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2006-02-13

[economy][book]本田由紀、内藤朝雄、後藤和智「「ニート」って言うな!」

マクロ経済関係の話については「真剣中年しゃべり場」での別途の議論もありますので、ここではそれ以外の観点から論じてみたいと思います。一言で申し上げるなら、現在のニートに対する見方へ別の視座を提示するものではありますが、挑戦的に申し上げるなら同じ穴の狢に過ぎない部分が多いのではないかと。後藤さんご執筆の部分は問題ある言論への批判ということで個別問題に徹しているのでかなりの程度そこから免れていますが、残るお二方については偏ったイメージに対して別の偏ったイメージをぶつけている感があります。

まず本田先生がご執筆の部分ですが、ニートという概念の切断操作性を問題視するwebmasterからすれば、それではなぜ、「ニート」のイメージが、非常にネガティヴなものになってしまったのでしょうか。/「ニート」という言葉は、いつの間にか、「不登校」や「ひきこもり」にかなり近いイメージで語られることが増えてきていると思います。(p38)が初出でその後何度となく語られる、ニートがひきこもりと同一視されるのが問題(そしてひきこもりのイメージがネガティヴであるのは当然)だといわんばかりの姿勢には極めて強い違和感があります。

本田先生ご自身は、ueyamakzkさんのニートとひきこもりを同一カテゴリにくくることはできないのではとのご指摘に応えて次のようにおっしゃっています。

(略)ただ私は「ひきこもり」を誹る意図はまったくなかったことは述べておきたい。「ひきこもり」にせよ、また「犯罪親和層」にせよ、本人や家族に帰責したり軽蔑的に見たりする気持ちは毛頭無い。彼らが育ってくる中で多くの困難に直面し、辛い経験をしてきたであろうこと、そしてそうした状況を生み出した社会の問題に対して静かな批判を提起している存在であることは認識している。そしてそうした状態を解きほぐすためのたんねんな支援が公的に提供されることの必要性も実感している。それは文章を読んでいただければわかっていただけると思う。

「新書への反響について」(@もじれの日々2/13付)

支援を求めるというのは支援対象として画されることと裏腹の関係にあり‐だから支援を受けることによるスティグマが問題視されるわけで‐、当事者にとってもコストとベネフィットは悩ましい話であるというのに、いとも簡単に支援の必要性を認識してしまう中に本当に「誹る意図はまったくなかった」と言い得るのでしょうか。謗る意図はなくとも、(無意識にかもしれませんが)下に見ている可能性はなかったと言えるのでしょうか?

#本当になかったとしても、それを読んだ人がどう受け止めるかについてあまりに脇が甘いと思いますが。

ひきこもりの他にも、ニートの中にもこんな普通の人たちがいるといった紹介(pp102-103)がありますが、では普通の人でないニートをきちんとカテゴライズできるなら、そのカテゴリには引き続きネガティヴな見方を維持してよいのでしょうか(ネーミングは変わるにせよ)。厳しい言い方をするなら、評価は正負逆なのでしょうけれど、本田先生の文章には猪口大臣の「待ち組」論等と根を同じくするニート観があるように思えてならないのです。

続いて内藤先生がご執筆の部分ですが、本田先生以上に切断対象としてのニートを当然視しているように見えます。その上で「社畜」やら悪魔払いにふける大衆(p115)ではなくニートこそ価値ある対象と位置づけている(例えば「役に立たない」、あるいは役に立つ立たないを超えた「脱‐社会的」な人たちが一定数以上存在することは、社会がほどよく生きやすい仕方で寛容であることの指標となります(pp165,166)など)ようですが、ご自身の意図はともかく対立をより根深いものと認識させるものではないかと思います。

他方でニートの普及を投影でなく投影同一化として把握していることはどうなのでしょう。そもそもなぜ投影でなく投影同一化なのかについての論旨が不明確なまま投影同一化であることを前提に議論が進んでいるのですが、結論先にありきではないでしょうか。そもそも「悪魔祓い」は投影に典型的に見られる行動ですし、ニートとされる者の数を考えれば多くにとっては自らの子供・孫や自分自身がニートでなくてよかった、という消費・欲望のされ方をしていると考えるのが自然でしょう。「プチ徴兵制」を批判したいから投影同一化でないと困るのではありませんか?‐批判対象であるメディアと同様に。

