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2005-07-18
■ [politics][economy][government][book]岡本全勝「地方財政改革論議」
最近地域間格差の話をよく取り上げているので、あらためて基本の勉強のためにと読んでみました。メインテーマは地方交付税で、著者は(以前当サイトで触れたこともありますが)元総務省自治財政局交付税課長というその当事者中の当事者です。
p58において地方交付税に対する主な批判が列挙され、それに対する反論ないし意見が述べられていますが、やはり地方財政問題の根本はwebmasterが言うナショナルミニマム(著者の言葉ではナショナルスタンダード)の水準をどうするかではないかとの意を強くしました。著者のまとめでは次のとおりです。
(略)地方財政計画の歳出は、その多くは国が決めた教育・福祉などの実現であり、国が期待する公共投資の実現である。基準財政需要学の水準が「高い」とするならば、国家としての福祉や教育の水準を下げ(例えば先生の数を減らすとか、給与水準を下げるとか)、国家として期待する公共投資の量を下げることである。
繰り返しになるが、地方財政計画や地方交付税(基準財政需要額)の内容は「独立変数」ではなく、国の決めたあるいは国の期待する行政内容と水準の「従属変数」の部分が大きい。
(p82)
ちなみに上記の「主な批判」は相当程度網羅的で、中には厳しい反論がなされているものもありますから(そういうものに限ってありがちなのですが(笑))、財政的な面から地方分権を考えたいのなら、事実誤認の主張を避けるためにも、目を通しておいて絶対に損はないと思います。
#現在の低成長を当然視して予算制約を語るところには疑問もありますが。
■ [media][book]北田暁大「嗤う日本の『ナショナリズム』」
本書のキーポイントとなるのは、実はあとがきのようにwebmasterは感じました。p267において著者は自らのテレビを中心としたメディア受容史を紹介した上で、それを「凡庸」「平凡」と呼ぶわけですが、著者のような経歴の人間が凡庸なわけありません(笑)。凡庸ならざる人間が自らを凡庸と位置づけ、その枠組みの妥当性を検証しようという考えが浮かばなかったところに、webmasterが見るところの本書の問題点があるように思います。
それがもっともわかりやすく示されているのが、第三章「パロディの終焉と純粋テレビ」でしょう。上記の自分史で「夕焼けニャンニャン」にはまっていたことが紹介されますが、それや「オレたちひょうきん族」「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」(おそらくこれらの番組も著者は視聴していたことでしょう)を引いて当時のお笑い番組をアイロニカルなものと分析するわけですが、著者はこれらの番組をアイロニカルだとする言説を、おそらくは自らの実体験がそれと軌を一にするだけに、無批判に受け入れてしまいます。
その前提があって、第四章において若者たちは、マスコミが提示する価値体系を十分に咀嚼したうえで自らの記号的位置を演出していくこと、つまりマスコミが演出する《秩序》のなかで位置どりすることを求められていた
80年代と、大文字の他者が制御する《秩序》からはみ出すことよりは、内輪での《繋がり》をしくじることのほうが回避されるべき事態となる
90年代半ば以降という対比(p206)が描かれているわけですが、実は80年代だってそのような「若者たち」は少数派で、ただそうした少数派の言説のみがマスメディアに載ったからこそあたかも多数派であったかのように見えるだけだったとしたらどうでしょう。
90年代半ば以降というのは、Windows 95の「95」が1995年であることが典型ですが、インターネットの興隆により、マスメディアに載らなかった言説の多くの人目に触れるチャンスが拡大していった時代でもあります。著者が見るようには「夕焼けニャンニャン」を見ていなかった人々がいたところで、80年代にはそれを知る由もなかったのが、90年代半ば以降には著者の目に留まるようになります。この仮説が正しければ、著者の見る変化は実は発見だということになります。
80年代のそうした「若者たち」が少数派であったのではないかとうかがわせるのは、本書で引用されるその人たち[引用者注:都会的センスでは唾棄の対象となる、高度経済成長期の中流家庭の象徴「花柄の魔法びん」を愛用しているような人びと]が嫌なことされた時に、代わりにちょっと守ってあげる役割ができないかなっていうのが、70年代終わってからの発想なんだ。「アルミサッシ」とかってさ、クズみたいに言われるでしょ、インテリから。(略)花柄魔法びんの味方ってほどじゃないけど、その人たちの数とか、その人たちのつけてきた垢みたいなもの考えるとさ、その分量の方が、C調なこと言ってるヤツのほうより多いわけよね
(p74)という糸井重里の発言です。
#1983年の対談でのものとのことです。なお、引用部分の「引用者」は著者です。
著者の2ちゃんねる等に対する見方が、「『アルミサッシ』とかってさ、クズみたいに」言う「インテリ」のそれと構造としては同じではないか、という思いがwebmasterにはしてならないわけです。であるなら、歴史なき時代において、ということは処方箋=思想が敗北すること‐スノッブ的否定の対象となること‐を宿命づけられた時代において、それでもなお絶望せずに思想を語り続けること。この本の記述が、そうした蛮勇を動機づける契機となってくれることを願っている
(p250)という著者の結びは、かつては思想がスノッブ的否定の対象ではなかったという過去の理想化に基づく、ナロードニキの悲劇の繰り返しに他ならないでしょう。
#繰り返す場合は喜劇と呼ぶべきでしょうか、この文脈では。
北田氏への批判、大変興味深かったです。サブカル批評を始めた頃の宮台真司に対して浅羽通明が「麻布からストレートで東大入ったという特権的な立場を相対化できていない」と批判したり、吉本隆明が丸山真男に対し「「大衆の原像」がつかめていない」と噛み付いたり(まあ彼も東京下町の職人の家庭に生まれたという経験を相対化できなかったわけですが)、といった思想史上(?)のエピソードとも通じる問題かもしれませんね。
一番念頭にあったのは、何の本かは忘れたのですが、呉智英が本を読むような連中は「読書階級」なのだ、と喝破したものです。ご案内のとおり思想関係は弱いので、実はご指摘のエピソードは初耳だったりします(笑)。
実際のところ、北田本はページが進むにしたがい、相対する見解が引用されなくなっているような気がしたのが、上記の批評のきっかけでした。