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  • 12/21/2007 (11:59 pm)

    UFO=Unbelievable Foolish Officials-work IV

    Filed under: politics, science ::

    さらに参戦ですか・・・。

    Q: UFO論議が注目を浴びていますが、大臣のご所見をお願いします。

    A: 「UFOは、存在しない。」と断定できる根拠がありません。個人的に信じる、信じないという問題も色々あるのでしょうが、そういうような未確認飛行物体、あるいはそれを操る生命体、それが「存在しない。」と断定し得る根拠が無いのであって、防衛省というよりは私個人の話ですが、「存在しない。」と断定し得ない以上、それはいるかもしれない。少なくとも「ない。」と断定するだけの根拠を私は持っていません。ですから、「そういうものも有り得るだろうね。」ということだと私は思います。

    Q: その場合、防衛力のあり方について、何か影響がありますでしょうか。

    A: 「ゴジラ」という映画がありますが、その時に自衛隊が出ますが、「一体何なのだ、この法的根拠は。」という議論があまりされません。映画でも、そこで防衛大臣が何かを決定するだとか、総理大臣が何かを決定するというシーンは無いわけです。ただ、ゴジラがやってきたということになれば、これは普通は災害派遣になるのでしょう。ですから、それが命令による災害派遣か、要請による災害派遣は別にして、これは災害派遣でしょう。要するに天変地異の類ですから、モスラでも同様であろうかと思いますが、これがこのUFO襲来という話になると、これは災害派遣なのかなということになるでしょうね。つまり、その場合は領空侵犯なのかというと「あれは外国の航空機か。」ということになるわけです。普通に考えれば、外国というカテゴリーにはまず入らないでしょう。航空機というからには、翼があって揚力によって飛ぶのが航空機ですから、そうするとUFOが何によって飛んでいるのか、これは色々な議論があるのでしょうけれども、それをそのまま領空侵犯で読めるかというと中々厳しいかもしれない。そうなってくるとこれは飛翔体なのかということになると、どうなるのか。しかし、例えば隕石が降ってきたということと同じに考えられるか、隕石は自然現象ですから、何の意志もなく降ってくるわけですが、UFOの場合には意志なく降ってくるわけではないので、これをどのように法的に評価するのかということもあるのでしょう。そうすると、災害派遣が使えるのか、領空侵犯でもどうもなさそうだ。そうすると防衛出動かということになるのですが、それはわが国に対する急迫不正の武力攻撃のように考えるかというと、そうはならないのでしょう。よくテレビにあるようにUFOが襲来して、色々な攻撃を仕掛けるということになれば、それはそういう評価も成り立つのかもしれませんが、「地球の皆様、仲良くしよう。」とか言って降ってきた時に、それは、わが国に対する急迫不正の武力攻撃でもないし、また何らかの意志が伝達された時に、何を言っているのか、よく分からない。そういう場合に、一体どうやってわが方の意志を伝達するのかということもあって、別に当省としてこういう場合にどうするのかという方針を固めたわけでも何でもないのですが、これも私個人のお話であって、ただ、頭の体操ということはあまり好きではありませんが、色々な可能性というのは考えておくべきものなのでしょう。ある日突然そういうことが起こって、どうするのかということもあまり望ましいことではなくて、これも省としてそれに取り組むとか、そのようなことではありませんが、私自身として、一体どうなるのだろうなということは考えてみたいと思っています。今までも考えて来たし、大臣なる前に何かのテレビの番組で、「どうですか。」と聞かれて、「色々な可能性を考えていかければならないのでしょう。」ということは申し上げましたが、どうすべきか。その時に日本だけ襲来するのかというと、世界あちこちに襲来するのでしょう。その時に国連でそういう議論が行われたかというと、あまり承知をしていないところであって、そういうものが存在しないと断定し得る根拠がない以上は、やはり頭のどこかには置いておくべきではないのかと。ただ、当省として、そういう方針を決定したということではありません。

    石破防衛大臣記者会見(2007/12/20)

    少なくとも法的には、「隕石が降ってきたということと同じに考えられる」こととなります。基本的には人間以外の生命体は非生命体と同様に扱われ(たとえばペットに危害を加えた場合には、器物損壊ということとなります)、地球外生命体といえども「人間以外の生命体」であることには変わりないからです。

    つまりは災害派遣ですが、害獣駆除は災害派遣の一形態であり、実際に猪狩りに出動したこともあるとのこと。仮に地球外生命体が地球に飛来した際には、その危険性が認められれば、害獣として駆除されるというのが法的な整理となるでしょう。

    ただ、火器による射撃は地元のハンターが行い、自衛隊は輸送・通信の支援を行うとの役割分担のようですので、各種作品にてゴジラやガメラに相対する際のように自衛隊が火力の使用に踏み切るには、所要の制度改正が行われなければならないような。その意味では、先の火器使用の限定に関して、「特に必要があると総理大臣(防衛大臣でもいいのですが)が認めた場合は、この限りでない」といった例外規定を加えればよいということとなります>石破大臣。

    12/20/2007 (11:59 pm)

    UFO=Unbelievable Foolish Officials-work III

    Filed under: politics, science ::

    UFOは存在しません−。政府は18日、「地球外から飛来してきたと思われる未確認飛行物体」は存在しないと、閣議決定した答弁書で見解を示した。政府がUFOの存在を正式に否定したのは初めて。【「「UFOは存在しません」政府がUFO存在を否定」政治も‐政局ニュース:イザ!より引用】

    (略)

     その意味では、日本政府の「UFOは存在しない」という発言はとてもおかしい。元々の意味のUFO(=正体がまだ確認できていない飛行物体)ならば存在を否定することに意味がないし、マスコミの言うところのUFO(=宇宙人の乗り物)ならば、この存在を頭から否定することは政府がすべきことではない。

     政府なんだから、もう少し正確に「UFO(未確認飛行物体)目撃の報告は数多く受けているが、政府として、そういったものが一部の人たちが言う様に宇宙から飛来した宇宙人の乗り物だとは認識していないし、さらに調査が必要と思わせるだけの信頼度の高い情報も持っていない」と発言すべきだと思うんだがどうだろう。

    「日本政府の「UFOは存在しません」発言にいちゃもんをつけてみる」(@Life is beautiful12/18付)

    確かに政府が「存在しない」とした旨を報ずるメディアは数多くありますが、一昨日引用した朝日の報道では、「地球外から飛来してきたと思われるUFOの存在を確認していない」とする答弁書を決定とされています。また、政府は18日午前の閣議で、地球外から飛来してきたと思われる未確認飛行物体(UFO)について「存在を確認していない」とする答弁書を決定したとの東京新聞の報道もあります。

    未だ参議院サイトでは質問主意書・答弁書の公開がなされていないので、実際にどのような文言が用いられているのか現時点では不明ですが、政府が「確認していない」としたのに「存在しない」としたかのように誤報する可能性と、逆に政府が「存在しない」としたのに「確認していない」としたかのように誤報する可能性とでは、後者の方が大きいのではないでしょうか?

