archives of BI@K

CSS: default alternative
(要cookie)

toppage memoranda

(ここはbewaad institute@kasumigasekiの過去ログ倉庫です。コメント等は仕様上受付けを停止しておりませんが、こちらではご遠慮いただければ幸いです。何かございましたら、現行サイトにお願いいたします。)

2005|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2006|01|02|03|04|05|06|07|08|09|10|11|12|
2007|01|02|

2005-02-12

[law]英米法vs大陸法?

以前から何度か意見を交換させていただいているflapjackさんのエントリにつきまして、webmasterは名宛人ではないのでよけいな口出しのようにも思いますが、少々関連する物事を書き散らしてみます。

まず、この議論に内在するのは、flapjackさんが提示した、市民への正義の判断の授権vs法律の専門家による合法性判断の独占、という対立構造ではないように考えています。従軍慰安婦問題であれば、次のようなケースを想定するとこのことがよりクリアになると思います。

例えばある集団が、その集団が正統と判断する法廷を開催して「従軍慰安婦は日本へのゆすり・たかりだから有罪」という判決を下した場合、mojimojiさんはその判決が「正義」に反するが故に否定されるべきと判断し(例えば最近のエントリではロドニー・キング事件を引いていますし。田島先生については後述します)、大屋先生(やwebmaster、ということになりますが、大屋先生の考えを理解しているとも限りませんので、以下はwebmasterの意見を述べ、それが大屋先生のものとそうは食い違っていないことを期待したいと思います)はその法廷には他人を有罪だと断ずる権限を正統に獲得していないが故に否定されるべきと判断するでしょう。もしflapjackさんの想定する対立構造であれば、mojimojiさんはこの判決を是認することになってしまいます。

webmasterの考えでは、両者の対立は、アプリオリな正義は他の用件を具備しなくとも他人に対する強制力として機能させるべきか、それとも、他人に対する強制力として機能させてよいと認めるためには一定の形式要件の具備が必要か、というところにあります(この「形式要件」は議会における立法に限定して考えているわけではなく、仮にその形式要件が陪審制の裁判所における判決であることが社会において受容されているのであれば、webmasterはそれを認めます(英米法と大陸法における司法府と立法府の歴史的関係については、「法律の重みについて. I」「法律の重みについて II」がよくまとまっているように思います))。

こうした観点からmojimojiさんの主張を英米法(とりわけイングランド法)の体系に位置づけるのであれば、コモン・ローではなくむしろエクイティということになります(大屋先生も既に触れている点ではありますが。ちなみに、コモン・ローが陪審員の存在と堅く結びついている一方で、エクイティは職業(専門)裁判官により判断されます。もっと重箱の隅をつつくと、コモン・ローが実現する救済はあくまで損害賠償ですから、mojimojiさんの最近のエントリで示された考えとも相容れません)が、エクイティにしても、判断基準としてはコモン・ローをバイオレイトするものの、一定の形式手続を踏む必要があるという点までも否定するものではありません。なお、コモン・ローにしても、最終的には職業裁判官のみがプレイヤーとなり、陪審員は出てこない世界となります(イギリスの最高裁(貴族院)もアメリカの連邦最高裁も職業裁判官の世界です)。

なお、日本では、ひょっとしたら、専門家の法(的正義)(これには狭義の法だけではなくて官僚的正義も含んでもよいかもしれない)が、その外の正義と乖離したように思われる場合においてどうするか、という点において、現在の大陸法をとる国々よりもひょっとしたらもっと厳格、ある意味では厳格すぎるという可能性があるかもしれないというflapjackさんの指摘にはwebmasterも強く同意するのですが、その評価については、この厳格さというものは好意的に捉えたいと考えています。

この「評価」を考えるに当たって、まず、先に後述とした田島先生のコメント(1月26日付)を引きます。

しかし権威はどこから来るのであらう?大屋氏は、ここでは、にはか法実証主義者になってになってゐるのであらうか?その権威は、長いスパンで見ればおおむね適切な判断を下してゐるといふところにしかないだらう。実定的裁判所が下した判例であっても、社会の問題を実際解決するものと実証されなければ、権威を失ひ、やがて無視されていくだらう。「従軍慰安婦問題」は国家も裁判所もこれまで解決いえて(ママ)ゐないからこそ、民衆法廷の試みが必要ともなってくるのである。それは戦後処理問題と向き合ふ一つの試みなのだ。試みである以上、もちろん失敗もありうる。

この際、この試みの可能性や手続き的瑕疵を吟味し、その成功への条件を助言することこそ法学者の役割ではないか?ところが大屋氏は、「法廷の権威というものを信頼しそれに依存した商売をやっているものとして」商売の独占領域を荒らすなといふさもしい批判を繰り出すのである。アゴラで語られる言説は、法とは無関係なのか?アゴラで語られる言説は、プロパガンダしかないのか?アレオパゴダの丘で下された最初の判決は民衆法廷ではなかったのか?

