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(ここはbewaad institute@kasumigasekiの過去ログ倉庫です。コメント等は仕様上受付けを停止しておりませんが、こちらではご遠慮いただければ幸いです。何かございましたら、現行サイトにお願いいたします。)
2005-12-02
■ [government]根本病再論
「霞ヶ関構造改革・プロジェクトK」を先日取り上げた際、石橋湛山の根本病(戦前の左右両極がそれぞれ体制変革なくして社会の改善はなし得ないとして急進化したこと)に相通ずる部分があるのではないかとしたわけですが、それについてご指摘をいただきました。
しかし何ですな、読まずに言うのもあれですがいわゆる縦割りや省益至上主義の問題があるとして(bewaadさんは本当にそうなのかに疑問を呈しておられるわけですが)、「改善策として、国の総合戦略を作り、省庁間の対立を仕切る官邸直結の「総合戦略本部」設置を提言した。この本部が最も国益にかなう政策を判断し、内閣が実行を決断する形を想定する。」(asahi.com)てえ発想はどうなのかいったい。いや問題が発生するとこの種の調整機関を新設することで対処しようとする発想法の人というのがあちこちにいて(前述の「情報機関」てのも同様だと思いますが)、飽き飽きしているわけです。
というのは第一に、問題処理に関与するエージェントの数を増やすとそれだけコミュニケーションコストは増大します。一般的に問題の処理能力が投入したエージェントの数に比例してしか増加しないのに対し、コミュニケーションコストは階乗になるので、遅れかけたプロジェクトに新規の要員を送り込めば送り込むほど効率は低下していく、というのがブルックス『人月の神話』ですな。もちろんこのケースでは、エージェントは個人ではなく関与する組織なので能力は比例的にしか増大しないという仮定を単純に置くわけにもいかんのですが、しかしコミュニケーションコストの増大という効果については同様であり、そもそも問題自体が(存在するとして)調整・検討などの省庁間コミュニケーションの不足にあるのではないかと懸念されるところでそのような施策を選択すれば目も当てられないことになる。一次的な機関の調整がうまくいかないから超越的な新機関を作る、今度はその新機関との調整がうまくいかないのでさらに超越的な新々機関を作る、さらにその新々機関との調整が……以下同様と。その意味で、bewaadさんは「根本病」という位置づけですが、むしろ問題発生の根源を放置したまま解決策の改善に走る姑息療法なのかな、とも思います。
「問題発生の根源を放置したまま解決策の改善に走る姑息療法」というのは、主観と客観のずれなのかなと思います。成果を客観的に見れば「構造問題」をことさらに言挙げするあまり適切な処方箋が書けず事態を改善させられないということなのでしょうけれど、主観的にはまだまだ「構造問題」への取り組みが足りないからこそ事態が改善しないのだと。
ある意味興味深いのが、ミクロの経験則を無批判にマクロに適用する癖があるこの手の改革論者において、こと「構造改革」への取り組みについては乖離が見られる点です。ミクロでの「構造問題」は努力で解決することを称揚する(周りのせいにするな、等)一方で、マクロについては「構造改革」でなければだめで地道な努力では解決は無理だとすることが、そうした論者の中でどのように整合的に整理されているのでしょう。彼(女)らのロジックを適用するなら、「構造問題」のせいにして「努力」を怠るのは忌避すべきじゃないんですか、と(笑)。
いずれにせよ、現状への悪しき評価をすべて「構造問題」に還元し、「構造改革」したのに現状が変わらなければそれは「構造改革」が不完全だったからで完全な「構造改革」をすべきとするのは、都合のいい言い訳に逃げている面があります。大屋先生に引いていただいたように「構造問題」はしょせんは青い鳥ではないかとは思いつつ、そこは改革論者の土俵に乗るにせよ、「構造問題」が解決されない以上は何ら改善がなされなくても致し方ないと言わんばかりの議論の枠組みは、現実逃避の側面があることは否定できないでしょう。
