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2006-03-05
■ [WWW][book]梅田望夫「ウェブ進化論」
本書はご自身のblogでも有名な著者によるものですが、時代の的確な見通しに触れることには知的興奮が伴います。何がそれかと語るに先立って、3つほど引用を。
文章を書く、写真を撮る、語り・対話・議論を録音する、音楽を作る、絵を描く、ホームビデオで録画する、映像を作る。そして、その結果を皆がインターネット上に置く。ではそれで何が起こるのか。
確かにこんなことはインターネットが登場してまもない10年前から盛んに議論され、たくさんのビジネスが試されては消えていった。バブル崩壊と共に終了した第一次インターネット・ブーム時の結論は「何も起こらない」だった。「普通の人が何かを表現したって誰にも届かない」が当時の結論。でもそれは、玉石混交の厖大なコンテンツから「玉」を瞬時に選び出す技術が、当時はまだほとんど存在していなかったからである。
そこに圧倒的な技術革新が起きたために、局面は一気に動いた。「何かを表現したって誰にも届かない」という諦観は、「何かを表現すれば、それを必要とする誰かにきっと届くはず」という希望に変わろうとしている。
では、グーグルのアドセンスは何が違うのか。アドセンスのロングテール部分には「負け犬」が並んでいるのではなく、未知の可能性を持った存在が並んでいる。しかもロングテール部分に並びたければ誰でも並ぶことができる。そんな底抜けのオープンさを持つゆえ、ロングテールはさらにずっと長い。
昔であれば、そうだったかもしれない。自分の情報が届く人の範囲はたかが知れていただろう。普通の人なら、せいぜいが自費出版に、雑誌の文通欄くらいだろうか。そしてその範囲で反応がなければ、あきらめるしかなかった。もちろん、あきらめない人はいたけれど、そういう人たちもそれ以上にうつ手はほとんどなかった。
しかしインターネットという環境では、必ずしもそういう必要はない。いまアクセスしている連中には無視されたり、批判的なことを言われるかもしれない。でも否定的な意見には耳を貸さなければいい。それは聴く側がわかっていないのだ。この世のどこかには、自分のメッセージに全面的に賛成してくれる人が一人でもいるかもしれない。「ありのままの自分」を受け入れてくれる人がいるのかもしれない。そしてこれまではたぶん届くことはあり得なかった「その人」にも、潜在的にはそのメッセージが届く可能性が出ていているのだ。いかにその可能性が低くても。いまはダメでも、数パケット向こうには、まだ見ぬその人からのメッセージがやってきつつあるのかもしれない。その可能性はすごく低いけれど、決してゼロだとは断言できないのだ。
本書を既に読まれた方なら、あれっ? と感じられるかもしれません。それも当然、最初の2つは本書からの引用ですが(それぞれpp13,14、p106)、最後のもののソースは別です。何からの引用かといえば、山形浩生さんの「ネットワークのオプション価値」からです。その初出は1999年1月発刊の別冊宝島「ネット社会は心の魔窟」とのこと、実に7年前になりますが、その時点で既に本書の重要なコンセプトを喝破しています。
ではその先に何があるのか。山形さんは次のように続けています。
いつか世界の人間についてあらゆる情報がわかるようになれば、そういう期待の入り込む余地はない。自分の情報と、世界的なニーズとを照らし合わせて、ニーズがなければそれでおしまいだ。しかしながら、情報が不完全なところでは、とりあえず様子を見るというのは有効な戦略となる。そしてベースとなるアセットが不確実であればあるほと、オプションの価値はあがる。
インターネットの場合でも、可能性がゼロではない以上、そこにはオプション価値がある。その可能性をかれらがどのように判定しているのかはわからない。でもそれは、どこかでけじめをつけて検証する必要のない期待である。企業なら、どこかで「アレは成果がなくて無駄だからやめよう」という判断が下される。しかし個人ではその必要はない。いつまでもいつまでも、その期待を先送りにしていい。そしてもちろん、一部の人のように、テレビや電波経由でそうした期待に反応がかえってきてしまう人もいるのだ。したがってそのオプション価値は、いつまでも(定額で)残り続けるのだ。そしてそれは、いまのプロバイダに払う毎月数千円程度の金額に充分見合う価値なのだろう。いまのままの自分に対していずれだれかが関心をもってくれるかもしれないという期待が、そこで価値を生んでいる。満たされない(であろう)期待だけが、そこではどこまでもふくれあがり、価値として存続し続けているのだ。
人間についてすべてが知られることは(当分)ない。したがってそうしたオプション価値が、最終的にきちんと評価されることもない。ある意味でいまのネット社会と称するものは、その不確実性が産むオプション価値によって成立している。情報の伝達効率を上げるとともに、まだ自分に届いていない情報や、情報化されていない部分への期待を拡大したことでネット社会の価値が生まれている。ネガティブなフィードバックは無視すればいい。自分のほしい、都合のいいフィードバックにだけは反応すればいい。