    政府への批判としては、もう少し正確に「『存在していない』との報道が事実であれば、『UFO(未確認飛行物体)目撃の報告は数多く受けているが、政府として、そういったものが一部の人たちが言う様に宇宙から飛来した宇宙人の乗り物だとは認識していないし、さらに調査が必要と思わせるだけの信頼度の高い情報も持っていない』と発言すべきだと思うんだがどうだろう」としていただきさえすれば、webmasterとしては言うことはないのですけれども。

    12/19/2007 (11:59 pm)

    UFO=Unbelievable Foolish Officials-work II

    Filed under: politics, science ::

    昨日取り上げた町村官房長官発言について、branchさんが次のように評していらっしゃいます。

     それにしてもこの官房長官、ノリノリである。 …というか、官房長官のこの対応振りは、ネタも相俟って多くのメディアで報道されて国民に親近感を与える効果が期待され、政治的にはとてもうまい。御本人の素朴な考えなのか計算の上なのかはたまた秘書官が振り付けたのかは知るべくもないが、大いに感心。

    続・航海日誌(12/19付)

    UFOというネタそのものはおっしゃるような見方も可能かもしれませんが、やはりナスカの地上絵を引き合いに出したことについては、webmasterはまったく感心できないのです。でまあ(事務)秘書官が振り付けたならばその手のネタは避けるでしょうから、ご本人のお考えなのではないかとwebmasterは思うのですが、いかがでしょう?

    12/18/2007 (11:59 pm)

    UFO=Unbelievable Foolish Officials-work

    Filed under: politics, science ::

     「個人的には絶対いると思う」。UFO(未確認飛行物体)は未確認という政府の公式見解に、内閣のスポークスマンである町村官房長官が18日、「異議」を唱えた。

     政府は同日の閣議で、民主党の山根隆治参院議員の質問主意書に対し、「地球外から飛来してきたと思われるUFOの存在を確認していない」とする答弁書を決定。文部科学省によると、「UFOに関する答弁書は初めて」という。

     ところが、町村氏は記者会見で「政府の公式答弁は極めて紋切り型。私は個人的にはこういうものは絶対いると思っている」と反論。「そうじゃないと、ナスカ(南米ペルー)のああいうの(地上絵)、説明できないでしょ」と述べた。

    朝日「町村長官「UFO絶対いる」 政府公式見解に「異議」」

    こんな質問主意書を担当させられた方々には心より同情申し上げます。ちなみに、質問主意書への答弁としては初出のようですが、国会答弁としては既に存在しています‐しかも、同じ山根議員への質問によって。

    ○山根隆治君 雲をつかむような話のついでといってはなんですけれども、UFOの問題について少し聞いてみたいと思います。

     国会では今までUFOを取り上げられたことがないということのようでありますけれども、未確認の飛行物体ということでございますけれども、大臣はUFOを見たことございますか。

    ○国務大臣(麻生太郎君) おふくろは見たといってえらい興奮して帰ってきたのがありますけれども、残念ながら私自身は見たことはありません。

    ○山根隆治君 私もよく深夜散歩することが多いものですから、そのたびに空見て、深夜というのは、犬の散歩というのは私の日課でございますので、何があっても散歩しなくてはいけないと、犬を連れての散歩ですね。何かちょっと、事件がちょっとあったようですから、それとの絡みで思われては困りますが。空を見て、UFOを見てみたいものだなというふうにいつも思っているんです。一度も私、見たことがないんです。

     ただ、これ名古屋大学の福井先生の著書の中で引っ張ってきましたけれども、銀河系全体では二千億個の星があって、さらに宇宙全体では二千億個もの星から成る銀河が一千億個以上もある。もう天文学って、正にこれ天文学的な数字の星があるわけでございまして、私は個人的には、これだけの膨大な、頭の中で整理もできないぐらいの数の星がある中で、知的な生物がこの地球上に人間だけだというふうに思うことが私は不自然なように私自身は思っているんです。

     そういうことからすると、UFOが度々もう飛来、世界じゅうに飛来している、しょっちゅうそれはテレビで、先日も私、一週間ほど前テレビでまた見ましたけれども、これについて全く無関心でいるというわけにはいかない。それはやはり政治家として国民の生命、財産というものをどう守るかということもありますし、防衛上の問題もある。

     アメリカも、やはり一九四八年から相当期間、実際にやっぱり調査をアメリカの空軍でしてきたというのがこれ明らかになっている話です。その調査結果によると、相当の、何万という事例を検証していったけれども、全部否定し切れるものではない、相当数のものを認めざるを得ない、飛行物体があるということを否定し切れないという報告でした。最初のうちはそれがやはりもうUFOなんだということをかなり積極的にというか、肯定的にとらえて報告をしていましたけれども、後半の部分になってくると一気に否定的な報告になってきて、それ今はもうその組織は解散をいたしているわけでございます。

     私は、なぜこういう唐突なお話をさせていただくかということについては、今お話ししましたように、国家や人類のやっぱり防衛上の問題ということで無関心であってはいけないと。これを真摯にやっぱり受け止めて、情報の収集やそれこそ解析やということを国家としても、やはりアメリカもほかのヨーロッパの諸国も行われていると。今はそれを否定する報道が多いわけでありますけれども、事実上アメリカの空軍はそういうのを行ってきたということが明らかでありますけれども、日本は国家として、アメリカからそうした情報を得たり、あるいは意見を交換したりというふうなことがあるのかどうか、その辺についてお尋ねをしておきます。

