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2005-04-17
■ [politics][book]佐藤優「国家の罠」
webmasterが本書を一言で言い表すなら、「刺客列伝」(史記)中の豫讓(予譲)の言葉、「士爲知己者死」(士は己を知る者のために死す)を選びます。
以下は、本書を読むにあたっての、どちらかというと参考情報的なwebmasterのメモです。「モデル」の検討のお役に立てば幸いです。
- 外務省という組織
外務省にとって、言語ごとのスクール形成は不可避でしょう。というのも、複数言語をたやすく習得できる才能の持ち主は限られていますし、長期間にわたる接触の継続なくして相手国の要人と深い関係を構築することは不可能だからです。この点、たいていは30代〜40代前半ぐらいの長い時間をかけて「畑」が確定していく他省庁と比べますと、より内部対立に傾きがちになってしまうのではないかと思います。
また、外務省の官僚にとって海外で過ごす時間が長くなるのは当然ですが、その分国内の政治家との付き合いが他省庁よりも少なくならざるを得ません(旧自治省の官僚も東京以外で過ごす時間が長くなるという傾向を共有していますが、彼(女)らは地方で政治家と付き合いますので、それが付き合いの疎遠さにつながるものでもありません)。その分だけ、国内の政治家との接し方がこなれておらず、田中真紀子元大臣・鈴木宗男元議員関連の一連のイベントでは、そうしたある種の手際の悪さが混乱を大きくしたと思います。
- 鈴木宗男元議員
前提として、エスタブリッシュメントの多くはスノッブで、「田舎モノ」が生理的にあわない、という側面があるとwebmasterは思います。
鈴木元議員は多くの官僚から嫌われていたわけですが、それは彼がこの前提を、意識してか無意識にかはさておき感じ取り、居丈高に圧伏することで乗り越えようとしていたためだと考えられます。ただでさえ「田舎モノ」の「行儀の悪さ」や「言動の品のなさ」を冷たく見られているのですから、これではますます悪循環です(今年の大河ドラマでいえば、木曾義仲みたいなものです)。彼の系譜の先達、例えば田中角栄や竹下登がうまく官僚を持ち上げて結果的に頤使したのと比べると、器の違いというものを感じざるを得ません。
とはいっても、単に声が大きいだけなら捌き方はいろいろあるわけで、それを許さなかったのも、彼の政治的実力の傍証ではあるのでしょう。
- 国策捜査と検察
一昨日のエントリとも重なりますが、「(略)実のところ、僕たちは適用基準を決められない。時々の一般国民の基準で適用基準は決めなければならない。僕たちは、法律専門家であっても、感覚は一般国民の正義と同じで、その基準で事件に対処しなくてはならない。(略)」という西村検事の発言(p288)は、検察のビヘイビアを的確に表現していると思います。
というのも、他省庁は他にも依拠できる何らかの専門的な体系があるので(本件で言えば外務省にとっては、外交の世界のさまざまな慣習がそれにあたりますし、一番わかりやすいのは旧科学技術庁にとっての科学技術でしょう)、国民の多くから批判を浴びても、それだけで存在基盤がなくなるわけではありません。しかし、検察には国民の多くが正義と信じるものを実現することにしか、正統性の根源がないのです。
検察庁も役所の1つとして、他省庁と同じように政治家との関係が濃淡はあれど存在し、その中での虚虚実実の駆け引きはもちろんあるので、国策捜査といわれるものにおいて、その影響がまったくないはずはないでしょう。しかし、検察庁が他省庁以上に「国策」に動かされやすい原因は、他省庁と質的な差がない政治家との関係ではなく、世論への依存にあるのだとwebmasterは思います。
付け加えるなら、山本譲司元議員に対する実刑判決についての「(略)検察庁は実刑になるとは予測していなかったんだ。あの判決は以外だった。世論が税金の使い方に厳しくなったことに裁判所が敏感に反応したのだと思う。裁判所は結構世論に敏感なんだ。(略)」という西村検事の発言(p291)は、そんな検察庁から見てもさらに、最終的な「正義」の実現者である司法(英語で言えば正義も司法も同じ"justice"であるぐらいですから)は世論に阿らざるを得ないということについての証言だと思います。