ちなみに払えるはずもない国債(p115)との認識ですとか、14歳未満に刑法上の罰を課さないことについて有責性ではなく少年法の保護主義の問題を持ち出す(pp150-155)あたり、専門家として社会に有益なプライドのある発言をしたいという私の立場(p138)とおっしゃるならきちんと裏は取っていただきたいもので。後者について、責任能力という単語を用いている(p155)から刑法を踏まえたものとの反論があるかもしれませんが、軽微な窃盗も殺人も同一水準に配置(いっしょくたに)して、ありとあらゆる行為の責任能力を一四歳で区切る現行法に無理がある責任能力の線引きを、従来の年齢のみ(一四歳)から、年齢と行為類型の二軸から行うように、刑法を改正(p155)の辺りを見るに有責性や責任能力がなんぞやということをまるでわかっていないとしかいいようがありません。14歳で一律に責任阻却することの是非が議論になり得るのは事実ですが、非とするにそのようなロジックはご批判のメディアの論調とレベルとしては似たようなものなのですから。

本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]
ねーと (2006-02-16 15:59)

 警察官僚の知識がある上での虚偽と、無知であるゆえのマスコミの短絡をどう分けて議論するかを考えないと、「ニートとカテゴライズした上で非難する側」の全体像が曖昧にとどまってしまうと思います。たとえば自分の権益拡大のためにおかしなデータを作成する人もいれば、視聴率が上がるからニートについて過激に語らせる人もいるわけです。
たしかにマスコミのバッシングのみなら、「大衆」は排除項を見つけてスカッとするだけで済みますが、武部氏や一部官僚のようにコルホーズのような青少年育成に取り付かれている人々の「投影同一化」が大勢に影響ないとは言えません。
ところで、この両者を「ニートバッシング側」と一本化するならば、知識的にも、動機的にも異質な人々を同じ枠組みのなかに入れることになりますが、そもそも内藤さんの議論では、「さまざまに立場の違う人々の共犯関係がなければ、「ニート」という用語が定着したのか?」という点でも問題提起がなされていました。ですから、

>残るお二方については偏ったイメージに対して別の偏ったイメージをぶつけている感があります。

というように、カテゴリーを使用しただけで、あくまで対立関係が生じてしまうというwebmasterさんの考えには疑問を感じます。まるで同じカテゴリーを使用する時点で、「同じ穴の狢」になるという結論が始めから出ているかのようです。

bewaad (2006-02-17 05:40)

>ねーとさん
自分の見方が正しいと言い張る気はありませんので、あくまでこうした見方だという説明ですが。

意図や善意・悪意の違いよりも普及の背景にある構造を見るべきだと思っています。意図等について、単に分析するというのならまだしも、「『ニート』って言うな!」とその解体を狙うなら、意図等を難じても意味がないと思います。

ちなみに、
○「ニートバッシング論」と一本化していません。バッシングとアンチバッシングと違いはあれど、ニート(ないしその縮小概念)を差異化している点で同じ構造だ、ということです。
○「カテゴリーを使用しただけで、あくまで対立関係が生じてしまう」というのは本書においては実際にそうではないでしょうか。カテゴリを見出すことにはそうしたリスクが伴うところ、そこへの意味付けにおいて不用意といわざるを得ないでしょう。本件の文脈においてカテゴリを用いたいならもっと意味づけには慎重であるべきです。

本日のTrackBacks(全4件) [TrackBack URL: http://bewaad.sakura.ne.jp/tb.rb/20060213]

「ニートって言うな!」本田 由紀、内藤 朝雄、後藤 和智 共著 光文社新書2006.1 やっと読みました。著書ひとりが一部を担当し、3部編成の書。 まず第一部。本田さんが「ニート」という概念のいいかげんさ、あやうさ、政治経済的な傾きを緻密にスケッチしている。 異論が..

若い人たち自身に聞いてみても、「フリーター」に関しては共感を持っていても、「ニート」に対しては「ペット以下だ」というような言い方――これはある女子高生の言葉です((これを思い出さずにいられない。))――で、きわめて軽蔑し嫌悪するような感覚をもっている場合..

「教育の職業的意義」(本田由紀氏)を高め、制度的排除の撤廃へ向けた合理的努力を推進することは、ぜひとも必要だ。しかしそれは同時に、「職業的に社会参加すべきである」という規範のための環境を整備することでもある。▼たとえば「男女共同参画社会」は、それ自体と..

■前回・前々回の 本田氏への批判で 一応のシメにして、さきにすすもうとおもったが、実は関連する記事が かなりあることに、ようやくきづいたという、マヌケな次第(笑)。
■もう一回だけ、補足記事をまとめることにする。

■なんといっても、情報が こいのは、『npk:...


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