大沼保昭「「慰安婦」問題とは何だったのか」
稲葉先生のご推薦を受けて読みました。結論から申し上げれば、伊勢崎賢治「武装解除」とセットで読め、ということとなります。相乗効果はてきめんでしょう。言い換えれば、伊勢崎本を読んで感銘を受けた方には、ぜひとも手に取っていただきたいのです。
なぜセットで読むことをお薦めするかといえば、これら2冊は政治の現実という同じ対象を、まったく異なる観点からそれぞれ描いたものだからです。本書は、外部から政府(や国民、とするのが正確なところですが)に対して何らかの行動を求め、それを実現する過程を描いたもの。他方で伊勢崎本は、(現地人から見れば)政権内部の人間として政策をいかに実現していくのかを描いたもの。その交点に、世の中がどのように動いているかが鮮やかに立ち表れるでしょう。
対象が同じだというだけでなく、著者の姿勢もまた共通の基盤を持ちます。つまりは徹底的なリアリストなのです。リアリストといっても人によって使われ方が違ったりもしますが、ここではwebmasterは、プライオリティを明確にし、実現すべきものは何で、実現できなくても我慢すべきは何かを冷静に判断できること、という姿を念頭に置いています。具体は本書を紐解いてもらうとしても、いわゆる評論家的な態度ではなく、何がしかを実現するとはどういうことなのか、ここまでバランスの取れた記録というのはなかなか見られません。
したがって、著者は世間的なイデオロギー分布でいえば左に属するわけですが、右の人には左にもこのような実践があると知っていただくために、左の人には自らの為してきたこと/為さんとしていることを客観的に見直す機会を得るために、いずれであっても読む価値があるものと言えましょう。右の人が左の人間の書いたことと食わず嫌いをするにはあまりにも惜しいですし、左の人が本書を読んで違和感が生じる‐というのは生ぬるいかもしれません。なんとなれば、厳しい批判が左にも向けられているのですから‐ならば、それは次への発展の契機をつかんだに等しいのだとwebmasterは思います。
webmasterにしても、著者が専門(の一部)として取り組んできた慰安婦問題について、この文脈で軽々しく意見を書くほどずうずうしくはありませんが(笑)、それ以外でも見解の相違はあります。たとえば、
戦争責任に関する日独の比較は、評価が過度の単純化に傾きがちだという点を別にすれば、当たっている点が多い。ブラント、ヴァイツゼッカーにあたる国家指導者を、戦後の日本はもつことができなかった。社会全体の非ナチ化に相当する、国民全体による戦前の体制の見直しも行わなかった。とくに1970年代以降の西ドイツにおける戦争責任の内面化の努力は、日本よりはるかに徹底したものだった。
p179
というのは、ナチスを外部に見立ててすべての責任を押し付けることにより、自己を正当化している側面を無視していますし‐仮に昭和天皇が東京裁判で死刑になっていれば、あれは天皇制が悪かったのです、もう二度と天皇制には復帰しません、との「戦争責任の内面化」が日本においても行われていたことでしょう‐、また、
法的な観点からみれば、女性国際戦犯法廷は、法定の構成をはじめ、裁判として満たさなければならない公平性の要件の欠如やその他多くの面で深刻な問題を抱えていた。また、法廷は当然のことながら国家の支持を欠き、判決を執行できない法廷だった。しかし、同法廷による審理と判決は、出席した多くの被害者に巨大なカタルシスを与え、さらにそれをニュースで知り、また出席者から聞いたほかの被害者にも大きな高揚感と満足感を与えた。
pp219, 220
というのは、かつて「法的な観点からみれば・・・多くの面で深刻な問題を抱えていた」といみじくも論じたことがある身としては、評価が逆(=カタルシスを与えたかもしれないが、あまりに法的な問題がありすぎた)だろうと思いますし、著者のたとえばクマラスワミ報告への否定的評価(pp149-151)との整合性も問われるものだといわざるを得ないでしょう。
しかし、こうした話は本書の価値を低下させるものではありません。繰り返しにはなりますが、あくまで本書は著者が現実の政治と向き合ってその重要と思うことをさまざまな困難を乗り越えて実現した記録ですし、その中には、著者がアジア女性基金以前に取り組んだ諸運動から得た反省が確かに活かされています。著者の長年にわたる政治運動経験の精華、惜しげもなく公にしてくれているのですから、それを無視するというのではあまりにもったいないのです。
なお蛇足ながら、webmaseterはアジア女性基金に寸志を出させていただいたのですが、このような整理を運営陣から示していただき、かつどのような形でお金が活かされたかを実感でき、わずかながらの協力をさせていただいた身としてうれしく思うのです。
