/テーマ別書庫/キリ番企画(目次)[8]/掌中の花episode 1
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軽くGがかかるとエレベータが止まり、静かにドアが開く。 地上を離れたときにはほぼ満員であったものの、これまで少しずつ人を吐き出し続けかなりの余裕ができていたところに、ここでも2人がフロアに降り、わずかに1人を残してさらに高みへ向かった。
かたや、エレベータホールに残る2人の男女。 黒革のハーフコートが覆う肩にラディッシュブラウンの髪を走らせて軽やかに右手に向きを変えると、1人はすばやく廊下へと回り込み、高く響くヒールの音だけを残して姿を消していく。 他方で残るもう1人は、エレベータホールの案内板をしばし眺めていた。
『やあ、キャシー、ずいぶんとごゆっくりの出勤で』
『うるさいわね。 ご生憎さま、クライアントと朝食をご一緒させて頂きました結果、もう今日のノルマは達成しましたので』
『それは何より。 だけど、ボスが遅いぞってわめきちらしてたから、早く報告しないと帳消しにされるんじゃないか?』
騒々しい英語が聞こえてきた頃、男はようやく左に向き直って歩き始めた。 が、とあるドアの前でノブに左手を伸ばしたところで動きが止めると、右手に持ったスターバックスコーヒーに前腕部に引っかけたスタンカラーコート、左手にぶら下げたジュラルミンアタッシェを交互に見つめた。
視線を3往復ほどさせた後、舌打ちとともに軽く肩をすくめ、アタッシェケースを足下に置き、紙コップとコートを左手に移し替えて右手でスーツの内ポケットをまさぐる。
その刹那。 かん高い電子音が鳴ると同時に内側にドアが開いた。
「まだ行ってないのか! もう大臣は出発しちゃうじゃないか!」
「今出まぁす!」
部屋の中からの怒号に振り返りながら、A4封筒をいくつも抱えた男が飛び出してきた。
「うわっ・・・」
「あっ、黒川補佐、ごめんなさい」
お互いに体をよじり危うくぶつからずにすんだものの、足下で鈍い音がすると、ジュラルミンアタッシェが数メートル先まで転がっていった。
「本当にすみません!」
「いいよ、気にするな」
黒川は走り去る背中に反射的に声をかける。
「・・・ただ、中身に何かあったら実費はくれよな」
半ば独り言のようにつぶやき、アタッシェケースを拾い上げて戻ると、カチャッ、と寸前でドアが閉まった。 再び軽く肩をすくめ、ケースを降ろし右手を自由にした上で、内ポケットからIDカードを取り出す。
「首から提げておいた方がいいってわかっちゃいたんだけどなぁ・・・」
ドア脇にカードを当てると、電子音とともにロックが外れる音が響いた。 開けたドアを足で固定した上で、もう一度ジュラルミンケースを手にすると、黒川は部屋の中へ入っていった。
閉ざされた扉の脇のプレートには、こう書かれてあった。 「担保不動産等流動化促進機構設立準備室」と。
(2003-08-12記)
その部屋は、20人あまりの執務室としてはかなり余裕のある広さであった。 窓際には、机がそれぞれの間に通路となるスペースを挟みつつ5つ並び、そのうち2つは両端にあって若干大きく、サイドテーブルが添えられている。
入り口から見て向かって右側にある大きめの机の前には応接セットが並べられていた。 その横の壁は個室との仕切りであり、入り口側が廊下のように空けられ、そこから個室へ入れるようになっている。 逆側の大きめの机の方では、壁沿いにも窓際のそれと同じように3つの机が続いている。
それらに囲まれて川の字のように3つの「島」=机の列が並び、各列は、両端が3つずつの机が向かい合わせとなった6席、中央は2つが向かい合わせとなった4席という形だ。 以上の他、川の字のへこんだ部分に作業用のテーブルが一つと、入り口側の壁面にコピー機やファクス、ロッカーなど。 これが、黒川の現在の勤務地の風景だった。
ロッカーにコートと上着をしまい込むと、黒川は応接セットの前を通って、窓際の個室側から数えて2番目となる自分の席に向かう。 途中、隣の大きめの机の主、参事官の有沢と目があった。
「結局出てきたのか。 休んでいたところ悪かったな」
「これも給料のうちですから」