「プロジェクトK」ホームページ読んでみました(本は取り寄せ中です)が、さっと見た限りでは、今のところは(例えば佐藤幸治などが1998年に行政改革会議最終報告書で述べた)内閣機能の強化、特に首相の指導性の強化を、より実質化したいということ以上を言っていない気がします(高橋和之・佐藤幸治「〔対談〕統治構造の変革」(ジュリスト1133号8-23頁)を参照しました)。(略)特に「根本病」と誹るようなものでもないか、と考えます。
ついでに言えば(bewaadさんはわかって述べているであろうと承知しつつ)、「プロジェクトK」の志向は、法の整合性、一貫性の確保という(いわば)コモンロー的法秩序観ではなく、社会の構造的矛盾を包括的な改革立法によってドラスティックに変革する(いわば)ホッブズ、ベンタム型法理解でしょう。(後略)
「霞ヶ関構造改革・プロジェクトK」(@断片的日乗11/29付)
実はfutagotou507さんのご指摘としては、別エントリについて論じたいのですが、それはかねてから予告のレイプハルト「民主主義対民主主義を取り上げる際にあわせてとさせていただき、今回は引用部分についてのみとさせていただきます。
で、根本病と難ずることの是非ですが、提言の内容もさることながら、incrementalismの終焉
(p31)と同書に書かれていることに代表されるような問題認識・心的態度こそが根本病ではないかと考えます。内閣機能の強化という施策が仮に正しかったとしても、それを如何に導き出したかについては議論の余地があるであろうということです。
「構造問題」ないし構造的矛盾は遍在するもので、それに対して包括的な改革立法を構ずることを最優先すべきか、それともincrementalism(漸進主義)でも相当程度のことは成し得るとして後回しにしてよいかは、結局それらがどの程度の桎梏となっているかの評価に基づいて判断されるべきでしょう。しかるに現在の日本は「構造問題」に直面しており、その解決なくしてはお先真っ暗だとアプリオリに条件付け、そこから演繹的に改革の内容を論ずる問題認識・心的態度をもって、webmasterは彼(女)らに根本病ではないかとの疑いを投げかけたいのです。
■ [BOJ]水野審議委員講演(11/30)@JCIF
中身についてはきっとbank.of.japanさんやドラめもんさんが論じてくださるでしょうから、瑣末ではありますが気になった点について。
今回の景気回復は派手さに欠けるため、金融政策の枠組み変更に対する慎重論が出ることは理解できます。しかし、戦後の歴史を振り返ると、わが国経済をソフト・ランディングさせない限り、日本銀行は政府や金融市場から批判を受ける、すなわち「結果責任」を問われています。「市場との対話」「政府との対話」の重要性は十分理解しているつもりですが、「説明責任」に余りに時間をとられ、結果的に政策転換のタイミングが遅れてしまったという結果にならないようにも気をつけたいと思います。経済合理性に合致した金利機能が働くことは、長い目でみれば、物価と金融システムの安定及び持続的な景気回復に不可欠です。また、金融サービス業の発展にもつながると強く信じています。
今後の金融経済情勢の注目点──JCIFにおける水野審議委員講演(2005年11月30日)要旨
かつて論じたことですが、やっぱり「お前らはインフレにしろっていうけど、実際インフレになってそれが批判されるとしたら、その対象はお前らじゃなくって日銀なんだからな」という気分はwebmasterの予想どおり存在するようで(笑)。いや、官僚としてそうした気分は非常によくわかるのですが、その理屈は日銀法改正につながる道だという自覚があっての愚痴(笑)でしょうか。目標の独立性は奪って手段の独立性に限定するという改正が行われれば、日銀の希望が叶いインフレになった際の批判は目標の決定者である政府に向きますが・・・。
まあしかし、このような啖呵はきちんと過去の失敗の責任をとってからにしていただきたいもので。「縛られた金融政策」で描かれたゼロ金利解除時の山口副総裁(当時)の「そうして選択された政策については、当然、日銀が責任を負うべきものである」
(pp169-170)の言葉に反して、ゼロ金利解除の責任を日銀が負ったという事実は寡聞にしてwebmasterは知らないのですが。批判されただけで責任をとったということですかそうですか。
?不良債権問題や構造問題が金融政策の効果を鈍らせている というのが本書の主要な問題意識。それゆえ本書で利用されているバーナンキ&ラインハートのゼロ金利下での金融緩和メニューも?の角度から解釈を微妙に修正されている。以下の?と?という問題意識をバーナンキらは..
