中村靖彦「牛丼・焼き鳥・アガリクス」
paco_qさんがお取り上げになられたのを見て興味が湧き購入したのですが、この興味が的中した上、さらにおまけまでついてきたという、webmaster個人にとってはとってもお得な本でした。これだけでは何がなんだかわからないでしょうけれど(笑)。
興味が湧いたというのは、著者が所属していた食品安全委員会に対する政治的圧力なるものについてです。paco_qさんは政治的圧力はなかったという著者の見解をご紹介なのですが、この政治的圧力なるものについて、webmasterは昔次のように書きました。
先日妥当ではと評した食品安全委員会プリオン専門調査会答申(webmaster注:先日取り上げたのはその原案でしたが)ですが、中西先生が不当であると評していらっしゃいます。もちろんリスク評価についてwebmasterが中西先生よりまっとうな判断ができるなどとは想像もつきませんが、どういう観点から見るかでこの評価の違いが出たかと考えれば、実はBSE問題について語られる政治的配慮とは世の中のそれとは全く逆ではないかという仮説が成り立ちます。無粋を承知で全く逆とは何かを書けば、アメリカ産牛肉は危険なのに圧力をうけ輸入再開に踏み切るという配慮ではなく、アメリカ産牛肉はそれほど危険でないにもかかわらずいかにも危険そうだといわなければならない配慮ということです。
BSE問題における「政治的配慮」とは(2005/11/11付)(webmaster注:現在、tDiaryを停止しているので、リンク先は404エラーになります。Googleキャッシュなどお使いいただければ・・・)
paco_qさんの念頭にある「政治的圧力」(当然ながら著者の念頭にも、ということになります)とは、ここでいう「アメリカ産牛肉は危険なのに圧力をうけ輸入再開に踏み切るという配慮」というものになります。そうした圧力がないとのwebmasterの予測は、とりあえず当事者の証言によって、ひとつ裏が取れたことになります。
他方で、webmasterがあると予測した方の「政治的圧力」、つまり「アメリカ産牛肉はそれほど危険でないにもかかわらずいかにも危険そうだといわなければならない配慮」が存在したかどうかですが、こうした圧力の有無について自覚的ではない著者の手になる本書においては、当然ながら直接の言及はありません。しかし、その有無を推測できそうな記述ならばありました。
たとえばBSE問題である。アメリカから輸入再開直後に入ってきた牛肉に、混じっていてはいけない脊柱が付いていた事件についてである。この件について、アメリカのジョハンズ農務長官は、受け入れがたい失敗だとしながらも、手続き、あるいは取り決めを守れなかったことが問題で、食品安全に関する事件ではないと述べた。確かに、生後四カ月半の子牛の肉では、生後20カ月齢以下を輸入再開の条件にした以上、はるかに下の月齢だし問題はないだろう。病原体プリオンが蓄積するには至らない若い牛なのである。
この考え方に、食品安全委員会の科学者たちは全面的に賛同する。(略)
(略)
もちろん、傍聴者もいる本委員会ではそんな発言はない。個人的に意見を聞けば、本音を漏らしてくれる。
全頭検査についての意見も同じである。消費者の多くが、いまだに全頭検査万能と信じているような発言をしているのが分からない、科学者である委員の何人かはこう考える。(略)
けれども庶民としては、2001年に全頭検査が始まったときに、これでBSEの牛は食卓にはのぼらない、との安心感を持ったことが忘れられない。(略)
いま、制度の上では全頭検査は必要がなくなった。実質、各都道府県は国が財政負担をして全頭検査を継続している。私自身は、この実質の継続が終わる時には、2001年の議論に関わった全ての学者、行政官が当時の状況を総括してから、新しい制度に移るべきだと考えている。このことは、この書の第一章に書いた。何故、当時科学者は沈黙していたのか。全頭検査は万全ではない、というならその時に、良心にかけて主張をすべきだった。今になって言われても不信を買うだけである。
pp225-227
当時言わなかったことを著者は問題だとされていますが、対象は関連はあれど違うものではあっても、今だって「傍聴者もいる本委員会ではそんな発言はない。個人的に意見を聞けば、本音を漏らしてくれる」ということで、つまりは言えないことには変わりはありません。そうした発言が(少なくとも公には)はばかられる状況とは、すなわちwebmasterが予測した逆向きの「政治的圧力」というものでしょう。やはりそうした「政治的圧力」はあったのだと考えられます。
続いて「おまけ」の方ですが、著者がマスメディアの人間(NHK出身)であることと大いに関係があります‐疑似科学などが議論される際に論点のひとつとなる、メディアのあり方です。著者が食品安全委員会の委員を引き受けてくれとの依頼を受けた際のやりとりが本書には掲載されています。
2003年の3月頃だったか、当時内閣府の建物にあった、食品安全委員会の準備室に私は呼ばれた。時の準備室長は、梅津準士さん、元の農林水産省畜産部長である。
梅津さんは、私に、今度発足する内閣府の食品安全委員会委員に就任して欲しいという。(略)
しかし、食品安全委員会は食品への健康への影響を科学的に評価するのが仕事だ、と私は聞いていた。私は科学者ではなく、長いことNHKの解説委員をしていたジャーナリストである。だから、私は適任ではないのではないかと思った。しかし、梅津さんは言う。
