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2006-11-16
■ [history][book]黒田基樹「百姓から見た戦国大名」
戦国時代といえば、司馬遼太郎らの小説や大河ドラマにみられるように英雄浪漫譚として語られがちなのではありますが、しょせんはヒトのやること、もっと下世話で泥臭くて、でも現代から見ても等身大の世界だ、というのが本書の趣旨でしょう。改めて提示されてみれば、本書の描く戦国時代の姿は、古今東西の様々な事象と相通じるものです。
- 天変地異による飢饉等を理由とした当主交代
- フレイザー「金枝篇」が描く「王殺し」
- 刈田狼藉による収入を目的とした侵略
- 遊牧騎馬民族の活動や身代金目的の中世ヨーロッパの戦争
- 支配層・被支配層の双務関係
- 鎌倉時代の「御恩と奉公」や中世ヨーロッパの封建社会
- 支配層による紛争処理の制度化と私闘の禁止
- 穂積陳重「復讐と法律」が描く私的制裁から公的制裁への移行
#本書では、刈田狼藉による収入を目的とした侵略の延長線上に豊臣秀吉の朝鮮出兵を位置づけていますが(p58)、そうした観点にご関心の向きは、現在発売中の歴史群像12月号所収、橋場日月「"想定外"に終わった天下分け目の戦い【誤算と失策の関ヶ原】」(pp50-65)もご覧いただくことをお薦めいたします。
したがって、本書は極めて説得的な戦国時代の一面を示しているといえます。逆になぜそうした見方が今までは広まらなかったかを考えると、一つには「三国志」と「三国志演義」のように人口に膾炙する物語は往々にして史実から離れたフィクションであるということがあるでしょうけれど、より大きく影響したのは織豊政権が天下を統一したことでしょう。織豊政権は史料不足により領国支配の実態がほとんどわからないのですが、それがために勝手なことをあれこれ言う余地が大きかったわけです。
他方で後北条氏は豊富な史料が利用可能で、明治期以降研究が積み重ねられてきているわけですが、仮に後北条氏が天下を統一していれば、その実態に夢物語を仮託する余地が少なく、夢のない話(笑)が多くなっていたのかもしれません。webmasterの個人的関心をいえば、本書で描かれる後北条氏の領国支配体制は相当程度が江戸時代に受け継がれていると思うのですが、それはもともと徳川氏(さらには戦国時代のナショナルスタンダードとして他の大名)もそのような領国支配体制を布いていたのか、それともその関東移封により後北条氏のそれを摂取したのか、後者で(あり、かつ関東移封前の徳川氏の領国支配体制が織豊政権のそれに類似していたので)あるとすれば、後北条氏のそれは当時の最先端のものだったといえるのでしょうけれど、その辺りが知りたいものです。
#上記2パラグラフで触れた領国支配研究の実態については、pp141,142を参照ください。
とまあ手放しで褒めてきた本書ではありますが、ひとつ大きな疑問があります。本書によれば、戦国時代とは次のような時代だったとされます。
実際、当時の史料をみてみると、旱魃、洪水、大風などの災害をはじめ、疫病の流行、さらに飢饉を伝える記事は、際限ないほどに出てくる。そうした史料に出てくる情報に限ってみても、中世といわれる12世紀から16世紀のなかで、戦国時代といわれる15世紀後半から16世紀にかけてに、最も多くみられている(藤木久志『飢餓と戦争の戦国を行く』)。
p36
それは三代将軍家光の代のことであったが、ちょうどその頃まで、村々への実力行使の規制が繰り返し表明されているのは、このように社会が抱えていた戦争状況を反映したものとみることができる。むしろ村々の実力行使が続いていたから、社会の戦争状況が続いていた、というべきであろうか。翻って考えれば、村々が戦争するのは、慢性的飢饉のなかでの、自村の存続のためであった。そのため村々の戦争は、慢性的飢饉の克服にあわせて終息を迎えていく。人々はようやく、毎年訪れる飢餓から解放され、多くの人々が安定的に生存できる社会を創り出した。それこそが、17世紀後半の社会の歴史的段階とみることができる。