民衆法廷の試みは、けっして人民裁判とかプロパガンダに終はってはならないが、そのためにも大屋氏のやうな専門家の助言が有効でありうるのに、大屋氏の議論は教師が正義を教えてやるといふ不遜なものになってしまってゐるのは、見苦しい。

webmasterの解釈では、田島先生の意見のここでのポイントは、何らかの主張(それを「正義」と呼んでもいいのですが)を実現する際には、立法から司法までひっくるめた社会システムの力を用いることが望ましいのですが、望ましいものとして皆が社会システムを尊重するようにするためには、それにより世の中に問題があるとしそれを変えたいという主張があるときに、その主張にとって使いやすいものにしなければならない、ということだと思います(そうでなければ、皆がその社会システムを尊重しなくなり、結局は存続し得なくなってしまうことになります)。

したがって、その社会システムの運営を生業とする人間(法曹、大屋先生のような法学者、webmasterのような官僚などが典型例でしょう)は、そうした主張が社会システムとはそぐわない方法で行われていた場合には、それをそぐわないと非難するのではなく、どうすれば社会システムと親和的に行うことができるのかをアドバイスすべきであって、それによりそうした主張をする人々の社会システムに対する信頼を確保するのが結局は社会システムを強固にするものである(ただ非難するのは、社会システムに対する不信感を増幅し、自分たちのよってたつ基盤をかえって弱めるものだ)、と。

しかし皮肉なことに、そのように社会システムから疎外されている主張がどういったものかを見ると、戦後(西)ドイツにおける「闘う民主主義」で排斥されたナチズムであったり、人種差別撤廃条約第4条(a)(b)で禁止される差別的な言論等であったり(ちなみに日本は、憲法上の表現の自由との関係で、これら条項を留保して批准しました(「人種差別撤廃条約Q&A」A6参照))するわけです。

専門家の法(的正義)(これには狭義の法だけではなくて官僚的正義も含んでもよいかもしれない)が、その外の正義と乖離したように思われる場合というと、あたかも空理空論を振り回して現実から目を背けていると非難されているようでwebmasterもたじろぎますが(笑)、例えば日本が人種差別撤廃条約の一部条項を留保したことは、表現の自由という「専門家の法」を差別撤廃という「その外の正義」に優先させ、その意味で乖離が生じたケースです。これはflapjackさんが指摘するがごとく、日本では表現の自由が厳格にとらえられ、「正義」としての差別撤廃に及び腰な一面があることの現れだと思います(ただし、先のQ&Aをご覧いただければわかりますが、そうした人種差別撤廃条約について同じ留保をした国は日本以外にもあります)。

少なくともwebmaster個人は、今の自分にとって不適切であると考えられる言論であっても、それがwebmasterをとりまく環境とは中立に、いかなる局面においても誰が考えても不適切であると言い切る自信は全くないので、そうした表現の自由に関する厳格な態度というのは自分にとってしっくりくる、好ましいものだと考えていますし、表現の自由に類するような、デュープロセスに代表される歴史の検証を経た各種の経験則としての「専門家の法」は、基本的に厳格に守られるべきだと考えているのです。

最後にflapjackさんの意見に対するものではなくなりますが、先に紹介した田島先生の主張について思うところを述べますと、結局のところその根幹は、先に紹介した社会システムからの疎外の対象が、おそらくはアプリオリな「正義」を想定する人たちが虐げられていると捉えている人たちの主張ではなく、かつそうしたネオナチや差別主義者を疎外すべきでないというものではない(と考えられる)ことに鑑みれば、社会システムからの疎外の程度ではなく、「従軍慰安婦問題」は国家も裁判所もこれまで解決いえて(ママ)ゐないからこそ、民衆法廷の試みが必要ともなってくるのであるの部分(田島先生の別のコメント(2月2日付)では、今般問題となってゐるのは、権力自体の機能不全・戦後処理をめぐっての問題解決能力の欠如・ならびにそれに伴ふ権力の権威の崩壊に、いかに対抗し、補填するのかといふことであるの部分)に依拠しているはずです。つまり、疎外されたと問題視する人の数、自らの「正義」が今の社会システムにおいて実現されていないと考える人の数が問題ということになります。

