安倍総理の職歴と総理補佐官たちと経済財政諮問会議やその他諸々官邸系会議
権丈先生の最新の勿凝学問(77)を読んでいて、ふと思いついた話。
勿凝学問はリンク先をお読みいただくとして、webmasterの考えるきっかけとなったのは、経済財政諮問会議で社会保障に関する試算を行うという話です。権丈先生は専門家が含まれていない経済財政諮問会議でそんなことをするなんて、という部分に関心を持たれたわけですが、webmasterはそこから若干それて、ではなぜそのようなことが行われるのかに思いが至りました。
というのも、こと経済財政諮問会議に限らず、さまざまな会議が内閣官房等に設けられ、そこで従来であれば各省庁で検討されるようなテーマが検討されているというのが安倍内閣の特色のひとつといえましょう(代表的な例で言えば、教育再生会議)。ちょうど昨日付の日経金融新聞に次のような記事がありましたが、
「美しい国づくり企画会議」「アジア・ゲートウェイ戦略会議」「地方分権改革推進会議」――。安倍晋三政権のもとで発足した官邸主導会議に、霞が関の中央官庁が振り回されている。
会議を支える事務局として人員を奪われるうえ、各会議が掲げる戦略の目玉として、省庁が独自に温めてきたアイデアが吸い取られるケースが出てきたからだ。「政策を横断的に検討するはずの会議が、かえって個別の政策の検討速度を鈍らせている」との冷めた声があがっている。
(略)
それでも会議で具体的な政策立案が進めば、事務局派遣もムダではない。だが「横断的に検討する会議が多すぎ、検討課題も重複する。内容はまとまりにくい」(財務省幹部)。省庁を横断して課題の優先順位や統合計画をまとめるはずの会議そのものが、課題のすみ分けができない皮肉な状況だ。
日経金融「乱立する「首相会議」/官庁、人材取られ不満」
概ねそんなところだろうとはwebmasterも思います。先日も、
政府は19日、教育問題を議論している政府の六つの有識者会議の代表者を集めた合同会議を設置し、各会議で共通の論点となっている大学・大学院の高等教育改革をめぐる課題を集中的に議論する方針を決めた。
(略)
合同会議は教育再生会議が呼びかける形で、経済財政諮問会議、アジア・ゲートウエー戦略会議、イノベーション25戦略会議、総合科学技術会議、規制改革会議の代表者が参加する。
(略)
各会議はそれぞれの観点から大学・大学院改革の議論を行っているが、「議論の内容が重複したり、方向性が逆になりかねない懸念もある」(政府筋)のが実情だ。
(略)
このため、一部では各会議の主導権争いも絡み、議論が紛糾するのではないかとの見方も出ている。自民党内では、以前から「首相官邸に会議が多すぎてわかりにくい」との指摘があったことから、「今度の会議が取りまとめ役を担うのでなく、屋上屋を架すことにならなければいいが」「中央教育審議会(文部科学相の諮問機関)との調整も必要だろう」などと、懸念する向きもある。
というようなことがありましたが、こういうことをしている方々に霞が関の縦割りがどうのこうのといった批判はしてほしくないなぁ(笑)、という感情的な話はさておくとしても、それほど効率的に機能しているようには見えません。
この手の流れは小泉政権の頃からありましたが、小泉政権(さらに言えば、官邸機能の強化等を打ち出した橋本政権)で現状が理想に近いとの認識がありつつも、まだそこまでの機運が醸成できなかったのでやむなく諦めていたのか、それとも現状はいわば行き過ぎであるのか、webmasterは後者ではないかと思うのです。そう考える理由は、安倍総理、及び安倍政権の性質にあります。
安倍総理の職歴
安倍総理の職歴において顕著なのは、大臣ポストは官房長官しか経験しておらず、副大臣・大臣政務官ポストまで拡げても官房副長官しか経験していないということです。つまり、閣内に入ったといっても、官邸にしかいたことがないわけです。
かつては総理総裁候補の条件として枢要な大臣ポスト(外務大臣、財務(大蔵)大臣、経済産業(通商産業)大臣など)の経験があることが挙げられ、したがって総理にはそれらの経験を積んだ者が就任していました。小泉前総理はそれらのポストには就かなかったものの、厚生大臣(2回)と郵政大臣を経験しています。
大臣経験があると何がわかるか、それはいろいろとあるでしょうけれども、この文脈において重要なのは、大臣とは本当に力のあるポストであるということです。外部からは、大臣とは官僚の操り人形だなどということがよく言われますが、政策において大臣がしたいといえば、事務方はそれが法律違反でもない限りはなるべく意を叶えようとしますし、人事にしても、大臣の意向でいくらでも左右されます。