pp215,216
ところが、当時の人口についての推計からは、次のような時代であったともいえます。
16〜17世紀は、農耕の開始に次ぐ人口革命の時期である。戦国大名の規模の大きな領内開発、小農民の自立に伴う「皆婚社会」化による出生率の上昇などが主たる要因と考えられる。18世紀に入るとこうした動きは限界に達する。江戸、大坂といった新たに誕生した巨大都市は、高い未婚率と衛生状態の悪さから人口のマイナス要因となっていた(都市蟻地獄説)。
#「戦国大名の規模の大きな領内開発」については、pp132-135に興味深い記述があります。
素朴に考えれば、慢性的飢饉=供給減であるとするなら、そのような状態で人口が増えるとは理解しがたいでしょう。むしろ、人口増をもたらす要因が先に生じ(例えば上記引用中の出生率上昇)、対する相対関係として供給力がそれほどは伸びなかったからこその飢饉ではないか、という仮説の方が直観には合います。史料に様々な災害等の記録が残っているとして、それを文字通り解すべきかどうかには議論があり得るでしょう。
また、同じく人口推計より、地域別推計をみると、比較の時点が平安時代末期と関が原合戦当時でしか取れないのが残念ではありますが、戦国時代(及びそれに先立つ時代?)には畿内及びその周辺への人口集中が進んだことがわかります。農業生産力は全国一様にしか進歩しなかったと仮定すれば、このような人口移動は農業生産力要因では説明できません。
#奈良時代から平安時代にかけての変化を見れば、多少の差はあるにせよ、基本的には一様に人口が増加してきています。
室町時代といえば、商工業が盛んになり、さらには永楽通宝等の明銭の輸入により貨幣の浸透が進んだ時代です。「マネーサプライ」の増加により商工業の生産性は農業のそれを上回る伸びを見せ、さらには産品の取引も広域化したことでしょう。そうした高成長部門の集積は、当然ながら畿内その他において相対的に多く見られたと予想されます。
畿内の人口増を支えたのはおそらくはこうした勃興せる商工業がもたらす富による農産物の「輸入」ということになるでしょうけれど、であるならば、飢饉の原因は豊かな機内がその他の地域から農産物を買い集めたこと、すなわち配分の問題であったのかもしれません‐それっぽい言い方をするなら、「搾取」ということになりましょうか。あるいは旧ソ連において行われた飢餓輸出のように、度重なる戦争の費用の調達に充当されたのかもしれません(pp81,82にあるように、戦費調達は当時の惣村においても大いなる負担でした)。
さらには、18世紀には日本の人口は3,000万人強で横ばいとなるわけですが、飢餓からの解放という「17世紀後半の社会の歴史的段階」はこれとどのような関係があるのでしょうか。素人としては、ちょうど先の仮説とは逆に、人口増が止まったからこその飢餓からの解放、というマルサスの人口論的な歴史の流れが見えるようにも思えます。
以上のような議論を乗り越え、歴史人口学の知見と本書で示された戦国時代の実像が重ね合わせられたときに何が見えてくるのか、webmasterは楽しみでならないのです。
#webmasterが思いつく程度のこと、とっくに研究がなされているよ、ということでしたら、ぜひご教示いただければ幸いです。
>平安→戦国
灌漑と乾田耕作の普及で、農業技術の飛躍的に発達した時期ですね....
灌漑のある乾田は、低湿地以外の場所を水田に開墾でき、さらに低湿地より収量が多いです。必要な投資が湿田に比べでかいですけど、人口担保力はそれ以上に大きい。技術と投資が絡んでくれば資本のある場所に農業生産力も集中するのではないでしょうか?
