再説・マルクス主義2.0(中編)
前回の最後において、一部の優秀な者の成果に多数のそうでない者がぶら下がっている=優秀な者がそうでない者に搾取されている、というように理解されているのではないかと書きました。厳密に言うなら、優秀でなくてもその能力にふさわしい程度にしかお金をもらっていないならば能力相応ということなので、優秀であろうとなかろうと能力以上にお金をもらっている者が、能力以下にしかお金をもらっていない者から搾取しているということなのでしょうけれども、ここではessaさんの問題意識の文脈に沿って、平均に寄せられる‐すなわち優秀な者は概して能力以下にしかお金をもらわず、そうでない者は概して能力以上にお金をもらっている‐ものとして議論を進めます。
具体的にどのような人々が「優秀でない」とessaさんが想定されているのかはわかりませんが、たとえば柏崎刈羽原発事故について、
文系的なプレッシャーを与えたら、理系の社員には対応できないので、東電の内部では文系の社員がイニシアチブを取ることになる。技術者の正論は押しつぶされ、中古の事故物件のポンコツの原発がヨレヨレで再稼動することになる。
科学的論理的に批判し情報開示を迫り、文系の東電社員を論破して蹴散らさなくてはならない。技術のわかる人間でないと対応できないような種類の強烈なプレッシャーを東京電力にかける必要がある。そして、未確定な部分や確率を含んだ新しい品質保証の体系を引き出さなくてはならない。
この情報戦が文系同士の戦いになったら、嘘とごまかしだらけの計画書がでっち上げられ、その辻褄合わせの為に技術者がこき使われることになる。攻める側も守る側も技術者が先頭に立ち、エンジニアリングの問題として議論すべきである。
「これから柏崎刈羽で起こるクリティカルなこと」(@アンカテ(Uncategorizable Blog)8/14付)
とお書きになられていることから、「文系社員」が総じて無能にもかかわらず高い給料をもらっている人々(の一例)として認識されているのではないでしょうか。これは、輸出製造業に比して国内サービス産業の生産性が低いとか、日本のホワイトカラーは生産性が低いといった世間的によくある見方と整合的でもあります。
しかし、門倉貴史「ホワイトカラーは給料ドロボーか?」においては、マクロ的な分析によっても、個別企業のミクロ分析の積み上げであっても、日本のホワイトカラーはブルーカラーに勝るとも劣らない生産性上昇を達成していることが示されています(pp64-67)。つまり、全体として見れば、「文系社員」ないしホワイトカラーは「理系社員」ないしブルーカラーから不当に給料を簒奪しているわけではないといえます。
他方、門倉本は次のようにも指摘しています。
第1章では、日本のホワイトカラーの労働生産性が必ずしも低いとはいえないという点について論じた。
ただし、ここでいっているのはあくまでも平均的な労働生産性のことである。
当たり前のことであるが、個々のホワイトカラーについてみると、労働生産性の高い労働者もいれば、労働生産性の低い労働者もいる。生産ラインに沿って仕事をするブルーカラーの場合には、生産ラインの流れを乱す労働生産性の低い労働者はすぐに分かるので、そうした労働者は生産ラインからはじくことができる。
ところが、目に見える形のはっきりしたアウトプット(成果)がないホワイトカラーの場合には、労働生産性が高いのか低いのかが、上司や管理者からは見えづらい。そのため、ホワイトカラー層においては多くの場合、たとえそれが正社員であっても、労働生産性の高い労働者と低い労働者が混在して、ひとつの職場で働くことになる。
(略)
ここで、読者に質問をぶつけてみたい。いま、あなたが職場の部長であったとしよう。そして社長から自社の新製品に関するプレゼンテーション資料の作成依頼を受けた。あなたは、部下であるAさんとBさんのどちらにこの仕事を任せるだろうか。
Aさんは、優秀で、仕事が速いうえに間違いが少ない。ただ、今はたくさんの仕事を抱え込んでいて他の仕事をする余裕がない。
Bさんは、仕事に対する意欲がなく、仕事のペースが遅いうえに間違いも多い。ただし、今現在は、急ぎの仕事を何もかかえていない。
おそらく、Aさんに仕事を任せようと判断した読者が多いのではないだろうか。筆者も部長であれば、Aさんにプレゼンテーション資料の作成を依頼しただろう。こうした決断があらゆる場面でなされる結果、Aさんの仕事量はBさんの仕事量の何倍にも膨らんでいくことになる。
ホワイトカラーの平均的な労働生産性が低くないのは、実は一部の労働生産性の高い優秀な労働者が、やる気がなく労働生産性の低い労働者の仕事をカバーすることによって成り立っていると考えられる。
pp81-84
この指摘が正しければ、ホワイトカラーは総体としては搾取側ではなくとも、一部(平均以下という意味では、半分)のホワイトカラーは搾取側だということとなります。ブルーカラーにはそんな連中はいないので、結局はホワイトカラー側に搾取する者がいるのだと。では、正しいのでしょうか?