「いや、今度成立する食品安全基本法には、「委員会の役割として、国民とコミュニケーションを図るとの要素が盛り込まれるはずなんです。その仕事もあるので、是非お願いしたい」それなら少しは役に立つかな、と思ったのと、非常勤ならやや負担は軽いだろうとの思惑もあった。(後略)
p210
こうした経緯で著者が委員を引き受けた以上、webmasterの個人的価値観であれば、委員会での専門的な議論を著者が噛み砕いて非専門家にもわかるように説明する、ないしどのようにすればわかりやすい説明になるかを科学者に助言することを期待したいところです。ところが実際には、先のBSEに関する引用にあるように、非専門家を代表する形で専門家がわかりやすい説明をしない、あるいは説明をためらうことを難じているわけです。
疑似科学等の議論の際、メディアが「間違った」言説を垂れ流すことを問題視し、なぜそうなるのだろうということが議論になったりもします。多くの場合は不勉強なのだろうということになろうかと思いますが、科学部に所属する記者の大半が不勉強だというのも変な話です。当サイトでよく取り上げる経済関係の話題にしても、これだけ経済学部卒が世に送り出され、経済部の記者にも少なからずいようというにもかかわらず、なぜ教科書レベルの経済学を踏まえない報道が多くなされるのかという疑問が呈されることは、決して少なくはありません。
それに対する回答としてwebmasterが最も納得しているのは、メディアも商売であり、「売れる商品」(=視聴者・購読者が喜んで摂取する情報)を出しているのだという飯田泰之先生の見解です。納得しているなら議論は終わりということにはなるのですが、自らの知見とは異なる「売れる商品」を売るその心情がよくわかりませんでした。悔しかったり恥じ入ったりはしないものなのかなぁ、と。
本書に示された著者の次の見解を見て、その疑問が多少なりとも解消されたように思います。
マスコミは庶民感情で報道する。これまた委員会の科学者たちには反感の対象になる。彼らには、間違った報道としか映らない。マスコミの記者やライターたちも、その質は千差万別で、なかには相当ひどい勉強不足の人がいることも確かである。私は、取材する側から取材される側になったのでそのことがよく分かる。
しかし、このような人たちとも、辛抱強く付き合っていかなければならない。メディアを敵にまわして得になることは一つもない。研究者である委員たちは、公の場ではさすがに黙っているが、身内だけになると不満を遠慮なく口にする。しかしそこから生まれるものなど何もない。
委員会の科学者たちは、以前はほとんどが大学とか研究所で、いわば象牙の塔にこもっていた。消費者やマスコミ関係者との付き合いは、委員会に入って初めての人がほとんどである。だから、まだ僅か三年である。
私の場合は、ジャーナリストとして四十年ほども消費者と付き合い、自分自身マスコミの世界にいたこともあって、まぁこんなものかな、とそれほど気にすることもなかった。
(略)七人の委員がみな同じ考え方をする必要はまったくない。完璧な合理主義的な人と、私のような心情庶民派みたいな人の両方存在していることが、バランスある運営には必要と思われる。(略)そして必要なのは、相手の考え方を理解する心ではないだろうか。私のような心情庶民派は、完璧な合理主義に立つ科学者が食品安全委員会には必要だと思っている。しかし、残念なことに合理主義派は、庶民派を必ずしも尊重してはいないと見受けられる。無知でよく分からない人たちとしか見ていないように、私には感じられてならない。この意識のギャップを引きずっていたのでは、食品安全委員会は国民から遠い存在になってしまうだろう。
pp228,229
マスメディアにとって、専門家と非専門家のギャップが存在する場合、自らの使命と任ずるのはギャップを埋めることではなく、ギャップの存在を専門家に突きつけて、専門家に対して非専門家にギャップを埋めよ、そうでないと非専門家の非専門的知見が世を覆うぞと脅すことなんだなぁと。著者ひとりをもってマスメディアを代表させるのも乱暴な話ではありますが、「取材する側から取材される側になったのでそのことがよく分かる」と自認する著者にしてそうなのですから、「取材される側」になったことのない者の一般的な傾向においてをや、と考えるのはそれほど不合理なことではないでしょう。
#しかし、「公の場ではさすがに黙っているが、身内だけになると不満を遠慮なく口にする」というのは、十分「辛抱強く付き合ってい」ると思うのですが、それでは不十分であると貶される科学者出身委員のかわいそうなことといったら・・・。
webmasterの勝手な推測ではありますが、自らが身につけた専門的知見と「売れる」報道との食い違いに悩むメディア人もいるのでしょう。そこでドロップアウトするなり売れなくてもいいと開き直れば楽なのでしょうけれど、メディアの世界で飯を食い続けるなら、そのような葛藤を抱き続けていくわけにもいかないはずです。人間はそれほど強い生き物ではないのですから。そこで、自らが身につけた専門的知見が「売れる」報道にならないのは、専門的知見の担い手が怠慢であるからだ、その怠慢を正すことが自らの役割なのだというように、食い違いに対して折り合いをつける者が少なからずいる、ということになるのではないでしょうか。
専門家が十分に強ければ、そうした立ち回りで事態は改善するのかもしれません。しかしそうでないならば、専門家が非専門家に屈し非専門家の意見を正当化し、あるいは専門家からドロップアウトするという結果に終わってしまうことでしょう。医療崩壊に当たってのメディアの働きというのは、まさしくその実例ではないか、という気がwebmasterにはするのです。
