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(ここはbewaad institute@kasumigasekiの過去ログ倉庫です。コメント等は仕様上受付けを停止しておりませんが、こちらではご遠慮いただければ幸いです。何かございましたら、現行サイトにお願いいたします。)
2005-05-20
■ [law]特集「クール!な憲法の論じ方」@論座6月号
長谷部恭男先生、井上達夫先生、小熊英二先生というラインナップに誘われて読んだ、というyuto-nさん、swan_slabさん、deadletterさんに誘われて読んでみました。それぞれ泥臭くラディカルに論じられているテキストで非常に読み応えがあります(それらを集めた特集を「クール」と呼ぶ編集のセンスはどうかと思いますが(笑))。
#関連で、「Jurist5月号」(@Uncrowned Monarch5/11付)で紹介されているジュリスト5月号が非常におもしろそうです。また積ん読が増えそう・・・。
長谷部恭男「日本の立憲主義よ、どこへ行く?」
以前先生の著書(憲法と平和を問いなおす)を取り上げさせていただいた際にも触れたことですが、立憲主義の構造的な問題というのはなかなかやっかいです(当然長谷部先生もご承知の点ではあります)。多数派の横暴を止めるための憲法それ自体が(民主政国家においては)多数派により決定されるわけで、憲法自体が多数派の横暴を取り入れて制定されてしまえば、憲法はその部分において多数派の横暴に対してストッパーとして機能しなくなってしまうからです。端的には、立憲主義に反しているからといって、その憲法が「憲法」たり得ず無効だということにはなりません。
#上記リンク先のwebmasterのテキストは、例えば長谷部先生の立論を自然法論と断ずるなど低レベルで恥ずかしい部分が含まれていて紹介などしたくもない(笑)のですが、以前にも紹介させていただいた「書くことの意義は、後から読み返して、書いた時点ではその程度にしか物事がわかっていなかったことが確認できることだ(大意)」との恩師の言葉を改めてかみしめるためにあえてさらしました。
メタ的に考えれば、このテキストや、専門書のみでなく「憲法と平和を問いなおす」といった新書で世に問われることそのものが、立憲主義の実効性を高めるための長谷部先生の愚直な試みであると思います。かく立憲主義という概念を世に知らしめ、その理解者を増やすことでしか、民主政下において立憲主義を実現することは不可能でしょうから。
しかし、それがうまくいくのかどうかについては、大いに危惧せざるを得ません。東大法学部には「ハセビアン」と呼ばれる先生のファンがいるようですが、例えばハセビアンが官僚になったところで、官僚という職業にとっては憲法はまさしく不磨の大典なのでいかんともしがたいですし・・・。
ちなみに、次の部分(p16)は楽観過ぎやしないか、と思わないでもありません。
(前略)彼らの本音のところを平たくいえば、「お前たちの心の持ちようは利己主義的でなっていない。それをただして、魂を入れ替えてやるために憲法改正案を用意してやったから承認しろ」という話である。よほどオメデタイ人でなければ、なるほどよく用意して下さいました、賛成いたしましょう、という気にはならないであろう(もっとも、利己的なのは他人だけで自分は利己的でないから賛成しようという本当にオメデタイ人もいるかもしれないが)。
いわゆる構造改革主義の普及の度合いを見ますと、「本当にオメデタイ人」の数は相当程度に上るのではないかと。
井上達夫「挑発的!9条論/削除して自己欺瞞を乗り越えよ」
おそらくは相手のレベルにあわせているからだと思いますが、webmaster程度のレベルでも反論がいくつか思い浮かびます。再反論をお伺いできれば幸いなのですが・・・。
まず改憲論者に対するものとして、次のような指摘(p18)があります。
本音の問題性とは、改憲派自身が「占領軍の押し付け」を拒否する国民的主体性回復の論理を首尾一貫受容してはいないことである。「押し付け憲法」を峻拒する改憲論者も、「押し付け農地改革」の正統性を同様な峻厳さをもって否定してはいない。ひそひそ声で文句を言うことはあっても、土地所有秩序改革のやり直しの必要を高らかに唱えたりはしない。しかし、占領勢力は憲法改正について日本政府側の松本草案を蹴ってマッカーサー草案を押し付けたように、土地所有構造改革について、日本政府回答を蹴って徹底化勧告を出し、第二次農地改革の断行を強いたのである。
この議論に対しては、例えば長谷部先生の立憲主義(プリコミットメント論)を援用して、憲法だからこそ自らを縛るという手続が重要なのであって、結果がよければそれでよしとすることができる法律以下の下位法令とは同一視できない、という主張が可能です。井上先生のおっしゃるような、改革プロセスにおける主体性の有無に注目する「手続的正統化」原理と、改革の結果の実質の是非に注目する「実体的正統化原理」とを、憲法改正と農地改革とで二重基準的・御都合主義的に使い分けている
(p19)ということではなく、筋のとおった使い分けなのだと。
#長谷部先生がこういう主張をしているというわけではありません。為念。
マッチポンプ的ではありますが、井上先生の第9条削除論は、この主張に対する強力なカウンターたり得ます。おそらく改憲論者の多くが賛成するであろう第9条の削除のみを行うことにより、それ以外の規定は改正する機会があったのにしなかったということで、反射的にプリコミットメントがなされたと捉えることが可能です(この場合第9条は、ある種の生け贄になるわけですけれども)。