    ○国務大臣(麻生太郎君) これは防衛庁じゃないかと思いますが、今、山根先生お話のありましたのは、たしか一番よく言われたのは、人工衛星が、アメリカの人工衛星が昭和四十何年に上がりましたときに、あの衛星の後ろにUFOが三台付いて一緒に回っていたというのが結構あの当時話題になった。私のUFOに関するアメリカの新聞の記事でいくとそれが一番最初の印象なんですけれども、これは結構真剣に考えているんだなと、今からかれこれ四十年前の話で恐縮ですけれども、そう思った記憶がありますけれども。

     それにいたしましても、おっしゃるように百五十億光年前、百五十億光年かなたに最初の宇宙ができてと言われているんですが、膨大な数の星の中に地球にしかこういった我々みたいなのがおらないということはちょっと幾ら何でも想像力がなさ過ぎるんで、似たようなのが一杯いたっておかしくはないだろうなと私自身もそれはそう思っております。そこが更に進んだ技術を持っていて、何となく時々、この地球にいるのが今後どういう具合なことになっておれたちに危害を与える可能性について向こうがこっちを調査している可能性も、それは否定できないんだと思いますね。

     私は、この種の話は多分いろいろ、サイエンスフィクションの世界に限らず、いろいろ考えられるところだとは思いますけれども、今総務省としてこの種のことに関してしかるべき手を打っておるかと言われれば、私どもとして特にUFOに関して調べているということではないのが率直なところです。

     これは国防上というのであれば、多分これは防衛庁ということになるんだと思いますけれども、防衛庁で、その種のUFOに関するほど想像力の高いのが防衛庁にいるなんというのは余り聞いたことありませんし、ちょっと守屋の顔からもなかなか想像できないなと思わないでもありませんけれども、いずれにいたしましても、こういった話というのは常にいろんな意味で、ある日突然に来る可能性というのは常に考えておくべき問題だとは存じます。

    参議院総務委員会(2005年3月10日)

    この3月10日に一週間ほど先立って山根議員が視聴したというテレビ番組が何か判明すれば、山根議員がどの程度きちんとした議論をされているかがわかるでしょうけれども、下記のとおり、基本的にはいわゆるビリーバーな人のようです。2年9ヶ月余りの間に変わってきている可能性はありますが・・・。

    • 「銀河系全体では二千億個の星があって、さらに宇宙全体では二千億個もの星から成る銀河が一千億個以上もある。(略)これだけの膨大な、頭の中で整理もできないぐらいの数の星がある中で、知的な生物がこの地球上に人間だけだというふうに思うことが私は不自然なように私自身は思っている」というのは、ドレイク方程式のようなものを念頭に置いているのでしょうけれども、人類以外の知的生命体の存在の可能性を肯定することと、地球外生命体の宇宙船としてのUFOの存在を肯定することはイコールではありません。ドレイク方程式を議論の前提としつつ、かかるUFOの存在可能性を否定的に論ずる議論は当然成立するのです。
    • 「アメリカも、やはり一九四八年から相当期間、実際にやっぱり調査をアメリカの空軍でしてきたというのがこれ明らかになっている話です。その調査結果によると、相当の、何万という事例を検証していったけれども、全部否定し切れるものではない、相当数のものを認めざるを得ない、飛行物体があるということを否定し切れないという報告でした」というのはプロジェクト・ブルーブック等の一連のプロジェクトを指すのでしょうけれど、Wikipedia英語版によればFrom 1947 to 1969, the Air Force investigated Unidentified Flying Objects under Project Blue Book. The project, headquartered at Wright-Patterson Air Force Base, Ohio, was terminated December 17, 1969. Of a total of 12,618 sightings reported to Project Blue Book, 701 remained “unidentified.”(略)There has been no evidence indicating the sightings categorized as “unidentified” are extraterrestrial vehicles.とのことで、正体が「未確認」のまま終わったものがあると認める一方で、地球外生命体の宇宙船である可能性を示す証拠はないと言い切っています。これは明らかにバイアスがかった参照でしょう。

    他方で町村官房長官も、地球外生命体の宇宙船としてのUFOを個人的に信じるのは思想・信条の自由の範疇ですが、その材料としてナスカの地上絵を引き合いに出すようでは。下記のとおり、地球外生命体の存在を仮定しなくても、説明は可能ですから。

    The alien theory is proposed mainly because some people find it difficult to believe that a race of “primitive Indians” could have had the intelligence to conceive of such a project, much less the technology to bring the concept to fruition. The evidence points elsewhere, however. The Aztecs, the Toltecs, the Inca, the Maya, etc., are proof enough that the Nazca did not need extraterrestrial help to create their art gallery in the desert.

    In any case, one does not need a very sophisticated technology to create large figures, geometrical shapes, and straight lines, as has been shown by the creators of so-called crop circles. The Nazca probably used grids for their giant geoglyphs, as their weavers did for their elaborate designs and patterns. The most difficult part of the project would have been moving all the stones and earth to reveal the lighter subsoil. There really is nothing mysterious about how the Nazca created their lines and figures.

    Nazca lines - the Skeptic’s Dictionary

    12/17/2007 (11:59 pm)

    英語と日本語の情報伝達効率比較

    Filed under: science ::

    街中はクリスマスムードでいっぱい。今日も「赤鼻のトナカイ」がどこかで流れていて、ふと、その英語と日本語の歌詞の情報量の差に呆然。

    日本語で

    ♪真っ赤なお鼻の♪

    と歌う間に英語はこれだけ入ってます:

    ♪Rudolf, the red-nosed reindeer♪

    つまり、「真っ赤なお鼻のトナカイさんのルドルフが」。日本語に比べて、「トナカイ」と「ルドルフ」という2アイテム多い情報伝達がなされるわけ。

    (略)

    この間日本で、日本のシティバンクのカスタマーサポートに電話したら、録音メッセージがナビゲートするタイプだった。しかし、アメリカで日頃使っているものに比べて、あまりに一つ一つの選択肢を言われている時間が長いので、イライラして途中でギブアップ。例えば、

    「日本語をご希望の方は、1、を押してください」

    というのに多分4秒強かかると思われ。同じことが英語の録音音声だと

    「If you would like to proceed in English, please press one」

    という感じ。長そうだが、多分3秒弱くらい。30%違うのね。これに耐えられず。(ま、そもそも、録音メッセージナビゲート自体が、言語に関わらずいらだつのですが。)

