昨日の著作権侵害の非親告罪化に関連する話ですが、当サイトのエントリを含め、警察、ひいては政府を信頼しすぎではという見解がよく見られます。
#霞が関住人に向かってそんなことを言われてもなぁ(笑)。
そうした不信感が本件が問題視される根底にあるとの見方にはうなづけるものがありますが、同時に、この不信感なるもの、考え出すとよくわからない側面があります。それがもっともよくわかるのが、次のやり取りでしょう。
非親告罪にする理由 (スコア:2, すばらしい洞察)
little( (31297) のコメント: 2007年05月22日 18時28分 (#1160867)
( http://slashdot.jp/journal.pl?op=display&uid=31297 | 最新の日記: 2007年04月28日 0時15分 )
親告罪も非親告罪でも、権利者が許可したものはOK、許可して無いものはNGっていう基本は変わらない。
みんなが変に心配しているように、警察が独自に判断して捕まえても、それに対して権利者が許可出したなら、権利侵害では無くなり、捕まえ損になる。
そこで、権利者が許可を出さないようなら、警察の判断は正しかった事になる。
(略)
Anonymous Coward のコメント: 2007年05月22日 18時51分 (#1160885)
みんなが変に心配しているように、警察が独自に判断して捕まえても、それに対して権利者が許可出したなら、権利侵害では無くなり、捕まえ損になる。
反対されている方の多くが心配されているのは、まさにこの点だと思います。たとえ後で無罪放免になったとしても、逮捕は個人にとって損失です。
著作権法の「非親告罪化」が密かに進行中?/非親告罪にする理由(Slashdot)
「たとえ後で無罪放免になったとしても、逮捕は個人にとって損失です」というのは、親告罪のままの(つまりは現状の)著作権侵害についても完全に妥当します。すなわち、著作権者の告訴なくして警察が逮捕し、公判にて告訴がないことを理由に無罪放免になったとしても、逮捕が損害であるならばやっぱり問題だということに他なりません。
この、親告罪なのだから告訴がなければ逮捕されないという信頼は、非親告罪になった場合における政府(警察)への不信とは、あまりに異なるものです。同じ政府に向けられたものであるというのに、不信と信頼がこれほどの非対称性をなしているのは、それが何に由来するのか、webmasterにはよくわかりません。
若干脱線して法律論をするなら、著作者の許諾があるかどうかは罪となるべき行為の構成要件に関する話で、親告罪における告訴の有無は訴訟手続に関する話です。これらにどういう違いがあるかといえば、罪が罰せられるには、
- 何らかの行為が罪に該当するかどうか(構成要件を満たすかどうか)
- 正当防衛など、行為は罪に該当するけれども正当とされるものであるかどうか(違法性阻却事由の有無)
- 罪に該当する行為で、正当とされるべきものでもないけれども、幼児によるものなど、責任を追及できるものであるかどうか(責任阻却事由の有無)
という3つのステップを踏む必要がある、ということになっています。親告罪は、ここまでのところには関係ありませんから、罰すべき罪であるかどうかは、告訴の有無に関係なく決まる話です。たとえば、親告罪として有名なものに強姦罪がありますが、被害者が告訴しなくとも、それが罰すべき罪であることには変わりありません。ただ、裁判において被害者がより苦しむ可能性に配意して、被害者が望まなければそれを政策的に不問としているに過ぎません。
したがって、著作権者の許諾の有無は、著作権者の告訴の有無に比べて、法律的にはよほど重い話です。告訴がなくても罪ではありますが、構成要件に該当しなければ罪ではないのですから。
本題に戻ります。この非対称性の由来、法律は信頼できるけど政府は信頼できないということではありません。著作者が許諾しているのに著作権侵害にならないということも、親告罪と同様に法律に根拠を有するものです。著作者許諾に関して政府が信頼できないなら、著作者告訴についても政府が信頼できないというのでなければ整合的ではありません。
現状は信頼できるけれども新たにしようとすることは信じられないということかとも考えましたが、許諾の有無については変更はないわけで、これまた説明がつきません。許諾があれば大丈夫という点については、親告罪かどうかの扱いが変わったとしても、影響を受けないわけですから。
この違い、何が原因なんでしょうかねぇ?