「高根の花」でも問題ない?
ネットには掲載されていないのですが、基準地価に関する毎日新聞の記事の見出しにおいて、「職住近接 高根の花」というものがありました。もちろん本来は「高嶺の花」で、「嶺」が常用漢字でないがゆえの代用とされているものですが、意味が全く違うではないか、と違和感を持ちました。
たかね 0 【高▼嶺/高根】
高い峰。高い山のいただき。
「富士の―」――の花
見えてはいるが手の届かないもの。とうてい自分のものにはできないもの。
「所詮彼女は―」
高い山のいただきに見える花だからこそ意味を成すのであって、そもそも高い根って何? ということとなり、読みが同じならいいというものではないだろう、代用するなら「峰」ではないか、と思ったのです。
しかし、話はそうは単純ではありませんでした。「嶺」の「ね」とは何かを探ると、次のとおりです。
みね 2 【峰/▼嶺】
〔「み(御)」は接頭語〕
(1)山のひときわ高くなった所。山のいただき。頂上。山頂。ね。
「―から吹きおろす風」
ね 0 【▼嶺/▽峰】
山の頂。みね。
「―に立つ雲を見つつ偲はせ/万葉 3515」
つまりはもともと「ね」という大和言葉があり、それに接頭語「み」がついて「みね」となり、それに「峰(峯)」や「嶺」という漢字が当てられていることとなります。「みね」に「根」を当てるのは論外であるとしても、「ね」という大和言葉に「根」という漢字を当て、それが支那語としての「根」を超えて大和言葉の「ね」全体を表すものとして用いられていると考えられるならば、必ずしも誤用ではないと考えられるでしょう。
では、そのような用法は存在したのでしょうか?
島根県は、県成立時の県庁所在地であった郡名「島根郡(現在の松江市)」に由来する。
「島根」は、『藤原宮木簡』に「嶋根郡」とあり、『和名抄』に「島根郡」の名が見られる。
「島根」の地名は、島根半島の地形に由来し、「しまね(島嶺)」で島状の嶺となっていることからか、「しま」も「ね」も「高くなった所」の意味と考えられる。
比叡の山、比良の高根より、辛崎の松は霞をこめて、城あり、橋あり、釣たるる舟あり、笠取に通ふ木樵の声、ふもとの小田に早苗とる歌、蛍飛びかふ夕闇の空に水鶏のたたく音、美景物として足らずといふことなし。
帝、紫微の宮に坐し群仙を會して曰く東方は成果の鍾まるところ坤輿の中樞なりそれ太山を作りて永く萬邦の鎭となすべしと、一夜に大地を擘して此の不二の高根を成る、史あるの前幾千萬載斯の山既に秀でゝ靈あり、惟れ考靈帝の御宇、東海の氣漸く清明に始めて斯の山を中霄に見る、頂は分れて八峯を成しその雪を戴くが為めに宛も玉芙蓉の如し、爾來ニ千年、仰げばいや高く望めばいや尊し、歌仙も其の高きさまを歌ひ盡すこと能はず畫聖も其の尊き形を畫き盡すこと能はず、岳神は容易に秘奥の符を示さずして、唯だ人の獨詣して冥契を得るに任せ、三千年にして一人之を歌ふものあり五千年にして一人之を畫くものあるを俟つ
いずれも当然ながら常用(当用)漢字制定前の用例ですから、冒頭の文脈でいう代用がなされた結果ではありません。もちろん表意文字である漢字を用いる以上意味の合致する「高嶺」を用いることが望ましいにせよ、「高根」もまた日本語における漢字表記としては、誤用であるとはいえないというのが実態ということになるのでしょう。