webmasterは正しくないと考えます。何より、いみじくも引用部において、優秀なAさんとそうでないBさんが区別できる前提で議論がされていることに明らかでしょう。「目に見える形のはっきりしたアウトプット」がなくても、ある人が「労働生産性の高い労働者と低い労働者」のいずれであるかは、いっしょに働いていればそれなりの確度で判定できるわけです‐すぐではなく数ヶ月とか1年とかはかかるかもしれませんが。
ではなぜ「労働生産性の高い労働者と低い労働者が混在して、ひとつの職場で働くことになる」のでしょうか。素直に考えれば、低い労働者を切り捨てれば平均が上がるわけですから、そちらの方が得になるわけです。中には低い労働者を見抜けない組織もあるのかもしれませんが、平均生産性の高い企業と平均生産性の低い企業とが競争すれば、当然ながら高い企業が勝ち残ります。であるなら、見抜けない組織は市場から退出せざるを得ず、結果的には見抜ける企業のみが生き残っていく、はずでしょう。
この辺りについては、先の「マルクス主義2.0」を受けてエントリを書かれた山形浩生さんが明快に理由を説明しています。
生産性の高い人だけを集めたら――気持ちはわかる。これはみんな考えることだ。まったく、オレの脚を引っ張るあいつとか、こいつとか、出張精算が10円ちがうとかで再提出を要求する経理部とか、残業や休日出勤にいちいち申請書を求めてくるXX部とか、みんなオレの生産性を下げるウンコどもばかり。こいつらがいなくなったらオレの生産性がいかに上がることか。やっても意味のない仕事を要求してくるこのクズ顧客。説明をまともに理解する能力すらなさそうなあいつとかこいつとか。なんでこんなのが給料もらっとるんじゃ! こういう連中を一網打尽でぶちころし、すっぱり話の通る、うてば響くような連中だけ集めて仕事をしたら、同じ仕事が半分以下の時間で終わりそうだ――みんながイメージするのはそういうことだ。いろんな仕事における、二八の法則というやつがある。ある集団の中では、二割の人間が八割の仕事をやっている、という説。その二割の生産性は高く、残り八割は生産性がとっても低い。実際の感覚でいうと、二割の生産性は高く、三割ほどはそこそこ、さらに三割はいなくてもいい存在で、残り二割はもう積極的に足を引っ張る足手まとい以外のなにものでもない。この最後の足手まとい二割を銃殺させてくれたら、この世は楽園と化すでありましょうぞ!
