writings concerning kasumigaseki issues and others: 共有地の喜劇
2004年
第1幕
chomoの日記でのご指摘
オリックスの宮内オーナーに関する当サイトのテキストについて、次のようなコメントをいただいた。
# wolfy 『このリンク先の発言は信頼に値しない。 少なくともチームを見た時に、野田は放出されていないし、星野・中嶋についてはFA行使者を留保しないというポリシー(投資効率に見合わない=優勝しても15億の赤字は相当ショックだったようだ)によるものだし、平井・鈴木平の球威は既にパでは通用せず、高橋智に至っては「カーブが打てないことはパでは衆知」(実際カーブ投げられて3球三振も珍しくなかった)などという問題を放棄して語っており、当初から揶揄すべくして記載された内容であることを、考え置く必要があるだろう。』
7月25日の記事に対するコメント
野田選手については全くご指摘のとおり、webmasterの記憶違いであり事実誤認だ。 ご指摘に感謝したい。 また、その他についても、戦力足りえたかどうかは当時における主観的判断の問題であると思うが、逆に言えば、ご指摘を正しいものとして受け入れることも選択肢としては十分「あり」だ。 が、あのテキストで書きたかったのはまさに宮内オーナーが投資効率を最優先で野球を捉えているということで、いみじくも「投資効率」という言葉が上記引用文にもあるように、その認識には実はそれほど差がないのではないか(それに対する評価は異なることは事実であり、故に「揶揄」という言い方をしているのだとは思うが)。
メールでのご指摘
流動性の罠に関する当サイトのテキストについて、通貨と債券が完全代替となるには特殊な前提が必要で、一般論としては不適切であるとのコメントをいただいた。
具体的には、将来ゼロ金利から脱した段階では金利が付されることを考えれば、債券が通貨と完全代替になるためには当該債券の満期までの間ゼロ金利が続くと投資家が信頼する必要があるということである。 現にFBは実質ゼロ金利でほぼ通貨と完全代替にあると言える(少なくとも機関投資家にとって)が、長期債はゼロ金利とはなっておらず、その点で通貨とは明らかに異なる金融商品である。 ご指摘多謝。
(2004-08-01記)
第3幕
山本弘のSF秘密基地・掲示板及び山本弘問題連絡会掲示板でのご指摘
そもそもの始まりは、前者の掲示板の「7月の読書」スレにおける、通行人sさんの次の書き込みである。
☆ Re: 7月の読書 / 通行人s
> 「ヒーローでわかる日本経済」梶井厚志
これについてはamazonの子母原心さんの評が適切です。
梶井さん自身は必読の好著『戦略的思考の技術』(中公新書)もある気鋭のゲーム理論家なんですが。なお山本さんの『神は沈黙せず』に対するこの書評はきわめて重要な問題を提起していると思います。
http://bewaad.com/writings.html#Jun20042No.20265 - 2004/07/26(Mon) 01:18 [YahooBB218139178053.bbtec.net]
(「7月の読書」スレ@山本弘のSF秘密基地・掲示板)(webmaster注:引用文中のリンクは、表示される文字とは異なり、「神は沈黙せず」の書評のパーマネントURIに張替え済)
この発言に対するレスは以下のとおり(必要部分のみ抜粋)。
☆ Re: 7月の読書 / 十一郎
>通行人sさん
そのサイトの一番下、「書評」からたどった先ですよね?
「予定説」という名前に関しては知りませんでしたが、「人間が神の真意を知り得ることはできない」といった程度なら、序盤に数ページかけて触れられていますよ。
☆ Re: 7月の読書 / 山本弘 [近畿]
通行人sさん、こんにちは。
「予定説」というのは知ってましたが、それは結局のところ「神はなぜ悪が存在するのを許すのか」という疑問の出発点であって、答えにはなってないですよね。
それが答えになると信じてる人がいることの方が不思議です。
(いずれも「7月の読書」スレ@山本弘のSF秘密基地・掲示板)
図らずも、webmasterが「神は沈黙せず」の書評で書いたこと、つまり山本とそのファン層にとってのいわゆる文系知識の縁遠さが裏付けられてしまったレスであるが、これらについては、後者の掲示板の「神は沈黙せず」ネタバレスレ(既にログが別途ファイル化されているので、もし流れた際にはそちらをご覧いただきたい)、レス番891から894までの書き込みで、webmasterのテキストを紹介の上、的確なコメントが付されている。 詳しくはリンク先を見てもらうとして、山本のコメントについては次のような指摘がなされた。
これが山本の考えがおかしな点。 予定説は悪について答えを出していない。 神沈もまた答えを出していない。 なぜこの世の終わりに救われる人間と救われない人間がいるのか、予定説は答えてくれない。 神沈もしかり。 どちらも神の意志は人間の理解を超えたものであり、人間はひたすらそれを意味も分らず受け容れるだけである、と述べている。 どこがちがうのだろうか。
両方とも「答えがないのが答え」なのだが、山本は、同じ事を既存の宗教が示すと「答えになっていない」といい、自分が述べると「神と人間の関係をきちんと答えています」になる。 つくづく困った人間だ。
(「神は沈黙せず」ネタバレスレのレス894@山本弘問題連絡会掲示板)
とまあwebmasterの言わんとするところを理解していただき、さらには(表現はともかく)先取りまでしていただいたが、一点だけ見解が分かれるところがあるので、そこについての意見を明らかにしておきたい。
これは賛同できないのだが。 何しろUFOや新興宗教のような部分を山本が信じているとは思えない。 むしろ信じていないことを選んで書いている。 それなら経済の部分もそうみるのが妥当だと思うのだがね。 逆に言えばこの人は山本が書いているUFOとかの部分をそこそこ本当ぽい(と山本が考えている)と考えているのだろうか。
