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  • 04/16/2007 (4:18 am)

    魚住昭「官僚とメディア」

    Filed under: government, book, media ::

    著者の作を読むのは「野中広務 差別と権力」に次いで2冊目なのですが、「野中広務」を読んだときに思ったとおり、著者は優秀なジャーナリストなのだな、と実感させる一冊です。検察に食い込んでいった様の描写など、プロとはかくあるべしと感心してしまいます。

    しかしながら、本書の醍醐味は、そこにはありません‐あるいは、優秀なるがゆえに著者の狙いとは違った問題をも図らずも抉り出してしまった、というべきでしょうか。つまりは、優秀である著者であっても逃れられないということから、今のマスメディアの抱える問題の深刻さがあぶりだされてくるのです。

    歴史は繰り返す

    今なおメディアの世界においては、昭和初期の全体主義体制の確立に当たって、被害者意識のみを持つ人も多いように見受けられますが。

    私がまだ共同通信の記者をやめる直前の『沈黙のファイル』の取材で、同僚と一緒に太平洋戦争開戦前夜の参謀本部作戦課の内情を調べたことがある。作戦課は陸軍大学校出身の超エリート参謀二十数人からなる陸軍の中枢機関で、国防方針に基づいて作戦計画を立案し、約四百万人の軍隊を意のままに動かした。

    その作戦課の元参謀たちに「勝ち目がないと分かっていながら、なぜ対米戦争を始めたのか」と聞いて回ったら、ある元参謀がこう答えた。

    「あなた方は我々の戦争責任を言うけれど、新聞の責任はどうなんだ。あのとき新聞の論調は我々が弱腰になることを許さなかった。我々だって新聞にたたかれたくないから強気に出る。すると新聞はさらに強気になって戦争を煽る。その繰り返しで戦争に突き進んだんだ」

    この言葉は私にとってかなり衝撃的だった。というのも、私はそれまで新聞は軍部の圧力に屈して戦争に協力させられたのだと思い込んでいたからだ。それが事実でなかったとしたら、私たちが教えられた日本のジャーナリズム史は虚構だったということになる。

    p126

    参謀に聞く前に気づけよ、という気がしないといえば嘘になりますが(笑。ついでに言えば、参謀本部作戦課が「約四百万人の軍隊を意のままに動かした」とは言いがたいことは、取材を通じて理解してほしかったような)、過ちては則ち改むるに憚ることなかれ、戦前を鑑として著者は自らの職歴を振り返ります。

    佐々木によれば、新聞の親軍的記事はすべてが強制ないし暗黙の強制によるものではなかった。誘導の効果はいくらかあったかもしれないが、もともと親軍的な記者、軍にシンパシーを抱く記者、誘導を受け容れる素地のある記者はいくらもいた。それは軍に批判的な記者や記事が存在したことと同様にまぎれもない事実だった。

    彼ら新聞記者たちは政官界の随所に濃密な人間関係を設けて食い込み、情報を物々交換することで、あるいは情報を通貨のように利用することで密着度を高めながら、実態としては情報提供者・情報幕僚として振る舞い、時としては政治ブローカーのごとき役割をも果たしていたという。

    まったくその通りだったろうと私はかなりの確信を持って言うことができる。なぜかというと、戦後の記者である私自身が検察庁に「濃密な人間関係を設けて食い込み、情報を物々交換することで、あるいは情報を通貨のように利用することで密着度を高めながら、実態としては情報提供者・情報幕僚として振る舞」っていたからだ。

    たしかに政官財界の腐敗を摘発する検察と、日本を破局に陥れた旧陸軍は違う。しかし、それは戦後の我々が陸軍を罪悪視しているだけであって、戦前・戦中の「親軍的な記者」たちにとって陸軍は今の地検特捜部のような「正義の味方」だったのだろう。

    pp127,128

    これを読めば、きちんと歴史の教訓を活かし、今後は過ちを繰り返さないのだろうな、と考えるのが自然でしょう。

    そして、昨年末に明るみに出た裁判員制度タウンミーティングの問題は、私の問題意識があながち見当外れではなかったことを示してくれた。この数年、マスコミの論調や世論がいつのまにか変わり、一昔前だったら反発を受けたに違いない国策(たとえばイラク派兵や教育基本法の改正、そしておそらくは近い将来に実現するであろう憲法改正)がすんなりと受け入れられる現象が相次いでいるが、その裏には政府や最高裁とメディアが一体となって仕掛けたプロジェクトがあったことが次第に浮かび上がってきたのである。