椅子に座ると同時に、参事官席に一番近い島の机から、総務係長の岩村が寄ってきた。
「お疲れ様です。 思ったよりお早いですね」
「ペンションの主人に事情を話したら、いたく同情してくれて昨日の夜のうちに長野まで車を出してくれたんでね。 荷物の発送まで請け負ってくれたから、ほぼ着の身着のまま始発で帰ってきたってわけ。 しょせん独り身は気楽でいいさね」
ジュラルミンアタッシェを横に置き、靴をサンダルに履き替えながら黒川は答える。
「せっかくのご出勤ということで、いいお知らせがあります」
「ん?」
「以前からご要望の、補佐の下につく係の人間が来ました。 林さーん」
岩村が後ろを振り返って呼ぶと、川の字の真ん中にあたる島から一人の男が近づいてきた。
「こちら、全日本総研からいらっしゃった林さんです」
「どうもお世話になります。 このたび、こちらで働かせていただくことになった林と申します」
若干急ぎ気味に立ち上がる黒川の腰が伸びきるかどうかのタイミングで、林がペコリと頭を下げる。 それにあわせ、黒川も慌てて頭を下げた。
「黒川といいます。 こちらこそよろしく・・・えーっと、どのくらいここの事情はわかってるのかな?」
「いろんな報道や、ネットでの情報を見てるだけですから、ちょっとこの手の話題に興味を持っている一般人と考えてもらえば」
「そっかぁ・・・。 岩村さん、新しく来た人に渡すセットみたいなのって何か作ってあったりする?」
席に戻りかけていた岩村は立ち止まり、しばし心当たりを探った。
「いや、特にそうしたものは・・・」
「じゃあいいや。 あとはこっちで考えることにするよ。 ありがとう。 えーっと・・・」
椅子に腰を下ろした黒川は、引き出しの中から「根回し資料」と書かれたファイルを取り出し机の上に置き、くるりと後ろを向くと棚の中をしばらくあさる。 手を止め、小首をかしげた状態で5秒ほど虚空を見つめた後、右に体を向け床に置いてある段ボールの箱を開け、「年末政府与党合意(1・経緯)」と書かれたファイルを取り出した。
「とりあえず、この2冊のファイルと、あと・・・」
正面に向き直った黒川は林にファイルを手渡しながら、作業用テーブルの脇にある書類棚を指さす。
「役所では、国会や記者会見なんかで聞かれる質問に対してどう答えるか事前に準備するQ&Aを想定問答って呼ぶんだけど、その想定問答があの棚に入っているから、それを読めばだいたいはわかると思うよ。 想定問答は重複するものもずいぶんあるけど、基本的に新しいものだけ読んでおいてくれればいいから。 わかんないことがあれば、何でも聞いて」
「はい」
林が席に戻るのを見届けると、机上の「未済」と書かれた木箱に入った書類をまとめて取り出し、パラパラとめくりつつ視線を走らせる。 最後までめくり終わると、1枚抜き出して残りの束を元の場所に戻し、そのペーパーをじっくりと読みながら有沢を呼んだ。
「参事官」
「何だ」
「日銀のとりあえずの感触は、この3時メドの大臣説明に間に合うように確認しておけばいいってことですか」
「そうだ」
「でも、うちの次長は適当に飛び込めばいいとして、あっちの次長と室長を捕まえるタイミングはあるんですか? こいつにはそのあたりが何も書いてないですけど」
黒川は顔を上げ椅子を左に90度回転させると、「明日の大臣説明について」と題された手元のペーパーをつまんで軽く左右に振った。
「うちの次長が気にして大臣に状況をインプットしたいと言ってるだけで、大臣や室長の指示じゃないからな。 可能であれば事前に説明できるに超したことはないが、無理なら後でメモを回しておけば十分だろう」
そう答えた有沢は、机上にある革表紙の手帳をめくる。
「僕は13時から外資の連中の相手をしなきゃならんので、多分14時には終わるとは思うけど、できるんだったら僕を飛ばして次長に説明してくれて構わない。 次長は今は外出中だけど、昼過ぎには戻ってくるはずだから」
「了解」
机の引き出しから名刺入れを取り出した黒川は、受話器を取り上げると慎重に番号を確認しながら電話をかけた。