(「神は沈黙せず」ネタバレスレのレス892@山本弘問題連絡会掲示板)(webmaster注:冒頭の「これ」とは、山本が跡田・浅井本や木村本の内容に疑いを持っていないように見える、とのwebmasterの指摘)
通常、フィクションに何か一つ大きな仕掛けを持ち込む場合、その他の部分についてはなるべくリアリティを保つ必要がある。 書き込みにある、UFOや新興宗教について言えば、UFOがああいったものであるというのはここでいう仕掛けなので、リアルでないことを承知で作品世界に導入しているだろう。 また新興宗教は、山本自身は当然信じてはいないだろうが、ああいった宗教にはまる人がいるのは事実だし、その当たりは十分取材して書いていることは明らかにされている。
翻って経済についてであるが、この分野における仕掛けはAVP。 このAVPという仕掛けに説得力を持たせるためには、それ以外の部分について十分にリアリティを確保する必要があるし、山本はそういうものとして跡田・浅井本や木村本の世界を眺めた可能性が高い。 なぜなら、例えばタキオングッズを嗤うにはタキオンのなんたるかを知る必要があるように、跡田・浅井本や木村本を嗤うには、ドーマー定理とプライマリーバランスの関係や国際収支統計の定義などについての知識が必要だが、ネタバレスレを見る限り、山本がそうしたことを知っているようには思えないからだ。
最後に少し脱線だが、そうしたトンデモな主張に手を貸す跡田を放置している経済学界には苦言を呈したい。 トンデモ世界の「ひでおの法則」に当てはまる工学博士は、自分の専門外でトンデモなことを言っているか、それとも専門分野でトンデモなことを言うが故に学会で相手にされていないかのいずれか。 トンデモをトンデモとして許容可能であるゆえんは、それが学会で無力であるが故に笑っていられるから。 仮に日本の理学界や工学界が「ひでお」たちをまともに受け入れるような事態になれば、多くの人は笑ってる場合ではないとばかりに激しい批判を浴びせることだろう。
かたや跡田は慶応大学教授であり、さらに日本経済学会や日本財政学会に所属ており、まさに自らの専門分野においてトンデモな言動をしているわけだが、それを批判する声は寡聞にして知らない。 彼を引き立てたという、経済財政諮問会議委員として権勢を誇る本間正明に遠慮しているのかどうかは知らないが、彼の肩書きを見てその言説を信じる素人が出てくることは、跡田個人の責任である以上に、それを黙認する経済学界の責任であるのではないか。
(2004-08-16記)
第5幕
メールでのご指摘
前回の編集後記でゲッベルスの総力戦布告について触れたが、その録音の一部がネット上で入手できるというメールをいただいた。 ran an den Feind!というサイトがそれで、その中の第三帝国音声館からダウンロードできる(和訳が見つかったので、ついでにお示ししておきたい)。
最近の米大統領候補指名に係る民主党大会や共和党大会の演説もそうだが、日本での演説とは空気が違う。 一聴の価値ありではなかろうか。
(2004-08-31記)
第7幕
マーケットの馬車馬でのご指摘
(馬車馬氏との議論に関するテキストは、「馬車馬氏との議論集」に移転しました。 ここにあったテキストは、「第7幕第1場」になります。)
flapjackのbookmarksおよびisuzukiの日記でのご指摘
flapjack氏(お久しぶりである)のイギリスとの比較での公務員制度論についてのやりとり(社会の流動性について−イギリスの官僚の場合−、社会の流動性について(id:flapjack:20040909#p1の続き)および社会の流動性について(続き))並びにisuzuki氏のそれに関するコメントにおいて、webmasterのテキストが紹介された。 詳しいコメントは次回にさせていただきたいが、反射的に浮かんだものを思いつくまま並べて予告としたい。 どうせなら、ということであえてargumentativeな物言いで(笑)。
- キャリア制が諸悪の根元? ある程度大きな組織ではたいてい似通った人事制度があるのだが(総合職と一般職、将校と下士官・兵、教授と事務員など)。
- 国家公務員採用I種試験の年齢上限は33歳。 博士号を取得してからでも十分間に合う。 博士号保有者が極めて少ないのは制度の問題ではなく、受験者に修士号保有者はそれなりにいても博士号保有者はほとんどいないという博士号保有者のビヘイビアに帰せられるべきもの。
- 世界的にエリートといえば博士号保有者なのは政府部門に限った話ではない。 欧米では結構企業の上層部に社会科学系の博士号保有者がいたりするが、日本の企業ではこれが圧倒的に少ない。 就職に困っているという噂をよく聞くODの人々は、研究職しか考えてないんじゃないの?
- 国家公務員採用I種試験のレベルは本当にたいしたことない。 司法試験と比べれば冗談みたいに簡単だし、院試より簡単だ。 それが難関試験だと言い、試験秀才ばかりが集まる原因になっていると言うのは、科挙になぞらえるような比喩を現実だと思いこんだ批判だ。
- 天下りがあるから俗に言う「老害」を防止できている。 天下りをやめ、かつ「老害」を防止したいなら、戦前の恩給のように公務員の年金を引き上げる必要があるが、それは政治的にフィージブルでない。
- 同様に、公務員の給与を引き上げて民間から中途採用しやすくしようというのも、残念ながら政治的にフィージブルでない。
- 白地に絵を描くならともかく、現に与党は官僚組織をシンクタンクとして無料で使えるので、政策提言シンクタンクを作ってもそこに金を出して発注するインセンティブがない。 強いて言えば野党にはそうしたシンクタンクを活用するインセンティブがないではないが、そのような動きは聞いたことがない。
- 縦割りと言えば聞こえは悪いが、戦前・戦中期に軍事費の伸びがあの程度で収まったのは大蔵省が軍部に抵抗したから。 大蔵省が「国益」を「省益」に優先させてもっと軍部の言うことを聞いていた方が良かった? きれい事を言えば、「省益」をぶつけ合うのは裁判において双方の弁護側がそれぞれの主張の立証に最大限努力するようなもの。 それよりも双方の弁護側がなれ合って落としどころを探った方がいいとでも?