    もちろん、同じものをさしていても、英語より日本語の方が短い時間で言える単語もある。あるのではあるが、一般的には、ある程度の長さの情報を口頭で伝えようと思ったら、少なくとも日本語の方が3割方長めにかかる気がする。(これ、きっとどこかにきちんとした調査・分析をされてる方がいると思うんですが、ご存知の方がいたら教えてください。)

    日本語は全ての音が「子音+母音」で成立しているが、英語では、子音が母音と独立して存在、一つの母音に、様々なバリエーションの複数の子音をくっつけられる。一方で、一つの母音を発音している時間は日本語と英語でそれほど変わらないので、単位時間あたりの情報量に差が出ると、そういうことだと推測してるんですがどうでしょうね。2進法と3進法、みたいな差でしょうか。

    「赤鼻のトナカイに見る日本語と英語の単位時間あたり情報量」(@On Off and Beyond12/6付)

    さて、この観察が実際に正しいのかどうか調べてみました。前提として、情報量ということでエントロピーがどうなっているかを見ると、英語は1.34 bits/letter、日本語は2.71 bits/letterとのことですので、これを時間当たりに変換すれば大まかな傾向はつかめるでしょう。

    まず1分あたりどの程度話すかを調べてみると、英語は150 words per minuteがaverage日本語は250〜300字/分が聞きやすい・話しやすい目安とのこと。しかし両者は単位が異なるので、このままでは比較できません。これらの単位をあわせるためには、英語についてはword当たりの文字数を調べ、日本語については漢字が含まれている分を調整する必要があります。

    英語の文字数については、中学1年生用の検定教科書で3.86字、中学3年生用の検定教科書で4.11字とのことなので、一般的には中学3年生の水準からさらに中学生で学ぶ分だけ上昇すると仮定すれば、4.11+(4.11−3.86)=4.36ということとなります。したがって、1分当たりに話される英語の情報量は、

    • 1.34×150×4.36=876.36 bits

    ということになります。

    他方、日本語の漢字については、ぐぐっていろいろなページを見る限り、概して3〜4割程度含むものが推奨されているようですので、1/3の漢字を含み、それが平均して1.5字のかなに相当するとすれば、同じく1分当たりの情報量は

    • 2.71×250〜300×(6/7)=580.7〜696.9 bits

    ということになり、確かに英語の方が情報量が多いと推測されます。580.7 bits per minuteだとすると英語の66.3%、696 bits per minuteだとすると英語の79.5%ですから、「日本語の方が3割方長めにかかる気がする」というのはなかなか当を得たご指摘であるととりあえずは考えることが可能でしょう。

    #上記の1分当たりの計数のリンク先によると、英語のfast talkersは180 words per minute、日本語は最大で400字/分とのことなので、きわめて早口の場合は英語の1,051.632 bitsに対して日本語の929.1 bitsと、多少は差は縮まるようです。

    他方で、どのような言語であっても、情報伝達効率には差がないことが自然であるようにwebmasterには思われます。というのも、英語・日本語に限らず、いわゆる圧縮の余地は多分にあり、ある程度の冗長性があってこそエラーやノイズへの強度や脳の言語処理能力とのバランスといった関係で最適だという水準に落ち着いていると考えられるからです。言い換えれば、こうした強度やバランス上適切な水準を超えて冗長性があるならば、さまざまな圧縮が慣用として行われ、結果としてより伝達効率の高い言語体系に生まれ変わってしまうはずです。

    このwebmasterの見立てが正しいのであれば、上記のような聴覚を介した情報伝達において言語間に差があるのなら、その他の手段による情報伝達では逆の関係が成立し、言語による情報伝達効率は、各手段の使用頻度に応じた加重平均値ではほぼ同じものとなるとの推測が成立します。分かりやすい例としては、聴覚を介した伝達において日本語が劣るのであれば、視覚を介した情報伝達では日本語が勝るはずでしょう。これは、表意文字である漢字を用いることからも、一見正しそうな仮説といえるのではないでしょうか。

    では、実際に試算してみましょう。黙読については、英語では250〜300 words per minuteが平均的なスピードのようですが、日本語では500〜700字といったところのようです。上記の式を漢字補正を除いて当てはめてみますと、

    英語

    1.34×250〜300×4.36=1,460.6〜1,752.72 bits

    日本語

    2.71×500〜700=1,355〜1,897 bits

    となり、甲乙つけがたいように推測されます。となれば、前述の加重平均値では、日本語は英語よりも情報伝達効率が低いものとなるでしょう。webmasterは既述のように言語間で大差はないものと考えていますので、webmasterの仮説が誤りであるか、それとも上記の各推計に誤りがあるのか、いずれかということとなります。

    ここからは完全なあてずっぽうですが、疑うべきは日本語のエントロピー2.71ではないでしょうか。もちろん、数値自体を疑うものではありません。ただ、原論文を見ていないので勝手な憶測ではあるものの、おそらくは書き言葉のエントロピーであり、話し言葉のそれではない可能性はあります。仮に英語の書き言葉・話し言葉の差よりも日本語のそれの方が大きく、書き言葉・話し言葉の双方に同じエントロピー値を当てはめて推計することが不適当であるならば、話し言葉においても英語と日本語の単位時間当たり情報伝達量は等しい、ということもあり得ます。

    #エントロピーの絶対値が問題というより、書き言葉と話し言葉のそれぞれのエントロピーの比の問題、というのが正確な表現でしょう。英語のその比が1:1である場合は同じことですが。

    直感的には、たとえば言文一致が試みられた歴史など、日本語の方が英語よりも書き言葉と話し言葉との乖離が大きく、書き言葉のエントロピーをそのまま当てはめた推計では他言語よりも相対的に低い推計値が出てしまうような気がします‐渡辺千賀さんが冒頭の引用で触れられた事例は、赤鼻のトナカイは翻訳(それも歌詞という、音節や韻等の制約が厳しい対象のそれ)に伴う問題であり、電話メッセージは書き言葉を読むことと話し言葉を話すことの違いに起因する問題と整理するのが、この直感とは整合的です。さて、どのように確認すればよいのかといえば、どなたか専門家の方にお願いしたいなぁ、ということになってしまうのですが。

    12/16/2007 (11:59 pm)

    イスラム世界の没落

    Filed under: history ::

    標記の件、時間ないので長らくほったらかしにしていた僕の疑問の一つなわけですが、たまたまtemjinusさんのところで興味深い記事を発見。多少表記を変えて引用させてもらいます。

