安倍総理の職歴と総理補佐官たちと経済財政諮問会議やその他諸々官邸系会議
権丈先生の最新の勿凝学問(77)を読んでいて、ふと思いついた話。
勿凝学問はリンク先をお読みいただくとして、webmasterの考えるきっかけとなったのは、経済財政諮問会議で社会保障に関する試算を行うという話です。権丈先生は専門家が含まれていない経済財政諮問会議でそんなことをするなんて、という部分に関心を持たれたわけですが、webmasterはそこから若干それて、ではなぜそのようなことが行われるのかに思いが至りました。
というのも、こと経済財政諮問会議に限らず、さまざまな会議が内閣官房等に設けられ、そこで従来であれば各省庁で検討されるようなテーマが検討されているというのが安倍内閣の特色のひとつといえましょう(代表的な例で言えば、教育再生会議)。ちょうど昨日付の日経金融新聞に次のような記事がありましたが、
「美しい国づくり企画会議」「アジア・ゲートウェイ戦略会議」「地方分権改革推進会議」――。安倍晋三政権のもとで発足した官邸主導会議に、霞が関の中央官庁が振り回されている。
会議を支える事務局として人員を奪われるうえ、各会議が掲げる戦略の目玉として、省庁が独自に温めてきたアイデアが吸い取られるケースが出てきたからだ。「政策を横断的に検討するはずの会議が、かえって個別の政策の検討速度を鈍らせている」との冷めた声があがっている。
(略)
それでも会議で具体的な政策立案が進めば、事務局派遣もムダではない。だが「横断的に検討する会議が多すぎ、検討課題も重複する。内容はまとまりにくい」(財務省幹部)。省庁を横断して課題の優先順位や統合計画をまとめるはずの会議そのものが、課題のすみ分けができない皮肉な状況だ。
日経金融「乱立する「首相会議」/官庁、人材取られ不満」
概ねそんなところだろうとはwebmasterも思います。先日も、
政府は19日、教育問題を議論している政府の六つの有識者会議の代表者を集めた合同会議を設置し、各会議で共通の論点となっている大学・大学院の高等教育改革をめぐる課題を集中的に議論する方針を決めた。
(略)
合同会議は教育再生会議が呼びかける形で、経済財政諮問会議、アジア・ゲートウエー戦略会議、イノベーション25戦略会議、総合科学技術会議、規制改革会議の代表者が参加する。
(略)
各会議はそれぞれの観点から大学・大学院改革の議論を行っているが、「議論の内容が重複したり、方向性が逆になりかねない懸念もある」(政府筋)のが実情だ。
(略)
このため、一部では各会議の主導権争いも絡み、議論が紛糾するのではないかとの見方も出ている。自民党内では、以前から「首相官邸に会議が多すぎてわかりにくい」との指摘があったことから、「今度の会議が取りまとめ役を担うのでなく、屋上屋を架すことにならなければいいが」「中央教育審議会(文部科学相の諮問機関)との調整も必要だろう」などと、懸念する向きもある。
というようなことがありましたが、こういうことをしている方々に霞が関の縦割りがどうのこうのといった批判はしてほしくないなぁ(笑)、という感情的な話はさておくとしても、それほど効率的に機能しているようには見えません。
この手の流れは小泉政権の頃からありましたが、小泉政権(さらに言えば、官邸機能の強化等を打ち出した橋本政権)で現状が理想に近いとの認識がありつつも、まだそこまでの機運が醸成できなかったのでやむなく諦めていたのか、それとも現状はいわば行き過ぎであるのか、webmasterは後者ではないかと思うのです。そう考える理由は、安倍総理、及び安倍政権の性質にあります。
安倍総理の職歴
安倍総理の職歴において顕著なのは、大臣ポストは官房長官しか経験しておらず、副大臣・大臣政務官ポストまで拡げても官房副長官しか経験していないということです。つまり、閣内に入ったといっても、官邸にしかいたことがないわけです。
かつては総理総裁候補の条件として枢要な大臣ポスト(外務大臣、財務(大蔵)大臣、経済産業(通商産業)大臣など)の経験があることが挙げられ、したがって総理にはそれらの経験を積んだ者が就任していました。小泉前総理はそれらのポストには就かなかったものの、厚生大臣(2回)と郵政大臣を経験しています。