- 政府全体で一括採用・省庁横断的人事異動をするなんてのは絵空事。 今の省庁別採用・人事異動だって一人一人の特性をどこまで把握・評価しているかあやしいというのに、それを10倍以上の規模にしてうまくいくとは思いがたい。 かえって派閥・情実人事が横行するだけかと。
切込隊長BLOG〜俺様キングダムでのご指摘
日本経団連レポートに関するエントリのコメント欄で、webmasterのテキストが隊長氏がリフレ派であるとのサポートとして挙げられていた(55番)。 かつて隊長は中国発デフレ論をバカバカしいと断言していたのでそう思っていたのだが、53番コメントにあるように「インタゲに反対するようなエントリ書いてた」ということであるなら認識を改めなければならない。
早速過去のエントリを探ってみると、財政についてのエントリがそれっぽくある。
インフレターゲットなど金利が上がる政策はもってのほかだ。 打ち出の小槌である日銀のバランスシートは金利に弱い。 1%上がれば、日銀の資産は2兆円近く吹き飛ぶ。
ただ、日銀の資産が吹き飛んでインフレになって日本の富が海外に流出しても良いと思っている人もいる。 早稲田の教授に収まった植草某や野村證券の某クーなどもそうだが、とにかくデフレを止めることを起点にしている人は、あまり健全化に興味がない。
という部分は明らかにリフレ派ではない。ただ、同じエントリで次のようなことも書かれている。
最終的に歳入を安定させ、ある程度の構造の最適化をする旗振り役が、支持率を気にしている以上、先送りありきで話を進める以外に方法はない。 政府紙幣発行やインフレターゲットのようなアイデアがあったとしても、その是非を検討する以前のところで実行されないのであれば、偉い人がリスクを背負ってまで改革に力を傾けるモチベーションも沸かない。
りそなの事実上の国有化も、既に起きていた未来だったことも言うまでもない。
不良債権処理によって国有化された暁には、銀行経営の、特に資産面で根幹を占めていた持合の構造が崩れ、勢い日銀による国債の引き受けを無制限に行っていかざるを得ない。 次に起きる未来は、より脆弱だが大手の生保破綻だろう。 りそなで試されたセーフティーネットが機能したことが証明され、さしたる混乱もなかったのだから、2兆円でりそなが処理されたのと同じスキームで生保の破綻を整理することに金融政策上の問題点は相当クリアされた。 後は、持合によってバランスシートが痛んだ生保の我慢比べでどこが脱落するかだけになった。 セーフティーネットを発動する>特別金融を履行する>国債を新規発行する>日銀が引き受けるの大枠がある限り、何年先のピザでも口に入る。
というあたり(なお、強調はwebmasterによる)は、リフレ派的な主張でもある。 シニョリッジ活用による財政政策に力点を置き、その政策パッケージにおける金融政策には悲観的とも考えられ、広い意味でのリフレ派と分類できなくもない。 とりあえず、もう少し隊長の意見を見るまでは、彼の立ち位置についての判断は留保するのが正解という気がする。
(2004-09-21記)
第8幕
flapjackのbookmarksおよびisuzukiの日記でのご指摘
前回あれこれ書いたことをブレイクダウンしていくに当たり、世間的によく言われている批判を整理してみたのが以下のリストだ。
- いわゆるキャリア制度に対する批判。 そんな特権階級は存在自体認めるべきではない、というもの。
- いわゆるキャリアとなる人間の選抜方法に対する批判。 東大法学部の人間ばっかり集めるから世間の機微がわからないんだ、というものから、いわゆるノンキャリアからの編入があってもいいのではとか、修士・博士が少なすぎて本当のエリートが選抜されていない、というものまであるが、これらはもっといい選び方があるはずなのに現実はそうではないという指摘だとまとめられよう。
- いわゆる縦割り行政に対する批判。 政策立案のやり方など、様々な分野にまたがる問題であるが、人事制度との関係では、各省庁別採用をやめて政府一括採用にすべきというものと、人事交流を盛んにすべきというものが双璧だろう。 前者は2とも重なるテーマだが、こちらで検討したい。
- いわゆる天下りに対する批判。
今回から詳しくコメントを、と申し上げておきながら恐縮だが、次回以降、上記の分類に従って論じていきたい。
マーケットの馬車馬でのご指摘
(馬車馬氏との議論に関するテキストは、「馬車馬氏との議論集」に移転しました。 ここにあったテキストは、「第8幕第2場」になります。)
読者からの投稿
リフレ政策に関連し、読者の方から投稿をいただいた。 その全文はご自身のサイトでデフレ、割引通貨と題してアップされているので、まずはご紹介させていただき、次の機会にコメントしたい。
(2004-10-31記)
(2004-11-03追記)
第9幕
flapjackのbookmarksおよびisuzukiの日記でのご指摘
前回、議論を進める順番を示したリストを出しておいてなんだが、isuzuki氏から公務員が退職した後には準弁護士資格を付与するというのはどうか、という新たな提案をいただいたので、リストでは最後に位置づけていた天下り問題を最初に論じたい。
この問題を論ずるには、待遇と人材の質は平均的には比例する、ということをまずは押さえておく必要がある。 異なる業種を横断的に比較するのは困難であるが、少なくとも他の条件を固定した場合、何らかの形で待遇を悪くすれば、集められる人材の質は平均的には下がることは避けられない。 天下りは当然老後の待遇の話なので、まずここで一つ選択肢がある。 人材の質が下がってもいいので、天下りをやめさせろ、というものが。
ちなみに、天下りを含めたキャリアの待遇については、リストラ等吹き荒れ、厳しい民間の待遇に比べて官僚の待遇が乖離しすぎているなどという指摘もあるが、仮に今が働きに比して待遇が良すぎたとしても、今の働きに見合った待遇に下げれば人材の質は落ちて結局乖離は残ることになる。 実際のところ、たいていの場合キャリアになろうとする人間は、就職しようと思えば、法曹、学者、金融界(近年は外資系も相当増えている)、コンサルタントといった平均的には待遇のいい他の職業人になることができ、他に職がないのでキャリアを仕方なく選んでいるということではないので、待遇が引き下げられた場合、今キャリアを選んでいる人間のうち少なからぬ割合が他の職業を選ぶこととなろう(実証研究によると、最近では法曹に相当流れているとのことである)。
では待遇を下げない場合にはどのような選択肢があり得るか、網羅的に列挙してみると以下のようなものとなる。
- 早期退職慣行をやめて定年まで雇用を継続し、税金で待遇を維持
-
- 今の頭数を維持して、総人件費を引上げ
- メリット:癒着等の「天下りの弊害」がなくなる。
- デメリット:いわゆる「老害」の可能性がある。 また、今の政治状況において総人件費の引上げはまず不可能。
-
- 総人件費を維持して、頭数を引下げ
- メリット:癒着等の「天下りの弊害」がなくなる。
- デメリット:いわゆる「老害」の可能性がある。 また、現在の仕事量が減らなければ、実質的に仕事あたり給与の引下げとなり、結局待遇が維持できない。
-
- 早期退職慣行は維持するが天下りはやめ、退職金・年金を引上げ
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- 今の頭数を維持して、総支給額を引上げ
- メリット:癒着等の「天下りの弊害」がなくなる。
- デメリット:今の政治状況において、退職金・年金支給総額の引上げはまず不可能。
