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最近、株価下落を受けて「時価会計の停止」「減損会計導入の延長」といった議論が喧しい。 会計のプロではない人間が言うのはやむを得ないと思えなくもないが、プロ中のプロであるはずの公認会計士協会の常務理事までが、何をトチ狂ったのか「生命保険会社については特別扱いも考えられる」などと言い出す始末。 日本の会計事情、まったくもってお寒い限りである。
ちなみに、webmasterは、今議論されている時価会計や減損会計にはとても合格点は出せないと考えていて、現行の時価会計などについては批判的。 それは、あるべき会計・財務諸表の姿からすれば、過去の経緯などにとらわれた結果、著しくゆがんだものとなっている。 「あるべき会計・財務諸表の姿」が何かかは、実は、もう決まり切っていて議論の余地はないのだ。
ここに断言する。 会計学に、今後抜本的進歩はない。 今、国際会計基準が進んでいる先に何があるのかは、わかる人にはこれ以上なくはっきりとわかっている。
もちろん今までの経緯もあり、その理想像が直ちに実現するわけではない。 しかし、中長期的には、すべての会計基準は、同じ考え方のもと統一的な体系として整備されることになるのは間違いない。 そして、その体系は、予見できる最も遠い将来においても、それ以上の進歩がまったく考えられないほど完成したものだ。 今後、会計学が取り組むべき課題は、例えば新たに出現した金融商品について具体的にどのような会計処理をすべきかといったような、実際の企業活動のあれこれについて、体系から演繹的に技術的な手法を導き出すといったエンジニアリングでしかあり得ないのだ。
では、「あるべき会計・財務諸表」とは何か、ここに明らかにしよう。 企業とは、その業種や規模にかかわらず、要すればどこかからお金をもらい、どこかにお金を払うという、いわばお金の管、かっこよく言えばキャッシュフローのビークルである。 財務諸表は、そのお金の流れを特定の切り口から表すものとなる。
具体的には以下の通りだ。
次回以降、それぞれについてより詳しく論じていくこととしたい。 会計の技術論に詳しい人ほど異論があろうが、会計の未来は当連載の示す先にしかないことを約束しよう。
(2003-04-27記)
前回のテキストを読んで勘のいい方なら気がついたと思うが、財務諸表としては、資金収支計算書だけがあれば最低限必要な情報は伝えられる。
ただし、当期のものだけではだめだ。 期末において判明しているすべてのキャッシュフローについて、将来それぞれがどうなるかを示すもの(つまり、最後のキャッシュフローが予定されている期までのそれぞれの資金収支計算書)と、それぞれの期においてそれらがどのように変化したかを示すものが必要。 これらがあれば、貸借対照表や損益計算書がなくても、その企業が将来きちんと利益を上げていけるかどうかなどの、投資家や債権者にとって必要な情報はすべて入手可能だ。
なぜなら、どれだけ配当可能であるか、債務の履行は可能かどうか、内部留保はどの程度の額となるのか、といった情報は、すべて将来の資金収支計算書から確認できるからである。 貸借対照表や損益計算書は、将来の複数期にわたる資金収支計算書を読まずとも、その概要が簡単にわかる書類として、その存在意義を確かなものとしていくことになるのだ。 したがって、最終的には(技術的問題や公認会計士のレベルの問題もあり、本当にこれは最終段階にならないと実現しないだろうが)各企業の決算発表資料には、当該期末において見込まれる将来の資金収支計算書が添付されるようになるはずである。
このときには、会計学の教科書から「発生主義」という言葉が消え去るだろう。
発生主義とは、一般に、現金の収受がなくとも、経済的事実が発生すればそれを記帳するという意味で用いられている。 そして、どういった「経済的事実」が「発生」するとどのように「記帳」すべきかは、ある意味様式的に定まっている。 しかし、一切の記帳がキャッシュフローの変動という裏づけによりはじめてなされる世界では、そうした発生主義により記帳するという概念自体が無意味となる。