大臣経験があると何がわかるか、それはいろいろとあるでしょうけれども、この文脈において重要なのは、大臣とは本当に力のあるポストであるということです。外部からは、大臣とは官僚の操り人形だなどということがよく言われますが、政策において大臣がしたいといえば、事務方はそれが法律違反でもない限りはなるべく意を叶えようとしますし、人事にしても、大臣の意向でいくらでも左右されます。
それがわかっているなら、仮に総理の指導力を高めようとした場合、各大臣をきちんとグリップした上で大所高所の指示を出し、具体的な話は各省庁においてやらせる、というやり方があることは自明です。小泉前総理にしても、道路公団や郵政公社の民営化という政権の主軸に据えた話についてはその手の会議を設け、竹中元経済財政政策担当大臣の思い入れのあるテーマ、すなわちアンチ財務省的な話を諮問会議で集中的に取り上げさせはしても、あとはそれなりに各大臣=各省庁に「丸投げ」もしていたわけです。
#竹中元大臣から与謝野前大臣への交代に伴い諮問会議の路線が変わったのは、それが小泉前総理の関心事項ではなく、竹中元大臣の関心事項だったことの表れだとwebmasterは考えています。
ところが、安倍総理は各省庁のトップとしての大臣経験がないので(官房長官は官邸(内閣官房)のナンバーツーです)、おそらくはそれが見えていません。各大臣にだって、大臣になるには政治家としてそれなりの格が求められますから、当然ながら自己の定見なりプライドなりがあり、官僚があれこれ知恵をつけられるなんてことがなくても、独自路線を求めたりもするものです。
言い換えれば、明示的な総理の指示には当然従うとしても、自らの裁量に任されたと判断すれば、なるべく自分のカラーを出そう、あるいはいちいち総理の意向を探ったりせずに判断しようとすることもあり得ます(言われていないことについても総理の真意は何かを探りその実現にできるだけ努めようとする大臣もいます。このあたりはそれぞれの人格・性格によるでしょう)。大臣経験があればその辺りの機微もわかるでしょうけれど、官邸から各大臣・各省庁を見た経験しかなければ、これらは各省庁は思ったとおりにならず、官僚が大臣を取り込んでいる印だ、と思うこともあるでしょう。
だからこそ、なるべく自らの目が直接行き届くところですべてを決したがるのではないかと、webmasterは思うのです。よくよく考えてみれば、既に引用したように、内閣官房に会議を作ったところで、その事務方になるのは官僚です。総理→各責任者→官僚という統制の仕組みは、官邸直轄であろうと各省庁であっても変わらず、違いは「各責任者」が大臣なのかそうでないのかの違いに過ぎません。にもかかわらず、「各責任者」が大臣だと官僚の操り人形に堕すというのは、大臣職の実態がわかっていないように見えるのです。
総理補佐官たち
そもそも総理補佐官を数多く置いたのも、以上のような大臣=官僚の操り人形論に影響されてのことではあったのでしょう。しかし、いったん制度が運用に移れば、当初の意図どおりには必ずしも動きません。
安倍政権での総理補佐官は、任命当時から各大臣との権限関係が不明確であること等が指摘されてきました。同じ分野で総理補佐官と各大臣とが競争するならば、各省庁という手足となる組織を持っている大臣が有利なのは当たり前のこと。自然体でいけば、明確な特命事項がない限り、総理補佐官の存在感が薄れていくのは必然です。
しかし、総理補佐官に任命された者は、それが政治家であればなおさら、そのような境遇に甘んじることはできないでしょう。いきおい、総理補佐官たちは、名が売れそうな話があればそれに飛びつき、その存在感を示そうとするでしょう‐各大臣との競争に限らず、総理補佐官同士での功名争いとしても。
まして、各省庁という執行組織を持たない総理補佐官には、ルーチンワークがありません。つまり、何か問題を見つけてきてはそれに取り組むということでもしない限り、はっきりいえば暇なわけです(笑)。功成り名を遂げた人が就く名誉職というならばさておき、総理補佐官を今後の政治家としての上昇のステップにしようと考えていれば、暇でよかったなぁ、なんて気分になるはずもありません。むしろ暇であればあるほど何かがしたくて仕方がない心理状態になっても、それは極めて自然なことでしょう。
