責任主義の再検討?
薬害肝炎訴訟の和解協議をめぐり福田康夫首相は23日、原告側が求める被害者の「全員一律救済」を盛り込んだ法案を今国会に議員立法で提出する考えを明らかにした。首相官邸で記者団に語った。大阪高裁で行われている和解協議が難航しており、政治主導で問題解決を目指すことを決意した。原告側は「大きな一歩、問題解決につながることを期待する」との声明を発表した。首相が「一律救済」を決断したことで、肝炎問題は解決に向け、新たな局面に入った。
薬害問題そのものは、政治判断ですから官僚が口を出すのも僭越な話です(明らかな問題がある、というのでない限り)。他方、本件が今後どのような影響をもたらすかについては、少し触れておきたい問題があります。それがタイトルに掲げた責任主義の話です。
責任主義とはどちらかといえば刑事において広く用いられ、他方で本件は民事に属する事柄ではあります。しかしながら、ちょうど今年大いに話題になったとある件‐それは刑事の問題です‐においてwebmasterは気になることがあり、それとの連想で、実は今は、近代法の基本原理のひとつである責任主義が見直されつつある時期なのではないか、と大風呂敷を広げてみるのです。
責任主義とは、責任を追及されるに足る主体であるからこそ責任を追及するのだということで、故意と過失の違い(殺そうと思って人を死に至らしめた者と、殺す気はなかったのに結果的に人を死に至らしめた者とでは、前者をより責任が重いとします)もそうですし、故意がないどころか過失もないようであれば、どれだけひどい結果をもたらそうとも、刑事上はなんら罪とは認識されません。民事上も基本は同じで、俗に損害賠償・慰謝料請求として報道されるほとんどは民事上の不法行為ですが、故意または過失による損害の発生が基本的前提となります。
さて、「今年大いに話題になったとある件」とは、先ごろ大阪府知事選挙への出馬を表明した橋下弁護士による光市・母子殺害事件弁護団を対象とした懲戒請求の煽動のことです。弁護士懲戒制度の趣旨に照らせば、この煽動が批判されるべきなのは明らかですが、この事案が一筋縄ではいかないのは、
- 彼の煽動に反応した人々が決して少なくないこと
- 多くの者の感情から乖離した法制度は維持不可能であるとの彼の見解そのものは、当を得たものであること
の2点です。
前者についていえば、本件において直接問題視されているのは、弁護団が最高裁において一審・二審の主張とは異なる主張をしているということですが、そのような訴訟の実態は本件についてのみ観察されるものではありません。弁護団が主張を変えたからといって多くの人々が憤るのでしたら、世にこの手の懲戒話があふれているはずです。にもかかわらず本件においてこのような広がりを見せたのは、その主張に刑法第39条が絡んでくるから、平たく言えば心身喪失・耗弱者がテーマだからだとwebmasterは認識しています。
後者についていえば、まさしく本件において実現されたことで、故意又は過失による損害を賠償するとの民法上の原則は、原告のみならず多くの者の感情から乖離したがゆえに維持されず、過失責任と無過失責任とを分け隔てなく取り扱う立法がなされようとしています。光市の事件は司法判断であり立法行為と同一には論じられませんが、政府の判断の前提となったのは司法判断ですから、同根から発しています。仮に司法が自らの判断が立法によって覆されると予測し、それを回避したいのであれば、判断を枉げるより他ありません(本件で言えば、判例に照らせば過失とは認定できないようなものをも過失と認定して、無過失責任による賠償との結果は回避する、ということとなります)。
光市事件にかんがみれば、本件の延長線上に刑法第39条の削除、ないし実質的に骨抜きにする立法が来たとしても不思議ではないでしょう。最近、とりわけネット上などで多く見られる同種の問題として、少年法(正確には刑法第41条の責任能力年齢規定)にまつわる議論があります。これらは、刑法学説としてはいずれも責任主義に基づき設けられたものという点で共通し、なぜ刑が減免されるかといえば、自らの行為の責任を引き受けるだけの主体性を否定されているからです。
