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2005-06-24
■ [law]裁判員がめんどうで何が悪い
連日の宿題消化シリーズとなりますが、「裁判員などめんどうに決まっているじゃないか」にいただいたコメントなどを踏まえての再論です。
あれこれ考えた結果を先に書いておきますと、「たいしたことのない負担だからもし指名されれば我慢して務めるけれども、それが崇高な任務であるかのように言いふらす法曹関係者はいけ好かない」という感情論です(笑)。基本線は前回と同じです。
なぜこのように思えるかといえば、法学部出身のくせに法学部的価値観を体得できなかったということなのでしょうか。裁判員制度の存在意義について、前回のコメントでご紹介いただいた大屋先生のご意見を次に掲げてみます。
「それは重いからやりたくない」という中学生の言葉は素直なものである。しかし、彼女が担いたくない当の負担が社会の中で必要とされており、かつ自分も社会の一員としてその恩恵を享受しているならば、自分はイヤだということは結局それを誰かに押しつけることに他ならない。そしてそれは社会の行使する暴力に自分もまた荷担しているのだという事実を隠蔽し、不可視のものとすることにつながるだろう。人々に裁判過程とそこで行使されている権力の暴力性を知らしめること、その自覚を持ってもらうことをこそ、裁判員制度の最大の意味と考えるならば、中学生の素直な信条を無視してあくまでも無作為に問答無用で裁判員の義務を押しつけるべきなのだ。
他方で大屋先生は、ほぼ同様の趣旨で徴兵制を語る井上達夫先生に対して、次のような指摘をしています。
(前略)また、社会を維持するために誰かが引き受けなくてはならない危険は何も戦争だけでなく、消火活動や治安維持活動だってそうだが、これらは別に徴兵制のような全員の確率的負担で行なわれるわけでもない。そもそも現代の戦争を前提とする限り、徴兵制はコストが非常に高いわりに非効率であって現実的ではない(このことは前にも書いた)。であるならば我々のすべきことは、我々の必要とする危険を引き受ける存在に対してそのような存在としての正統性を保障し、かつ自発的選択によってそのような存在が供給されるように待遇面や制度面での整備を行なうことである。彼らは「殺されるくらいなら殺す(でもできれば殺したくないな)」という我々の都合のいい欲望の産物であり、我々の一部である。少なくとも私自身は、道徳より私の生命を優先する。軍隊も警察も私の一部の疎外であり、私の外部としての対象ではない。疎外した自らの欲望を憎悪する偽善を告発しようとする点において私は井上達夫を支持しており、しかしその後に我々の立場は分かれる。それは我が師が善人であり、私自身が悪人であることの帰結である。煩悩無数誓願断/法門無尽誓願学。
「pro aliis」(@おおやにき5/22付)
つまりは「裁判員制はコストがそれほと高くなく、かつ効率性もそこそこあるので現実的だ」ということかと思うのですが、制度の存立意義を考え、あわせてそのコストを考えるというこの整理は、偉そうに評する立場ではないものの、極めて正統的な考え方だと思います。
#この観点から、例えば志願制の軍隊や警察、消防のように裁判もまたプロに任せるべき分野ではないか、という議論があり得ますし、多くの裁判員制度への批判はこの観点からなされています(それ以外の批判としては、陪審まで行くべきで裁判員などごまかしだ、というものがあります)。この批判についてwebmasterの見解を述べれば、軍隊や警察、消防とは異なり、裁判はそれが社会の納得を得られるかどうかが問題なので、多くがそれを是とするならいいのではないでしょうか、というものです。
しかしながら、前世紀後半ぐらいから、「法と経済学」という学問領域が提唱されていて、これは異なる考え方をとります。例えば債務不履行、一般用語でいえば約束を守らなかった場合には損害賠償が認められるのですが(民法第415条)、その存在意義としては、伝統的な法学では本来債務は履行されるべき、という点に究極的には帰着します。よく引かれるローマ法諺に「合意は拘束する」(pacta sunt servanda)というものがあるのですが、要すれば約束を守れ、ということにつきるわけです。