既述のような各会議のバッティングは、それぞれが明確な統一的意図の下で立ち上げられたのであれば、おそらくは事前にきちんと担当が整理され生じないでしょう。バッティングが生じているということは、逆に明確な統一的意図がなく、まちまちに立ち上げられたことを示唆します。
結局、各大臣・各省庁相手では統制がとれず、身近な官邸勤務者であれば統制が効くとの事前の意図に反し、各補佐官がそれぞれの関心に基づいて「権限争い」(笑)を繰り広げた結果、霞が関を非難する定番のラベルである「縦割り」が霞が関以上に似つかわしくなってしまったのでしょう。かつて今村都南雄「官庁セクショナリズム」の書評で書いたように、縦割りは遍在するのであって、霞が関の病理としてのみ解されるべきものではないのです‐おそらくは、現在の官邸の混乱は、各省庁の権限争いによるそれよりも見通しが悪いものでしょう。見通しの良し悪しは、政治的にいいか悪いかには、必ずしも直結するものではないにせよ。





4月 24th, 2007 at 7:54:23
>経済財政諮問会議に限らず、さまざまな会議が内閣官房等に設けられ、そこで従来であれば各省庁で検討されるようなテーマが検討されているというのが安倍内閣の特色のひとつといえましょう
素人の感想としては、「重要なテーマ」に絞り込んだ上で、省庁のしがらみの無い所で、「国家的見地」から議論がなされる事は必要だと思います。
次官会議と言うのがあるはずですが、ここが省庁間の調整の場でしかない(らしい)事に問題があるんじゃないですか?
各省庁の実務代表に内閣及び専門スタッフを加え、民間・学界・財界の意向や知恵を取り入れて、国家戦略や重要政策を検討する枠組みは必要だと思いますねえ。
ただし、この諮問会議とやらが国家的な視野で、中立の立場を保って意見集約が出来るか、又そもそも相応の能力を有しているかは別問題なので、特に「人選」が重要ですね。
利益誘導やインサイダー情報の悪用を考える輩は、そこいら中に居るでしょうし。
>横断的に検討する会議が多すぎ、検討課題も重複する。
教育問題などは全ての分野に関係するのである程度は致し方無いと思いますが、風呂敷を広げすぎて何一つ気の効いた成果が挙げられ無いと言うような愚行は避けて頂きたいです。
補佐官の能力に由る所も大きいと思いますが、かなり危なっかしい感じは確かにしますねえ・・・
4月 24th, 2007 at 8:54:52
諮問会議に近い人の話によると、次から次へと諮問会議に問題がふってきて、何から手をつけてよいのかわからないほどの拡散状態なんだそうです。小泉さんのときは、問題はあるにせよ、テーマが明確でしたから、運営自体はやりやすかったでしょうね(結論は決まってたわけですから)。
ところで、縦割りって大きな組織ではある程度やむを得ないんじゃないんでしょうか。専門性とうらはらの関係だと思いますから。ムダもあるけど、いい点もあるので、縦割り=悪というのは短絡的かなと思います。
4月 24th, 2007 at 9:06:36
会議なんて飾りです。エライ人にはそれがわからんのです。
重要なのは補佐官の位置付けであり、総理と大臣の職務分担でしょう。
軍の参謀は、司令官の関与するあらゆる問題について発言権を持ちますが、実務は分掌し、隷下部隊指揮官と異なって、直接指揮する部隊を持ちません。
現状では、首相にとっての補佐官を、司令官にとっての参謀と同じように位置づけることが可能かと思います。
また、総理は各省庁を直接指揮することは物理的にも不可能であることは自明です。大臣への具体的指示の在り方について、まず、補佐官達が首相に進言すべきではないでしょうか。
4月 24th, 2007 at 14:03:50
日本における官僚機構の問題点は、日本の官僚はレスポンシブルだがアカウンタブルではないことに帰結します。
ですので、有権者は、その権力を官僚に委譲(委任)することは躊躇します。
そして、徹底的にレスポンシブルになっていただかなければいけないと考えるわけです。