-
- 総支給額を維持して、頭数を引下げ
- メリット:癒着等の「天下りの弊害」がなくなる。
- デメリット:現在の仕事量が減らなければ、実質的に仕事あたり給与の引下げとなり、結局待遇が維持できない。
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- 早期退職慣行・再就職は維持するが、天下り(=組織的な就職先斡旋)は廃止
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- 個人の求職活動の推奨
- メリット:無能な人間を組織の力で押しつけられることはなくなる。
- デメリット:汚職が増える可能性がある。
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- キャリアOBに何らかの資格を付与
- メリット:上記各代替案のデメリットは存在せず、癒着等の「天下りの弊害」もなくなる。
- デメリット:現にキャリアOBが一般に有している能力が社会的に必要とされていれば、資格を付与するまでもなくその分野にスムーズに再就職できるはずなのに、そういった事態は一般には観測されない(もちろん、個人の能力で再就職している人は少なからずいるが、一般的ではない)以上、そのような資格に基づく商売が成立する可能性は低い。 それを制度的に市場が成立するように仕組むと、「準弁護士」のアイデアを提唱している落合弁護士のblogのエントリでいみじくも指摘されている公証人のような結果に終わりかねない。
-
- 天下りを維持
おそらく、一般に受けが良いのは総人件費ないし退職金・年金の総支給額を維持して人を減らし、行革で仕事も減らすという選択肢だろうが、実際のところこれは大変難しい。 何も権限を維持したいから、というわけではない。 行革の中身として、現業部門の減量(独立行政法人への移管や郵政民営化など)は、仕事量と頭数が一緒に減るので、残った人間の一人あたり仕事量には中立である。 また、事前規制から事後チェックへの転換は、とりあえずさせない(これは極論を言えば担当者一人の判断に委ね得る)、ということができず、自由にさせておいて何か起こった場合に事態の収拾を図らなければならなくなる(当然これは相当程度の仕事量(実態把握、メディア・国会対応、対応の検討等)を伴う)ので、仕事量は増える。 さらに、行政の透明化も行革の重要な構成要素であるが、これも対外説明をはじめとする仕事量の増加を伴う。 こと仕事を減らすことのみを目的とするならば、行革を逆行させた方がよいのだ。
それではどうすればよいのか。 天下りをやめることを絶対視するのであれば、webmasterの個人的見解としては、待遇を悪くして人材の質の低下を甘受するのがもっとも弊害が少ないと予想される。 既述のとおりキャリア官僚とは、金儲けがしたければいくらでも他に道はあったのに、あえてそうでない職業を選んでいるという、一種の変人の集団である。 だから、待遇が悪くなったほどにはパフォーマンスは低下しないだろう。 ・・・多分。
マーケットの馬車馬でのご指摘
(馬車馬氏との議論に関するテキストは、「馬車馬氏との議論集」に移転しました。 ここにあったテキストは、「第9幕第2場」になります。)
(2004-11-30記)
第10幕
flapjackのbookmarksおよびisuzukiの日記でのご指摘
前回の天下りについての議論は(順番としては)例外ということで、今回は最初に戻って、なぜキャリアというステイタスが必要であるかについて考えてみたい。 この連載にあたり最初に触れたように、公務員の世界におけるキャリアのような、将来の管理職を担う人間を囲い込む特定の集団が形成されるのは、こと官界に限らず多くの世界に見られることである。 だから、他と一緒よと言ってしまえば終わりではあるのだが、そうした集団の存在意義について、公務員の世界にとらわれず論じてみることとする(なお、体系的に整理された研究に触れたわけではないので、あくまでwebmasterの個人的な経験等に基づく断片的な考察であることをあらかじめお断りしておく)。
存在意義として簡単に思いつくものとしては、集団の管理に必要とされる一定のスキルがあるから、というもの。 よく「名選手は必ずしも名監督ならず」と言われるが、選手として活躍するために求められるスキルと監督として活躍するために求められるスキルがあるのであれば、名選手=名監督となるとは限らないのは当然であるし、そうした言葉が生まれるように、プロ野球界ではそうした実例はいくらでも見られる(サッカー界になるとこれはさらに徹底していてコーチング資格制度があり、そもそも資格を有していなければ、どれほどの名選手であっても監督になれない)。
スポーツの世界から一般社会に目を向けても、実際にこの世にはビジネススクール(いわゆるMBA等を学位として授与する大学院)や軍隊における士官学校のように、集団の管理には一定のスキルが求められることを前提に、そうしたスキルを身につけさせる課程を組んでいる教育機関が世の中には数多く存在する。 これらの機関はそれなりに有用であるという社会的評価を受けているからこそ、長きにわたり存続し、今もなお衰退の兆しも見えないのだろうから、やはりその前提、つまり集団の管理にはそのためのスキルがある、という命題が真である可能性は極めて高いし、であればそうしたスキルの有無や適性を見て採用し、継続的にスキルのブラッシュアップを図る集団があることには合理性があると言えよう(今のキャリアが実際にそうした集団であるかどうかは、次回に論ずる)。
他に考えつくのは、就職市場のセグメントとシグナリング理論。 就職市場のセグメント、などと大げさな言い方をしたが、これは単に、いわゆる就職活動では、通常似通った待遇を提示する会社同士を学生は選択肢とする、ということ。 言うまでもないことだが、大まかな傾向として、世間的に評価の高い大学の学生は総じて待遇のいい会社の中から就職先を選び、以下相対的に評価が低い大学、大卒未満の順に待遇は下がっていく。 したがって、もしキャリア制度を廃止して、全ての公務員を一律の基準で採用することとすると、学生に提示される待遇はI種、II種、III種の差がなくなりその加重平均値に落ち着くこととなるが、国家公務員に支給される人件費等のコストの総額は固定だという前提をおくと、当たり前だがこの新たに提示される待遇は、従来I種志望者に提示されていたそれよりも低い水準のものとならざるを得ないのだが、これにより、従来I種採用されていた学生層にとっては、公務員という職種は選択肢からはずれることとなる。
つまり、一般にキャリア制度を廃止すると出身校を問わない全員一律の競争が行われるかのように言われているが、実際に起こるのは、そもそも「一流大」卒をほとんど含まない(で、おそらくは高卒等もほとんど含まない)一定の集団内での競争であって、今I種採用されている人間とII種採用されている人間、III種採用されている人間が競争することにはならないだろう。 多少きつい表現をするなら、(前回紹介したような)現在I種採用される学生が志望する他の職種−法曹、学者、外資系を含む金融関係者、コンサルタント等−には就けない学生しか公務員にはならない、ということになってしまう。
