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(ここはbewaad institute@kasumigasekiの過去ログ倉庫です。コメント等は仕様上受付けを停止しておりませんが、こちらではご遠慮いただければ幸いです。何かございましたら、現行サイトにお願いいたします。)
2005-04-12
■ [history][politics]反知性主義についてのいい加減な考察
常夏さんからいただいた次のコメントにインスパイアされまして、ちょうどいいとっかかりがネットで公開されたことも踏まえて、駄文をつらつらと。先行研究などの参照は一切していませんし、裏取りなども適当にすませてお筆先モード(笑)で書きますので、どしどし批判をお願いいたします。それを見て勉強させていただこうという都合のいい目論見がありますので(笑)。
ところで、「専門家」の専門性に対する敬意だとか、信頼というものがなくなり、一般ピープルは一般であるがゆえ〜専門性がないがゆえにエライという類の確信(笑)はいつ頃から形成されたのでしょうかね。
私は、戦後日本社会においては、いわゆる「プロ市民」のレトリックからそれが発展してきたような気がしますが、その論理をネット系の論客を自認する人たちが自明のものとして使っているのには、結構な違和感を感じてたりします。
結論を先に書いておきます。読む価値なしとお考えならばすっ飛ばしていただきたく。
- 社会不安が感じられるご時世では反知性主義が顕在化します。感じられないご時世でも、潜在化しているだけで存在していないわけではありません。遍在しているのです。
- なぜなら、知性とは突き詰めれば、直感に反する発見ほど付加価値が高いので、発展すればするほど少数派にならざるを得ないからです。
- 高付加価値な知性は金や権力に直結しますが、社会不安が少なければそうした支配構造を多数派は許容します。でも、社会不安が昂じてくればひっくり返ります。
- 知性の最先端は時とともに直感との乖離が大きくなっていきますから、反知性主義を封じ込めるには、知性側における社会不安を押さえ込む不断の努力が必要です。
第1点については、古いところではペロポンネソス戦争後のポリス社会の斜陽化に伴うデマゴーグが、世界的影響力の大きいところでは、14世紀以降のペスト流行による農村疲弊や十字軍・百年戦争等による封建制・荘園制の空洞化、キリスト教会の混乱(教皇のバビロン捕囚ですとか、シスマですとか)、中世温暖期から小氷期への気候変動に伴う収穫減等々による中世の終焉と並行する宗教改革が代表例でしょう。
遍在などと言うからには思いつくまま他の例を探しますと、日本ですと武家支配の台頭以後における浄土宗系統の「南無阿弥陀仏」や日蓮宗の「南無妙法蓮華経」が顕著な例でしょうし、昭和恐慌を受けての全体主義運動もこの観点からは同じカテゴリに入れていいでしょう。
アメリカではホーフスタッター「アメリカの反知性主義」というそのものズバリの著作がありますが(でも実はwebmasterは未読です。ごめんなさい)、最近の著しい保守化に伴う反知性主義(プロライフ論はともかく、反進化論ですからねぇ)も、70年代のヴェトナム戦争敗北・スタグフレーションから始まり、9.11を経て昨年の大統領選挙に至っています。
#ホーフスタッター本においては、孫引きになりますが、「反知性主義自体は形や程度の差はあれほとんどの社会にみられるだろう」とされているそうです。
究極事例を出すなら、やはり文化大革命(犠牲者の絶対数)とクメール・ルージュ(犠牲者の対人口比率)。
第2点については、「VaRショックに見る情報フローと意思決定」(@isologue4/9付)で最近の事例がちょうど紹介されていますが、ちょっと引用してみますと、消費者金融で「複利」の概念がわからずに多重債務者が発生したり、牛乳やガソリンなら一円でも安い商品を探すのに、保険となると実質が何百万円も違うものを平気で契約しちゃったりするというのを見ても、「一般の人」のレベルというのはそういうレベルなんでしょう。/いわんやσとか√とかが出てくるものなんて、とんでもないわけです。
どこで見たのか思い出せないのですが(鹿野司さんの「オールザットウルトラ科学」@ログインだったかな?)、人の感覚は得てして対数的に働きます。底として10をとるなら、10倍のエネルギーで2倍にしか感じないことになります。典型例は騒音公害の解決の難しさでしょう(エネルギーを半分にしてもわずかな改善しかなされません)。
#ぐぐってみたら、鹿野さんがblogを始めているのを見つけました。感激!