すなわち、官僚人事権を完全に政治家(国民代表)に掌握させるべし、と。
また、国家意思形成も、可能な限り政治家に行わせ、レスポンシブルな官僚は実行の手足に徹してもらおうと考えるに至ります。
この現状を変革したいなら、官僚機構自体がアカウンタブルになることで、国民の信頼を得るしかないでしょう。
マスコミが不勉強だとか無理解だと言っているのではアカウンタブルにはなり得ません。
不勉強なマスコミと無理解な大衆を前提に信頼を得る方法を考えなければ、官庁へのバッシングは止まないでしょう。
(いやまあ「愚痴りたいだけです」というなら、それでもいいのですが)
4月 24th, 2007 at 22:23:24
>西麻布夢彦さん
官僚は本質的に「レスポンシブル」であるものだと思いますし、日本の官僚の方々も自らを「レスポンシブルたるべし」と思っているのではないでしょうか。
他方、国民は官僚にアカウンタブルである事を望んでおり、そのギャップがバッシングを呼んでいるのではないかと私は解釈します。
官僚に権力を握っていて欲しいのに、官僚にその気がないことに対してバッシングを行っているのが今の日本の姿ではないでしょうか。
bewaadさんはむしろ「官僚人事権を掌握しきれていない政治」に対して批判的な意見を持っていると思うのですが、ピント外れでしょうか。
4月 25th, 2007 at 7:27:06
>ブヒブヒさん
「省庁のしがらみ」がクリアカットに定義できるのか、ということでしょう。どのような政策課題であれ、過去の経緯等を無視して検討が進められるはずもありませんが、どこまでが踏まえるべき過去の経緯等で、どこからは拭い去るべき「省庁のしがらみ」なのかは、実際のところは政治・政策判断そのものでしょう。そうした判断の結果、何らかの路線転換をした際に、従来の路線が事後的に「省庁のしがらみ」であったと認識されるわけで、アプリオリに定まるものではないと理解しています。
4月 25th, 2007 at 7:33:58
>e-takeuchiさん
各省庁でやっていることと同じだけのことをしよう思えば、各省庁と同様の陣容をそろえる必要があるわけで、それだけの備えがないままあれこれやらされれば、そりゃひどいことにもなるでしょうねぇ(笑)。ただこれは、大田大臣の責任でもあるでしょう。そんなにあれこれ言われても捌ききれないとはきちんと言わないと・・・って、その分だけ官邸会議が増えるだけでしょうが(笑)。
縦割りについては、私もそのような主張をしているのですが、なかなか賛同が得られませんで・・・。
4月 25th, 2007 at 7:34:36
>rijinさん
会議に巻き込まれる側の人間としては「飾り」と言い切るに心理的抵抗はありますが(笑)、ことの本質はおっしゃるとおりかと存じます。
4月 25th, 2007 at 7:35:02
>西麻布夢彦さん
官僚制が、とは言わずとも、立憲主義というか法治主義というものは、民主政と緊張関係にあるものだと認識しています。それが民主政と結託して、いわば政治家と官僚制の対立構造を仕立てて大衆の支持の元に官僚制が政治家に対抗するというのは、私はあるべき姿だとは思いません。最終的に立憲主義なり法治主義が民主政に破れていくのであれば、それはそれで歴史の流れというものなのでしょう。
4月 25th, 2007 at 7:40:47
>bn2islanderさん
良くも悪くも馘を覚悟で逆らう官僚なんてものは極少数派ですから、言うことを聞く人間をそろえるという意味では、きちんと人事権は把握しているといえるのではないでしょうか。好みの人間を集めるという意味で人事権を把握している人は少ないですが(ただし、できないのではなく、与党内のある種の暗黙の了解として、謙抑するのが慣行となっているといったものかと)、そういう把握をして欲しいと私は思いませんし、霞が関の多数派がそうではないかと思います。
4月 25th, 2007 at 8:44:04
>bn2islander様
「レスポンシブル」であるということは、結果責任を負うことと考えています。
とすれば、官僚がレスポンシブルたろうと考えるなら、スポイルドシステムを受け入れて、身分保障は放棄しなければならなくなります。