改憲論者に対する主張として弱いと考えられる点として、他に対米従属構造を巡る議論があります。根源的にはすべての改憲論者を押し付け論に根拠づけられたものとしているところに帰着するのですが、対米従属でいいではないか、そのために第9条を改正すべきという考えに対して、日本の国家的独立と政治的主体性の確立のために軍事力保有の必要性を説きながら、実際には、安保体制の対米従属構造を維持強化し、米国の軍事的世界戦略に日本が組み込まれることを維持しようとしていることは、改憲派の「主体性喪失」の実相を示すもう一つの証左である
(pp19,20)との指摘は的はずれにならざるを得ません。
他方で護憲論者に対する絶対平和主義については、形式を某お弟子さんにお借りして(笑)、軍事力において圧倒的に優越した侵略者・弾圧者に対しては武力抵抗に訴えるより、非暴力抵抗の強い道義的アピールによって侵略者・弾圧者を非難する国際世論を高揚させる方が政治的実効性は高い
(p21)との主張に疑問を投げかけておきます。
つ【内戦の原因は「不平」ではなく「機会」であるとの実証研究】
つ【チベット】
小熊英二「改憲という名の『自分探し』」
しゃべりから起こしたテキストであるが故か、長谷部先生や井上先生に比べて論旨にブレがあり、真意をどう考えるべきか迷うところがあります。ナショナリズムを強調する改憲論を政治に帰しているようでもあり、国民に帰しているようでもあり。どちらかというと前者が強いようですが、国民の側にそれを受け入れる素地がなければ単なるドン・キホーテに過ぎないわけで。後者を認めるような記述もあるのですが、あくまで状況の説明にとどまり、前者に対するような反論の色彩がなく消極的に肯定しているようであり、長谷部先生や井上先生の大人げなさを見習ってほしいものです(笑)。
後者に対する反論としては、いわゆる構造改革主義の見解、つまり「構造を変えないと今の低迷を脱することができない」を覆す必要があります。経済的な構造問題はその時代に応じて遍在するもので、別に今だけそれが致命的なわけではありません。しかしながらそこを90年代に入っていわゆるグローバリゼーションの波が押し寄せ、日本の経済構造が変動せざるを得なくなった
(p26)と見解を同じくしてしまっているわけで、結局は同じ土俵にのっているから批判的な見解が出てくるはずもないのです。
同様に、第9条問題の背景にはアメリカの外圧があるとか、世論調査では親アジアが多数派だとか、アジア諸国という言葉で多種多様な国々の思惑・反応をまとめてしまっていることとか、事実認識の点において首をかしげざるを得ません。「アジアの国々とも安全保障の安定した枠組みを目指す」の賛成が51%で「日米安保体制を強化する」のそれが7%だって、「日米安保体制を犠牲にしてでも中国・韓国との安全保障体制の構築を目指す」という選択肢にすればおそらくは7%以下の賛成でしょう。
反欧米・親アジア主義自体、近現代日本におけるナショナリズムの現れ方の1つですが、改憲論者のナショナリズムを敵視するあまりでしょうか、小熊先生ご自身が「日本という国のあり方」が限界にきた、という認識が一般に広く共有され、新しいナショナル・アイデンティティーを築かなければならないという気分が高まっている
(p25)ことの外にいるわけではなく、そうした別のナショナリズムに囚われていることに無自覚ではないかとwebmasterは思います。
外耳炎は治りました(挨拶)。さて『論座』6月号で憲法を論じた諸論文が物議を醸しているようでめでたい。我が師匠・井上達夫の論文にbewaadさんが疑問点を指摘しておられ、「再反論をお伺いできれば幸い」とお書きなのだが師匠のTech levelを考えるに本人は読んでないので..
どうも初めまして。いつも興味深く記事拝読させて頂いてます。
>『多数派の横暴を止めるための憲法それ自体が(民主政国家
>においては)多数派により決定されるわけで、憲法自体が多
>数派の横暴を取り入れて制定されてしまえば、憲法はその部
>分において多数派の横暴に対してストッパーとして機能しな
>くなってしまうからです。』
この部分、全く同感です。
更に言うなら、憲法がもともと立法府の多数派によって作られ
るのだから、それを守るという司法(最高裁)も当然多数派に同
調する事になり、立法府(議会)の最大多数派(与党勢力)から内
閣(行政)が組織されるのであれば、そもそも三権分立という仕
組み自体が成立しない前提にもなっていると感じています。
(その意味ではだから権力のチェック機能は権力内には存在し
得ないのかも知れませんね)
憲法改正論議については、九条がどうとかではなく、誇張では
無しに国の人口が数千万単位で今後減っていく中でどういった
国の仕組みと運営方法が求められているのか、望ましいのか、
現実に採り得るのかを見据えて各論に入る必要があるかと思い
ます。(その意味で道州制の導入一つ取ってもかなり大きな論点
になる筈なんですが、全然世間から注目されてませんね。笑)
エントリの趣旨とはずれたレス失礼しました。^^;
>名無之直人さん
三権分立はお互いに干渉しないというよりは、同程度に干渉しあうような仕組みですから、個人的には静的な形式よりも、動的にどのような作用が働いているかにより注意すべきではないかと思ってます。
ところで道州制って、同じ言葉で違うものを想像している人が多そうに見えます。玉石混交といいますか(笑)。