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2005-07-13

[history][politics][science][book]木村哲人「テロ爆弾の系譜」

webmasterの知る限り類書のない、貴重な一冊です。実際にテロ用の爆弾を試作した経験を持つ著者が、そうした経験を有する者ならではの観点からテロ爆弾の歴史と実際を記しています。球根栽培法という言葉にピンと来る人であれば、絶対にページをめくる手が止まらないこと請け合いです。球根栽培法って実は、大逆事件の「爆弾」って実は、といった話にはかなりの説得力があります。

こうした一次史料を活用した現代史研究が進められてほしいと思います。特に大逆事件における宮下太吉製造の「爆弾」についての著者の仮説が正しければ、大逆事件の冤罪性について一段と掘り下げた解釈が可能なはずで、生前の著者の主張を黙殺した歴史学者の態度はいかがなものかと思います。

そうした小難しい話を抜きにしても、球根栽培法との出逢いから始まる著者の青春譚や、加波山事件の関係者の末裔ならではの口伝の紹介、遠くフランスで晴らされる著者の疑念など本書であかされる数々のエピソードは、その真偽をwebmasterは判断する立場にありませんが、物語としても一級品です。著者がこのような手記を残してくれたことには、ただただ謝するしかありません。

[sports]プロレスラーの「強さ」

昨日取り上げた橋本選手の死亡について、「(現在のプロレスは)受け身を取りずらい技を連発するようになった。それに歓声を上げるファン。リング上は、それに応えるようにヒートアップする。彼は殉職だと思います」古館アナが述べたとのこと。受け身を取りづらいと聞けば闘魂三銃士(橋本、武藤、蝶野)よりは(全日)四天王(三沢、川田、小橋、田上)を思い浮かべるのがプロレスファンではないかと。古館アナもプロレスからは本当に離れてしまったのですね。

他方で、それを殉職と呼ぶかどうかはさておき、plummetさんも指摘するようにプロレスラーに若くしての病死が多いのも事実。ご指摘のような体格を大きくし、それを維持することによる無理もあるのですが、案外知られていないことに、オーバーワークは免疫機能を弱めるので、その影響も大きいと思います。プロレスラーに限らず、スポーツを飯の種にしている人々は文字通り身を削っているわけです。

#アメリカのプロレスラーの場合、ドーピングの影響も大きいのですが・・・。

ちなみに、世間的にはプロレスがスポーツかどうかには議論があるところですが、webmasterは紛う方なきスポーツだと思っています。一定のルールの下で強さを競い合うのが格闘技ですが、ただそのルールの方向性が会場のお客を念頭に置いている部分が多い点で、他の格闘技とは毛色が違うわけです(ちなみに他の格闘技だって念頭に置いていないわけではありません。例えばK-1がストライカー最強を決めているかのように自らを位置づけているくせに肘を禁止しているのは、カットによる中断・ノーコンテストの確率を下げる効果があります。あくまで程度問題ということで)。

特に「会場の」というところがポイントで、例えばPRIDEで何らかの関節技がきちんと決まっているかどうかなど、会場の隅っこの席から見たってわかるはずがありません。そんなところにいれば結局は会場内ヴィジョンでしか見ることができませんから、あれはあくまで雰囲気を楽しみにいくもので試合を見に行くものではありません。他方でプロレスは、隅っこの席からでもきちんと動作がわかり、ダメージを与えたのだという印象が与えられるような試合になることをルールの目的としているわけです。

例えばプロレスと総合格闘技の双方でよく使われるスリーパーホールドにしても、グラウンドでポジションの取り合いをしつつ入っていくという総合格闘技の流れが自然ではありますが(といっても、総合格闘技にしても陰部や目、指関節への攻撃などは禁止していますから、そのルールの下では、ということではあります)、会場の多くの客からすればどんな攻防が行われているかわかったものではありません。他方で、スタンドからバックの取り合いをして技に入り、その後かけられた側がくずおれていくプロレスの流れは、遠くから見てもわかりやすいものです。

#そのような観客への訴求力が、昨日垂直落下式DDTの形容で使ったプロレス的説得力という言葉の趣旨です。

逆に言えば、プロレスラーの個性は、どのようにその強さを観客に伝えるかによって決まってきます。先に触れたアメリカのプロレスラーのドーピングに依存する傾向は、何より肉体的な見た目の強さが観客に訴えるという土壌あってのことです。全部が全部そうであるわけではもちろんありませんが、多くの場合において、同じ技をかけるならより筋骨隆々としたプロレスラーがかけた方が効いているように受け取るファンがいるわけです。