「もしもし。 私、流動化促進機構準備室の黒川と申しますが、八木課長はいらっしゃいますでしょうか・・・。 あ、どうも、ご無沙汰してます。 黒川です。 いや、本当に大変な事態で、ご愁傷様です。 いろんな雑事があってお忙しいんでしょう? ・・・いえいえ、自分一人ですから、突然打ち切って帰ることになったところで文句言う家族もいませんし。 ええ、そちらに比べればどうってことないですよ。 佐藤さんが何かおっしゃってたんですか? 私のプライベートまで知られてるなんてお恥ずかしい限りで」
黒川は椅子を左右に回しながらしゃべっていたが、ここでおもむろに「明日の大臣説明について」の上でシャープペンシルを持ち、メモをとる体勢を整えた。
「本題なんですけれども、昨晩ご不幸があったわけですが、上が一応御行の方針を確認しろと言ってまして・・・ええ、それはわかってます。 あくまでも副総裁までの事務方の方針で結構です。 決定会合で結論が出るまではあくまでそういった性格のものだってことは、大臣もよくわかってますから。 ・・・ええ、無理を承知ではありますけど、なんとか1時とか、遅くても2時頃でお願いできませんでしょうか。 ・・・いや、だから直接八木さんにお電話しているわけでして、私も補佐ですから、こんな特別な事情がなければ佐藤さんにお願いしますよ。 そこをあえて課長にお電話させてもらった事情をくみ取っていただければと思うわけですよ」
ふと黒川が顔を上げると、申し訳なさそうにしている岩村と視線が合った。
「ええ、必ずこの借りはどこかでお返しさせていただきます。 本当にありがとうございます。 よろしくお願いします」
黒川が受話器を下ろすと、岩村が急いで寄ってくる。
「補佐、すみません、機構について、これまでの経緯と現在の検討状況に関する議員からのレク依頼に対応をお願いしたいのですが・・・」
「今すぐ?」
「はい、今すぐお願いしたいと」
岩村はますます小さくなったように見える。
「あっちの部屋の補佐はどうしたの?」
「部会に随行で出てます。 8時半スタートなので、もう戻ってきていてもおかしくないのですが、まだ戻ってないということで・・・」
「しゃーないなぁ。 レク先の情報と、タクシーチケットと、あっちの部屋で用意している現時点での根回し資料と、あとバッジをよろしく」
「レク依頼の紙はこちらです」
机に紙を置くと、岩村はドアめがけて走り出した。
「あっ! バッジは2つね」
その背中を、黒川の大声が追いかけた。
「さて、と・・・じゃあ林さん、外出の準備をしてくれないか」
「えっ?」
とまどう林に対して、靴に履き替え、大きな鞄に「機構1」、「機構2」、「手持ち資料」などと書かれた複数のファイルを放り込みながら、黒川は続けた。
「ちょうどいい機会だ。 一緒に来て、横で説明を聞いていてくれ。 その方がわかりやすいだろうからね。 さっき渡したファイルを忘れないでね」
(2003-08-27記)
チーンという音とともにエレベータが開くと、一斉に人が吐き出された。 その最後に、黒川と林は降りた。
「このビルって、かなりオフィスが埋まってますよね。 うちの会社が入っているビルだと結構空き部屋が多くなってるんで、仕事中にこんな人混みに出くわすなんて新鮮な気分ですよ」
「都心の新しいビルはどこでも人気が高いって言うからね。 でも、準備室だってうちの部屋ともう一つの参事官室に、大臣、副大臣、室長に両次長の個室があるけど、それを1つのフロアで確保できてるぐらいだから、2003年問題はやっぱりあったんだろうね」
ロビーをにぎわす雑踏をかいくぐって外に出たところで、黒川は立ち止まる。
「林さん、ちょっと待ってもらってていいかな」
気づかず前に出た林が振り返ると、扉の脇に置かれた灰皿を取り巻く人だかりの中で、黒川は胸のポケットからタバコをとりだしていた。
「このご時世、スモーカーは肩身が狭くってね・・・。 本当は急いで行かなきゃいかんのだけど、このぐらい許してもらわないと。 ちなみに林さんは?」
「私はやりませんが・・・確かに喫煙者を見てると大変だなとは思いますよ」
「喫煙所なんてものは屋内のあんまり人目につかないところにあった方がいいんだろうに、玄関脇でも外に追い出されてるぐらいだから」
「ここは普通のオフィスビルですけど、霞が関の建物はどうなんですか?」