騒音といわずとも、オーディオが好きな人なら人間の耳で聞き取れる最小と最大の音量をカバーするダイナミックレンジがどれほどのものかを考えていただければ結構でしょう。耳ではなく目ですと、絞りとシャッタースピードがわかるカメラで日向と日陰の露出がどうなるかを想像していただければ、光量と明るさの感覚のズレがおわかりいただけると思います。
ですから、単純比例関係ですら人間の感覚には不自然なわけで、まして指数関係(複利のことです)がピンと来ないのは、ヒトという生物種にとっては何ら不思議ではありません(日本の国債市場なんて、プロの集まりのはずなのに未だに単利表示が多いですし)。ファイナンス関係では、他に最適資本構成に関するモジリアーニ=ミラーの定理(資金調達を負債で行うか資本で行うかは企業価値に中立)あたりも「不自然」な理論で、不良債権がらみの言論では、「借金が多い企業は危ない」といったこれがわかっていない論者など佃煮にするほど転がっています。
#モジリアーニ=ミラー定理は、税制その他モデル外の要素や前提となる効率的市場の存否により現実に妥当するとは限らないわけですが、それは摩擦や抵抗により高校物理で習うようには投げたボールが放物線軌道を描かないようなもので、それをもってニュートン力学を否定するのがバカげているように、はなっから借金は少ない方がいいのに学者は空理空論を唱えているとするのはバカげています(さらには、デフレでモノの価値は下がっても(つまり、バランスシートの右左側は縮みます)借金の価値は下がらない(バランスシートの左右側は縮みません)ので純資産が毀損するというデット・デフレーションですとか、考慮すべき要素は多いのですけれども)。
この点、社会に阿る(笑)社会科学よりも自然科学の方が「不自然」な理論は数多くあります。先にアメリカについて触れた進化論のほか、相対性理論や量子力学、疾病への対策(種痘のエピソードが有名ですね)、地動説などなど。
直感がそうは的はずれでないものは多くの人にとって自明ですから、その知識を持っていてもお得なことはないですが、他方で理解が得られず困ることはまずありません。逆に直感に反して、理解するのに苦労するような知識ほど、それを習得した際に得るものは大きい一方で、その内容についてはわかってもらえなくなってしまいます。
第3点ですが、古今東西確率論的には、知識量と所得や地位は比例関係にあります。しかしそれは、ヒエラルキー下位層に知識の価値が理解されているが故ではなく、それが結果においてプラスであるからに過ぎないわけです。知識の価値がわかるのであればそれは既に下位層ではないわけで、相対的多数にとって相対的少数を上位に戴くのは理屈ではありません。
したがって、相対的少数が結果責任を、その結果について因果律的な帰責事由があるか否かにかかわらずとらされるのは自然なことです。フレイザーが「金枝篇」で描いた王殺しの世界は(再びごめんなさい。webmasterは読んでもいないのに一般的知識から引っ張っています)、現代にも息づいているわけです。
最後に第4点。この知識量の格差は、知識が人類の歴史とともに累積していくものだけに、時代とともに拡がっていきます。ここで2つめのエントリとして「「各論全員否定」の社会学」(@切込隊長BLOG(ブログ)4/10付)を引っ張ってきます。
いま、この社会はかつてないほど多様な価値観とそれを互いに認めることで距離を開くという未曾有なバラバラ感に満ちている。下手をすると向かいのマンションに住んでいる人の顔さえ分からない。希望格差社会といわれて、その希望をもてない下のほうにいる若い人を、年寄りたちが理解できないのは、情報が切り離されているからだ。しかも、若い人が何を考え、どうしようとしているのかを年寄りたちは興味がないし、若い人同士もほかの価値観を持つ人間がいま何を考えているのか理解しようとしない。クラブに通ってる奴とオタクと海釣り好きの間に会話が成立しない。その方面の、知る人ぞ知るが細分化された市場ごとに山ほどできて、市場が小さいのだからトップに辿り着いても儲けが少なく、流行廃りが早くてトップであり続けることができない。