    ガーナ帝国、マリ帝国の発展を支えたスーダン金がイスラム諸国の金貨鋳造国の原料となっていた。13世紀末にはジェノヴァ人が、また他の欧州諸国は15世紀半ばに、この黄金を源泉において捕捉しようと試みた。ポルトガルがアフリカ西岸を着々と踏査したのはこのためである。ポルトガルは特にギニアにおいて南米のそれには及ばないものも、かなりの量の金を発見する。しかしながらギニアの金の産出量は1520年をもって下降する。

    スーダン金がイスラム諸国へ向かわず、西欧へ向かったために、15世紀からイスラム諸国は財政危機を経験することになる。

    (略)

    これ、ルネサンスが14世紀頃始まったことと考え合わせると実に興味深いです。イスラム文化圏が失速していったのもやはり金融に原因があるんでしょうか。この視点は、本エントリと同名の某評判の悪い本のように精神論にその因を求めるよりもよほどスジが良いように思えますがどうなんでしょう。ってこれ僕が知らないだけで定説なんですかね。

    「イスラム世界はなぜ没落したか?」svnseeds’ ghoti!12/16付)(webmaster注:原文の注記は略しています)

    まず、産金地を押さえていればというのはシニョレッジ効果でしょうけれども、それがいかほどであったかということはいえるでしょう。マネーサプライに関しては、少なくとも当時において金融政策は存在せず、輸入貨幣が流通しているのであれば問題はないでしょう。まして下記引用のとおりイスラム諸国が金銀複本位制であったとすれば、金貨鋳造が滞ったとしても銀貨で補えばよいわけで(江戸時代の日本のように)、マネーサプライ低下による経済低迷という因果関係はスーダン金の供給量から直ちに導けるものではありません。

    (略)8世紀半ばに成立したアッバース朝の時代になるとディルハム銀貨による銀経済であった旧ササン朝ペルシア領でもディナールが流通するようになり、9世紀には金銀二本位制へと移行した。金の産出地としては、サハラ砂漠の南のガーナ王国や、エジプトの南のヌビア(現在のスーダン)などが挙げられる。ガーナ王国の金を、ムスリム商人が岩塩と交換するサハラ交易が行われていた。またディナールとディルハムの法定換算比率は1ディナール=20ディルハムであったが時代や地域とともに変化していきアッバース朝5代のハールーン=アッラシード時代には1ディナール:22ディルハム、時代により1ディナール=30ディルハムの比率も発生した。

    エジプトのトゥールーン朝でのディナール金貨の純度の高さは有名である。しかし10世紀の中頃から金の供給が減少すると12〜13世紀にはシリア以東ではディナール金貨は打刻されなくなり予算や大きな金額はディルハム銀貨で計算されるようになった。ただ西スーダンの金が供給されていたファーティマ朝やムラービト朝、アイユーブ朝・マムルーク朝では依然15世紀初頭まで高品質のディナール金貨を打刻し地中海交易の中心的役割を担ったが次第にイタリア諸都市の金貨(デュカーティやフィオリーニなど)におされディナール金貨は減退した。1425年にはデュカーティに対抗するためマムルーク朝スルタン・アシュラフ・バルスバーイが新ディナール(アシュラフィー)を打刻したが経済的な盛り返しはできなかった。金貨の敗退によりイスラームの勢力的な敗退も始まる。オスマン帝国時代も決済通貨はやはりイタリアの貨幣であった。

    ディナール - Wikipedia

    では、svnseedsさんの問題提起、「イスラム文化圏が失速していった」理由ですが、Angus Maddison, The World Economy: A Millennial Perspective(webmaster注:”the full article”には拡張子がありませんが、pdfファイルです)には次のような記述があります。

    There are two schools of thought about the relative performance of Europe and Asia. The mainstream view was clearly expressed by Adam Smith in 1776. He was not a practitioner of political arithmetic but on the basis of the “price of labour” and other evidence, his ordinal ranking from the top downwards was as follows for the 1770s:

    Netherlands
    England
    France
    British North American colonies
    Scotland
    Spain
    Spanish colonies in America
    China
    Bengal (depressed by the East India Company’s plundering)

    This mainstream view is reflected in Landes (1969, p. 13-14) whose overall assessment, like that of Smith, was similar to mine. “Western Europe was already rich before the Industrial Revolution - rich by comparison with other parts of the world of that day. This wealth was the product of centuries of slow accumulation, based in turn on investment, the appropriation of extra-European resources and labour, and substantial technological progress, not only in the production of material goods, but in the organisation and financing of their exchange and distribution … it seems clear that over the near-millennium from the year 1000 to the eighteenth century, income per head rose appreciably - perhaps tripled.”

    (略)

    In spite of its shaky foundations, Bairoch’s assessment has been influential. Braudel (1985, vol. 3 pp. 533-4) acknowledged “the great service Paul Bairoch has rendered to historians” and believed “it is virtually beyond question that Europe was less rich than the worlds it was exploiting, even after the fall of Napoleon”. Andre Gunder Frank (1998, pp. 171 and 284) cites Bairoch and suggests that “around 1800 Europe and the United States, after long lagging behind, suddenly caught up and then overtook Asia economically and politically”. Pomeranz (2000) cites Bairoch more cautiously (p. 16) but his sinophilia drives him to the same conclusion. He suggests (p. 111), there is “little reason to think that West Europeans were more productive than their contemporaries in various other densely populated regions of the Old World prior to 1750 or even 1800.”