#ちなみにこの法諺は、国内のようにより上位の権限を有する者のない国際法の世界では、まだまだ効力をもって語られます。
もちろん約束が信頼できないようでは約束を守らせるためのコストが高くつきますから、十分に合理的な考え方です。ところが法と経済学では、損害賠償を払ってでも債務を履行しない方が債務者にとって得であれば、債務不履行は合理的な選択であると説きます。
例えばAさんがB誌に原稿料10万円で寄稿する契約を結んだ後、その内容を察知したC誌が30万円で書いてくれという話を持ち込んだとき、伝統的な立場では合意は拘束するわけですから、Aさんは先約があるからごめんなさいとC誌に言うべきとするところ、法と経済学では、B誌との契約で違約金が20万円未満なら、先約があろうとAさんはC誌に寄稿して30万円を受取りB誌には違約金を払って債務不履行をすべきとします。この場合、Aさんの手元には10万円より多いお金が残るのでハッピー、B誌は原稿と等価値と自ら認めた金銭を受け取ることができるので少なくともアンハッピーではない、C誌は30万円払ってでも手に入れたかった原稿をとれるのでハッピー、とAさんが先約どおりB誌に寄稿した場合に比べ、関係者全員が同じかそれよりもよい状態になるからです。
裁判員に話を戻しますと、裁判員法上、裁判員候補者になっても出頭しなかった場合、最高で10万円の過料が科されます(第83条)。正統的な法学の立場からいえば、当然に裁判員としての義務を果たすべきという価値観があり、過料を科すようなことはあるべきではない不正常な状態だとの理解になりますが、法と経済学の立場からいえば、10万円払うか裁判員となるかは貴賤のない同等のオプションです。
#そもそも日本では法と経済学はメジャーではありませんし、法と経済学の立場に立っても刑罰にまでそれを援用するかどうかには(少なくともwebmasterが学部生だった頃には)議論があるのですが、過料ですから刑事罰ではないので、気にしないことにします(笑)。
こんな選択を迫られるのはありがたくもなんともありませんが(笑)、裁判員制度が適用される案件は年間3,000件程度ですから、裁判員適格者である20歳以上70歳未満人口を計算の便宜上9,000万人(安全を見て多めにしてます)とおけば、全てのケースで6人が選任されるとしても(実際には4人のケースもあります)、5,000年に1回しか回ってこないわけです。これが最初に「たいしたことない負担」と書いた最大の根拠で、しかもwebmasterは20歳になってからそれなりに年数を経ていますので、実際にはさらに低い確率でしか回ってきません。まあこのぐらいのリスクは甘受してもいいかな、と。
#そのとき担当している仕事がつまらなかったら合法的にさぼれるわけですし(笑)。
というわけで裁判員制度自体には消極的賛成といったスタンスなのですが、気にくわないのが前回触れたように裁判員の位置づけです。憲法に規定もされていないくせに、あたかも国民の義務であるかのように言ってほしくありません。民主政の基本だとか権威づけられてますが、選挙の投票だって棄権は可能だというのに。だいたい職業に貴賤があると主張しているというのと同じではないのでしょうか。裁判員は貴くその他の職業は賤しいので、指名されたら喜んで捨ててこい、と。
次の指宿信先生の文章は、裁判員の存在意義について論じたものの中で、webmasterが唯一納得できたものです(陪審員について論じたものですが、裁判員にも妥当するものだと思います)。
結局、市民による陪審裁判を受ける権利を保障する姿勢を共同体が持ち、市民が共同体の同僚による裁判を希求しないかぎり、市民参加や誤判防止といった目標(それぞれは非常に重要な課題で、いずれも軽視することの許されない問題であることは言うまでもなく、法律家の議論がそこに集中するのはむしろ自然なことだが)に収斂された改革論は、参審制との選択を迫られることになるのは必然で、なにより仮に実現したにせよ「権利性」を自覚しない陪審制度はかならず衰退の道をたどることになるだろう。そのことは、戦前の陪審の歴史が教えているとおりである。
