bewaad institute@kasumigaseki

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  • 08/09/2007 (11:38 pm)

    続・大沼本に対するApemanさんのご意見について

    Filed under: politics ::

    前回のエントリに対していただいたエントリについてです。

    というのが、このエントリに対するbewaadさんのご批判を読んで改めて考えたことです。もとのエントリ中で明記しておかなかったのはまずかったけどその後コメント欄で「私個人はといえば、大沼氏に批判されるに値しない者にすぎませんが」と補足しておいたように、私のエントリは第一義的には“大沼氏に批判された者からの反論”でも自己弁護でもありません。というのも私は大沼本における批判対象(の一つ)である左派系のアクティヴィストの一人じゃないから。(略)

    具体的な論点について。まず「では女性基金以前にどれだけのお金が届けられたのでしょう」という点。テクニカルに言えば「アジア女性基金が存在するという現実の下で左派系アクティヴィストが集めた金額のトータル」とアジア女性基金が集めた金額とを比較するのはフェアではありません。とはいえ、仮にアジア女性基金が流産したとして、その場合に左派系アクティヴィストたちが集め得たであろう金額がアジア女性基金のそれに匹敵するということは極めて考えにくいので、「より大きな額を集める」という成果を一定程度女性基金が達成したことは否定しません。しかしなぜ左派系アクティヴィストたちの集金力の弱さだけが問題にされねばならないのか? 大沼氏も「経済界からの募金」がまったく期待はずれだったことを指摘しています(39ページ)。「補償」はとりあえず脇においたとして、元慰安婦たちが経済的に苦境にあるというのなら、例えば偕行社(および水交社)や各地の戦友会などが率先して支援のためのイニシアティヴをとって然るべきではなかったのか?(略)大沼氏が「およそ学問的議論の対象にならないと考えている」と評した「慰安婦=公娼」論が国会議員の間でまかり通り、みずから”The Facts”と称しながらその実明らかな虚偽を含む意見広告にそうした議員たちが名を連ね、かつ(首相就任以前の言動から判断すれば)明らかにそうした議員に近い認識の持ち主が首相となる…といった事態を招来し許容しているこの社会のマジョリティは、大沼本において明示的な批判対象にこそなっていないものの、より大きな責任を負っているのではないのか?

    bewaadさんの表現を借りるなら「要するに結果を出さなかった左派系アクティヴィストに対して、ああすればよかったとか、こうすればよかったとか、そのような批評をするのは簡単なこと」ですが、「大沼本において批判されている左派系アクティヴィストたちがこの本をどう読むべきか」と、「その他の読者がこの本をどう読むべきか」は自ずから違ってくるだろう、ということです。

    「大沼本を「高く評価」したりするのはどのような立場から可能になるのか」(@Apes! Not Monkeys! はてな別館8/7付)

    結局のところ、Apemanさんの問題意識ををwebmasterが誤解してしまった面があると思うのですが、おそらくはApemanさんの前回のエントリにおけるご自身のご関心は、

    (略)あえて妥協した理由として大沼氏は、村山内閣の下で基金をかたちにしなければ結局なにもできなくなってしまうのではないかという危惧を挙げているが、左派の側には“自民党内閣になれば、法的拘束力のない措置など簡単に反古にされかねない”という危惧があったわけで、この危惧が杞憂でなかったことはこの数ヶ月の出来事に照らせば明らかである。アジア助成基金の活動には極めて冷淡でありながら使えるときには「実績」としてアピールし、その一方で「河野談話見直し」を狙っているのが自民党(のすべて、とは言わないがそのうちの無視できない勢力)なのであるから。大沼氏は「本書で「慰安婦=公娼」論への言及と反論がすくないのは、それをよしとしているからではなく、およそ学問的議論の対象にならないと考えているため」だとしている(ixページ)。これはこれで一つの見識だろうが、「慰安婦=公娼」論を声高に唱えないまでもそれらを許容し、あるいは放置しているこの社会の多数派の問題性は、また別の問題として考えられるべきではないだろうか。

    「「『慰安婦問題』問題」とは何だったのか(その1?)」(@Apes! Not Monkeys! はてな別館8/5付)

    の部分にあったということなのでしょう。しかしwebmasterは、むしろ女性基金よりもうまいやり方があったのでは、という批判(あるいは「左派」の弁護)として受け止め、それに対して反論してしまったわけです。前ふりと本題を取り違えてしまったのですから、話がかみ合うはずもありません。さらには、Apemanさんは大沼本の持つ、「右派」による「左派」への攻撃の材料として使われかねない可能性にも懸念をお示しですから、webmasterのあるべき「左派」の自己批判の検討は、ある意味大きなお世話(笑)という側面もあるわけです。

    しかしそうであればなおのこと、あえて「右派」による便乗の可能性に目をつぶってでも、自己批判をつきつめて欲しい気がwebmasterにはするのです。冷戦終結後に真摯な自己批判がなされなかったことが日本の左翼の退潮をもたらしたと指摘し続けているのは呉智英さんですが、それらをひっくるめて、「この社会のマジョリティ」に責任を認めようとするならば、それらから遊離してしまったことにまずは直面すべきではないでしょうか。

    #なぜ自己批判が(十分には)なされなかったかについては、思想・言論界ではマジョリティであるにもかかわらず、政治勢力としてはマイノリティだったというある種のねじれが原因かな、とは思うのですが。

    それはそれ、これはこれというのは理屈としてはそのとおりですが、その手の自らの責任を棚に上げ、他方で「この社会のマジョリティ」には責任を追及するというのでは、まずは我が身からではないか、との反発も自然なことです。呉さん流にいうなら、そうした自己批判で自壊してしまうというのなら、しょせんその程度のものだった、ということになるのでしょう。

    なお、財界や旧軍関係者の集金力については、Apemanさんの前回のエントリにて、女性基金の代替策として出されていたものについての意見だったので、webmasterの論旨とは独立した話であると認識しています。「しかしなぜ左派系アクティヴィストたちの集金力の弱さだけが問題にされねばならないのか?」と問われれば、(必然的に)そうした集金力に頼った代替策をお示しだったから、というのが答えです。

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