この観察が正しいなら‐そしてwebmasterは正しいと考えています‐、本書の未来予測のうち1つは正しく当たっていて、もう1つはまったく外れています。
正しく当たっている未来予測とは、Web2.0、あるいは「あちら側」の産業としての興隆です。ウェブで表現をする者にとっての最大のニーズが可能性ないし希望、夢であるなら、Web2.0とはそのニーズを現状において最大限満たすものであるからです。ロングテイルに連なることにより見出されるかも、という欲望を糧にますます栄えていくことでしょう。
外れている未来予測とは、総表現社会の到来です。本書においても、ウェブ上の表現行為が注目を集める点に関しては甲子園出場をかけた争いに例えられたり(p15)、100人に1人という目安が示されたり(p136)しているわけで、決して「総」などではないことがわかります。都道府県予選で敗退する4,000以上の高校や、残る99人がいるのですから、それをもって「総表現社会」とは羊頭狗肉もいいところです。
人に見出されていなくても表現しているから「総表現社会」なのかと言えば、それは本書の文脈から外れるでしょう。便所の落書きやガード下の飲み屋の愚痴だって表現であることには違いなく、単に表現していることを指すのであれば、現在はおろか、ヒトが言語を使い出したときから(ラスコーやアルタミラがそれに先立つなら、その前から)「総表現社会」ということになります。
結局何が「総」かと言えば、あくまで可能性に過ぎません。それも表現者が主観的に観測する限りにおいて。主観的可能性を言い換えるなら願望ということになりましょうか。つまり未来に待つのは「総表現社会」ならぬ「総表現願望社会」、単なる表現でなくそれが他人に受け入れられることに意味があるとの点をきちんと表すなら「総受容願望社会」とでも言いましょうか。
遍在するのは願望のみであり、実際に表現が他人に見出されたという結果は偏在しているのが現実です‐そしてその現実は、時制を未来にしたところで変わるはずもありません。なぜなら表現行為のボトルネックはメディアにあるのではなく表現能力にあるからで、これだけ少年スポーツが盛んであってもプロやオリンピック選手になれる人間がほんの一握りであるように、他人の目に触れ得る表現手段を手に入れたところで、能力以上の表現ができるわけではないのです。
著者のこの読み違いはどこから来るのでしょうか。穿った見方をするなら、コンサルタントという著者の職業上の利害関係を反映して、身もふたもない事実を知らしめるより可能性を喧伝した方が儲かるからと考えられます。既述のとおりWeb2.0の利益の源泉は夢を売ることであって、現実を知らせることにはないからです。
しかしこの見方は外れているようにwebmasterは思います。それがクリアになったのは終章の次の記述を目にしたときでした。それに先立つ記述は、著者が34歳の際に社内ヴェンチャーの責任者としてアメリカに赴き様々な壁にぶち当たったというもの。
でも環境変化の中でゴチャゴチャと精一杯努力していると何とかなるのも事実だった。「捨てる神あれば拾う神あり」で、いろいろな新しい発見や予期せぬ出会いが私に新しい機会をもたらしたからだ。
三四歳のとき、もっとモノをよく知っていて、もっと客観的で、それゆえ「もう少し力をつけてからでも遅くない・・・」なんて考えて、冒険しなかったらと思うと、ぞっとする。モノが見えてなくて良かった。今、心からそう思うのだ。
p238
自分がモノが見えてなくてよかったと心からそう思うからこそ、可能性が実現する方に賭けることに高い評価を与え、他人にも薦めているのだと解すべきでしょう。先に書いたとおりそううまくはいかないということが著者だって頭ではわかっているのでしょうけれど、実感としてピンとこないからこそ得てしてそれが問題だということに意識が至らないのではないかと思われます。いみじくも本書が「こちら側」の企業の「あちら側」への理解のあり方として描いているように。
官僚さんのHPで、ロングテールの話をしていたので、少し…… 官僚さんは、梅田望夫
http://bewaad.com/20060305.html#p01 http://cruel.org/takarajima/netoption.html
書名:ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる 著者:梅田 望夫出版社:ちくま
ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる梅田 望夫 筑摩書房 2006-02-07売り上げランキング : Amazonで詳しく見る by G-Tools 今年21冊目。おススメ度★★★★★ めちゃめちゃ面白いです。皆さんもぜひ読んでください! このブログでも紹介した『アルファブロガー』と..