もちろん、いわゆる学歴(正確には学校歴だと思うが)には何の意味もないのであれば、そうなってもまったくかまわないと言えるが(厳密には、公務員の母集団が小さくなるのでその副作用があるとは思うが、意味のない採用・待遇格差を解消するメリットの方が大きいだろう)、そうではないのだよ、というのがシグナリング理論(提唱者のスペンスが2001年のノーベル経済学賞を受賞したので、ご存じの方も多かろう)。 仮に大学教育にたいした意味がなかったとしても(ちなみにそうした意味があるのだ、というのは人的資本論)、大学教育を受けるというコスト負担を受け入れることに意味があるのだから。
最後に、ある程度大きな組織となれば、どうしたって人事管理は細分化せざるを得ないとことを無視してはなるまい。 人事の理想は結局は適材適所ということに尽きるのだろうが、それを判断するためには人数の限度というものがある。 ではどういう基準で細分化するかだが、常識的には能力別か業務別かのいずれかであろう−少なくとも血液型や出身地、年齢や趣味で分けるよりは合理的なはずだ。
実際のところ、現在のキャリア制度はこの能力別区分と業務別区分の折衷型である。 I種・II種・III種の区分で能力別に分けた上で(繰り返しになるが、その区分が適正に能力を表しているかどうかは次回に論ずる)、各省庁別採用により業務別に分けている。 とりあえず能力別・業務別以外の区分がないとすると、現在のキャリア制度を変更するには、より能力別のみで区分する方向か、より業務別のみで区分する方向のいずれかに折衷の際のさじ加減を動かすということになる。 前者であれば、今のキャリア以上に人数を絞った各省庁横断的な管理職層−いわばスーパーキャリア−を生み出すことになるし、後者であれば、今以上に各省庁間の断絶が深くなる、要すれば縦割りがより深刻なものとなる。
なお、民間では総合職・一般職の区分をなくしている企業があるではないか、という指摘もあるかもしれない。 しかし、よくあるパターンは全体の人数を絞り、従来一般職が担っていた事務を派遣社員やアウトソースにより処理させるというものである(転勤あり・なし区分への変更の場合、人数を絞ることはないのかもしれないが、転勤なし区分で本社以外の所在地で採用されれば、それは事実上役員クラスへの昇進の道は閉ざされている=従来の一般職と大差ないものと言えよう)。 公務員についてもII種・III種を廃止してそれらを皆派遣社員やアウトソースに切り替えれば、採用試験は今のI種のみとなり(呼称は単に国家公務員試験となろう)、いわゆるキャリア・ノンキャリア問題はそもそも存在しなくなるが、キャリア制廃止論者はそうした解決策を念頭に置いているわけではあるまい。
(2004-12-07記)
第11幕
flapjackのbookmarksおよびisuzukiの日記でのご指摘
前回に引き続いてのキャリア問題シリーズ、今回は、キャリアの選抜についてである。 およそキャリアに限らず、あらゆる人材のスクリーニングはいかに有為な人材を集められるかどうかで評価すべきであるが、残念ながら人類の歴史上、有為な人材を集めるための完璧な手法が確立したことはないので(有為かどうかは外部環境や直面する課題に依存するのだから当然である)、演繹的に理想の姿を語ることは難しい。 よって、よくある指摘を手がかりに、漸進的に近づく試みとしたい。
webmasterの感触としては、キャリア選抜の問題点として以下のような指摘が比較的よく見られるように思われる。
- 東大卒、とりわけ法学部卒のような試験秀才ばかりを選んでいる。
- 博士号保有者のような専門能力を持つ人間が選ばれていない。
- 20代前半で受けるたった一回の試験だけで選んでいる。
さらに細分すると、
- II種・III種採用者との入れ替えがなく、有能なそれら職員をしかるべき地位につけることができない(選抜の話からは離れるが、その反射的効果として、無能なキャリアがのさばったり、若いうちから苦労もせずに高い地位に就き人格がゆがんだりしている)。
- 社会人経験者等を選抜するコースがなく、結局キャリアは霞が関という狭い世界で偏った価値観に基づき純粋培養された人間ばかりになっている。
- ポリティカル・アポインティ(政治的任用)がなく、官僚のテリトリが形成されている。
まず最初の指摘だが、これは誤解としか言いようがない。 何度も書いていることだが、I種試験のレベルは本当にたかがしれていて、webmasterの学生時代の認識では、司法試験や院試に比ぶべくもない。 また、昔のことは知らないが、これも何度も書いているとおり、I種試験の合格順位よりもいわゆる官庁訪問の際の面接結果の方がよほど重視されている。 結果において東大法学部卒が圧倒的に多いのは事実だが、大学入学前からI種試験を受けようとしている人間は東大法学部へ進学しようとする場合が多いとか、前回紹介したシグナリング理論とか、そうした要因を考慮に入れれば、試験秀才を選んでいるという仮説を棄却しても、十分に現実は説明可能ではないだろうか。
2つ目の指摘については、以前書いたように別に霞が関側から拒んでいるわけではない、というのが事実関係である。 なぜそうした専門的スキルの持ち主が入ってきてくれないかと言えば、やはり専門的スキルが求められる業務が少ないからだろう(金を積めば話は別だが)。 例えば旧経済企画庁には原田泰氏や新保生二氏のような、霞が関の外でもエコノミストとして通用する人がいたわけで、結局は業務で求められればそうした人々を採用せざるを得ない。 ただ、組織全体のミッションに関わるようなものであればともかく、そうでない専門的スキルについては、採用して一生面倒見るよりも、必要に応じて外部調達を図る方が効率的ではないかとも思われる(実例としては各省庁のCIO補佐官)。
3つ目の指摘の前半については、やはりII種・III種採用者からの昇格はあってもいいと考えられるが、難しいのはどのような基準で行うか。 戦時昇進のような結果をもって実力が証明される制度が仕組めればいいのだが、実際のところ、管理能力というのをどう図ってよいのだろうか。 友人のコンサルの言によると、マネージャーがマネジメントするに当たって何が大事かというと、自分が最前線に立たないことという。 下がどれほど頼りなくても、そこに自分が赴いて直接仕事に携わってしまうと全体が見えなくなってしまうからだ。 じっと我慢をし、指示をするにとどめるという能力は、例えば課長補佐や係長といった最前線の責任者たるポストでは量れないし、鍛えられもしない。
若干の脱線をするなら、その意味では、特権意識を助長する「バカ殿教育」だといって廃止された(旧)大蔵省の税務署長や警察庁の警察署長、(旧)郵政省の郵便局長へのキャリアの就任は、それなりに意味のあったことなのではないだろうか。 更に言えば、退職年齢の高齢化や霞が関のステイタスの低下に伴い、以前であれば課長がやっていたような仕事を局長がやり、課長補佐がやっていたような仕事を課長がやる風潮が最近の霞が関にはある。 将来の管理職として登用したキャリアであるはずなのに、管理職としての実体験を積むのが局長から(最近では50代前半以降)というのでは遅すぎる。 このままでは冗談抜きに、50歳を過ぎてからでないと管理職としての経験ができないという世界になってしまうのではないか、と思うときがある(身の回りだけを見た近視眼的感想で恐縮だが)。