「自らの行為の責任を引き受けるだけの主体性」といってもわかりにくいかもしれませんが、同種の民事法の例を考えればよりわかりやすいでしょう。民法上、成年後見制度に関する規定が置かれていますが、この下では、精神上の障碍を有する成年被後見人がした法律行為(契約の締結等)は、成年後見人が取り消すことができます‐騙された場合とか脅された場合とか誤解していた場合に限らず、です(これらの場合、一般人でも取消し等により「なかったこと」にできます)。
つまり、成年被後見人が十分な説明を受けて納得づくでした判断であっても、その判断が一般的に期待される程度の水準でない場合、法律上は判断には足りないものとして取り扱うことが可能とされているわけです。必然的に、判断の結果もまた引き受けるに足らず、として取り消し得るのが成年後見制度。売った買ったという話の結果すら引き受けることから免れているのですから、犯罪行為の結果としての刑罰を引き受けることから免れるのは当然だ、というのが民事・刑事を貫く近代法における責任主義の原理なのです。
責任主義とは、言い換えればできるはずのことができなかったことを違法とするものです。過失とは注意すれば避けられたもので無過失とは注意しても避けられなかったもの、心神喪失者は違法行為をしたところで、そもそも適法行為を期待できかった者です。かつて聾唖者は民法上も成年被後見人(当時の用語でいえば禁治産者。また、民法については盲者もそうでした)適格であり、刑法上も刑の減免を受けることができました(刑法については、正確にはイン(病垂れに音)唖者)。
これらは聾唖者には責任能力がない、つまりは一般人にはできる(と期待される)判断ができなくてもおかしくはないとの前提に立つもの。今となってはいずれも削除されていますが(刑法の規定でいえば、上述の第39条と第41条の間の第40条がそれでした)、それはこうした考え方が差別的であるとされたからでした。
さて、昨今の心神喪失・耗弱者や少年法適用対象者に対して刑罰を科すべしとの議論は、この聾唖者の議論とはまったく逆を向くものです。聾唖者については、あたかも古代ギリシアやローマにおいて市民権を有する者に兵役義務があり奴隷にはなかったように、責任能力がないという差別の結果として責任能力が認められず刑罰の減免を受けました。ところが心神喪失者等についての議論は、恩典として刑罰の減免がなされているとの前提に立ち、刑罰の減免を廃止すべきというものとなっています。
#話の枕である無過失責任についても、無過失には責任なしとの原則が、あたかも恩典であるかのごとく見られ、それが排除されているといえるでしょう。
責任主義のない法体系とは、近代法の範疇を外れるものですが、果たしてこれは近代より昔への回帰なのか、それともまったく新しい時代の法体系を切り開くものなのか? webmasterには、現時点では判断がつきかねます。
#責任主義の今日的意義について、webmasterの駄文なんぞではなくきちんとした議論をお求めの向きは、大屋雄裕「自由とは何か」をお薦めいたします。





1月 8th, 2008 at 6:38:35
恩典というよりは、立法時に想定していた心神喪失者というものより遥かに範囲の広い人がはてはまるようになってきているのが問題とされているように思います。
まず、凶悪な犯罪を犯したものの精神は、ある意味そういう犯罪を犯したことのない者には理解不能だと思います。
また、医療の発展とともに精神鑑定も進化していることでしょうから、そういう犯罪者に何らかの精神的な異常が検知される可能性は増えこそすれ、減りはしないでしょう。
社会の複雑化に伴い、ストレスから精神的な負担の多い社会になっているという側面もあります。
犯罪目的が理解不能であるということは心神喪失という状態であるという論法を弁護側は使いやすく、また実際の異常を見つけやすくなっており、このままだと社会を騒がした凶悪な事案ほど厳格な責任主義の適用では罪を問えなくなっていくと思われるため、修正をかけざるを得ない状況なのだろうと思います。
1月 9th, 2008 at 4:29:10
>民間平社員さん
社会を騒がした事案かどうか、凶悪かどうかは、罪を問うべきかどうかには無関係だ、というのが厳格な責任主義の立場です。ただ、それを社会が受け入れ難いと考える以上は、何らかの変更は不可避であろうとは、私もエントリで書いたようにそう思うのです。