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2005-06-18
■ [misc]カニバリズム素人考
若隠居さんのエントリで支那における食人をめぐって議論が盛り上がっていまして、完全に乗り遅れていたのですが、同エントリのコメント欄にて次のような興味深いやりとりがあったので、今さらながら取り上げてみます。
#人類学や宗教学などの素養は全くないので、まともな内容は期待しないで下さい・・・。
まずもって区別しなければならないのは「食べるために殺す」ことと「(別の理由で亡くなった)死体を食べる」ことです。前者は食べるためだろうがなかろうがそもそも「殺す」という点で非難可能なわけですが、例の記事においてもそういうはなしではなかったわけです。
他方で、死体を「利用」するということは臓器移植を典型に“文明社会”においてばんばん行なわれているわけで、「殺してはならない」に比べると「食べてはならない」は実はそれほど自明じゃない…。もちろん、だからといって推奨する必要もないわけですが。
Apemanさんのコメント(2005-06-17 11:31:03)
死体を「利用」する例として
>臓器移植を典型に“文明社会”においてばんばん行なわれている
を挙げるのはよいとして、そこから
>「殺してはならない」に比べると「食べてはならない」は実はそれほど自明じゃない・・・。
を導き出すことには無理があると思いますが。移植がOKな社会なら「食べてはならない」も自明じゃない?そんな馬鹿な。まるで医療行為と食人が同レベル。死体の「利用」という点なら同一?「殺してはならない」や「食べてはならない」の自明性を測るのに、死体利用としての臓器移植を挙げるのは医療現場の方々に失礼な話です。
sokさんのコメント(2005-06-17 16:11:47)
sokさんを代表のように引用しましたが、他の方々の多くもカニバリズムへの生理的嫌悪感は同様に示されています。日本におけるこうした感情について論点として考えられるのは、食べるという行為が特にタブーなのか、それともおよそ死体にまつわるある種の行為は基本的にタブーで正当な理由がある場合のみ(例えば臓器移植)タブーが回避されるのかというものが1つ、そしてタブーなのは死体にとってのタブーなのか行為者にとってのタブーなのか、というのがもう1つです。
前者については、食べるという行為に限らないとwebmasterは考えます。例えば社会的に人気の高い部類に属する歴史上の人物に織田信長がいますが、彼の比叡山延暦寺攻撃や、越前・伊勢長島などにおける一向宗との虐殺までは、政教分離が必要だったとか敵対行動をとっていたのだから仕方がないと正当化する意見は見るものの、浅井久政・長政父子及び朝倉義景の首級を、薄濃を施した上で見せ物にした(異説として杯とした)ことを正当化する意見はほとんどありません。
この例など、食べてはいませんが、おそらく同様の嫌悪感を催す人は多いのではないでしょうか。となると、食べることそのものよりも、食べることが典型的に表象する何らかの性質にタブーの淵源があるように思われます。
#若干脱線しますと、現在の刑法犯としての死体等損壊罪には屍姦は含まれないというのが判例で、これを通説も是認していますが、この判例・通説の判断は社会的感情からずれているのではないか、と以上から思います。構成要件としての「損壊」には該当しないとの判断でしょうけれども。
ではその「何らかの性質」とは何かをさぐるため、後者に考察を移します。「死体にとってのタブー」とは、わかりやすい例はキリスト教やイスラムにおける死体の保存で、最後の審判の際によみがえるべき容器としての存在が必要ですから、死体を傷つけることがタブーとなり、端的には火葬はしないわけです。逆に言えば、近代まで土葬が主流だったとはいえ、火葬も受容されてきており、まして最近では明らかに火葬が主流である日本においては、同様のタブーは存在しないと言ってよいでしょう。