こちらのブログの論調では、官僚が結果責任を負うことは不当だと考えているように読めましたので、一方的に断罪されないようにするには、アカウンタブルになるしかないよね、と言ってみたわけです。
(正直、当事者でない私は、結果責任を粛々と引き受けて腹切ってくれるなら、それでもかまいません)
>管理人様
自由主義と民主主義は、確かに対立概念ですが、法治主義と民主主義が緊張関係になるという理論は、私には斬新に思えます。
もちろん法実証主義、すなわち帝政ドイツやナチにおける法治主義を念頭に置いているなら、法治主義と民主主義は対立します。
この法治主義は、皇帝の定めたる法は無条件に法たり得る、言い換えれば、法とは皇帝の統治意志であるという立法観が前提となっているからです。
※この意味で、現代日本国憲法は法治主義を採用していません、日本国憲法が採用しているのは「法の支配」というコモンローの概念です。
現代の大陸法体系でも、法の支配概念は修正され、法の支配とは「法律通りにやってます」という意味ではなくなっています。
管理人様の法哲学は、かなり、立法優位に立っていますが、この立法優位の思想は名誉革命期のイギリスで発展し、結果としてアメリカへの過酷な植民地支配と独立を生みました。
米国が司法権優位になっているのも、連邦政府が本質的に政府でないことも理由ですが、立法優位への不信感が根底にあります。
(独仏は立法の暴走を行政権で押さえるガバナンスを採っている)
また、立憲主義や法の支配についても、行政国家現象(官僚が国家意思形成を行うという全世界的な傾向)や政党国家現象(議会vs政府の対立ではなく、与党vs野党の対立が政治の原動力になる現象)のもと、大きな修正が求められており、アピリオリに立憲主義を賞揚できなくなっています。
(立憲主義というのは、国家対個人の関係を律する論理で中間団体の存在を予定していない。また立憲主義の目的と機能は、所詮、国家による個人の自由侵害を抑制することでしかない。この点、福祉国家現象に対応できないという構造的欠陥がある)
この現代のガバナンスの危機から、近代国家(要するに西洋先進国)では、行政権力の担い手である官僚にアカウンタビリティ(対応する日本語なし)を求めるようになっています。
単に国民代表が行政権を(形式上)掌握するのでは足りないという認識です。
官僚がアカウンタブルであるというのは、ポピュリズムに堕することを強要しているのではありません。
いわば、現代の会社経営者が、株主の理解を得た上で会社運営をするように、行政権の担い手である官僚も、主権者の理解を得て行動すべきだという話です。
(それを拒否するなら、法論理上、主権者との生の政治闘争=内乱=ビヒモスとなる)
あと、補足的に言うと、官僚がアカウンタブルになれない理由は、官僚が国民の理解力に不信感を持っている、要するに馬鹿にしているということがありますね。
そういう相互不信は、不幸でもありますし、国を滅ぼします。
4月 25th, 2007 at 8:46:03
>どこからは拭い去るべき「省庁のしがらみ」なのかは、
政策の理論的側面よりも、主に政官財の癒着利権に依る「しがらみ」を意図して書きました。
4月 25th, 2007 at 12:43:51
>rijin様
> 現状では、首相にとっての補佐官を、司令官にとっての参謀と同じように位置づけることが可能かと思います。
むしろ現状は、諮問会議を、権力の根拠があいまいなのに「現状に適合しない『実質的な命令』」をどんどん発行して作戦の崩壊を招いた旧日本軍の参謀と位置づけることも可能かと・・・。
今の自分の仕事の説明を求められたとき、歴史マニアのヒトには「インパール作戦に従軍してます」と答えてます(笑)
4月 25th, 2007 at 22:15:16
>西麻布夢彦さん
>「レスポンシブル」であるということは、
>結果責任を負うことと考えています
「レスポンシブル」であるという事は、言われたことを粛々と行うと言う事だと考えます。政治家の指示を官僚が果たさなかった場合には官僚が責任を負うべきであると考えます。
また、政治家の指示を官僚が忠実に果たしたことで悪影響が起きたのなら、それは政治家が責任を負うべきでしょうね。
