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2005-02-18

[book][history]福井晴敏「終戦のローレライ」と「戦後」の意味

読了。エンターテインメントとしての本書とは一切関係がないのですが、ちょっと考えさせられたことを以下(あ、エンターテインメントとしての本書は上質のジュヴナイルだと思います)。得てしてこういった型に現実を嵌める思考は、どこか欠落を見落としているだけなので、ご指摘いただければ幸いです。

#最後に掲げられている「主要参考文献」においては、ミリタリー関係以外ではイザヤ・ベンダサン「日本人とユダヤ人」(Amazon見て初めて気がついたのですが、角川oneテーマ21版では著者は山本七平だってカミングアウトしていたんですねぇ)と宇野正美「戦後五十年 日本の死角」の2冊しかないというのがちょっと。以前、山本弘「神は沈黙せず」の書評でも触れたのですが、専門外の作家にただしく参考文献を選んでいただくのは本当に難しいんですねぇ・・・。

日本人の多くが共有するであろうプリミティブな倫理観の一つに、勧善懲悪的な因果律があります。善因には善果が報いるべきだし、逆もまた。ところが、今の日本はこの倫理観に照らすと極めて自家中毒的な状態となってしまいます。戦争という悪いことをしたのに、世界でも有数の繁栄を誇っているのですから。

かつてはこうした自家中毒はありませんでした。戦争の結果多くの人命が失われ、資産が灰燼に帰したわけですが、そうした状態を前提に人が食べていくために必要な営為は苦役として正当化され、また、高度経済成長は悔い改めたご褒美として受容可能でした。多少豊かになったところで、勝った諸国=当初から善の立場にいた国々に比べれば劣っていたわけですから、因果律と現実の整合性は維持されていたわけです。

ところが、80年代後半になり、日本が敗戦という悪因にもかかわらず、善因を有する諸国よりも善果により報いられているかのような見方が広がりました。西側を見れば、日本よりも圧倒的に豊かだったはずのアメリカをも追い抜いたといわれました。東側を見れば、共産主義の幻想は力を失い、中国や北朝鮮も地上の天国ではなかった事実が暴かれました。その結果、少なからぬ人々の胸の内に、ある種の罪悪感が生まれてきたのではないでしょうか。自分たちはこんなに恵まれた立場が許される資格はないのだ、と(自覚の有無はさておき)。

#その意味で、現在よく非難される、かつての朝日新聞に代表される親中国・北朝鮮報道は、日本人の多くにとってはバランサーとしての効果があったように思います。善因を持つ諸国が悪因を持つ日本より豊かならば、その程度の日本の豊かさは倫理観に照らしても問題のないものと理解できますので。

この認知的不協和への対応としては、次の4とおりが考えられます。

  1. 「悪因があっても善果が報いたり、善因があっても悪果が報いたりすることはあるのだ」と考える。(「因果律」の否定)
  2. 「今の栄華は偽りの栄華に過ぎず、そのうち悪因に相応した程度に落ちぶれる」と考える。(「善果」の否定)
  3. 「今の栄華を善因側に『恩返し』し、今の善果が不自然でなくなるよう新たな善因を積むべきである」と考える。(「善因」の補完)
  4. 「実はあの戦争は正しい(少なくとも悪くない)ものであり、今の栄華は何らおかしくはない」と考える。(「悪因」の否定)

この中で明らかに少数派であるのは、世界観の根本的な変更を迫る1でしょう。となると、残る3つの対応が多いと考えられますが、現実にそのような動きは起こっていると言えるのでしょうか。

2は構造改革主義という形で現れていると思います。特に財政構造改革は、今までは将来の成果を先食いして偽りの栄華を得ていて、これからはそのツケを払わなければいけないから苦しむことになるのだ、という非常に説得的な説明が可能なので、多くの人の支持を得るのも宜なるかなと。さらにいえば、財政構造改革によっても相対的にダメージが少ない者にとっては、相対的にダメージの大きい者(例えば公共事業や補助金に負うところの多い者)を非難して財政を切りつめることは、自腹を切らなくても心の平安が得られますから、なおのこと魅力的な選択でしょう。

それ以外にも、「日本的経営」といわれるものへのネガティブな評価に代表されるように、とにかく何か狡いことをしたが故の今の日本であり(自然体で因果律に従ったのであれば豊かになるはずもないのですから)、その狡さを是正しなければならないというのは、構造改革に親近感を有する人々に通底しているように思えます。犯罪行為により富を築いた人は、天網恢々疎にして漏らさずとばかりに富を失うべきだと考えるのと同様に。

3は「右」の「国際貢献」、「左」の「謝罪・賠償」という形で現れていると思います。もちろん無い袖は振れぬわけで、昔からやるべきと考えていたのだけれど当時はそんな余裕はなく、ようやくできるようになったから実施すべきだ、という側面(=因果律とは独立したもの)もあるのですが、それなりの人数の支持を集めるに至ったのは、因果律が多くの人に共有されていたことが一因ではないかとwebmasterは推測しています。

4はwebmasterが説明するまでもないでしょう。

とまれ、以上が現実の一部分をある程度捉えているものだとすれば、リフレ政策の普及というのは実は相当に困難なことであると考えざるを得ません。因果律に逆らって偽りの栄華を維持しようとする試みだと受け止められてしまうわけですから。

[media]「NHKvs朝日 メディアの自殺」@文藝春秋3月号(pp94-104)

発売されてから若干日が経ったものですが、例の一件について読んだ中では一番なるほどと思ったメディアの記事でした。最初に考えた予想が概ね当たっていたというのは、うれしくもあり悲しくもあり。以下、印象に残った部分の抜粋です。

  • 「丸投げ」を重ねるほど責任の所在は曖昧になり、事故が起こりやすくなる。ましてや今回のような政治的に微妙な問題を扱う番組にしては、NHK側の構えはあまりに緩かった。(p97)
  • 法廷が終わった後の12月中旬、DJの坂上ディレクターは、再びNHK側と番組構成の打ち合わせをおこなった。打ち合わせの席には、法廷を傍聴していた高橋助教授が同席し、いかに意義のある裁判だったかを熱弁する。永田CPも長井デスクも、それまで現場にはまったく足を運ばず、法廷の中身もあまり知らないにもかかわらず、高橋の興奮がうつったかのように「じゃあ法廷内のシーンだけでVTRを構成しましょう」と安易に同調していった。DJ側は、「慰安婦問題に関する政府の見解、右翼の反応、自由主義史観など客観的な視点も盛り込む」という安全策を提案していたが、永田に退けられた。(p98)
  • 事態が急変するのは、吉岡教養番組部長が立ち会って第1回部長試写が行われた1月19日。ここではじめて永田と長井の「暴走」に気づいた吉岡部長は、「法廷との距離が近すぎる」「企画と違う」「お前らにハメられた」「このままではアウトだ」と怒鳴りだした。(p98)
  • 「(略)要するに今回の番組改編騒動は、すべてNHKが自ら種を蒔いた、いわば『自作自演』なのです。」(p101)
  • 本田記者の書いた朝日の記事が、結果として「誤報」になってしまったのは、基本的な事実関係の詰めが甘かったこともさることながら、こうしたNHKの体質にあまりにも無知だったことが原因なのではないか。政治家が圧力をかけるまでもなく、政治の意向を先取りするのがNHK幹部の習性となっている。(p102)

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