#特にキリスト教においては、逆に死体を食べた場合に、「食べる」ということがその他の行為に比べ特に問題であるとはされないように思われます。現に「アンデスの聖餐」事件では教皇庁は人肉食をタブー視しませんでした。そもそも、通常の聖餐におけるパンはイエス・キリストの肉の暗喩ですし。
方や「行為者にとってのタブー」ですが、日本古来の死そのものを穢れとする思想がこれで、死体に触れることは死という穢れに触れることと同じであるとしてタブーになります。葬儀に携わる人々が穢れたものであるとして被差別集団であったことは多くの人々がご存じでしょう。
ではこれが日本におけるカニバリズムタブーの原因かと思えば、これまたしっくりきません。臓器移植において移植する臓器をお祓いするという話は聞いたことがありませんし、何よりこれが原因であれば、お祓いをした屍肉食はタブーの対象外となってしまうからです。
となるとやはり「死体にとってのタブー」に戻らざるを得ません。先ほどはキリスト教やイスラムを取り上げましたが、それ以外にも理屈はあり得ます。その一つが、儒教などの支那思想における魂魄の考え方です。人を形作る精神面の魂と肉体面の魄をそれぞれ認識し、魄がまつろわぬよう祀るのは儒教葬その他の支那民族葬祭の重要な儀式です。
魄は土に還すべきものですから、本来は(=支那では)土葬があるべき姿です。しかし日本においては、魂のための存在である位牌が普及しているようにこの魂魄の考え方を受容しているのですが、同時に、仏教の影響もあり火葬であってもよしとしました。火葬であるにもかかわらず位牌を祀り魂魄の存在を仮定するのは、理屈としてはおかしな話です。
どういいつくろったところで支那から見れば東夷の蛮習ではありますが、日本人からすれば、十分に祀られなかった魄が鬼になるという部分に、日本古来の祟りと相通ずるものを見たのでしょう。清めの火により魄を祓うとともに、魂を弔うことにより祟りを封ずるという形で魂魄を従前の死の概念に統合していったと。
カニバリズムがタブーであるのは、そのような形で魄を辱めると祟るから。臓器移植で臓器そのものを祓う必要がないのは、個別の部位の穢れが問題なのではなく、提供者が祟らないよう弔いがなされるかがどうかが問題であるから。こう考えると、とりあえずいろいろなつじつまは合うのではないかとwebmasterは思います。
最後に蛇足ですが、ヨーロッパの死刑廃止論者は日本の死刑制度に対して、似たような生理的嫌悪感を覚えているのだろうなぁと思うと、理解を得ることの困難さに匙を投げたくなります。あんなものはあくまでキリスト教的な価値観であり、死刑廃止も死刑存続もお互いに尊重しあえばいいとwebmasterは思うのですが・・・。
遅ればせながら問題になっている例の記事を。あんまり読んでいて(僕は)気持ちのいい文章じゃないから今まで避けていたのだけれども。 http://nishimura-voice.seesaa.net/article/4290183.html とっくに広東省公安当局の検査により偽者だと判明しているそうです。 http://..
この件は僕もまた違う盛り上げ方をしましたよ。
Bewaad様
初めまして。sokと申します。まさかこちらで取り上げられるとは。
食べることが典型的に表象する「死体にとってのタブー」という点では、とりわけ趣向が前面に出たものにより強く嫌悪感を持ちますね。バラバラ遺体より食欲や性欲が絡むものの方が。髑髏杯には政治的意味もあるものの趣向の面が強い。エド・ゲインの仮面や家具も。なるほど「魂を弔うことにより祟りを封ずる」とは程遠い。
なんか水滸伝を思い出しました。
大切な友人が来ているのに家に肉がない。仕方ないから・・・、というのが友情の篤さを示す「美談」として語られてしまうことにびっくりしました。
あと個人的には、重耳に対して自分の脛の肉をスープにして出したという介子推の話にも抵抗があります。
なんか祟りとか魂の話以前に、「欲望の暴走に対する嫌悪感」があるのじゃないかなあ、という気がします。
あのブログは元々、特殊な連中のための場所ということに、
まだ気がつかないのですか?