理念としてはご指摘のとおりだと思います。ただ惜しむらくは、今の日本において「市民が共同体の同僚による裁判を希求」しているとは思えないことです(同時にこれは、本来法曹にとっては喜ばしいことだと思うのですが、一体なんで裁判員制度が導入されたのか、理屈ではなく経緯としてどうも納得がいきません)。指宿先生の言が正しいのであれば、裁判員制度もまた衰退の道をたどるということになるのですが・・・。
最後になりますが、前回のエントリについて、のびたさんから次のようなご指摘をいただきました。
確かに、機会費用の負担を考慮した批判は筋の通ったものだと思います。しかし、私が不思議に思うのは、それならば、何故、アメリカ等の陪審制度の国々では、機会費用の負担を根拠にした陪審制度批判が噴出して、大きな政治的争点になっていないのか?という事です。
また、機会費用の負担を考慮した裁判員(陪審)制度批判が尤もなものだと一般に考えられているのであれば、スティグリッツ、クルーグマン、フリードマン、ランズバーグ、ラッセル・ロバーツ等の経済学の教科書・入門書の絶好のネタになるはずですが、経済学の教科書・入門書で陪審制度批判を見かけた事は一度もありません。
おそらく、機会費用の負担の影響はあるがその程度は小さいから問題視されていない、という事だと思いますが、如何でしょうか。
「裁判員制度批判についての疑問」(@のびたの経済学お勉強ノート5/22付)
アメリカの陪審員の機会費用が実際にどの程度かはわかりませんが、少なくとも裁判員であれば上記のとおりですので、ご賢察のとおりではないかと思います。ただ、下記のようなアメリカの実態(陪審制に対して賛成・反対の両者が同様の指摘をしていますので、嘘ではないと思います)を見るに、やはり機会費用に基づく行動の変化は起きているようです。
アメリカでは陪審員は裁判期間中は外部との接触を一切禁じられ、裁判所外への外出は勿論、新聞やテレビ報道を見ることも制限されます。実際にはほとんどの裁判が1日か2日で終わりますし、その日の法廷が終われば家に帰るのも自由という場合がほとんどではありますが、検察官と弁護人とが真っ向から争うような事案では、長期間にわたって陪審員は身体を拘束されることとなり、その負担は非常に大きいといえます。それだけに、アメリカでは会社などで重要な地位についていたりして時間を拘束されたくない人は、陪審員になることを拒否するようになり、得てして主婦や失業中の人などが陪審員に集中するという事態も起こっています。このような陪審制の問題点が大きくクローズアップされたのが、O.J.シンプソン事件でしょう。これは我が国でもかなり報道されましたが、彼が無罪になったのはひとえに陪審制のおかげであるという評論がされてもいます。この評価に対する是非はともかく、陪審制にも様々な弊害があるのは事実でしょう。
陪審制(陪審制賛成の久保内統弁護士のページ)
「アメリカ人はバカなのか(小林至・幻冬社文庫)」の中で、アメリカの陪審員制度の問題点が書かれている。普通に会社勤めをしている一般社会人にとって、陪審員になることは、支給される金額も低く、面倒なことである。そのため、陪審員を喜んで引き受けるのは、定職についておらず、お金に困り、時間に余裕を持っている人なのだ。つまり、時間のかかる重大事件は、年金受給者や、時間をもてあました主婦、極端に言えば、プータローが裁くのである。会社勤めをしている一般アメリカ人は、1日で終わるような簡単な事件を選んで、陪審員として参加するのだ。
司法制度改悪に反対する (裁判員制度というポピュリズム)(裁判員制度反対のカブ放浪記さんのページ)
金曜・土曜と研究会報告のために出張、今日も公務のために出勤でしたが何か(挨拶)。私の休日はどこだ、つうか我々は労働者になったのではなかったろうか。さて裁判員制度の話に関連してbewaad氏が再論しておられる(裁判員がめんどうで何が悪い)。コメント欄でも私の見解が..