「似たようなもんさ」
半分ほどが煙と消えたタバコを名残惜しそうに眺めると、黒川は灰皿の中に放り込む。
「じゃ仕事に行きま・・・」
「あーっ(ハァハァ)、よかった(ハァハァ)、間に合った!」
不意にビルの中から、外でも十分聞こえる大声が響いた。 喫煙所に集う人々の視線が一つとなって、ガラス越しにロビーに注がれる。
「なんだよ、うちの人間じゃないか・・・」
半ば呆然と黒川が見つめる先では、その太さで人目を必要以上に集めている男がもどかしそうに回転ドアを押す。
「先に行っちゃったかと思って焦りましたよ」
男はようやく回転ドアを抜けると、黒川に近寄ってきた。
「こんなに寒いってのに暑苦しいなぁ、もう。 林さん、こちらうちとは別の参事官室の佐藤係長。 佐藤さん、こちらはこんどうちの部屋に配属になった林係長」
「林です。 全日本総研からこちらに出向してきました。 まだ素人ですがよろしくお願いします」
「佐藤です。 準備室では北島参事官の下で雑用やってます。 こちらこそよろしくお願いします」
「ま、挨拶はそのぐらいにして出発しましょ」
そう黒川が促すと、3人は歩き始めた。
「しかし、こうしてみると準備室一番の高さと重さがそろったみたいだな。 林さん、180センチはあるでしょ?」
そう林に話しかける黒川の目線は上向きだ。
「ええ」
「有沢参事官とどっちが高いか、こんど飲み会でもあったら是非比べてみたいもんだ。 しかし、これじゃ準備室一のでこぼこコンビってことになっちゃうな、私と林さんは」
「あーっ、そうですね。 男性職員の中では黒川さん一番背が低いんですよね。 うちの参事官室にはそう紹介しておきますよ」
「しなくていい」
「えーっ。 いいキャッチコピーだと思うんですけどねぇ・・・」
そうこうするうち、客待ちをしているタクシーの列にたどりついた3人。 まず黒川が後部座席に入り、林が続き、佐藤は助手席に落ち着いた。
「衆議院の第二議員会館までお願いしたいんだけど、わかる?」
「ごめんなさい、最近東京に出てきたんで、まだよくわからないんですよ」
黒川に対して運転手は恐縮しつつ答える。
「じゃあこのまままっすぐ行ってもらって、『山王下』の交差点を左に曲がってください。 すぐにT字路に突き当たるので、そこも左に曲がってください。 そのまま道なりに進んでもらうと信号があるので、そこをまっすぐ行って坂を上って、てっぺんの信号を左に。 だけど、赤だったらそこで降ろしてくれればいいから」
「はい、わかりました」
車が発進すると、黒川はタクシーチケットに必要事項を書き込み始める。
「私が書きましょうか?」
「いいよ、このぐらい。 それより、佐藤さんは部会についていかなくってよかったの?」
後ろを振り向いて話す佐藤に黒川が返す。
「メモ取り要員にうちの係員も供出してますから、私はセーフでした」
「でもあれ、8時半開始だろ? 随分長くかかってるよな」
「土地に国が手を出すのはおかしい、市場原理に任せるべきであって小泉改革の理念に反するって議員がいる一方で、日本は土地本位制なんだから、そのぐらいのことをしないと経済は復活できないっていう両方の意見が与党の中にもありますからね。 で、どっちも相手に直接文句を言わずに官僚いじめだから」
ハンカチで額の汗をぬぐいながら佐藤が答える。
「そんなそもそも論は年末に与党内でも決着がついているはずなのに、いつまでたっても話が蒸し返されるんだから勘弁して欲しいですよね」
「我々の今日の相手は野党議員なんだから、そんなことはしゃべるんじゃないぞ」
「そのぐらいはわかってます」
「なんか思ったより自由な雰囲気なんですね、役所って」
黒川と佐藤の話を聞いていた林がポツリと漏らした。
「いや、それは人による。 佐藤係長と言えば、体重の2乗に比例して態度もでかいって有名だからね」
「そんなことないですよ」
「いやいや、財務省が誇る若手のホープがそんなご謙遜を」
「そんなことないんですってば。 係長クラスで差なんかつかないんですから。 だいたい、黒川補佐こそ農水省で出世頭って聞きましたよ」
ようやく汗をぬぐい終わりハンカチをポケットにもどしながら、佐藤が声を潜めていわくありげに言う。
「誰がそんなことを」