法律好きのインテリヤクザが集まる共同謀議会場
あそこの一味は、すでにネットヤクザとして有名人。
自分のブログでは紳士面をしていますが、他所では本性を剥き出しに。
思い通りにならないと、
首くくれ。韓国人になりなよ。
これですから。
あなたは、利用されてるんですよ。ヤクザの隠れ蓑として。
あなたの他にも、二人、ヤクザの囲い込みにあって、
必要な情報を手に入れられなくなっていた人を見つけました。
一味に場を荒らされて本性を見てしまった人は、
一連のハンドルネームを見かけると用心して、
そのブログには近づきませんから、情報が分断されるんですよ。
あなたのハンドルネームも、ヤクザのお仲間のような形で、
よくお見かけしましたよ。
信用させるために、利用していたんでしょうね。
いつもするどいエントリをありがとうございますm(_ _)m
本題とはあまり関係ないのですが
> ヨーロッパの死刑廃止論
> あんなものはあくまでキリスト教的な価値観
熱心なキリスト教徒であるブッシュ大統領が死刑廃止論者でなさそうなところをみると宗教的問題ではないようにも思うのですがどうなのでしょう。
それに、ヨーロッパの社会民主主義者は反教権主義者だと思います(「教会はダメだけど聖書は好き」とかかもしれませんが・・・)。
また日本については、たとえば平安・鎌倉期には死刑とすべき反政府指導者たちを流刑に処して(かえって問題を大きくさせて)いるようにも思います。
>トニオさん
いつも拝見しているので存じております(trackbackありがとうございます)。支那であってもタブーではあるわけで、いかなる理由でタブーとされ、それがいかなる契機で破られるかを日本に限って見てみましたが、当代江北日記さんのところで支那の食人について文献が紹介されていますので、ご覧になってみてはいかがでしょうか。
>sokさん、一国民さん
死者を自らの快楽に関する欲望の対象とするというのには抵抗が強いのではないかと考えました。エントリ中のリンク先(アンデスの聖餐関連)によると、日本でも薬餌としての人肉食はそれなりに見られたということですから、これは臓器移植と似た受容のされ方をしていたと考えられるのではないでしょうか。
ちなみに一般論として「欲望の暴走に対する嫌悪感」が成立するかどうかですが、江戸時代の町人文学などを見る限り、もちろん松平定信のようにそれを嫌う人々もいたわけですが、多数派がそれを嫌ってはいなかったのではないのかな、と思っています。
>gachapinfanさん
ブッシュの場合は、下手に死刑廃止に組するとアフガンやイラクでやったことはどうなの、って話になっちゃいますからねぇ(笑)。
冗談はさておき、アメリカではあれだけプロライフという考え方が広まって、ブッシュも明らかにそちらに軸足を置いていますが、それがキリスト教の唯一無二の解釈ではないので、必ずしも熱心なキリスト教徒がそう考えるとは限らないということかと思います。次のリンクなどを見ると、ブッシュのプロライフ支持も宗教的信条というよりは選挙目的かと思わせるものもありますし。
http://japan-lifeissues.net/writers/val/val_07_hardsell-ja.html
あと鎌倉時代は反政府運動は原則死刑でしょう。承久の変や後醍醐天皇の倒幕活動においては、天皇という別種のタブーが発動したということで。
はじめまして。milesと申します。
興味深く読ませて頂きました。
>臓器移植で臓器そのものを祓う必要がないのは、
>個別の部位の穢れが問題なのではなく、
>提供者が祟らないよう弔いがなされるかがどうかが問題であるから。
言い方を換えると、死んだ者はちゃんと葬礼をして「あちらの世界」に送ってやらねばならない、とも言えるのだと思います。カニバリズムは生と死の境界を露骨に壊してしまうからタブーなのではないでしょうか。穢れを死そのものというより、「生命力に翳りを落とす要素」としての側面から見ると、普通に生命力が満ちている人に対しては穢れは大問題→すぐに祓わねば、となりますが、臓器移植は、割と生と死の境界上の出来事ということで、