4月 25th, 2007 at 22:19:45
>bewaadさん
「官僚の人事権の掌握」という言い方は間違ってました。お詫びします。
つまり、安部内閣が政府を掌握していないのではないかと思っているのです。官僚を使いこなしていないように見えますし、大臣を使いこなしていないように見えますし、内閣補佐官と大臣の関係も見えにくい者があります。
この、「官僚をつかいこなしていない」と言う意味で、「官僚の人事権を掌握していない」と言う言葉を使ったのですが、大間違いでした。
4月 25th, 2007 at 22:37:03
このエントリーに関連した話かどうか微妙ですが、飯島主席秘書官の「小泉官邸秘録」は、FACTAの紹介記事の限りでは面白そうですね。
http://facta.co.jp/article/200701043.html
4月 25th, 2007 at 22:39:33
>bn2islander様
> 言われたことを粛々と行う
> 政治家の指示を官僚が忠実に果たしたことで悪影響が起きたのなら、それは政治家が責任を負うべきでしょうね。
私は、官僚が、というか人間が、機械的・奴隷的に生きられるものだとは考えられません。
事実、歴史上、官僚組織が、そのように機械的に活動したことはありません。
機械的官僚観というのは、官僚のエクスキューズでしかないでしょう。(しかも見え透いている)
4月 26th, 2007 at 7:21:04
>西麻布夢彦さん
私自身まだあやふやなところがあり、それにお付き合いいただくのは恐縮ですが、むしろ法実証主義の方が民主政とは相性がいいといいますか、ナチス等はいわば「実装」の問題として処理できるような気がします。いわゆる「戦う民主主義」の非民主政的性格が以前はうまく整理できなかったのですが、それは実装の問題だという整理が背景にあるからこそ、原則には背馳していないということなのかなぁと。
自然法主義は、対するに自然法と主権者たる国民の意思が一致しない(「主権者たる国民の意思」が現実に認識し得るかどうかは、この際措きます)場合に自然法を優先させるわけで、こちらの方が民主政との対立構造を内包しているといえましょう。個人的には、といっても結局は「主権者たる国民の意思」が優越するのが歴史の流れだと理解していますが。何度か当サイトで書いている、私は法実証主義者だというのは、そういう趣旨です。
でまあ官僚のアカウンタビリティについては、官僚とは概念ないしは分類学上の区分ではあっても、そのように形成される集団なり組織がないので、アカウンタビリティの主体足り得ないだろうと思います。わかりやすく言えば、A省のX氏とB省のY氏には、属性としての官僚はあっても、それらを統合して何らかの意思決定なり結社性の組成なりを行うものではないわけです。A省は大臣を経由して内閣で決定される意思に統合され、議院内閣制においては結局はそれは選挙において示される有権者の集合判断に従属するわけです。それとは独立した官僚なるものの主体性とは、少なくとも何らかの責任主体として観念するには、実体がないと認識しています。
4月 26th, 2007 at 7:22:04
>ブヒブヒさん
利権構造なんてものは、共有する価値観に比べれば瑣末な話といいますか、あくまで枝葉に過ぎないと私は考えています。例えば昨今の医療崩壊問題にしても、医療側の政官学財においては、ここで医療をきちんと持続可能な形にしなければまずいという認識が(やり方をめぐる路線の相違はあれど)あり、それが例えば財政状況を重視して医療への給付を減らそうとの異なる価値観との「比較不能な価値の迷路」(by長谷部先生)における闘争につながるわけです。利権を貪る者が出てくるなんて言うのは、人間である以上確率論的に一定数は必ず存在する話で、それに厳しく対峙していくことが必要なのは当然ですが、それがあるから国益なるものに議論が収斂しないわけではありません。
言い換えれば、ある価値観を奉ずる者からすれば、自らの価値観こそが「国益」であり、それに仇なす価値観は「私益」を「国益」に優先しているように見えるわけですが、それはお互い様で、そしてそのいずれが「国益」なのかを客観的に判定する方法などありはしない、ということです。「国益」の程度を図る物差し自体が、価値観に左右されるわけですから。