    p210

    結局はわかっていないんですねぇ。自らがなしたことを含め検察報道について筆者が客観的に分析可能なのも、既に筆者が検察報道に対して批判的な立場(本書に何度となく出てきます)にあるからに過ぎなかったのだとwebmasterは思わざるを得ません。軍部や検察が陰謀を企んだからといって世論を好きなように動かせるわけではないと認識しながら、ではなぜ「政府や最高裁とメディアが一体」となればそれが可能と考えるのか、単なるご都合主義を超えるものではないでしょう。

    「一昔前だったら反発を受けたに違いない国策」が「すんなりと受け入れられる現象が相次いでいる」のは、そのような陰謀論の帰結ではなく、世論が変わってきているからに他なりません。大衆の側にあると自らを位置づけておきながら、大衆から遊離している現実を直視するのは、確かに辛いことではあるでしょう。しかし、そこから逃げていては、いつまでたっても陰謀論の虜でありつづけるだろうとwebmasterは思います。ただ、対象が異なるだけで。

    報道に貴賤なし

    先の話と半ば重なりますが、仮に著者の認識が、軍部や検察だけなら世論を動かせないけれども、それにメディアが加われば動かせるというものですと、必然的にメディアの特権的能力を認めることになります。

    と同時に、これは特に朝日新聞に顕著に見られることだが、自分たちは新聞人として特権的な地位を与えられているがゆえに普通の人間よりも高い倫理性を求められている、だから疑惑を招いたり、批判を浴びたりするような行為はしてはいけないのだという、いわばノーブレス・オブリージュ論とセットで語られることが多い。

    (略)

    そもそも報道とはそれほど神聖な仕事ではなく、情報という商品を不特定多数の消費者に売る仕事にすぎない。そして、その商品の原料である一次情報の約七割(これはあくまでも私の実体験に基づく推測だが)は、官庁もしくはそれに準じる機構からただで提供されるものだ。そういう意味で報道に携わることを恥とするならともかく神聖視したり、特権視したりするいわれはまったくない。

    p172

    webmasterは、「そもそも報道とは・・・情報という商品を不特定多数の消費者に売る仕事にすぎない」との指摘こそ卓見だと思うのですが、どうやら筆者にとってはそうではないようです。多くの場合において官庁等からの情報を右から左に流すだけだから「売る仕事にすぎ」ず、「恥とす」べきものだと。逆に言えば、独自取材に基づき巨悪とやらを告発するような報道は、それを「神聖視」「特権視」と呼ぶかどうかはともかく、社会的に意義深いものだと考えているのでしょう。

    しかし、そうした報道を含め、すべての報道は「情報という商品を不特定多数の消費者に売る仕事にすぎ」ず、売れない商品は市場から退出せざるを得ません。先の例で言えば、「一昔前」の「反発」は、既にマスを対象とするものとしてはその商品価値を失ってしまっているからこそ、少数派に転落しているわけです。筆者の政治的立場には批判的なwebmasterではありますが、少なくとも筆者が現状を憂うのであれば、もう少し「商品」の売り方を考えた方がいいのでは、と老婆心ながら。

    #右から左に流す仕事を神聖視・特権視しているメディア関係者よりはましであることは否定しませんが。

    さらに付け加えるなら、現在のメディアに対して広く見られる不信感は、そうしたメディア側の姿勢がどうか以前に、メディア自身がエスタブリッシュメントの側にあると大衆が見ている(実際にそうかどうかは二の次)ことに根源があるわけで、つまりは官僚不信や政党不信と同種のエスタブリッシュメント全般に対するものの一部に過ぎません。官僚や政党は、それに有効に対処しているかどうかはさておき、少なくとも自覚はしているとは思いますが、メディアにその自覚はあるのでしょうか?