- 時代のけじめ
短期的な方向性としては、著者の見立て、つまり内政での「構造改革」への傾斜と、外交での排外主義的ナショナリズムへの転換は事実だと思いますが、いずれも、経済的な不調に起因するものだとwebmasterは考えています。排外主義なんてものは、経済的に好調な時代にはマイノリティにとどまりがちです。
中長期的には、経済さえよくなればまた変わるであろう排外主義的ナショナリズムについては話は簡単なのですが、それとは異なり「構造改革」は込み入っています。webmasterの見立てでは、社会的規制をも完全撤廃が望ましいかの物言いについては、財界は通時的に主張するでしょうけれども、それが受け入れられるのは企業セクターが相対的に弱くなりその主張への警戒感・抵抗感が少なくなったからで、経済状況がよくなり企業セクターが相対的に強くなれば、この部分についてはゆり戻しがあるでしょう。
他方で、地方への資源配分(メインは公共事業と地方交付税交付金)については、かつて論じた(恥ずかしいことに未完ですが・・・)ように、不可逆的な変化であるように思います。
#著者は「構造改革」ではなく「ケインズ型公平配分路線からハイエク型傾斜配分路線」と書いていますが、これほど知識と教養のある著者(個人的に知っているわけではありませんが、本書を読めば疑いなくそうと断言できます)にしてこのような表現となるのは、経済学はやはりマイナーな学問なのかなぁと残念に思いつつも、著者ほどの人でも不得手があるならwebmasterが人文系においてからっきしなのも仕方がないなぁと安堵してしまったりも。
最後に、本書を取り上げたネット上の言説からさらし上げを2つ。
評者の底の浅い外交論など、本書に照らせば存在価値を完全に否定される程度のものなのですが、それをまあよく持ち上げられたものだと感心します(笑)。外務省に対する被害者意識を一方的に共有したのでしょうけれど、醜女の深情けとでも言うべきでしょうか(笑)。評者の読解力がないからこそ可能な片想いでしょう。
鈴木宗男元議員への著者の気持ちを「寄って立つ主(あるじ)を間違えた」といい、さらに本書をワイドショー的な外務省批判のだしにしておいて、よくもまあ「「心の叫び」とでも言おうか」だの「佐藤氏には大変お世話になった」だのと言えたものです。その独りよがりをもって霞が関中から軽蔑された評者にふさわしい、底の浅い論評といえましょう。
つまり何が何でも読まねばならんということか。 朝日でも青木昌彦が取り上げたが。 http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20050414#p2 http://bewaad.com/20050417.html#p01
現在、佐藤優「国家の罠」を読んでいます。 国家の罠 外務省のラスプーチンと呼ばれて佐藤 優新潮社 2005-03-26売り上げランキング : 13おすすめ平均 Amazonで詳しく見る by G-Tools いやぁ〜、いろいろなところで面白い、と言われていたので気になっていたんですが、確か..
選挙の特番で、鈴木宗男が「ハイエク型の傾斜配分」という言葉を使っていたので少し気
豫讓の話、「女は飾る」と「女は踊る」と2つバージョンがあるのは、どこで派生したのでしょうか。原版は「飾る」でいいのかな?
>一国民さん
原文だと「女爲説己者容」で容=かたちづくる、ですから、飾るの方がニュアンス的には近いのではないでしょうか。
解説ありがとうございました。
私も「士爲知己者死」の言葉は好きです。
死ぬべき人を見つけるか、知ることのできる人になるか、できればよいのですが。
でも「ハマる」と、多くの人からは幸せには見られないケースが多いですけどね(笑)。佐藤氏のように。だから、家族との間で板ばさみになったりとか、それなりのコストも覚悟しないといけないように思います。