(略)
まあそこらへんは何とかごまかそう。なんでも無料でくれるほど生産性の高いはずの優秀なグーグルのプログラマたちはゴッドランドにきていただきましょうか(でも、これも実際には別にグーグルの生産性が高いからではないことくらい、わかりそうなものだけれどなあ。ソフトウェアというものの複製コストがほとんどゼロだから、というだけのことなんだけれど。Linux や GNU が無償なのは、別にかかわっているプログラマたちの生産性が異様に高いから、ではないでしょう?)。一方、いま挙げたような職種の人々は、生産性が低いのでゴッドランドには入れないことにしよう。でも……そしたら生産性が高いはずの人たちが、余計な仕事をしなきゃいけない。生産性の高い人たちだって、おいしいコーヒーが飲みたくない? 一部のプログラマはスタバなしでは生きていけないとか言ってるよ? まあぼくが(ゴッドランドに入れていただけるとして)かわりにコーヒーいれてあげてもいい。でもその分、ぼくの本来の仕事はできなくなるよ。資料を届けるのに生産性の高い高潔な特殊部隊の軍人たちがいちいち直接出向いてたら無駄でしょ。結局そんなことをしてると、生産性が高いはずの人たちの生産性も下がっちゃうのだ。するとゴッドランドも思ったほど生産性は高くならないかもしれないぞ。
こうして考え始めると、「生産性の高い人だけ集めて仕事をさせる」とかいった物言いが、だんだん意味不明になってくるだろう。実はこういうことを言う人々は、「生産性が高い」ということばの意味をきちんと考えていない。多くの人は「生産性が高い」という表現を、単に能力が高い、という意味で使っている。別にコンビニ店員をすべて排除しろといいたいわけではなく、コンビニ店員の中でも優秀な人だけを残せばいい、と。メイド喫茶だって、店のナンバーワンから上位五人くらいいればいい、と。医者や歯医者も優秀なやつだけいれば……でも、これも変でしょ。そうなったら本当に優秀な人たちが、たいしたことのない客――新入りやぼんくらでも十分こなせる相手――の対応で忙殺されることになり、その優秀性を発揮する機会はがくんと減る。するとかれらの優秀さの度合いも目立たなくなる。結局のところ「生産性の高い人/優秀な人だけを集めた世界」というのは……細かく考え始めると、実はあまり意味がないのだよ。さらに優秀な人は我の強い人も多いので、そういう人を集めるとけんかといがみあいに労力を費やしてかえって生産力が下がることも多いだろうし……
それを考えずに、人は仕事がないことに耐えられるか、一パーセントに養われる存在に甘んじられるか、という問題設定はそもそもがナンセンスだ。社会は持ちつ持たれつ、支え合うことで成立している。その一パーセントの人々が、他の人々とまったく無関係に世に必要な財やサービスを全部生産する、なんてことはあり得ないんだもん。やればできるのかもしれないけれど、それはえらく効率が悪い。いっぱい人がいるなら、優れた人が全部の仕事を一手に引き受けられたとしても、それぞれの人が自分の最も得意な部分に集中することで全体としてはいちばんいい効率が達成できる。これは経済学で最も理解しづらいとすらいわれる、比較優位という概念なんだけれど。
「ゴッドランドの経済学」(@山形浩生の「経済のトリセツ」 Formerly supported by WindowsLiveJournal8/14付)
優秀でなく生産性が低い人々であっても、それらの人々が何もしないよりは、何かをしてもらった方がいいというのは、考えてみれば当たり前の話でしょう。市場における競争が、経済学の教科書に美しく描かれる完全競争そのものではないにせよ、それなりに近似したものであるならば、そうして全体をうまくまわしていく企業こそが生き残る確率が高いわけですし、現にそうであるからこそ平均的なホワイトカラーの生産性はまんざら捨てたものではないのだとwebmasterは思います。
#先の門倉本の設問でいえば、Bさんでもできるようにブレイクダウンするなり、現にAさんがやっている仕事の中でBさんでもできそうなものをBさんに回してからAさんに新しい仕事を頼むというのがあるべき部長の働きというものでしょう‐単にAさんが優秀だからAさんに任せるなんていうのは、それこそ何の付加価値も生まない無駄飯食いです。
では、essaさんの問題意識は幻想だったのでしょうか? そうはいっても現に不公平感は存在するわけで、それを否定するのはばかげた話です。というわけで、ここで再度マルクスにご登場いただくこととしましょう。マルクスが描く搾取とは、能力(正確には労働)に見合った賃金を受け取ることができない、ということではありません。能力に応じて給料を支払いましょう、なんていう書店のビジネス書コーナーにいくらでも見られるようなありがちな話が、マルクスが見いだすまで誰も気づかなかったはずもありません。
能力に応じた賃金を受け取っていたとしても(マルクスは正統的経済学を下敷きにしていて、その含意は、能力に応じた賃金を受け取っていないなら、転職なり独立なりによって能力に応じた賃金を受け取るようになるはずで、現に労働契約を締結しているというのは、労働者が自らの労働の対価として適正と考える賃金を受け取っているからこそ働いているのだ、ということになります)、依然として搾取は存在するのだという世界観こそが、世の共産主義者を魅了してきたマルクスの世界観に他なりません。本件にその枠組みを応用した先に、新たな搾取・非搾取の関係は果たして見えてくるのでしょうか?