「そこまで調和を乱してるわけでもないし、まあ良いんでない?」
ということではないかと・・・。
関係あるかどうか分かりませんが、日本神話でイザナミが黄泉国の食べ物を口にしてしまったエピソードを思い出しました。イザナミは死の世界の食べ物を口にしてしまった為に、サイクル(転生)から外れてしまった、という事になってますね。
臓器移植は死者の「納得」が得られやすい、というように考えていたのですが、確かに臓器移植を受ける側がすでに幽明境に近づいているから、という考え方もありそうです。
イザナミのエピソードは、黄泉の食物=身体の腐食のアナロジーと考えれば、偶然にもキリスト教的な立場に近く、身体に欠けるところがあると復活の障害となるという見方であるように思います。
お客さんに人の肉出したのを美談としていたのは、三国志でした。水滸伝にもあったような気はしますが。
吉川英治のコメントでは、「客のために大事な梅の木を薪にした日本の美談との対比が味わい深い」というようなことを書いています。
で、日本でタブー視される理由なのですが、やはり祟りとかはイマイチ、ピンとこなくて、人種的な均質性というか、共同体のクローズド性というか、友達の友達はみな友達だ感覚というか、島国的な平和感覚の方につい根拠を求めたくなります。
劉備が逃亡中のエピソードでしたね。記憶が便りなのですが、たしか吉川英治は、日本人には拒否感があるだろうということで悩んだ末カットしたという話を聞いたことがあります(後の版で変えたかもしれません)。
若隠居さんのところのコメントでも言及がありましたが、かつての日本でも肝をはじめとする死体の部位の薬用はそれなりにあったことです。カニバリズムが現代文明と共存不能なのはおそらく洋の東西を問わない話で、それ以前においてもタブーが存在したのはなぜか、というのを考えてみました。
私の読んだ吉川英治三国志では2巻に載っています。その箇所に注釈で悩んだ末に載せた、と書いてありました。
微妙な話なので版によって違いがあるかもしれないですね。
人肉を食べたのが劉備でなければそれほど気を使わなくてもよかったのでしょうね・・・。
Bewaad様こんばんは。衝撃的なタイトルなんでついつい覗いてしまいました。
宗教学・人類文化学的な見地からご議論なさっていらっしゃるところに横槍を入れるみたいで大変申し訳ないのですが、カニバリズムに関しては、生物学的な見地からすると大きな問題があります。
というのは、カニバリズムによる感染症の問題があるからです。カニバリズム関連で有名な感染症に、Kuru病(進行性海綿状脳症)というのがあります。これは、ニューギニアのメラネシア部族という死者を弔うためにカニバリズムを習慣にしていた種族に流行した病気ですが、この種族がカニバリズムを止めてからは、Kuru病の新規発症は見られなくなりました。Kuru病はプリオンによって発生することが知られています。
最近話題のBSE(狂牛病)もプリオンが原因ですが、これも、牛の餌に他の牛から作った肉骨粉を混ぜたのが原因で蔓延したのは記憶に新しいところです。
以下は推測に過ぎませんが、死者の肉を食べると、特殊な病気になるといった経験が先人にもあって、カニバリズムが否定されてきたという可能性もあるかも知れませんね。
>Rhapsodyさん
生物学的な要因によるタブーとしては、近親相姦という有名な例もありますし、そういう可能性も確かにあり得るように思います。
ただ、エントリとは異なるのですが、カニバリズムがタブーとなった最大の原因は、それをタブーとしないことが容易に殺人を招くからだと思います。エントリでは、殺人と切り離して論じたものについてもなお嫌悪感が残るのはなぜかという建付けなので割愛しましたが。