4月 26th, 2007 at 7:22:37
>のんきゃりさん
それより、政治将校が大きな顔をしてのさばっていた独ソ戦初期のソ連軍の方がしっくりくるような(笑・・・えませんねぇ)。
4月 26th, 2007 at 7:25:27
>bn2islanderさん
飯島秘書官の話を含め、結局のところ安倍政権は霞が関を否定するにせよ、それにとどまってでは代わりにどうするのかというのがないのだと思います。学部学生のレポートじゃあるまいし、官僚は政治家の言うことを聞いていればよいのだ、だけでは組織は動かないわけで。局長や課長決裁の案件まで全部総理にご裁断を仰ぐこととさせていただきます、なんていわれたらどうするんでしょうかねぇ(笑)。
4月 26th, 2007 at 8:39:32
>管理人様
> 法実証主義の方が民主政とは相性がいいといいますか
ひとつ概念整理をさせていただくと、法治主義と立憲主義を同じとして議論することは違和感を感じます。法治主義というのは価値中立な形式概念ですが、立憲主義は「人権」という実質価値を根底においているからです。
あと、法治国家というときの「法治」と法治主義というときの「法治」は、微妙な差異があります。
法治主義というのは、人権は立法によってしか奪えないという意味であり、これがプロイセン(帝政ドイツ)では拡大解釈されて、人権は法によって奪えるとされました(英国では議会主権論により同じことに)。
法治国家というのは、司法・行政権の発動は立法の根拠が必要であるという国家体制をいいますので、完全に一致していません。
管理人様のおっしゃる法治主義は、法治国家の話に近い印象を受けます。(人権の話をされているようではないので)
※管理人様が、法治国家がお好きなのは、本日(4/28)のエントリーで刑法を重視されていることからもわかりますが。
自然法論への解釈については、それほど違和感を感じません。
自然法論は、立法によっても人権は奪えない(調整はできる)という論理であって、多数決でも人権は奪えないと言うところに肝があるからです。
(私自身は議会への信頼は皆無なので、民主主義など怖くてしかたない)
さて、核心はなにかといいますと、結局、法理論なんて未完成きわまりない学問ですから、あまり一つの原理(民主主義とか)にこだわらず、現実の政治主体のパワーゲームで世の中を見た方が、柔軟かつ適切な行政ができるでしょう、という話です。(民主主義なんて、所詮、手段原理でしかない)
結局のところ、官僚バッシングも、他の社会階級(階層)との権限および利益配分の争いなのですから、官僚層としては、他のどの勢力と結託して優位に立つかを考えた方が生産的でしょうね。(単独で勝てるほど政争は甘くない)
大衆に直接結びつくことが望ましくないと考えるなら、財界か外国勢力との結合しかないでしょう。
で、大衆は、官僚はすでに財界と外国の傀儡だと信じ切っている。(財界は官僚が言うことを聞かないのでいらだっている。こいつらサボタージュしやがって、とっとと構造改革しろ、と)
おそらく濡れ衣だと主張されるでしょうから、本当に濡れ衣ならアカウンタビリティを発揮して、弁明するしかないんだろうと考えています。
(まあ、孤高の道を選ぶという手もありますが、その場合は官僚へのいわれのない避難も甘受せざるを得ない)
4月 26th, 2007 at 8:44:03
あと、補足しておくと、立憲主義というのは違憲立法審査権を司法権または行政権に持たせることに、特徴があります。
つまり、法たり得ない法は無効だということです。
この憲法が不文法の場合は、成文立法が、コモンセンスによって破棄されることになります。
4月 27th, 2007 at 1:20:12
>bewaad様
>政治将校が大きな顔をしてのさばっていた独ソ戦初期のソ連軍の方がしっくりくるような
えと、彼らの主張をコミッサール風に発言すると「党(与党)と革命(行財政改革)の大義に逆らう反革命分子(抵抗勢力)め、粛清してやる!」・・・と。
ハマり過ぎです。まぢ笑えません!
