葉に耳を貸す投資家はいないわけです。
前回のテキストで参考とした高木浩光@自宅の日記さんの言い方を再度お借りしますと、「オレオレ中の認証局」が発行した「オレオレ証明書」は、仮に「認証局」が極めて信頼の置けるもの、例えばVeriSign社よりも技術的・手続的にすばらしいものであったとしても、WebTrust for CA監査を受け、それを前提にMicrosoft(やNetscapeや・・・)によりブラウザに組み込まれなければ、その適否はさておき実態として、一般に信頼されたものとしての取扱いを受けることはできないわけです。
このエントリにおけるmojimojiさんのコメントは、法廷という一種のブランドを使うことに妥当性があることの説明にはなっても、法廷と同等に取り扱われるべきことの説明、ないしは法廷と同等に取り扱われないことを非難するに当たってのサポートにはなっていないと思います。比喩を使うことが理解していただく助けになるかどうかはわかりませんが、ある山がきれいな三角形であるとして、それはそうでない山と違ってその山を「○○富士」と呼ぶにはふさわしいことの説明にはなっても、決してその山が静岡県・山梨県境にあるあの「富士山」に成り代わって「富士山」だと呼ぶべきだということの理由にはならないわけです。
関連する議論
そもそもmojimojiさんのエントリをwebmasterが見つけたのは稲葉先生のエントリ経由なのですが、これまでの議論から推測すれば、このエントリでの稲葉先生の認識−アイロニカルなサポート
−というのは誤っていたように思います(稲葉先生のエントリを受けてのエントリにおいて、mojimojiさんご本人がすでにアイロニカルなつもりは全然なかった
とおっしゃっていますが)。
なぜかと言えば、稲葉先生の指摘は、法廷と同じような権威を認めるべき存在と誤認され得るものが「法廷」と名乗れば問題だが、どうせ間違ようがなく名乗ったって実害が生じるわけがないからいいじゃないか、というものです(よね?>稲葉先生)。他方、先の「bewaadさんへの応答について」でご覧いただいたように、明らかにmojimojiさんにはそういう認識はなかったわけです。
これについては、むしろ大屋先生の方が最初にこの問題に触れたエントリにおいて資格のあるものとないものが混在するのはやはり問題
としているわけですから、混在があり得ると認めるだけmojimojiさんに近い立場であるのではないでしょうか。
ちなみにこの点についてのwebmasterの意見としては・・・大屋先生ほど「法」というものに愛情は持っていません(笑)。
最後に(中身はないです)
少なくとも前回のwebmasterのエントリは、批判を意図したものでは全くありません(今回は多少入ってます(笑))。「保守主義者と放言左派の共通点」エントリでwebmasterが批判しているとの前提でお答えいただいたのは、webmasterの文章のつたなさもあるのでしょうけれど、少し切なかったです(涙)。
突っ込みに過ぎませんが
企業信用調査の世界には『勝手格付』という協力しなければ勝手に結論を出す民衆法廷に似た代物もあるので喩えとしてはイマイチだと思います。
自分が市場関係者ではないので、もしご存知でしたら実態をお伺いしたいのですが、勝手格付けは投資家の間でどの程度使われているものなのでしょうか。多分、最低格付けを食らっても、決算において会計士のサインが得られないほどではないと思うのですが、他方で通常の格付けで最低格付けを食らえばそれに近いダメージがあるのではないかな、と思っているのですが・・・。
格付機関によっては、勝手格付か依頼格付が表記上区別がつかないので、運用上区別はつけていない機関投資家も多いと思います。ただ、勝手格付の付与姿勢自体、かなり格付機関の営業政策が感じられるところもあり、不信感が持たれているのは事実です。(Fitchの信組格付なんて実に酷いもんです!)また新BISでは勝手格付はリスクウエイト判断上無視される予定らしく、今後位置づけは下がってゆく運命ではないでしょうか。
おっしゃるように低い格付が付いた時、それを理由に会計士がサインを拒むことはないものの、企業イメージは相当マイナスにはなるでしょう。ただ、一頃ほど格付が絶対視されることも無くなってますから、例えば(粉飾疑惑があるならまだしも)財務諸表と乖離した格付が出ても、絶対的にそれがその企業の信用力である、とまでは受け止められないと思いますが。
ありがとうございます>鰻谷さん。しかし、ある格付けが勝手格付けなのか依頼格付けなのかの区別なんて、格付け機関か有価証券発行企業に電話一本すればわかりそうなもんですが、機関投資家がそれをしないケースがあるというのもどうかと思わないでもないです(笑)。もし電話一本ぐらいじゃわからないものなら仕方がないですが。
超遅レス失礼!
確かに相対でのローンとか事業提携をする相手だったら、「勝手格付かどうかわかりません」なんてことは有り得ないです。おっしゃられるように聞けばいいだけですし、場合によっては格付機関からの格付証明書を貰うことも。ただ、事業債投資をする機関投資家だと数百単位で銘柄を保有してることもは普通ですから、格付変更の都度、手作業で確認するってのもちょっと難しいのが実情でしょう。あと、格付機関が勝手格付と依頼格付の表記上の差違を無くしているのは、多分に営業上の問題からと思われますので、格付機関サイドはあんまり協力はしてくれないかと。
あと、個人的にも格付機関が勝手格付を付与するスタンスには疑問もありますが、一方で勝手格付の反対は上に書いた通り依頼格付で、外形的には格付費用を格付機関が持つか、被格付企業が持つかの違いでしかありません。当然依頼格付のほうが企業から得られる情報は多いでしょうし、また分析に時間もかけるのでしょうが、勝手格付だからといってヒアリングをしないわけではありません。また、依頼格付の場合、その性質上あまり低い格付が付くことは少ない(取引上、格付が絶対必要な企業を除けば、わざわざシングルBの格付を付けてもらうためにお金は払いませんよね。)ため、まぁ難しいところではあります。
ご丁寧にありがとうございます>鰻谷さん。エンロン事件以降、やっぱり傾向は少しずつでも改善はしているのではと思う一方で、いちいち裏を取るコストを考えれば機械的に対応するのも無理はないかなとも思います。