    Angus Maddison, The World Economy: A Millennial Perspective, pp46,47

    ここでは、イスラム圏との対比ではありませんが、西ヨーロッパのアジアに対する経済的優位性についての通説と反対説が紹介されており、興味深いことに、通説では西暦1000年ごろから西ヨーロッパの成長率はアジアのそれを上回ったとされている一方、反対説では19世紀ごろまでアジアが優位であったとされています。つまり、いずれであっても1500年ごろに西ヨーロッパが上回ったわけではない(通説ではより早く、反対説ではより遅く)、ということとなるわけです。

    いずれが正しいかを判断する能力はwebmasterにはありませんが、Maddison自身は通説の側に立ち1000-1500年の一人当たりGDP平均成長率について西ヨーロッパは0.13%/年、その他アジア(日本、中国、インドを除くアジア。イコールイスラム圏ではありませんが、その代替指標として用います)は0.05%/年との推計を示し(Table B-22)、1000年における一人当たりGDP400ドル対450ドルが1500年においては774ドル対565ドルと逆転したことを示した(Table B-21。「ドル」は1990年基準の実質値)上で、次のように述べています。

    Between the years 1000 and 1500, Western Europe’s population grew faster than any other part of the world. Northern countries grew significantly faster than those bordering the Mediterranean. The urban proportion (in terms of towns with more than 10 000 population) rose from zero to 6 per cent, a clear indicator of expansion in manufacturing and commercial activity. Factors making it possible to feed the increased population were an increase in the area of rural settlement, particularly in the Netherlands, Northern Germany and the Baltic coast and the gradual incorporation of technological changes which raised land productivity. The classic analysis of these rural changes is by Lynn White (1962): “…the heavy plough, open fields, the new integration of agriculture and herding, three field rotation, modern horse harness, nailed horseshoes and whipple tree had combined into a total system of agrarian exploitation by the year 1100 to provide a zone of peasant prosperity stretching across Northern Europe from the Atlantic to the Dnieper.” White probably exaggerated the precocity of their impact and the degree of prosperity, but these technical improvements were clearly of fundamental importance. The switch from a two-field to a three-field system also increased food security and reduced the incidence of famine. A growing proportion of agricultural output went as inputs into clothing production (wool), wine and beer (cereals and vines) and fodder crops for an increased horse population. There was a degree of regional specialisation in food production with growing international trade in cereals, live cattle, cheese, fish and wine. Increased trade in salt and the reintroduction of spice imports helped improve the palatability and conservation of meat and fish.

    (略)

    Estimates of what happened to GDP in Europe and the rest of the world over this period are obviously subject to a wide margin of error. Chapter 1 and Appendix B explain the basis for my estimates as transparently as possible. I concluded that there was almost a doubling of West European per capita income from 1000 to 1500 compared with an improvement of about a third in China, less elsewhere in Asia, and some regression in Africa. It seems clear that West European levels of income and productivity were higher than in Asia and Africa at the end of the period whereas they had been lower in the year 1000. As far as West Asia and Egypt are concerned, this view seems to be shared by specialists in Muslim history, e.g. Abulafiah (1987) and Abu-Lughod (1989); for China/West European performance the evidence for this conclusion is examined in detail in Maddison (1998a).

    Angus Maddison, The World Economy: A Millennial Perspective, pp51,52

    要するに、人口増加によって都市集住=手工業・商業の発展と殖民・開墾=都市住民を支える農業生産の拡大(これには農業技術の発展や三圃制の普及も手伝っています)が成し遂げられたことが西ヨーロッパ経済発展の謎解きということとなりますが、このMaddisonの説が正しいのであれば、スーダン金の問題は、まったく影響がなかったわけではないかもしれませんが、あくまでマイナーな要素に過ぎなかったということとなるでしょう。幸いなことにイスラムとヨーロッパの比較については、上記引用において、

    • Abulafia, D., 1987, “Asia, Africa and the Trade of Medieval Europe”, in Postan et al, (eds), vol.II, pp402-73
    • Abu-Lughod, J.L., 1989, Before European Hegemony: The World System AD 1250-1350, Oxford University Press, Oxford

    という2つの文献が挙げられていますので、これを精読すれば答えが見つかるのではないかと思います。webmasterには無理ですが・・・。

    #2つめについては、ジャネット・L. アブー=ルゴド「ヨーロッパ覇権以前」という邦訳が出ています。中山さんにご教示いただきました。ありがとうございました。(2008/1/6追記)

    さて、実際のそれが1500年よりもはるか以前かはるか以後かはさておき、1500年ごろから「イスラム文化圏が失速していった」ように見えるのは、管見ではオスマントルコの盛衰の影響ということとなります。1453年のコンスタンティノープル攻略あたりから急速に勢力を強め、1529年の第1次ウィーン包囲や1538年のプレヴェザ海戦のあたりが絶頂期、そして1571年のレパント海戦から1683年の第2次ウィーン包囲を経ての長い長い下り坂、というオスマントルコの歴史は、「イスラム文化圏が失速していった」ことを象徴しているようです。この期間のズレの鍵は、軍事革命ではないでしょうか。

    マウリッツが従兄のナッサウ=ジーゲン伯ヨハン(叔父ヨハン6世の子)とともに行った一連の軍事訓練は、「軍事革命」とも評価される画期的なものであった。もちろん、従来の軍隊にも軍事訓練はあったが、マウリッツはその訓練を非常に精緻なものとした。例えば、銃を扱う際にも、その動作を数十にまで細分化し、かけ声に合わせて一斉に動作できるようにした。また、行進の規則を定めることで、指令に従って軍団が迅速に陣形を変えることを可能にした。こうした訓練は、非戦闘中の兵士の士気を維持させることにもなった。また、訓練を通じて、本来傭兵の寄せ集めでしかない軍隊の中に、ある種の連帯意識を形成させることにも寄与した。

    ちなみにこれらの訓練マニュアルは秘密裏にされず、書物として刊行された(「武器の操作、火縄銃・マスケット銃・槍について、オラニエ公マウリッツ閣下の命令によって著す」、未訳)。そのため、諸外国がマウリッツの教練を参考にして、自国の軍隊を鍛え上げるようになった。

    さらにマウリッツは、パイク兵の方陣(テルシオ)による白兵戦闘が主流であった当時のヨーロッパの陸戦を刷新し、三兵戦術の基盤を築いたことでも知られている。マウリッツが生きている間は、それでも名将アンブロジオ・スピノラ率いるスペイン軍との戦闘は五分五分といったところであったが、彼の死後、オランダが当時ヨーロッパ最強の軍事大国であったスペインとの八十年戦争を乗り切って完全独立を果たせた背景に、彼の貢献があることは明白である。

    またマウリッツは将校を育成するための士官学校も創設した。この士官学校の卒業者の中には、のちにバルト海一帯の覇権を握るスウェーデン王グスタフ・アドルフに仕えるものもいた。スウェーデン軍の強化は、この卒業生の功績によるものも大きいと推測されている。このように、軍事史におけるマウリッツの影響は、オランダ一国にとどまらずヨーロッパ全体に広まった。

    マウリッツ(オラニエ公) - Wikipedia)