    報道の生産性

    これまた続きのような話ではありますが。

    私は読売を取材してはじめて、共同通信で起きた出来事の意味をはっきり知ることができた。もちろん共同には渡邉氏のような怪物はいない。しかし、ミニナベツネともいうべき上司なら掃いて捨てるほどいた。彼らはジャーナリズムの精神とは無縁な存在だった。彼らの害毒は一線記者たちの心を蝕み、職場の空気を荒廃させていた。

    そんな幹部連中に限って「訂正を出すな」「速報が遅い」「経費を節約しろ」と口やかましく部下たちを叱り、管理統制を強化して記者たちを萎縮させていた。おかげで社内の自由な空気は失われ、記者たちが相互に分断されて、組織全体がもの言えば唇寒しの空気に覆われるようになった。

    しかし、組織の変質を許してしまったのは他ならぬ私たちだった。私自身が上司らの理不尽な行為に遭遇したとき、彼らの責任を徹底的に追及できず、逆に泣き寝入りしてしまうことが多かった。たぶん同じようなことが他のメディアでもこの半世紀の間に何百回となく繰り返されただろう。

    そのたびに本来のジャーナリズム精神(それはとりもなおさず戦後民主主義の理念でもある)が少しずつ失われ、職場の荒廃が進み、権力の暴走をチェックする機能が衰退していったのだと思う。

    pp53,54

    辰濃の文章を読みながら、私は自分が共同通信に入社した75年当時のことを思い出した。あのころの共同通信には自由と活気があった。造反有理。部長やデスクと口論するのは当たり前だった。

    (略)

    ところが、それから20年後、私が退社するころには共同通信の空気は一変していた。もの言えば唇寒し。記者たちは一人ひとりが孤立させられて何も主張できなくなり、言いようのない虚無感と倦怠感と疲労感が職場全体を覆っていた。入社当時とはまったく別の会社になってしまったなというのが私の実感だった。

    なぜそうなったのか。自分のふがいなさを抜きにして言わせてもらえば、20年の間に2倍も3倍も仕事が忙しくなり、記者たちには考える余裕もなくなった。それと並行して「他社に抜かれるな」「訂正を出すな」「経費節減しろ」といった指令がのべつ幕なしに現場に降りてくるようになった。結局、労働強化と管理強化が組織の活力を失わせ、記者たちが本来持っているみずみずしい感性や想像力まで奪い去ってしまったのである。

    pp174,175

    このような感慨も、筆者が本当に「そもそも報道とは・・・情報という商品を不特定多数の消費者に売る仕事にすぎない」と思っているのであれば出てくるはずもありません。マスを相手に競争市場で事業を営んでいる企業であれば、欠陥品を減らす(=訂正を出すな)、ライバル社の製品に対抗する(=他社に抜かれるな)、工期を短縮する(=速報が遅い)、経費を節減するなんてことは、当たり前のように行っていることだからです(霞が関の住人に言われたくはないでしょうけれども)。

    ここでの筆者の嘆きは、端的にはラッダイト運動にも似た、資本の論理に対して古き良き牧歌的な職場環境を追憶するものに過ぎません。いくら「情報という商品を不特定多数の消費者に売る仕事」といったところで、「本来のジャーナリズム精神」「記者たちが本来持っているみずみずしい感性や想像力」などという言葉が出てくるようでは、その意味するところをわかっておらず、芸術家か何かと自らを勘違いしているのでは、と疑われて当然でしょう。

    客観的に見れば、かつての言論市場は不完全競争で、大手マスメディアはレントを享受していたがゆえに、生産性を低める要因である「本来のジャーナリズム精神」「記者たちが本来持っているみずみずしい感性や想像力」といった無駄を抱え込んでいられたのだということになります。情報流通のさまざまな流れができてくる中で、そうしたレントが失われ、他産業なみに効率化が進行していった現場が、筆者が上記引用で描いた状況なのです。

    冷たい言い方になりますが、2ちゃんねるなどでよく言われる、余計な解説はいらない、一次ソースをなるべく歪みなく知らしめることがマスメディアの役目だ、という主張は、まったくもってそのとおりだということになります。「本来のジャーナリズム精神」「記者たちが本来持っているみずみずしい感性や想像力」なるものに本当に価値があったのであれば、先にそれらを失った共同通信はとっくに倒産し、あるいは後になるまでそれを持ち続けた朝日新聞がもっと部数を伸ばしていてしかるべきなのですが、現実はそうなってはいません。

    それが、市場が出した答えなのです。

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