> つまりは「裁判員制はコストがそれほと高くなく、
> かつ効率性もそこそこあるので現実的だ」ということか
これはどうでしょ? 勝手な忖度ですが、おおやせんせいはプロフェッショナリズムを重視してるから、そういう観点からは裁判員制度は評価低いのではないかと(「制度への賛否が述べられているわけではない」と注記したつもり)。
あと
http://alicia.zive.net/weblog/t-ohya/archives/000190.html
『これは非常に個人的な印象であって根拠など何一つないが、私としては最近評判の悪い裁判員制度の導入に疎外された法律家たちのうめきを聞くような気もするのである。』
なども。「法律家」に限らなければ、事例は多々あるような(例:「現在官僚系もふ」を語らずにはいられない(以下略))
ご本人抜きで議論するのもなんですが、裁判員制度は職業裁判官も参画するものですから、プロフェッショナリズムの否定ではないように思います。
なるほど、やはり、ある程度は、機会費用に基づく行動の変化は起きているようですね。
>「たいしたことのない負担だからもし指名されれば我慢して務めるけれども、それが崇高な任務であるかのように言いふらす法曹関係者はいけ好かない。」
という事ならば、私も賛成です。
確か、裁判員制度の話が出てくる前は、法曹関係者の多くは「陪審制度は日本には合わない」みたいな考えをあちこちで主張してきたと思うのですが、何でこう手の平を返したような態度をとるのでしょうか?
素人の戯言ですが、何か、法曹関係者って(まともな理由があっても無くても)現行制度をやたら正当化したがるような感じがします。(これって何かしらの理由があるのでしょうか?)
印象論しか引っ張ってこれませんでしたが、そういう実態があるのなら、誰かがペーパーを書いていてもおかしくないなぁ、と思いました。
法曹とまとめてしまっているのはエントリでもそうなのですが、日弁連は陪審制度をプッシュしていて、対するに反対派の最高裁といった図式だった(と記憶しています)ので、最高裁としては陪審制度ではなく裁判員制度となったのはwelcomeだと思います。ただ、弁護士の中でも裁判員制度だけでなく陪審制度にも反対している人もいますから、あくまでも一般的に観察される傾向ですが。
ちなみに現行制度の正当化は法曹以上にうちの業界に顕著(笑)だと思いますが、個人として間違っていると思っても組織としては執行しなければいけませんし(行政府は立法府の決定(=成文法)を覆せないので)、弁護士にしても法律がおかしいと言っても裁判に勝てないとすれば現行法をとりあえず是として主張を考える必要がありますから、そういう事情が大きいのではないかと思います。
法曹三者のうち弁護士に関していえば、陪審制度支持者は結構多いです。そしてそれはたぶんに、職業裁判官による刑事裁判に対する絶望感に根差しています。経済系の方々には、植草先生の絶望感を思い起こして頂ければ了解可能かと存じます。
>そういう実態があるのなら、誰かがペーパーを書いていてもおかしくないなぁ、と思いました。
根拠となるペーパーを示せません。あくまで素人の印象論なので・・・(だめだこりゃw)
>日弁連は陪審制度をプッシュしていて、対するに反対派の最高裁といった図式だった(と記憶しています)
法曹関係者と一括してはいけないですね。
訂正 法曹関係者の多くは→最高裁関係者の多くは
現行制度の正当化傾向についてのご解説ありがとうございました。確かにその通りだと思います。何でもかんでも是々非々でしたら仕事になりませんものね・・・
>小倉先生
刑事裁判にはまったくなじみがないのですが、素人としては、そのような現状は起訴便宜主義が幅広く採用され、検察が勝負で負けるならいわば「不戦敗」を選んでいることに原因があるのではないかと思うのですが、いかがなものでしょうか?