四天王が受け身を取りづらい技に走ったのも固有の文脈があり、これはジャンボ鶴田の存在なくしては考えられません。もともと全日はジャイアント馬場という類い希なる体格をもつプロレスラーがトップですから、存在自体で強さを伝えられる舞台でしたが、そこに馬場には適わないとしてもやはり体格に秀で、さらに技術・体力的にも頭抜けていた鶴田が馬場から事実上禅譲を受け、その鶴田への挑戦者としてキャリアを重ねた四天王にとっては、鶴田にダメージを与えられるかどうかによって、観客に技の強弱を判定されたわけです。また鶴田が隠しごとのできないひとで、どうでもいい技は余裕で受けてしまい誰から見ても効いていないことが明らかなので(笑)、本当に技の威力を高めるより選択肢はありませんでした。

では新日はどうでしょう。アントニオ猪木は体格において馬場に劣っていましたから、別の要素を持ち込まなければ格の差をひっくり返すことができません。もちろん個々の技を磨きはしましたが、馬場が対戦を拒否しつつけたため(常識人である馬場が、猪木のようなエゴが過大に肥大化した人間を避け続けたのは当然ではあります)、実際にそれで勝つことはできませんから、四天王式のやり方には無理がありました。

そこで猪木が選んだのは、技にメッセージを付与することです。日本プロレス独立後のゴッチ道場の権威化、卍固めや延髄斬りといった技の開発についてのプロジェクトX的エピソードの喧伝、異種格闘技戦を通じた「プロレス」=「新日プロレス」最強イデオロギーの確立等々、要すればストロングスタイル。馬場に相手にしてもらえなかったことも、猪木フィルターを通せば馬場が逃げたということになります。

ある意味逆転の発想で、強さを見栄えで表現できなければ、"Truth is in the eye of the beholder."を地でいって、観客が強いと解釈する材料を与えてやればよいと。ファンにしても、見た目に釣られる全日ファンは素人、本当の強さを知っている新日ファンにしか真のプロレスはわからないと差別化ができるわけですから、この好循環で新日は全日を凌駕していったのです。

#坂口征二にもう少しアクがあって猪木の下位に甘んじることがなければ、坂口は馬場路線を継承できるだけの体格がありますから、新日・全日ともに馬場路線となり、ひょっとしたら再統合といったこともあったかもしれません。日本のプロレス界にとってはそうならなくて幸いでしたが。

その次世代を担った藤波辰爾と長州力は本来はジュニアの体格ですから、名勝負数え唄ですとか猪木越えですとか、ますますメッセージ性・物語性に依存していったわけです(長州が鶴田と60分ドローだったときの格の差は有名な話ですし、何より長州はラリアットを一撃必殺の技として確立できませんでした)。その後新日の強さの系譜は、そうしたメッセージ性をわきまえた三銃士の流れと、猪木の掌から逃れようと「革命」をこころみ打ち出した長州のハイスパートレスリングの流れに分かれることになります。

そんなプロレスラーの「強さ」は、今袋小路に入っています。四天王流は今はノアにその舞台を移していますが、秋山準以外に同レベルに追いついてくる人間が出てきませんから、三沢、小橋、秋山らが加齢によりレベルを落とさざるを得なくなったとき、今の活況も衰退せざるを得ないでしょう。ハイスパートレスリングは、結局は長州個人の世界を超えることができず、数多いそのフォロワーは彼の劣化コピーにとどまっています。

そしてメッセージによる強さの伝達は、総合格闘技と対戦して負けた段階でその正統性を失いました。メッセージにおいても、何より日本の総合格闘技ブームの発端となったグレイシー柔術のコンデコマ以来の歴史というより印象強いものをひっくり返す新ブランドはありません。武藤や蝶野のメッセージは依然としてファンを引きつけますが、それはプロレスの強さではなく彼ら個人のキャラクタを伝えるに過ぎず、プロレスというブランドの価値を維持するものではありません・・・。

Quo Vadis, Pro-wrestling?

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韓流好きなリフレ派 (2005-07-14 04:09)

大島渚が序文みたいですね。そういえば私の書いてる冬ソナ論も大島渚の出番になるわけで彼の昔の映画をみるつもりです。爆弾、冬ソナ、大島渚、50〜60年代の日本と韓国 というつながりかなあ。

bewaad (2005-07-14 07:07)

ご指摘のとおり大島監督が序文を著しています。昔の血が騒いだのでしょうか(笑)。

木村さんの本職は録音技師ということで、そちらに関連の著作もあるようですから、冬ソナ経済学的にはそれらもつながってくるのかな、とも思います。


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