ところが、この観点から言えば、従軍慰安婦問題は解決済みだと考える人が多数派であれば、それを未解決だとして何らかの措置を講じた方がかえって権力自体の機能不全・戦後処理をめぐっての問題解決能力の欠如・ならびにそれに伴ふ権力の権威の崩壊が生じることになります(そして、例えば以前のエントリで触れたように「戦時性的強制被害者問題の解決の促進に関する法律案」が廃案になったことからも、そうした人たちが多数派である蓋然性は決して低くないと言えるでしょう)。人数の多寡を問題にするのであれば結局は多数決に帰着せざるを得ず、立憲民主政を前提とすれば多数決をもってしても侵すことのできない人権を憲法で規定することはできますが、その憲法ですら最終的には多数決原理により制定されざるを得ないのです。実定的裁判所が下した判例であっても、社会の問題を実際解決するものと実証されなければ、権威を失ひ、やがて無視されていくだらうということであればなおのこと、従軍慰安婦問題は決着したとみなすこと必要である可能性が高いのです。

#ということで、田島先生の立論は一見、アプリオリな「正義」を想定するのではなく社会システムの安定性確保の見地からなされているように見えますが、やはりアプリオリな「正義」を想定しているように思います。「正義」が実現されていないから社会システムが不安定化するのだ、という構造になっていますので。

[misc]吉野家牛丼

昨日はいつもの休日のように十分に寝た後で起きて、そういえば今日は牛丼が食べられるなぁ、と吉野家にいったら完売でした。不覚(でも天漢日乗さんの感想を見ると、あまり悔やむ必要もないのかな、という気も)。まあ、でも正直、在庫処分ですよね。いくら冷凍しているとはいえ、これ以上時間が経っては品質の劣化が避けられないでしょうし。

本日のツッコミ(全4件) [ツッコミを入れる]
村上 (2005-02-13 01:04)

本日のエントリとは無関係ですが。
(稲葉先生のアンテナ経由)労務屋(http://www.roumuya.net/)さんが2/8付のエントリ(http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20050208)にて
『その挑戦、受けよう8「官の詭弁学」』に言及している由

bewaad (2005-02-13 04:45)

>村上さん
ありがとうございます。存じてはいたのですが、労務屋さんが触れているように、完結していないので、完結させてからお答えしようかと思いつつ、なかなか完結させられないことが恥ずかしくもあり・・・。

jouno (2005-02-13 12:12)

mojimojiさんの意見がそうなのかはわかりませんが、この件で民間法廷を擁護している人の多くは、「法廷」と名乗っているからといって、法的な意味での強制力を帯びさせようとは意図されていない、とかんがえているのではないでしょうか。
http://d.hatena.ne.jp/jouno/20050210/1108033588

bewaad (2005-02-14 02:28)

>jounoさん
そのあたり、大屋先生は「強制力を持たない(持つ覚悟/適格性もない)のに法廷を名乗るな」というスタンスかと思いますが、私はどちらかというと、そう反発する人も多いので戦術的に賢明でないよ、というスタンスです(以前、大屋先生ほど法に愛着をもっていない、といった趣旨のことを書きましたが、簡単に言えばこういうことです)。

本日のTrackBacks(全1件) [TrackBack URL: http://bewaad.sakura.ne.jp/tb.rb/20050212]
flapjackのbookmarks:週末 (2005-02-16 09:37)

ハルの友人を訪れ、まったりとした週末を過ごしてきた。日曜日にかえってきてそのまま徹夜っぽく書類をあげる。そうでもしないとまったりとなどは過ごせないのだ。ま、みんなそうだろうけど。まちをあるきながら、パブでめしをくいながら、カフェでケーキをくいながら、家..


トップ «前の日記(2005-02-11) 最新 次の日記(2005-02-13)» 編集