3つ目の指摘の後半については、やはりどのような待遇を用意できるかを考えるとフィージビリティの点で問題があろう。 現在でも多くの民間人が出向して霞が関で働いているが、そのほとんどは、出身母体が給料の差額を補填しており、つまり、そうした補填がなければ民間から官界に転じようなどは普通は考えないからだ。 他方で、企業の存在意義についてのコースの取引費用分析を応用すれば、内部化することにより効率化が図られる部分−霞が関であれば法令関係の事務、国会議員や関係業界間の調整等についてのノウハウの蓄積−のみを内部化することが合理的であり、その余の部分については必要に応じ外部調達を図るべき、ということになる。 要すれば、民間の方々には先に例示したCIO補佐官のように委託・嘱託等によりピンポイントで働いてもらうほうが、役所の仕事をする以外の時間にお金儲けと経験の蓄積ができ、役所の内部で質量ともに限られた経験しか積めずに朽ちていくよりよほどいいのではないか。
その点、今の霞が関の問題としては、次期防衛大綱をめぐる財務官僚の勘違いのように、本来自分の専門でもないところに法文系キャリアがでしゃばって判断ミスをする、ということが少なからずある。 自らの得意と不得意をきちんと見極め、不得意なものについてはゼネラリストとしてのチェックにとどめるという自制が必要であるし、具体的にどうすればいいかのイメージはないが、それを制度的に仕組めればなおよい。 一般論ではあるが、素人は自分が素人であると自覚している方が、中途半端に知ったかぶりをするよりよほどましなのだから。 なお、具体的にどのような分野を外部委託するかについては、まずは経済分析(これは内閣府が選任でする一方で、各省庁においてはということ。 純粋に民間企業でなくても、rietiのように独立行政法人でもいいのだが)や広報といったところだろう。
4つめの指摘については、実際のところポリティカル・アポインティでなくては政治家の統制が効かないわけではない。 外務省とは何なのか。(後編)などをご覧いただければ、政治家のリーダーシップがあれば、十分にその意思を政策に反映させることが可能なのはおわかりいただけるだろう。 ポリティカル・アポインティにも長所・短所があり、少なくとも上記のように現状のシステムの手直しで事態が改善する見通しが立つのであれば、そこまでの冒険をする必要は少ないのではないか。
Gunsi氏からのメールでのご指摘
キャリア問題に関連し、読者のGunsi氏からメールをいただいたので、以下引用しつつ(レイアウト及び機種依存文字には手を入れた)、webmasterの見解を示したい。
「共有地の喜劇 第10幕」を読ませていただきまして、今後の議論の参考になればと思い、少々長くなっておりますが、意見を申し上げます。
以下、貴サイトの文章を追っていく形で考察いたします。まず、冒頭で述べている「将来の管理職を担う人間を囲い込む特定の集団が形成されるのは、こと官界に限らず多くの世界に見られることである。」については、いわゆるキャリア・ノンキャリアをめぐる議論の焦点は特定の集団が形成されることの有無ではなく、その過程(始めに全員囲ってしまうか、始めはある程度幅広に確保して、勤務態度・実績等によって選抜していくか、或いは全員一律に競争させるか)の是非にあると私は認識していましたので、この点は異論ありません。
従って、キャリアの存在意義について言及されている「集団の管理に必要とされる一定のスキルがあるから」という点には同意します。
選抜については、今回新たに記述したので、それを受けてコメントがあれば再度メールをいただければと思う。
次に、「キャリア制度を廃止して、全ての公務員を一律の基準で採用すること」により、「従来I種採用されていた学生層にとっては、公務員という職種は選択肢からはずれることとなる」という指摘については多少言い過ぎではないかと考えます。
何故ならば、言及されている「I種採用される学生が志望する他の職種−法曹、学者、外資系を含む金融関係者、コンサルタント等」の待遇面の加重平均値とI種採用者のそれとを単純に比較することは困難であるからです。それぞれの業種によって待遇の上限と下限は、
- 民間:
- 上限も下限も経営状況の如何によって天井・底なし
- 学者:
- 上限も下限も研究・諸活動の如何によって天井・底なし
- 法曹:
- 裁判官・検事・弁護士それぞれ待遇のシステムが異なっているので単純化困難
⇒将来的には法曹人口の増加によって総体的に地位の低下が想定できる- I種採用者:
- 民間・学者との比較では、上限は劣り、下限は勝る
法曹との比較は上記により困難となっていると私は認識しておりまして、もしこれらの認識が妥当であるとすれば、それぞれリスク・リターンの兼ね合いは異なっており、合理的な学生であれば、その兼ね合いの価値判断によって業種を選択するはずであり、待遇そのものの優劣で業種を選択することは困難です。
仮にキャリア制度を廃止したとしても、待遇面の変化は勝っていた下限が他の業種に近づいていたに過ぎず(同じになるとは言えないでしょう。 何故ならば公務員は身分保障が充実しているからです。 民間企業であれば経営状況如何によって常に解雇の可能性がある訳ですから)、この変化をもって従来I種採用を選択肢にしていた学生がI種採用を選択肢から外す傾向が高まるとは言えないと思います。また、全てのI種採用者が待遇面のみを選択の基準としているわけではないと思います。 実際は職務内容や、適性等を判断して選択するはずです(特に天下り・キャリア批判の中で採用を敢えて希望する若手キャリアはそもそも待遇面にそれ程期待をしていないと思うのですが。 この点はbewaad様も過去に発言されていたと思います)。
以上により、「つまり、一般にキャリア制度を廃止すると…」の段落は説得性に欠けると思います。
待遇に関するご指摘については、相対水準の変化と絶対水準の比較を混同されているのではないだろうか。 確かに「待遇」を構成する各諸要素(給料、仕事の内容、福利厚生etc)に対する効用関数は、各職業を選んだ集団ごとに有意の差があるだろうと想像することは容易であるし、Gunsi氏ご指摘のとおり、webmasterはかねてからキャリアを選ぶような連中は(良くも悪くも)それほど金に執着しているわけではないと主張している。 しかし、今回の話は、キャリアの待遇における将来の不確定性の増加以外の要素は不変との前提で、それのみを引き下げた場合におけるキャリア志望者の行動の変化に係るものである。 簡単に言えば、平均的なリターンが下がりリスクが上がるわけで、そうした待遇についての効用評価の絶対水準がどうであれ、そうしたリスク・リターンバランスの変化の前後を比べれば、必ず職業選択肢間での相対的魅力は下がるはずである。
次に、「大学教育を受けるというコスト負担を受け入れることに意味がある」とするシグナリング理論ついて、それ理論自体には説得力がありますが、だから「学校歴」のみを採用の基準として良いか否かという訳にはいかないと思います。
「学校歴」について考察する際には社会階層の観点が必要であると考えます。近代国家における「学校歴」が一般的に受け入れられている大きな理由に、「(大学)教育を受けるというコスト負担」という「平等」な基準によって「全て」の国民に社会階層の上昇の機会が開かれていることにあります。言い換えれば「頑張れば報われる」というということです。
しかし、教育社会学者(海外ではP.ブルデュー、国内では刈谷剛彦が著名)の実証研究によれば、社会階層移動は実際には部分的なものであり、階層固定がかなりの程度進んでいることが明らかになっています。
彼らの議論によると、社会階層において相対的に高い位置にある世帯は、低い位置にある世帯に比べて、子どもに対してより充実した教育の機会を提供できるとしています。 社会階層において相対的に高い位置にある世帯の子どもは、家では親が見識を得るために獲得した新聞・書籍等に囲まれ、また小さい頃からお稽古、塾に行ったり、旅行等によって様々な経験をしたりすることが可能です。以上のような充実した教育を受けた子どもは結果として「学校歴」においても有利な位置におかれることになるでしょう。