>のびたさん
ペーパー云々は、陪審と機会費用の件です。ミスリードな書き方で失礼いたしました。
それと、宿題消化シリーズという事で伺いたいのですが、以前、「官の詭弁学」を取り上げられていたと思うのですが、これの後半はどうなってるのでしょうか?興味がある本なので、後半も取り上げて頂けるとありがたいです。宜しくお願いします。
ごめんなさい。いつかはと思っていつつもう今年も半年、必ずやりますので・・・(労務屋さんにもお約束しているようなものですし)。情報処理能力をわきまえずあれこれ手を広げすぎているのが原因です。反省・・・。
お暇な時で構いませんので、マターリと取り上げて頂ければありがたいです。気長にお待ちしています。
お言葉に甘えすぎないようきちんとしないと・・・。
例えば、植草さんの件だと、逮捕直後の「自白」(後に否認に転換。その後ずっと否認)&ずっと植草氏をつけ回していたという捜査官の証言と手鏡しか証拠がないわけで、「安全第一」ならとても起訴できる事件ではないです(捜査官以外には目撃証言はなく、「被害者」すら被害があったことすら認識していないのです。)。でも、検察はあっさり植草氏を起訴したし、もくろみ通り、裁判所はあっさり植草氏を有罪にしたわけです。
小倉先生
植草先生の事件をそのような趣旨で挙げるのはどうかと思います。
どうして証拠が捜査官の目撃証言と手鏡だけだと「『安全第一』ならとても起訴できる事件ではない」と断言できるのですか。それでしたら、電車内の痴漢事件は当然のこと、1対1の公務執行妨害の事件も「とても起訴できる事件ではない」ということになりますよ。植草先生の事件で問題とされるべきはむしろその捜査官の目撃証言の信用性であって、それに触れないままで「もくろみ通り、裁判所はあっさり植草氏を有罪にした」と言われても、とても納得できる論旨とは思われません。
(刑事実務にたずさわった経験のある人間として、「刑事裁判に対する絶望感」という点には、一般論として理解できるとは思っているのですが・・・。)
>小倉先生、横から失礼しますさん
素人の感想で恐縮ですが、横から失礼しますさんとほぼ同様に思っていまして、植草さんの件については、やはり証言がどれだけ裁判官の心証を形成するかかどうかで検察から見た安全性が判断され、とてもじゃないけどそんな証言では公判維持はできないとなれば、起訴猶予になったのではないでしょうか。
手鏡というのは、女性のスカートの中をのぞき見るために専ら使うための道具ではなく、そのような意図を有しないものが持っていても何の不思議もないこと、盗撮事案では何が映っていたのかを検証できるのに対し、手鏡事案では何が手鏡に映っていたのかを検証することはできないこと、捜査官の証言については信用できる以前に何が手鏡に映っていたのかと言うことすら証言できなかったと思われること、痴漢の事案と違い、被害者から被害状況に関する詳細な証言を取ることは不可能であったこと等を考えれば、「安全第1」なら到底起訴できなかったと思いますが。
小倉先生、横からの突っ込みに丁寧にご返事頂きありがとうございます。
>捜査官の証言については信用できる以前に何が手鏡に映っていたのかと言うことすら証言できなかったと思われること
とのことですので、先生の前提としては、「手鏡に何が映っていたか証言できないような証言は信用できない」という形で、捜査官の供述の信用性の問題が前提とされていたのだと理解しました。ただし、釈迦に説法ではありますが、検察が起訴するかしないかの判断をする際の判断材料は、あくまで捜査段階の証拠ないし供述ですので、公判における証言内容を前提として起訴の妥当性を問題とするのはやや論理が逆のように思います。
先生のおっしゃりたい趣旨は、「捜査官がとても信用できない証言をしたような事件でも、裁判官は検察官の主張を鵜呑みにして有罪判決を出すではないか」という点にあるように思いますか、植草先生の事件における捜査官の証言の信用性については、結局のところ供述の経過や具体的供述内容に踏み込まざるを得ず、それをここで問題にするのはやや趣旨が違うのではないかとの感想を抱かざるを得ません。(ちなみに、私個人は、何が手鏡に映っていたか証言できないと言うだけでは必ずしもその証言全体の信用性を否定することはできないのではないかとの意見です。)
>小倉先生、横から失礼しますさん
個別事例としての植草事件の当否を論ずる材料ももたない身ではありますが、むしろ検察が「安全第一」と思う相場観が適当でないことが問題なのかなと思いました。自由心証主義といいつつ、検察の証拠は信頼できるとのバイアスがあり、本来検察が公判維持を真剣に検討すべきところ、これぐらいなら裁判所は認めると思ってしまい起訴し、しかもそれが通ってしまいがちであるということなのかな、と。