スポネタと違い、妄想が湧いてこないです。こういう文を拝見すると、webmaster様の脳力に圧倒されます。(日々のネタももちろん凄いですが。)
最後の34歳のとき…を見て、学生のときに眺めたサルトル?の「世界へ投企せよ」というのは、こういうことなのかなと。
以来、枠の中で十余年が経ちました…。
>sweetfishさん
過分なお言葉恐縮です。技術の話などしてもネット上に数ある議論にはるかに劣るものでしかないでしょうから、自分なりの観点を模索してみました。
楽なので :-) 引用だけです。
船曳「それ(引用者註 読む人に合わせて書くの)が本当だと思うけれど、制度の中で守られていると、誰が読むのか分からないものも書けたりするんです。要は学会誌に載れば良い。書いたという事実が残ればいいんだから。当人は、百年後にどこかの図書館で誰かが読んでくれるかもしれないという学問体系に対するロマンチックな信頼を、自分に対する言い訳として持ち続ければ良い。
だけど、オーラルで発表するためには、目の前に生身の人間がいなくちゃおかしい。そのことを学ぶというのは、生きている人間に対して話すのを学ぶ事。もし話して誰も聞いてくれなかったら、それは話す内容がまずかった訳で、いつかは誰かが自分の論文を学問として取り上げてくれるだろうというような言い訳は成り立たない。」
橋本治・船曳建夫, だから「知」ってなんなのさ - 「知の技法」をめぐってのあれこれ, 広告批評 1994/9, マドラ出版. より。
>小僧さん
学会誌といっても、これは査読のないものことでしょうし、それがネットと共通なのでしょう。
ネタに走らせていただくことにして
Web 1.0: 人工無能
Web 2.0: レギュラー先生
#思いつくのオソス orz
このネタが真実ならば、ロングテールの上位にはレギュラー先生が。という訳で違う未来が見えてくるかも...しれません。
>小僧さん
hicksianさんに無断でいぢってよいものやら迷いますねぇ(笑)。
ネタから戻りまして。上記の船曳先生の対談と同じ号から引用します。
「世界的に見ても、その種の(引用者註: アカデミックな)ジャーナリズムは、いま非常に難しい所に立っているんです。特にアメリカの大学は閉鎖的で、大学人しか読まない雑誌のなかだけで、お互いの論文を引用しあっている。(snip) それに比べれば日本のほうがまだましです。」
蓮實 重彦, いま東大で起きつつあること, 広告批評 1994/9, マドラ出版. より。
この号は「知の技法」が出版された頃のものです。他にも蓮實先生は「ファンタスム (引用者註: phantasm 幻想) に対して悪口を言っている時代は既に終わった」とも仰っていますが... 〜『あれ』から 11 年〜 いま世間を賑わしているのは...
>小僧さん
それほど学界事情に詳しくはないのですが、あちらは大学人の数が多いからそれで成り立つ(さらには英語であれば国境を楽に越えられますし)といった側面もあるのかな、と思います。
ネット界隈でことのはの話題で盛り上がるのがこの時期なのも因果でしょうか・・・。
上の実状については私も良く分かりません。とにもかくにも、メディアを以前から持っている人達に上記で引用したような病跡が見られるらしいということ。この類似として Web によって加速する「総表現社会」がロングテールに対するロマンチックな信頼と仲間内での相互引用を引き起こすとするのならば、「人の問題は個性の問題に還元されて、唯一残るのは価値だけ」(「科学」の鳥海先生の発言から)、さらにひどい言い方をすると「主義者」と自己満足の社会が見えなくもない気がします。
という訳で、まともな評価は「総表現社会」に書かせないと思われますが、それを担保する仕組みがない以上、Web の進化なるものの期待を煽るのは片手落ちで、昔の世界に向けて情報発信ブームのほうがましかもと。
#自分の運転技量に対する外部評価も無しに、気ままに自動車や自転車に乗る人がいる現状に対する恨み節を Web 上に当てはめただけにすぎませんが。 細い道で 20cm 横を 50km/h 以上で追い越されるのはいつまで経っても恐いものです。
そのような Web 2.0 に於ける評価基準を提供するものとしてレギュラー先生は良い例ではないかと。と最後はネタにw
追記
梅田氏の本は読んでいません。
>小僧さん
最後の例を借りるなら、細い道ではなく広い原っぱだから大丈夫だろうと思うか、空や海にだって航路はあると考えるかの違いなのかもしれません。