#似たようなことをwebmasterも以前書いたことがあります(「2003-11-24『三題噺−自民党税調、日テレ、東浩紀』以降のいくつかです)ので、よろしければご覧下さい。それと明記していませんが、実はこれも昔の「オールザットウルトラ科学」に源流があるテキストです。
これに加えて、アーサー・C・クラークの第3法則がまた重くのしかかります。
Any sufficiently advanced technology is indistinguishable from magic.(十分に発達した科学技術は、魔法と区別がつかない。)
この法則が念頭に置いているのは工学的技術ですが、社会科学についても同様のことが言えます。人にとって自然な考えは、経済学で言えば重商主義や重農主義の段階であって、自由主義ですら(その表層的理解はともかく、メカニズムについては)多くの人にとってオカルトな呪文にしか聞こえません。
第3点で書いたことと半ば重なりますが、救いがあると信じるからこそ般若心経を唱えるわけで、救いがないとすればあんなサンスクリット語の音訳などありがたがられるはずもありません。救いがないといい信心を捨てた人間が信心を取り戻すのは救いによるのであって、意味のわからない経典など何度読み聞かせたところで無駄なことです。
そのいい例がクルーグマンによるブッシュ政権批判の「嘘つき大統領のデタラメ経済」と「嘘つき大統領のアブない最終目標」。いくら論理的に誤りを明らかにしたところで、読み手が論理の外にいればその試みは何の価値もありません。
#ですから、例のぷち祭りについて申し上げれば、相手の非論理性に自壊を見るのは早計であるように思います。非論理主義といっても、突き詰めれば神秘主義にまで至る道が開けていますし、「迫害」が求心力を高めた前例も腐るほどありますから。
その意味で、マイケル・ムーアの「華氏九一一」に対する山形浩生さんの次の指摘は核心をついています。
もちろんそれは、ある種にイメージ戦略だ。その意味では相手方と同じかもしれない。でもそれが何かいけないかね。イメージ戦略がいちばん効く相手に対して、イメージ戦略を使うことになんのためらいがいるだろう。これよりもっと有効で、しかもイメージ戦略をアウフヘーベンするようなやり方があるならともかく、そんなものはおえらい社会学者でさえ提案できていない。れじちましーがどうしたとかいう愚にもつかないご託に、あの映画のかけらほどの力でもあるかね。唐沢俊一は、この映画はイメージの持つ単純化力にムーアがのみこまれる過程が見えているから賞賛できないそうな。まあいいんですけど、それってあなたが心配してやること?
ただ、この手法には結構なリスクがあって、つまりは歯止めが利かなくなる恐れがあります。フランス革命におけるバイイ、バルナーヴ、ラ・ファイエット、ル・シャプリエのように、ブレーキをかけようと思ったら自分が轢かれてしまったりするわけです。
じゃあどうすればいいのかと。結局はあるべきものが実現していないことが問題なのでして、反○○(韓、北、中、米、抵抗勢力、その他なんでも)のいちいちに反論したところで、内にこもるか他の○○に移るかでしかありません。浜の真砂は尽きぬとも、世に悪党の種は尽きまじ、いくらでも標的は見つかりますし、それに対峙するものとして自らを位置づける彼(女)らの言説には「正義」の色彩がつきまとい、勧善懲悪の響きから不即不離にならざるを得ないのです(webmasterのように「正義」というだけで眉唾だと思う人間は、それだけで糾弾されそうです(笑))。現状の不満を「正義」を語るものとしてのプライドで埋め合わせているわけですから、不満を解消すれば、一部の原理主義者を除けば憑き物を落とすことはできるはずです。
・・・だから早くリフレ汁。
本日のツッコミ(全1件) [ツッコミを入れる] ◆ t.ikawa (2005-04-12 10:56) よく言われることですが(80年代なら柄谷行人とか)、知識人(文化人、評論家)の成立と、主義としての反知性(あるいは大衆化)の成立はパラレルだと思います。知識人とは、反知性を主義として..