「うちの小早川次長。 準備室発足の直前に、うちから出向する人間で集まって飲んだんですが、そのとき、『農水省から黒川ってのが来るから仲良くしてもらえよ。 あいつは絶対偉くなるから』って」
「まったく小早川さんにもまいるよ。 何でか知らないけど妙に買いかぶってくれるもんだから・・・」
困ったようにつぶやく黒川を無視して、佐藤はさらに体をひねり林に顔を向ける。
「とにかく、態度がでかいなんてことありませんから。 今朝も岩村係長からいくつか書類が届いたと思いますが、あれを処理するのはうちの係なんで、もしわかんないところとかあったら遠慮なく聞いてくださいね」
佐藤の言葉を聞いたとたん、黒川は素早く眉をひそめた。
「しまった・・・佐藤さん、まだ林さんの身分証ってできてないよね?」
「ええ、まだですけど・・・それが何か?」
「何か、問題があるのでしょうか?」
きょとんとして佐藤が答える一方で、おずおずと尋ねる林の顔には不安が窺える。
「いや、さ、バッジは付けてきてもらったけど・・・」
「あっ、なるほど、そうですね・・・」
納得の表情を浮かべる佐藤に対して、依然として林の顔にはとまどいがあった。
「たいしたことはないですよ。 議員会館にはいるときはバッジを付けてなきゃダメなんですけど、それだけじゃなくって、身分証も見せる必要があるんです。 もちろん会社の身分証はお持ちでしょうけど、それじゃなくって役所のものが必要なんです」
「それじゃあ、私は入れないんですか?」
「いえ、入れはするんですが、そのためには受付で書類を書いてもらわなきゃいけないんです。 面倒でしょうけど、我慢してください」
「それだけですか。 ほっとしました。 せっかくつれてきてもらったのに、と焦りましたよ」
ようやく林は安堵の表情を浮かべて大きく息をついた。
「お客さん、おっしゃっていた信号ですが、ここでよろしいんでしょうか」
なめらかに車を止めると運転手が尋ねた。
「ああ、ここでいいです。 じゃあ2人は先に降りててよ」
「660円になります」
まず2人が降り、しばらくしてチケットに金額を記入し運転手に渡した黒川もタクシーを後にする。 そばでは、「戦争反対」「拉致問題解決は話し合いから」などと書かれた横断幕が掲げられ、その前で団扇太鼓を叩いている僧侶とおぼしき一団や、道行く人々にビラを手渡している集団が国会周辺独特の雰囲気を醸し出していた。
「国会議事堂を見るなんて、昔修学旅行以来ですよ。 でも、これって裏側ですよね。 なんか雰囲気が違いますね」
道路の向かいに横たわる建物を右−衆議院側−から左−参議院側−へと見渡しながら、林は思わず言葉をこぼした。
「確かに国会議事堂って、テレビでは見ることあっても生で見る機会はそうないですからねぇ・・・。 われわれみたいな因果な商売してれば別ですけど」
佐藤はそう答えながら、そして黒川は言葉こそ発しなかったが、改めて2人は普段は特に気を配ることなく見過ごしている建物に対する感慨を呼び起こされたように、林と行動を同じくした−しばし、見慣れているはずの国会議事堂を眺めていた。
そんな3人の背後には、三つ子仕立ての白い7階建ての建物が並び立つ。 衆議院側の端が衆議院第一議員会館、参議院側の端が参議院議員会館。 黒川はようやく正面から視線をはがし、今回の目的地、中央の衆議院第二議員会館へゆっくりと向き直った。
「それじゃあまいりましょうか。 佐藤さんも来てくれたわけだし、法律関係の説明はお任せしますぜ」
軽く黒川が佐藤の肩を叩くと、佐藤は口をとがらせる。
「私はあくまでも係長。 サポート役なんですからね!」
しかし、黒川は耳を貸す様子もなく歩き出した。
「もう、待ってくださいよ」
早足で歩いた佐藤が2人に追いついたのは議員会館の自動ドアの直前だ。
「また汗かいちゃったじゃないですか」
「急いできたのがよくわかっていいんじゃない?」
「勘弁して欲しいなぁ」
なんとなく顔を見合わせると、全員が一斉に吹き出す。 そのまま笑いながら、3人は議員会館に足を踏み入れた。
(2003-11-16記)
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