また、コスト負担への意識においても貧乏な過程に育った苦学生に比べれば、「学校歴」のコスト意識もそれ程感じることもないでしょう。 生活費・学費等において親に依存することができますから。一方苦学生はアルバイトや奨学金制度によってやりくりする必要があります。
これは入学試験だけではなく、国家公務員試験や司法試験においても言えます。 これらの試験に合格する手段としては試験のノウハウを効率的に吸収できる各種試験予備校通うことがスタンダードでしょうが、社会階層的に上位にある子どもは試験予備校に通うコストも殆ど感じることなく、勉強に専念できる一方、下位にある子どもは予備校に通うためには学費のやりくりに苦労することになるか、(手段としては不利な)独学に頼らざるを得なくなります。以上を踏まえますと、「学校歴」に対するコストを負担することは、個人の資質だけではなく、その親の社会階層に大きく左右されるということが分かります(また、生まれた地域にも大きく左右されるでしょう。 国家公務員に限定すれば、霞ヶ関がある東京周辺に実家を有する者の方が、地方の片田舎に実家を有する者に比べて、I種採用へのコストは相対的に低いでしょう。 何故ならば、後者は採用の段階で東京と実家を往復する必要性があるでしょうし、また採用されてからも引越し・一人暮らしを余儀なくされることになるからです)。
故に、「大学教育を受けるというコスト負担を受け入れることに意味がある」とするシグナリング理論のみをもってI種採用者を確定し、彼らのみに幹部候補生としての地位を与えてしまうことは、個人の資質は高いが社会階層・環境によってI種採用を断念せざるを得なくなった人々へ幹部候補生への道を閉ざしてしまうことになります。
もちろん、人事管理の点で、I種採用を断念せざるを得なくなった人々へ特段の配慮をすることはその人々の比率に比してコストが高過ぎるから行わないという施策も可能です。 しかしながら、このような施策は自由民主主義社会の原則である機会均等を否定し、社会階層固定を容認していく方向性になるのではないでしょうか(残念ながら現在の教育政策は(政策担当者がそれを意図しているか否かは別として)その方向性に進んでいるようですが)。
まずお断りしておきたいのは、Gunsi氏の指摘するとおり、どうやら現在の社会情勢は階層の固定化方向に動いている可能性が高く、それに対して何らかの対策が必要だということについては、webmasterにも異論はない。 ただ、その対策がキャリア採用に当たってのアファーマティブ・アクション的な学校別クォータの導入かどうかについては懐疑的だ。
なぜなら、それが有効となるためには、キャリアが他の職業に比べて圧倒的に有利な立場にあり、その程度の選択肢としての魅力の低下(端的には東大法学部卒にとっては競争率の上昇をもたらすので)では他に逃れない、という前提が必要だからだ。 しかし、既述のとおりそうした前提は成り立っておらず、少なくとも就職におけるキャリアという選択肢には有力な競合先があり、そちらについても同様の措置をかけない限りは、単にキャリアの社会的ステイタスが下がるだけで何も解決されないこととなる。
結局この問題への対応はティンバーゲンの定理に従って、社会階層の固定化への対策とキャリアとしての優秀な人材の確保のための対策を別々に用意することが正しいと考えられる。 webmasterの感想としては、決してキャリアの採用は学校歴を基準として行われているものではないが、結果において特定の大学−と言葉を濁しても仕方がない、東大法学部−出身者が多くなろうとも、キャリアとしての優秀な人材確保策としては、そのことのみをもって否定されるべきではない。
また、I種採用を断念せざるを得なくなった人々へ幹部候補生への道を閉ざしてしまうことは、業務へのモチベーションの点でもマイナス点があります。 採用段階で将来がある程度固定されていること(I種採用者で言えば課長級までの昇進が保障されていることによること、II種・III種採用者であれば、せいぜい課長補佐級までの昇進でしか保障されていないこと)はII・III種採用者における業務へのモチベーション低下につながります。 頑張っても頑張らなくても待遇面で大きな差は生じないという理不尽さに直面するからです(I種採用者においても同様だと思います。 「頑張らなくても課長にはなれる」という甘えを許してしまうシステムですから)。
以上の問題を解決するためには、入省後に「幹部候補生」と「一般職」との入れ替えを制度として担保しておく必要があると思います。 役に立たないI種採用者が保障された地位によってのみ昇進を繰り返し、課長級になった場合の業務上の損失は恐らく省内にとどまらないことは容易に想像できます。 一方、「管理者」として有能な資質を有するII種・III種採用者のモチベーションを徒に下げてしまうことも長期的に見れば組織にとって損失になるでしょう。
ただし、「幹部候補生」と「一般職」との入れ替えの基準となる評価の方法を導入する際には慎重を要すると思います。
まず実績評価は公務という特殊な業務である上、それぞれの業務が多種多様であるため、定量的に量れるプラス面の実績基準は殆ど皆無でしょう。 従って実績評価については現状通りマイナス査定にせざるを得ないでしょう。
一方、勤務態度については360度評価等によって多面的に評価する余地が残されていると思います。
I種採用者とII種・III種採用者の入れ替えそのものについての評価は今回のテキストをご覧いただくとして、モチベーションについてのみ触れるとすると、競争の有無は確かに重要だが、そうした採用区分別の昇進のいわばキャップの存在は、決して競争がないことを意味しない。 まずI種採用者について言えば、課長にとどまるのか、それとも事務次官まで昇進するかの差がある以上、そこに競争は存在する。 課長までの昇進保証といったところで、無能故に馘にすることがなければ、しょせんは程度問題に過ぎないだろう。 他方でII種・III種採用者にはそれほどの地位の差は生じないが、これも「課長補佐」と言ってもそのステイタスは千差万別である以上、やはり競争は存在する。
結局重要なのはいつまでそうした競争が存在するかであって、仮に事務次官から平係員まですべてになり得る競争であったとしても、例えばそれが30歳までに終わってしまうのであれば、当然ながら30歳以降は無競争になってしまう。 つまりは、キャリア制度及び上記入れ替えの有無とは別の話、ということではないだろうか。
最後に、あくまで例示されただけだとは思いますが、II種・III種を廃止して派遣社員・アウトソーシングにすることについては反対です。 例え現在II種・III種の業務として与えられている「一般職」的な業務であっても公務である以上、守秘義務に関わる知識を得る可能性は大いにあります。 民間企業に比して、守秘義務事項に係る情報が漏洩した時の周囲への損害は計り知れない訳ですから、「一般職」的な業務であっても派遣社員・アウトソーシングにしてしまうことは危険であると思われます。
これは余談ですが、現在情報システムについて霞ヶ関の各省庁は業者にアウトソーシングしているようですが、これは非常に危険であると思います。 もちろん業者の側は「お得意様」である官庁の不利益なことを行なうことは想定しずらいですが、一方一度漏洩してしまってからでは手遅れであるという考え方もあります。