そして、既存の湿田の権利を持っていたのが貴族で、新規開拓の資本家層が武家ですよね。
他に、花粉分析でアカマツが畿内周辺部で急増してくるのが平安頃からで、都市のエネルギーを周辺から供給する体制が整ってきた事で、都市成立が可能になってきたってのも関係するのだろうか。
エネルギーの方は
近傍での採取:すぐに生産力の限界につきあたる。
薪流通:重量あたりカロリーが低く、長距離輸送に向かないのでやがて生産力の制限につきあたる。
木炭流通:水運と組み合わせれば国内長距離輸送が可能。
と技術革新していってる感じです。
>kumakuma1967さん
やはり前近代は農業生産力が鍵になってきますよね。
エネルギの話については、長岡京・平安京遷都の一因になったともいわれていますね。
>それっぽい言い方をするなら、「搾取」ということで、になりましょうか。
「搾取」は、資本・賃労働関係にともなうもので、こうしたケースでは「収奪」といいます。まあ、一般的には、都市が農村を搾取する、先進国が第参世界を搾取するとは、いいますけれども。
近代化前史について英語書かれたものでは、この方がよく出てきます。日本の歴史学での業績評価とあわせて知りたいところですが。
http://books.google.com/books?id=COIw07Ab7Q0C&dq=%22Smith%22+%22Nakahara:+Family+Farming+and+Population+in+a+Japanese+...%22+&psp=9
http://www.historians.org/Perspectives/issues/2005/0505/0505mem7.cfm
> 素朴に考えれば、慢性的飢饉=供給減
該当書は読んでいないので、外しているかもしれませんが。貧困の共有(by 故クリフォード・ギアツ)とかもありますし、「飢え」の程度によっては、貧しいが故の人口増加もあり得るかも知れません。
また、「戦国時代といわれる15世紀後半から16世紀にかけて」と「16〜17世紀は、農耕の開始に次ぐ人口革命の時期」とでは、微妙に時代がずれていることも、けっこう大事ではないかと。
その本の後半で後北条氏が上杉謙信による武力侵攻を受けて領土が荒廃した結果、民間で選銭が厳しくなって、これまで金納だった税金を米による物納にせざるを得なかったという記述を読んで、現代の紛争でも現地貨幣が使えなくなり、アメリカドルしか使えなくなる(旧ユーゴ紛争ではドイツマルクのみ)というのと同じ感じなのだなあ、と感じました。
実際、室町時代までは農民からの税金は日本のドコでも金納で税金を納めていたのに(だから土地を表す単位が貫文)、戦国時代をくぐり抜けて、安土桃山時代になったときにはドコでも米による現物納になっていたのには、戦乱によって「中国のきちんとした貨幣しか使えなくなった」という事態が発生していたのでしょうね。
後に日本が大混乱に陥った第二次大戦終戦前後にも、大蔵省の税金査定は直接農地に行っての検見法が行われてますし。
>とおりすがりさん
まさしくご指摘のとおり、南北問題を念頭に置いていました。
>kiyoさん
情報提供ありがとうございます。自らの語学力を省みれば、しり込みしないわけではありませんが(笑)。
>中山さん
人口増減については本書で直接触れられていないので、その辺りの解明を待ち望む気分です。ポイントはおそらく16世紀をどう見るかということで、16世紀の人口増は秀吉の天下統一後の最後の数年に集中しているとすれば、9割の戦乱・飢餓+人口低成長と1割の平和+人口高成長、ということできれいに分かれていることになると思います。
>MURAJIさん
ご指摘を受けて考え直してみると、次のような可能性もあるのかな、というように思えてきます。あれこれ可能性は思いつきはしても、検証は難しいのでしょうけれども。
(1)幕府、次いで大内氏の衰亡による日明貿易衰退を受けて、明銭輸入が途絶したため、新規の貨幣供給が滞り毀損した貨幣を継続使用せざるを得なくなり、選銭へとつながっていった。
(2)農家段階で現金化してから納税となると、収穫後売却なり借金なりをしてからということになり、その間に刈田狼藉で持っていかれてしまうリスクがあるので、納税期を早めるために現物納付させて一括して現金化する手法へと変化した。