>「問題発生の根源を放置したまま解決策の改善に走る姑息療法」というのは、
>主観と客観のずれなのかなと思います。
何を問題と捉えるのか、その問題発生の根源は何なのか、ある改革が部分的に有用であったとしても他の問題と比較した時の優先順位はどうなのか、などは立場や見解によって『根本』の置き所が変わって来てしまいますので、『根本病』という言葉はあまり適切でないように感じます。
bewaadさんの本来意味される所を汲むなら、『根本(問題)すりかえ病』又は『構造改革依存症』とでもされた方がよろしいかと思われます。(間違ってたら申し訳ありません)
あと、これは揚げ足取り的な雑感なのですが、前回記事で引用されていた「日本人は根本に囚われる」という考えについては、私は違和感を感じました。根本を何に置くのかで当然意見が異なってきてしまうのですが、駄文を書いてみましたのでもしご覧頂ければ幸いです。
http://plaza.rakuten.co.jp/outpostofnanasi/diary/200511290000/
こんにちわ。ねずみ王様です。ねずみなのにえらそうなこといってすみません。王様だから許してください。あの文章の裏には「日本人は革命が好きだなあ」ということなので名無之直人さんのおっしゃることとはあんまり矛盾しないかもしれないチュタよ。みんなジャコバン派大好きナリよ。うまくいくといいなりねーと本気で思うナリよ。王様は王様なので革命は困ります。
>その問題発生の根源は何なのか、ある改革が部分的に有用であったとしても他の問題と比較した時の優先順位はどうなのか、などは立場や見解によって『根本』の置き所が変わって来てしまいます
なのに、戦前なんらかの体制変革こそが『根本』の変革であって、それなくして問題の解決はないという決めつけに対して、石橋湛山は根本病と呼んでいたわけで、それを根本病と呼んでも不適切ではないと思います。
確かに、根本すり替え病とか根本決めつけ病とか呼んだ方が誤解は招きにくいかと思います。しかし、戦前の日本語としては根本病の方が普通でしょう。
まあ石橋湛山のこの記事を全文読んでいるわけではないので間違っていたらごめんなさい。
>名無之直人さん
拝読しました。もちろんある民族をひとくくりにするのは乱暴ではあるのですが、例えばお取り上げの例でいえば、実態が動いているにもかかわらず憲法改正が行われていないのも、根本病に帰せられる部分があるのではないでしょうか。
>ねずみ王様さん
先日はお騒がせ致しました。ようこそいらっしゃいませ。
根拠なく感想を垂れ流しますと、日本では革命が起こっていないからこそ憧れがつのっているという部分もあるような気がします。真の革命好きはやっぱり、何度となく「革命」と称される事態を引き起こしているフランスではないかと(笑)。
>fhvbwxさん
>まあ石橋湛山のこの記事を全文読んでいるわけではないので間違っていたらごめんなさい。
それいっしょです・・・。
>bewaadさん、湛山の記事を全文読んでもここでは意味ないのではないですか。僕は山形さんの比喩と対応させるために引用したんですから。もし湛山研究にいそしむのならお手伝いする労は惜しみませんが(^^)
>韓流好きなリフレ派さん
湛山研究は明らかに比較劣位ですので、経済学の門前小僧としては比較優位な方々にお任せして、その成果にフリーライドしたいと思います(笑)。