    通説の立場からは、オスマントルコがヨーロッパの経済的優位に対抗し得たのはその軍事力あってのことで、軍事革命によって軍事においても優位性が失われてしまったものと説明が可能でしょう。反対説の立場からは、オスマントルコが経済的優位性を維持していたにもかかわらず劣勢に立たざるを得なかったのは、軍事革命後のヨーロッパには軍事的に対抗不可能だったからと説明が可能でしょう。

    12/15/2007 (11:59 pm)

    スーパーメガウェンディーズ(@ウェンディーズ)&絶品チーズバーガー(@ロッテリア)

    Filed under: misc ::

    どちらも微妙な評価。

    スーパーメガウェンディーズは、それなりの味のパテが大量にあるのはメガマック以上ですが、いかんせん食べづらさもメガマック以上です。おそらくはバンズが小さすぎて支えられない(まして、トマトの湿気で強度が落ちます)のでしょうけれど、昨今の食べやすさ軽視の風潮はwebmasterの好みではありません。なお、これは個別例であって全体の傾向ではないかと思いますが、パテが厚いことの結果、webmasterが食したものは中が生焼けでした。

    絶品チーズバーガーは、確かに普通のチーズバーガーをはるかに超えるおいしさではあるものの、味を追求し始めればファストフードには限度があるわけで、これまたwebmasterの好みではありません。安く早くそこそこの味を、という路線こそがファストフードの王道ではないでしょうか。

    12/14/2007 (11:59 pm)

    今週、某所にて

    Filed under: misc ::

    いきつけのとある店の記念日ということで、なんと5,000円で飲み放題‐これだけでは驚くに当たらないでしょうけれども、何を飲んだかといえば・・・

    • Ardbeg 30 yo
    • Highland Park 35 yo (Hart Brothers Finest Collection)
    • Taliskerの蒸留元が作ったノーブランド 25 yo
    • Cadenhead’sの何か(12 yo・58.6%と記憶しているのですが、ぐぐっても該当ブランドが見当たらず。どなたかご存じありませんでしょうか?)

    のストレート尽くし。他の飲み会の後でもあり、最初に口直しに軽いカクテルを作ってもらったので、飲んだのは5杯ということとなりますが、こんなお得な飲み放題、webmasterの人生で二度とあるかどうか・・・しかし、しらふで行きたかったなぁ。

    12/13/2007 (11:59 pm)

    「コピーされると儲かるシステムにすれ(命令形)」と故石原潔さんは語りき。

    Filed under: law, WWW ::

     白田氏は、ハーバード大学のウィリアム・フィッシャー教授の説に言及しながら、「ある国の経済規模全体に占めるコンテンツ産業の規模は、おおよそ決まっており推計可能だ。その推計をもとに、税あるいは課徴金として国民が毎年一定額を支出することにより、国民がコンテンツ産業全体を買い上げることができる」と説明する。

     課徴金制度では、ユーザーが納める額は一定で、徴収の段階で誰が何をどのように閲覧したかは問題にならない。これによりユーザーのプライバシーを維持し、「お金を払っていない人にはコンテンツにアクセスさせない」という、本質的には困難であり、取引費用の大きな所有権的アプローチをとる現在の著作権制度とは別のあり方が出てくる、と白田氏は話す。

    「自分の納めた課徴金のうち、『○○パーセントを××というクリエイターに分配する』と指定できる仕組みが確立できれば、クリエイターの側には収入を増やすために、自分の作品を積極的に広める動機が出てくる。本質的にクリエイターは、作品がユーザーの手許に届くことを望んでいるはず。また、情報技術関連のエンジニアは、情報の送り手と受け手の自由をひろめるよう努力してきたはず。こうした積極的な方向への理想や努力を制約する制度は不幸だ」(白田氏)

    「隠す権利」から「広める制度」へ 変化が求められる著作権のあり方(3/3)

    白田先生にwebmasterの案(の基本的な枠組み)を受け入れていただいたようでうれしい限りです! って、先生は「webmasterの案」などご存知であるはずもないのでしょうけれども、フィッシャー教授の代替保証制度の公表に1年近く先立って、実は公表していたのです。今から見れば粗もあり恥ずかしくはありますが(たとえば、著作権者が自らネット上でコピーを繰り返すことへの対策がありませんが、ランダムサンプリングでトラフィックを推計することとすれば、現在の視聴率調査程度には大丈夫かも)、改めて明らかにすれば次のとおりです。

    1. ネット上で流通するデジタルデータについて、ウォーターマークを埋め込むこととする。 そして、データ送信の過程でウォーターマークが流通する回数をカウントすることとする。 今の技術で可能ではないような気もするが、webmasterは文系人間ゆえ、そのうち可能になるものと楽観的に考えてさらに議論を進めると、その回数に比例して国がウォーターマークを埋め込んだ著作権者に金を支払うこととする。 プレーンテキストはどうしようもないのであきらめてもらわざるを得ないが、その他は画像、音声、動画、プログラムなど、どれでも保護対象にできることになるだろう。 これにより、サイトからダウンロードであろうと、WinnyやWinMXなどによるP2Pでの交換であろうと、とにかくネット上で広まれば広まるほど儲かるということになる。

    2. 支払われる金の財源としては、新たな税金を設けることとする。 しかし、エルドレッド法案のように著作権者から徴収するのではない。 基本的には受益者負担が望ましいのだが、あまり厳密にすると負担逃れのためのクラックが横行するリスクがあるし、気軽な試用ができずコピーが阻害されかねない。 したがって、記憶媒体に課税することとする。 コピーして活用する場合には、必ず何らかのメディアに記録する必要があるから、ゆるやかな受益者負担となるし、購入時点で間接税として徴収されるため、クラックをするインセンティブは相当程度低くなるはずだ(愉快犯的な欲求は常にあるだろうからゼロにはならないだろうが)。 バイトあたりいくら、という形が基本だが、記憶媒体の進歩を促すためには、密度に応じて税金をまけてやるなんてことも有効だろう。

    3. このままでは2つ問題が残る。 1つは好ましからざる使用の防止には有効でないこと。 例えばアイドルが自分の写真をアイコラには使って欲しくないということに対しては、ウォーターマークスキームは無力だ。 これについては、基本は現行法制と同様の仕組みで対応することが無難だろう。 つまり、一定期間内は著作権者に使用の差し止め請求権を認めることとする。

