横田由美子「私が愛した官僚たち」
著者が重ねてきた「官僚たち」への取材をまとめたものですが、本書で出てくる「官僚たち」は、決して霞が関住人の多数派ではなく、霞が関から出て行った/出て行きたいと願う「官僚たち」であることに留意した上でお読みいただければ、というのが率直な感想です(そういえば、amazonに好意的な書評を寄せている海援隊さんことquecheeさんも、近頃霞が関から出て行かれたようで)。そのことに著者もある意味では自覚的で、別の意味ではまったく自覚的ではないと思わせるのが次の記述です。
彼らを取材していると、週末のスケジュールは大抵「勉強会」で埋まっていく。各省で目立つ若手が、勉強会を主催している例は本当にたくさんあるので、どれに参加するか迷うぐらいだ。(略)
(略)
しかし、外部と積極的に接触したがる割合は、全体の三割程度のようである。
先ほど私は、「これまで数百人の若手官僚に会った」と書いたが、私が会っているのはごく一部であり、全体像を捉えることなど到底できないことを認めざるを得ない。あるキャリアによると、若手は大きく三つのパターンに分かれるという。
ひとつは、霞が関の外に目を向け、積極的に情報収集をしようとする人たち。将来的にメディアで露出することや政界に打って出ることも考える、やまっ気のあるタイプが含まれる。巨大な活字で名前を刷り込んだ、政治家と見間違うような名刺を配っている官僚もいる。
一方、他人とのコミュニケーションの方法を知らない人たちも少なからずいて、彼らは内側に籠もりがちだ。このタイプは、パーティなどにはまったく顔を出さないので、ほとんど会う機会がない。広報を通じた取材でこのタイプに当たることがあるが、以外に純粋な印象を受けた。
最も問題なのは、沈黙を好むタイプだ。出世と保身しか考えず、上の顔色と人事ばかり見ていて、外部の人間に対してはひどく傲慢、不快感を与えるタイプである。”ヒラメ”と呼ばれるこの層が、霞が関では大勢なのだ。
pp9-12
ある意味では自覚的、というのは「私が会っているのはごく一部であり、全体像を捉えることなど到底できないことを認めざるを得ない」としている部分で、まったく自覚的ではない、というのは「”ヒラメ”と呼ばれるこの層が、霞が関では大勢なのだ」という部分。「広報を通じた取材」以外で著者に接するようなタイプは、その多くが「霞が関の外に目を向け、積極的に情報収集をしようとする人たち」であって、それ以外のタイプではないでしょうから、結局は著者の持つ「官僚たち」のイメージとは、「霞が関の外に目を向け、積極的に情報収集をしようとする人たち」に対して著者が抱いたものと、彼/女らの持つイメージを吹き込まれたものとの2種類が大半でしょう。
#しかし、著者の観測が正しいのであれば、霞が関(のキャリア)には3割もそっち系がいるんですねぇorz。
つまりは客観的には霞が関住人を見ることができておらず、多様なそのあり方のひとつに縛られてしまっているわけですが、その理由は著者自身がエピローグにおいて明らかにしています。
この三年にわたる取材活動は、私の自分探しの旅であったのかもしれないと思う。
私は、バランスの悪い、過剰な人間だ。
(略)
自分のバランスの悪さを補うために、私は努力した。仕事は努力した分だけ返ってくる。人に気持ちを預けすぎてしまい、その見返りを得られないときに感じる救いようのない絶望感からは逃れられる。
そして私は、バランスの悪い彼らに、どうしようもない親近感を感じてしまうのだ。
彼らと私に、大きな能力の差があることをじゅうぶん承知している。それでも、ある種のバランスの悪さを仕事に打ち込むことで解消していることは、共通している。
この取材がうんざりすることの連続であっても、彼らをどうしても嫌いになれないのはそういうわけなのである。
pp229,230
以上から察するに、バランスのとれた霞が関住人‐霞が関という職場に過剰な幻想を持たず粛々と職責を果たし(霞が関を辞めていく人々には、過剰な幻想を霞が関に抱いて就職時にキャリアを選び、それが現存しないのだと裏切られた気持ちになり、どこか別の場所にそれがあるはずと別の道を探すという傾向が、一般的には強いのだとwebmasterは思います)、プライヴェイトにおいてもごく普通に暮らしている人々‐は、著者にとって認め難い存在なのでしょう。言い換えれば、バランスのとれたある意味安穏とした生き方を認めることができず、どこかにアンバランスさを見出さざるを得ないのでしょう。
#バランスがとれていればいいとか、アンバランスが悪いとか、そういうことを申し上げたいわけではありません。為念。
あるいは、webmasterとてこのようにネットにてちんけとはいえ言論活動をしているわけで、それはある種のアンバランスさの表出ではありますが、著者と共感しあう類のアンバランスさではないわけです(少なくとも、「仕事は努力した分だけ返ってくる」なんていう楽観主義には縁遠い人間ではあります)。そうしたアンバランスさに対しても、おそらくは理解が及んでいません。それらをひっくるめたある種の理解し難い存在への評価が、「”ヒラメ”と呼ばれるこの層が、霞が関では大勢なのだ」に凝縮しているように、webmasterには見えます。
#「他人とのコミュニケーションの方法を知らない人たち」がアンバランスであることは、改めて説明するまでもないでしょう。
これらの裏返しとして、著者が親近感を感じるようなタイプの「官僚たち」については、かなりの程度その内面を探り出すことに成功しているといえるでしょう。おそらくは共依存が成立していて、その手の「官僚たち」にとっても、著者=ジャーナリスト(フリーライター)が着目したという事実により、自らの選択が間違ってなかったとの安心感を得ることができるはず。その結果、
いまにして思えば、役所の仕事は楽しかった。出てみてあらためて、役所に、いかに情報が集中していたかということを思い知らされる日々だ。役人でないと会えないような人にもたくさん会うことができた。
官庁を出てみて良かったとは、残念ながらいまはいい切れない。
正直いって、「戻れるものなら、霞が関に戻りたい」と思うこともある。
pp76,77
といった、なかなか人には言えないであろう気持ちを引き出すこともできたのでしょう。多くの場合、そうは思っていても他人に正直に打ち明けられるようなものでもないものですから。
とはいっても、例えば霞が関はダメだと吹聴する霞が関出身議員であっても、同期会などの場では「あれは選挙のための方便であって、霞が関にはいいところだっていっぱいあるけれども、そんなことを言っていては票がとれない」なんてことを言っていたりもするのが現実(笑)。どちらが彼/女らにとっての真実なのか、webmasterは知りませんが、相当程度本音を引き出しているであろう本書であっても、そのすべてではなく一部のみを切り取っているに過ぎないとは、留保をつけざるを得ないでしょう‐どんなものでもそうですから、これは当たり前の事実の確認ということですが。