まず、前提として学者と云うのは、その専門分野では滅法鍛えられているひとたちである。だから、彼らがその専門分野で云うことは正しいことが多い。 ことに自然科学の分野では、仕組み上そうだ。 専門家の云うことを疑う、と云う風潮が、たぶんある。すこし古いエントリ..
よく言われることですが(80年代なら柄谷行人とか)、知識人(文化人、評論家)の成立と、主義としての反知性(あるいは大衆化)の成立はパラレルだと思います。知識人とは、反知性を主義として掲げるような人々であるとも言えます。大衆との乖離を発見(発明)し、その乖離を埋めることを主義や運動として展開するのは、非常に近代的なんでしょう、やっぱり。
あと「デフレでモノの価値は下がっても(つまり、バランスシートの右側は縮みます)」って、資産は左側だと思うのですが、誤解でしょうか。
知性主義が必ずしも金や権力に結びつくとは思えないのですが。ゆえに反権力が反知性に直結するかどうかも疑問です。
極めて無造作に書いたコメントにこのような分析的かつ幅広い分析をいただいて、恐縮しております。いやまあ私個人が恐縮する立場ではないのかもしれませんが。
私が書いたときに漠然と考えていたのは、技術(自然科学でもいいし、自民党総務・政調での調整プロセスでもいいですが)の進歩が進んで「わからないこと」が増えているにもかかわらず、わかっていることを前提にしたガバナンスの主体として、(日本国憲法など戦後社会を構成する基本的な仕組みの導入とともに位置づけられ)期待されている人々が、在りし日のプロ市民に煽られて「わかってないことと統治する権利は無関係である、私にはその権利がある、むしろわかっている奴が間違っている」と開き直った図(のなれのはてとしての2ちゃ・・じゃなくて自称ネット上の論客)でした。
見てお分かりのとおり、非常に現象面に振り回された私の印象について、むしろさらに一般性のある知性主義という切り口からの説明は鮮やかで、たいへん勉強になりました。
>t.ikawaさん
ご示唆ありがとうございます。柄谷をまともに読んだことがないなど、どこまで受け止められるか不安ですが、稲葉先生に紹介までされてしまいましたので、後日もう少し深めてみたいと思います。
あと、バランスシートの件はご指摘のとおりです。お恥ずかしい・・・。
>一国民さん
傾向としては否定できないように思うのですが(例えば学歴と所得分布など)、いかがでしょう。
>常夏さん
本当はあそこで書くべきところ、逃げてしまっていたもので、改めて論じるきっかけをいただき感謝しています。
傾向という意味ではそうですね。
ただ反知性はムードとしてはそうなりうると思いますが、自律して反権力にはなりそうにないので、反権力者がそのムードを利用しようとした時に、社会不安が生まれるのかもしれませんね。
はじめまして。
反知性主義というか、もうちょっと柔らかく呼ぶと直感主義でしょうか。
彼らは、彼らなりの経験と判断基準(=知性)から導いた直感を基に主張しているわけで、決して知性を否定しているつもりはないでしょう。彼らは、彼らの反対者側を「知性がない」として切り捨ててしまう場合も多いですし。
まぁ、人間誰しも、それぞれにとって直感の基となる「公理」があるわけで、どの位置に自分の公理を持っているか、どこまで深く掘り下げるべきかってのも時と場合と気合によりけりなことが多いのではないでしょうか。
宗教が時に魅力的になるのは、標準化された公理を「分かり易く」与えるからかと思いますが、時に真理を否定する方向にも走るわけで。いやいや、むずかしいなぁ。
>一国民さん
確かに、クリアな反権力指向を伴うものではないように思います。えてして個別問題からスタートして、わけのわからないことを言って煙に巻こうとしている誰某はけしからんというところからエスカレートしていくものが多いのかな?
>森さん
「反知性」はホーフスタッターの著書のそれから借用したのですが、ご指摘の面はそのとおりかと思います。
公理や公準が単なる前提だというのもまた、直感に反するのかもしれませんね(笑)。