4月 27th, 2007 at 7:03:50
>西麻布夢彦さん
生煮えの議論にお付き合いいただきありがとうございます。経緯論よりむしろ現代的意義に関心があるのですが、おっしゃるとおり民主的意思決定なるものが決して内容を保証しないのですが、他方でそれ以外にルールメイキングの物差しを持ち得ない現代において、統治機構がいかなるものであるべきかを考えると、立法・行政・司法とは、有権者の影響に対して異なる感応度を持たせてバランスをとっているものと再構成できるのかな、というあやふやな考えが頭の中にあるのです。
もっとも感応度の高い立法から低い司法まで、縦深防御や信玄堤ではありませんが(笑)、立法はなるべく感応度を高く、司法はなるべく低くすることで、有権者の要望を段階的に吸収して、大きく間違えることを防ぐようなものであるがために、システムとしての安定度を高めているといいますか。全体としての感応度が高くなりすぎると、全体主義的な間違いを起こしやすくなりますし、低くなりすぎると革命‐ブルジョアかプロレタリアートかはさておき(笑)‐によってひっくり返されるリスクが高くなるという中で、適度に有権者に応え、適度に有権者を無視するシステムであるという目でみると、いろいろと違ったものが見えてくるのかな、と。
本題の方につきましては、官僚とは職能集団ではあっても階層ではないと思いますが、にしてもパワーゲームの主体となるにはまずは全体を糾合して主体性を確立しなければならず、それができていない以上、主体ではないというのが現実ではないかと。ご指摘のようなことがあり得るにせよ、まずは主体性の確立から始めなければならず、でもそれは現実的ではないとも思うのです。
4月 27th, 2007 at 7:06:39
>のんきゃりさん
で、われわれソ連兵(公務員)は、タンクデサントさせられて(反論を許されず)、ドイツ軍の機動防御の真っ只中(マスメディアからの袋叩き)につっこまされ、退却しようとしても督戦兵に後ろから撃たれる(与党からの行革論の的となる)んですよ!
4月 27th, 2007 at 7:12:39
webmasterさま
全くの部外者かつ素人の分際を承知で一言。
今の諮問会議は、「美しい国づくり企画会議」「アジア・ゲートウェイ戦略会議」「地方分権改革推進会議」など、既存の官僚システムを活用して出来る事まで、官邸主導とやらで数多く手を出し過ぎの感じはします。
既存システムでは出来ない重要問題に限定して、諮問会議を活用すべきだと思います。
その最たるものが公務員改革、特に「特殊法人改革」です。
商売に譬えれば、流通の途中で高いマージンを取る、別に無くても支障の無い「卸売り問屋」が介在するようなものかと考えています。
「公共事業」と言う莫大な規模の商売には、政界財界が当然の如く接近関与そして癒着し、利権・談合の温床と化していると理解しています。
この改革などは官僚組織自ら行うのは無理でしょうから、諮問会議などの別の枠組みが必要と考えます。
勿論、政府主導だからと言って、そう簡単に国民の望むような改革が出来るとは思っていませんが。
4月 27th, 2007 at 7:21:58
>ブヒブヒさん
おそらく安倍総理の頭の中では、教育問題や憲法問題が「官僚組織自ら行うのは無理」なものと認識されていて、そこに力が入っているのだと思います。経済系の話は、おそらくは優先順位としては低く、やらないと周りから批判されるから、というものを超える動機はあまりないのだろうと推測してます。
4月 27th, 2007 at 8:16:12
なるほど、官僚階層が国民には「主体」に見えるのに対して、官僚層が一体としての主体を獲得していないことに、(世間の)議論のすれ違いの原因があるようですね。
ただ、それが「省益あって国益なし、局益あって省益なし」という、私利私欲集団に堕していると言うことなら、大問題になりますね。
官僚が職能集団で主体性がないということは、価値中立で望ましい、ということではなくて、「何をするかわからない(無原則だ)」という側面も持つので、このあたりを解消するガバナンスが必要になると思われます。
4月 28th, 2007 at 5:56:21
>西麻布夢彦さん
職能集団としての官僚を何らかの形で組織化したとしても、その組織が代表するのはあくまで当該集団の利益であって、「国益」(とは何かという議論は措くとしても)ではないでしょう。
で、組織化はされていなくとも、制度として少なくとも待遇については人事院が代弁することとされ、立法府と行政府との関係の中でその見解が政策決定プロセスを経て反映されるわけですから、身分についての統制は(その機能をどううまく活用するかという運用論はあるにせよ)存在しているわけですし、他方で政策的側面については内閣制度が整備されているわけですから、無原則だというご指摘は当たらないと考えます。