それがわかっているなら、仮に総理の指導力を高めようとした場合、各大臣をきちんとグリップした上で大所高所の指示を出し、具体的な話は各省庁においてやらせる、というやり方があることは自明です。小泉前総理にしても、道路公団や郵政公社の民営化という政権の主軸に据えた話についてはその手の会議を設け、竹中元経済財政政策担当大臣の思い入れのあるテーマ、すなわちアンチ財務省的な話を諮問会議で集中的に取り上げさせはしても、あとはそれなりに各大臣=各省庁に「丸投げ」もしていたわけです。
#竹中元大臣から与謝野前大臣への交代に伴い諮問会議の路線が変わったのは、それが小泉前総理の関心事項ではなく、竹中元大臣の関心事項だったことの表れだとwebmasterは考えています。
ところが、安倍総理は各省庁のトップとしての大臣経験がないので(官房長官は官邸(内閣官房)のナンバーツーです)、おそらくはそれが見えていません。各大臣にだって、大臣になるには政治家としてそれなりの格が求められますから、当然ながら自己の定見なりプライドなりがあり、官僚があれこれ知恵をつけられるなんてことがなくても、独自路線を求めたりもするものです。
言い換えれば、明示的な総理の指示には当然従うとしても、自らの裁量に任されたと判断すれば、なるべく自分のカラーを出そう、あるいはいちいち総理の意向を探ったりせずに判断しようとすることもあり得ます(言われていないことについても総理の真意は何かを探りその実現にできるだけ努めようとする大臣もいます。このあたりはそれぞれの人格・性格によるでしょう)。大臣経験があればその辺りの機微もわかるでしょうけれど、官邸から各大臣・各省庁を見た経験しかなければ、これらは各省庁は思ったとおりにならず、官僚が大臣を取り込んでいる印だ、と思うこともあるでしょう。
だからこそ、なるべく自らの目が直接行き届くところですべてを決したがるのではないかと、webmasterは思うのです。よくよく考えてみれば、既に引用したように、内閣官房に会議を作ったところで、その事務方になるのは官僚です。総理→各責任者→官僚という統制の仕組みは、官邸直轄であろうと各省庁であっても変わらず、違いは「各責任者」が大臣なのかそうでないのかの違いに過ぎません。にもかかわらず、「各責任者」が大臣だと官僚の操り人形に堕すというのは、大臣職の実態がわかっていないように見えるのです。
総理補佐官たち
そもそも総理補佐官を数多く置いたのも、以上のような大臣=官僚の操り人形論に影響されてのことではあったのでしょう。しかし、いったん制度が運用に移れば、当初の意図どおりには必ずしも動きません。
安倍政権での総理補佐官は、任命当時から各大臣との権限関係が不明確であること等が指摘されてきました。同じ分野で総理補佐官と各大臣とが競争するならば、各省庁という手足となる組織を持っている大臣が有利なのは当たり前のこと。自然体でいけば、明確な特命事項がない限り、総理補佐官の存在感が薄れていくのは必然です。
しかし、総理補佐官に任命された者は、それが政治家であればなおさら、そのような境遇に甘んじることはできないでしょう。いきおい、総理補佐官たちは、名が売れそうな話があればそれに飛びつき、その存在感を示そうとするでしょう‐各大臣との競争に限らず、総理補佐官同士での功名争いとしても。
まして、各省庁という執行組織を持たない総理補佐官には、ルーチンワークがありません。つまり、何か問題を見つけてきてはそれに取り組むということでもしない限り、はっきりいえば暇なわけです(笑)。功成り名を遂げた人が就く名誉職というならばさておき、総理補佐官を今後の政治家としての上昇のステップにしようと考えていれば、暇でよかったなぁ、なんて気分になるはずもありません。むしろ暇であればあるほど何かがしたくて仕方がない心理状態になっても、それは極めて自然なことでしょう。
既述のような各会議のバッティングは、それぞれが明確な統一的意図の下で立ち上げられたのであれば、おそらくは事前にきちんと担当が整理され生じないでしょう。バッティングが生じているということは、逆に明確な統一的意図がなく、まちまちに立ち上げられたことを示唆します。
結局、各大臣・各省庁相手では統制がとれず、身近な官邸勤務者であれば統制が効くとの事前の意図に反し、各補佐官がそれぞれの関心に基づいて「権限争い」(笑)を繰り広げた結果、霞が関を非難する定番のラベルである「縦割り」が霞が関以上に似つかわしくなってしまったのでしょう。かつて今村都南雄「官庁セクショナリズム」の書評で書いたように、縦割りは遍在するのであって、霞が関の病理としてのみ解されるべきものではないのです‐おそらくは、現在の官邸の混乱は、各省庁の権限争いによるそれよりも見通しが悪いものでしょう。見通しの良し悪しは、政治的にいいか悪いかには、必ずしも直結するものではないにせよ。