    4. もう1つは、フリーウェア作成が停滞するリスクがあること。 なにせ、ウォーターマークスキームにおいては、使う側からすれば直接金を支払わなくてよいという点では、企業製品も個人の作品も変わりがなくなる。 であれば、今は企業製品やシェアウェアに金を支払いたくないがためにフリーウェアを使っている人間の多くがフリーウェアの使用を中止しかねないし、そうすればフリーウェアを作成する気力を失う作者も多かろう。 これについては、国から金を受け取る権利を分割・譲渡可能にすることで対応することとする。 いわばデジタルデータについて「株式」を発行するようなものだ。 自分はお金はいらないから少しでも多くの人に作品を見たり使ったりして欲しいという作者はこの「株式」を利用者に与え、他方で利用者は「配当」を期待して将来普及しそうと見込まれるフリーウェアを使ったり自主的にPRしたりするようになる、という形でのプロモーションが可能となる。

    5. 蛇足ながら、ウォーターマーク埋め込みは義務ではなく権利である。 したがって、例えばストールマンの理念に共鳴してGPLライセンスで自分の作品を流通させたいと思えば、ウォーターマークを埋め込まずそのままネット上で公表すればよい。 ウォーターマークはあくまで国から金をもらうために埋め込むことができるものであり、国から金など受け取りたくないという人に対して同調を強いるものではない。

    書を捨てず、ネットに出よう−「コモンズ/ネット上の所有権強化は技術革新を殺す」(ローレンス・レッシグ著、山形浩生訳)(2003/12/4付)

    といってもこのアイデアも、さらに5年の時をさかのぼり1998年に公表された故石原潔さんのコピーされると儲かるシステムにすれ(命令形)にインスパイアされたもので、まことにネット上での著作権の議論らしくオリジナルが何かということは(少なくともwebmasterにとっては)重要ではありません。より重要だとwebmasterが思うのは、白田先生のご提案の勘所が何かという点で、石原さんのタイトルのようにコピーされればされるほど著作権者が儲かり、著作権者が自ら儲けのためにコピーを促進するようなものでなければならないでしょう。下衆の勘繰りではありますが、白田先生のこれまでのおっしゃりようから察するに、現在の流通業者等が儲からなくなってもかまわないとお考えなのでは、という気がするのです。

    しかし、現在の流通の仕組みによって儲けている者がおり、仕組みが変わることによってその儲けが失われると予測するならば、当然にそれらの者は仕組みの変更に反対するはずです。実際に、儲けが減る可能性が高い者の存在は、次のように十分に予測可能です。

     なぜ、Winnyの音楽ファイルダウンロードがCD売上を減らさなかったのか。田中氏はこの理由として、CD購入者とWinnyユーザーは需要が異なるという仮説や、Winnyには宣伝効果があるとする仮説などを立てる。

     「実際、米国では中堅以下のアーティストがファイル交換ネットワークに作品を流すと、売上が増えるという。トップアーティストの場合は売上が減るようだが……」

    WinnyはCD売上を減らさず〜慶應助教授の研究に迫る (3/3)

    だからといって、そうした反対者を理念的に糾弾したところで(たとえば「自分の利益のために全体の足を引っ張っている」など)、その批判を受け入れても飯の種にはならないのですから、反対は止むはずもありません。あくまで儲かるとのインセンティヴによって賛成に誘導することが、自由なコピーの実現にためには有益でしょう。

    さらに言えば、仮に現在著作権関連の企業の利益がX兆円、消費者が支払っている代金がY兆円だったとして、分配金の学はX兆円ではなくY兆円とするぐらいの思い切りがあれば、導入はさらに早まるでしょう‐現在X兆円しか儲けていないのに、儲けをY兆円(に近い額)とするのは心理的抵抗が大きいとは思いますが、消費者としては今以上の負担を強いられるわけでもなく、他方でコピーの自由が享受できるようになり、現時点でも損はないですし、中長期的メリットは言わずもがななのですから。

    12/12/2007 (11:59 pm)

    ベーコンとキャベツのパスタ3

    Filed under: recipe ::

    クリームシチューベースのオリジナル及び白ワインベースの第2弾に刺激されました。トマトソースベースです‐実は単なるアラビアータ(笑)。

    ingredients

    パスタ(スパゲッティが基本ですが、フェットチーネ(タリアテッレ)やリングイネ、ペンネなどもいいでしょう)

    お好み

    ベーコン

    お好み

    キャベツ

    お好み

    にんにく

    お好み

    唐辛子

    お好み

    トマト類(トマトピューレ、ダイスドトマトあるいはホールトマト)

    1缶

    お好み

    バジル

    お好み

    method

    1. パスタ用に湯を沸かす。塩はお好みの量を。
    2. ベーコンは1cm程度幅に切り、キャベツは適当にざく切り、にんにくはみじん切りないし包丁の腹でつぶし、唐辛子は手でちぎる。
    3. 油は使わずベーコンを弱火で炒める。時間の節約のために2.の作業中ベーコンだけを先行させ、ベーコンを炒めながら残りの作業を進めようという場合には、テフロン加工系のもので(鉄のフライパンですと、放置しておくと焦げ付きます)。
    4. 1.が十分に沸騰したらパスタをゆで始める。
    5. ベーコンが狐色になったらにんにくと唐辛子を加え、さらに弱火で炒める。
    6. にんにくの香りが漂ってきたらトマト類とキャベツを加え煮込む。(この間、包丁等を片付けるのもよいかと。)
    7. アルデンテに茹で上がったらパスタを取り出し、茹で汁を適量トマトソースに加える。
    8. トマトソースを味見し必要に応じて塩で味を調えたら、パスタをトマトソースに入れ、火を止める。(味見の間にパスタ鍋も片付けてしまいましょう。)
    9. パスタをトマトソースによく絡めたら皿に盛り、バジルを振り掛ける。(食べる前にフライパンを片付けてもよいですが、webmasterの好みでは出来立てを食べたいので、皿とあわせて食後に。)

    notes

    • ベーコンの油でにんにくを炒めるのは手抜きです。正統派でいくならばオリーブオイルで。
    • キャベツの代わりにブロッコリーや芽キャベツでもいい感じです。グリーンアスパラでもいけるのではないかと思います。
    • ドライトマトを入れるとさらにおいしくなります。
    • バジルは家にあったから使いましたが、イタリアンパセリなどでも問題ありません。
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