捕鯨問題への対処に見る自己満足
11/20のエントリー(「[捕鯨問題がちょっと気になりました - Baatarismの溜息通信](http://d.hatena.ne.jp/Baatarism/20071120)」)で、オーストラリアで日本の調査捕鯨に対する反発が強まっていて、労働党は軍を派遣するという発言までしているという話を書きました。その後、日本側でもオーストラリアの状況に反発した人がいたのか、今度はYouTubeにオーストラリアの反発を批判する動画が投稿されました。これに対してオーストラリアでは、ネットユーザーのみならず、マスコミや政府まで批判発言をしているそうです。
(略)
この動画を見て思ったのは、使われている手法が、従来「嫌韓」や「嫌中」で使われていた手法に似ているなということです。相手を直接批判するのではなく、相手の主張の矛盾点や相手が嫌がる事実をことさらに取り上げて揶揄するというのは、日本のネットにおける「嫌韓」や「嫌中」でよく使われていた手法ですが、この動画も「人種差別」や「動物虐殺」といった、オーストラリア側の矛盾や嫌がる事実を強調しています。
今後も日本のネットナショナリストは、他国で日本に対する理不尽な批判が行われたと感じたら、このような方法で相手を攻撃するのでしょうね。
「日豪捕鯨対立がYouTubeに飛び火」(@Baatarismの溜息通信1/9付)
タイトルの「自己満足」とは、批判するにしても真に有効な批判であるか、より一般化すれば批判することの影響を検討することなしに、自らの考えるところではこれは有効な批判であろうと思い込んでしまっていることを意味します。Baatarismさんはこの動画も「人種差別」や「動物虐殺」といった、オーストラリア側の矛盾や嫌がる事実を強調しています
とされていますが、これって「矛盾や嫌がる事実」なのでしょうか? 言い換えれば、ここでいう「オーストラリア側」とは、誰を指しているのでしょうか?
人種差別や動物虐殺が「矛盾や嫌がる事実」であるためには、それらを為す者が捕鯨に反対している必要があります。言行不一致、すなわち口では捕鯨という「動物虐殺」を非難しておきながら、自分がやっていることは日本人その他の有色人種差別で明らかに捕鯨反対が為にする議論であるとか、ディンゴやカンガルーに対する「動物虐殺」だという場合においては、それが批判として有効に機能するわけです。しかし、オーストラリア人という点で同じ属性だからといって、これらの者が重なるとは限りません。捕鯨反対派から、「ああ、あいつらもお前らと同じぐらい問題だね」と返されたらそれで終わりです。
さらには、仮にオーストラリアがそれらにきちんと対処して、「自分たちは批判にきちんと応えた。次は日本が捕鯨を止める番だ」なんてことになったらどうするのでしょう? 論理的にはつながらないものの、政治的にはこう言われて捕鯨を止めなければ「人種差別」や「動物虐殺」を言挙げしたことは単なるごまかしないし嫌がらせだったとみなされてしまうでしょう。かといってこれで止めるぐらいならば、今まで言ってきたこと(日本の文化が云々とか、捕鯨を止めればかえって生態系が傷つく云々とか)は、これまた実が伴わなかったとみなされるわけで、にっちもさっちも行かない状況に追い込まれるのは日本の側です。
#ま、そんなことをいう人間がYouTubeにいたからといって、それが日本を代表するものとは思われないでしょうけれども。だからこそ政府間交渉では、日本政府はこんな言い分を持ち出したりはしないのです。
結局のところ、この批判は議論に勝つためのものとして練られてはおらず、単に批判的なことを言って憂さを晴らしたかったのだろうな、と。そうでないと言うのであれば、無能だとの評価に甘んじなければならないわけですし。