情報システムについては専門的に従事する職員を雇い(もちろん給与面等において十分な保障をする必要性はありますが)、守秘義務を徹底させることが必要であると考えます。以上、長々と論じてしまいましたが、私の考察とさせていただきます。
ま、あれは例示というより当てこすりですが(笑)。
マーケットの馬車馬でのご指摘
(馬車馬氏との議論に関するテキストは、「馬車馬氏との議論集」にまとめてあります。 「第11幕第3場」をご覧ください。)
(2004-12-22記)
第12幕
flapjackのbookmarksおよびisuzukiの日記でのご指摘
キャリア問題の最終回として、縦割り行政の問題をとりあげたい。 おおかたの想像どおりだと思うが、webmasterは基本的に縦割り行政といわれるものは望ましい行政のあり方と考えている。 そのロジックは政府組織と官僚のインセンティブ:中央省庁再編の評価と基本的には同じなので詳しくは述べないが、乱暴にまとめれば、現実社会に利害対立が存在するのであれば、政策決定過程においてもその対立を隠蔽するのではなく顕在化させた方が透明性は向上するし、行政の各部局の行動原理は簡明なものとなるし、行政内部の都合のみで政策決定されるおそれが減るということである。
とはいうものの、それなりに欠点があり得ることもまた事実であり、それらへの対策ができるかどうかも考えなければなるまい。 いくら長所があっても致命的な短所があっては、そうした制度を用いることは不適当だからだ。 代表的な短所は次のようなものだろう。
- 似通った業務を複数の部局が行う無駄が発生しやすい。
- 「省益(ないし局益・課益)」が「国益」に優先されるおそれがある。
- 政府内調整に時間・コストがかかり、迅速な意思決定ができない。
- 国民から見て担当等がわかりづらく、また、担当が自らのことしか対応できず、「たらい回し」が起こりやすい。
個々の短所を論ずる前に、よく官僚組織の縦割りに関して引き合いに出される旧陸海軍の例について触れておく。 第1点については陸軍が潜水艦や空母を、海軍が戦車を作ったこと、第2点については陸軍が大陸、海軍が太平洋と主力を2方面に分割することとなったこと、第3点についてはポツダム宣言受諾の意思決定が「聖断」によらざるを得なくなったことなどが代表例だろう(まあ第4点は関係ないとして)。
戦前・戦中期の陸海軍の対立構造は様々な要素が複雑に絡まり合っているが、その主要なものの一つとして統帥権問題がある。 一般に統帥権といえば行政府(内閣)からの軍(令)の独立の文脈で語られるが、大日本帝國憲法においては「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」(第11条)とされており、陸海軍相互間でも口出しがなされなかっった(軍令を総括する大本営が設立されても、日露戦争期以降はあくまで参謀総長・軍令部総長が対等の立場で組み込まれることとなっており、大本営自体のトップは存在しなかった)。 陸海軍を統合する軍令組織がないのは大いに問題ではあったが、軍(令)全体の行政府からの統帥権独立もそれ以上に問題であり、縦割り自体よりもそうした制度を生み出した状況こそがより重要な問題であったといえよう。 そして当然ながら、今は全ての省庁が内閣の傘下にあることは明らかで、戦前の陸海軍と同じものとして論じられない。
さて、各点についての考察に移ろう。 第1点については、必要なコストとして割り切るしかない。 三権分立にしても地方分権にしても、政府の機能を分割してその担い手を増やすのは、効率よりもチェックアンドバランスによる効果的なガバナンスの達成を目指す制度である。 例えば旧郵政省と旧通商産業省の間でのコンピュータネットワークを巡る対立構造は有名であった(なんでも、民間でシンポジウムを開催したりする場合には、どっちか片一方だけを呼んでも、また、両者を呼んだとしてもそのランクに差があるといろいろと物議を醸すので、出席者の調整などの無駄な業務がずいぶんと増えたらしい)が、そうした対立構造がなくどこか一つの省庁が所管していれば、キャプテンシステムやシグマプロジェクトは、何倍ものリソースをつっこんだ上で、日本のテレコム業界全体にさらなるダメージを与えるようなより大きな失敗となっていた可能性は極めて高い。
第2点は内閣のリーダーシップの問題である。 といっても、政治家の資質云々、ということがいいたいわけではない。 行政府はあくまで内閣総理大臣をトップにいただく内閣という合議体により代表される政府部門であり、法制度はあくまでそうした前提に立って設計されている。 例えば事務次官等会議は全会一致が原則であり、ここである省庁の事務次官等が反対すれば閣議の議案とすることができないことが、各省庁が高度な自治権を有する原因の一つとされているが、これはあくまで慣例である。 事務次官等会議で否決された案件や、そもそも事務次官等会議にかけられていない案件であっても、それを閣議案件とすることにはなんら法的制約はないし、そこで閣議決定されてしまえば、省庁側に拒否権はない。
私見を言えば、こうした各省庁こそが自らの省益を押し通して国益を無視している、という神話は、政治家と官庁、そしてメディア、国民のすべてにとって都合がいいからこそ形作られ、維持されてきたのではないかと考える。 こうした神話があれば、国民に不人気な政策−例えば増税−を行う場合、政治家は、これは官庁が国民を無視して押し通しているもので、自分たちとしては国民に配慮して若干の修正はさせたが、全体としてはこれが精一杯だ、といういいわけが可能になる。 他方で国民にとっては、そうした悪辣な連中の陰謀ため増税を強いられたのだ、というストーリーの方が腑に落ちやすいしあきらめもつく。 国民の部分集合たる財界にとっても、自分たちの主張の実現に額に汗して邁進し(細かなブレはあれど、法人税の引き下げ・高額所得者層に係る所得税の引き下げは、シャウプ勧告より後の税制改正の方向性としては、一貫して続いている)、さらに国民の矢面にまで立ってくれる官庁という存在がありがたくないわけがない。 メディアは国民に支持されてなんぼの商売であり、国民に受けがいい神話を否定する実益はない。 じゃあ官僚にとっては何がメリットかといえば、国のことを本当に考えているのは自分たちだけだ、という安っぽいヒロイズム&くだらない優越感に浸ることができることだろう。
第3点も第1点同様にそれも必要なコストだ、ということに加え、往々にしてここで言われる「迅速な意思決定」とは、反対派がいてもそれを無視して多数派の意向の速やかな実現を図れ、ということだったりする。 日本とは話し合い至上主義の国だ、とは井沢元彦が唱えて以来人気のある日本人論だが、実際のところ話し合いの効用とは、適度にガスが抜けあきらめがつくことが多いこと。 極端な例を出せば、三里塚は話し合いを全くしなかったことで明らかにこじれたケース。 話し合いは確かに迂遠に思える場合が多いが、急がば回れということだって世の中には数多くあるのだ。
第4点は縦割りとは実際のところ無関係な話。 政府と国民のやりとりについてのインターフェイス設計がうまくいっていないというだけのことで、バックグラウンドでの処理(各省庁における事務処理)をそのままインターフェイスにするからわかりづらくなる。 きちんとした総合窓口を設け、国民の側でどこが担当かを探す必要なく受付でそれを探し、かつ、国民からのアクセスが相談なのか苦情なのか何らかのアピールなのか等々を判定して適切な場所で処理するようにすればよい。 確かにこのインターフェイス設計に改善の余地が多分にあるのは事実だが。
(2004-12-31記)