もちろん、現在発生主義に基づき行われる各種の会計処理、たとえば減価償却は、当該資産が生み出す将来のキャッシュフローの減少を近似的に表しており、発生主義が誤っていたということでは決してなく、同一線上にあるものとも言える。 また、ひょっとしたら、ここで述べている将来キャッシュフローの変化の記帳を、未来の会計学においても「発生主義」と称するかもしれない。
ただ、同じコンピュータといってもENIACと最新のスーパーコンピュータが実質的にはまったく異なるものであるのと同様、将来キャッシュフローの変化の記帳は、今「発生主義」と聞いて多くの人が念頭に浮かべるそれとは別物である。
(2003-05-05記)
時価会計がはやっている昨今ではあるが、貸借対照表に記載すべき数値として、取得原価なんて意味がないとのwebmasterの主張について、よく考えもせずもっともだとするのは実は問題だ。 取得原価が無意味だとして、なぜそうなのか説明できるだろうか。 含み損が隠されるから、などというのは一知半解で、含み益が表に出てこないというのだって同様によろしくない。
つまりは、経営に対してどのように影響しているのかを適切にあらわしていないことが問題であり、具体的には将来のキャッシュフローがまったくわからない点において意味がないのだ。
これだけを聞いて納得したとして、そこから理論的に導き出される以下の会計処理も納得できるかどうか。 納得できないとすれば、それはまだあるべき貸借対照表が何かがわかっていないということだ。
在庫・売上げの会計処理
ある商品を1万円で仕入れ、1万1千円で売ったとする。 この場合、仕入れたときに資産の中の現金1万円が在庫1万円に振り替わり、売ったときに在庫1万円が現金1万1千円に振り変わり、粗利益1千円が計上される(とりあえず、売掛金や買掛金は発生しないと仮定)、というのが現在の会計処理。
しかし、仕入れたときには、いくらで売れるという見込みがあるからこそ仕入れているわけで、将来のキャッシュフロー(1万1千円)は仕入れの時点で在庫の評価に織り込むべき。 したがって、あるべき会計処理は、仕入れた段階で在庫の評価額を1万1千円(正確には、売れるまでの期間を勘案したその割引現在価値)とし、この段階で評価益1千円を計上するというものだ。
負債の会計処理
100万円借りたら借入金として100万円を計上するのが現在の会計処理(これを取得原価と呼ぶ人はいないようだが、これも取得原価に基づく会計処理だ)だが、これがどうにも不自然で気持ち悪いと考えられれば、相当程度理解が進んだ証拠だ。 何がおかしいって、金利が年1%だろうが10%だろうが同じ100万円というのは一種のごまかし。
利払いを含めた借金に伴うキャッシュフローを割引現在価値で表示することとすれば、資産の平均利回り(いわゆるROA(Return On Asset))よりも低い金利で借りている借金は100万円未満に、高い金利で借りている借金は100万円超で表示されることとなる。
デリバティブ取引の会計処理
そもそも取得原価で記帳という概念は、何がしかのモノをいくらかで買って、それを記録したというのが原型だろう。 だから、債券や株式といった買ったモノがなく、利払いなどの将来のキャッシュフローのみが生じるデリバティブがオフバランスとして取り扱われるというのは、従来の考え方の延長線に乗っかるのであれば自然な話。
しかし、モノに相当する権利・義務の売買をしているのだから、モノでないということだけで扱いを異にするのは慣行に囚われている。 先物・先渡しの買いは資産に、売りは負債に計上すべきだし、スワップは受け側を資産に、払い側を負債に計上すべきだし、オプションについても同様にキャッシュフロー(ボラティリティと原資産の時価をベースとした確率分布を考える必要があるので面倒ではあるが)の現在価値をオンバランスに乗っけるべきなのだ。
(2003-06-22記)
これまでの連載を見れば十分に予測可能であろうが、各会計年度における当期損益とは、その年度における純資産(総資産-総負債)の変化額を表すべきものである。 その中身をどう区分するかについては、キャッシュフローの種類(営業、財務、投資)によるものと、バランスシートの科目(在庫、不動産、有価証券など)によるべきであり、現在の損益計算書で重要視されている経常利益と特別損益の区分は意味がない(だからこそ、現在の国際会計基準の検討の場では「包括利益」の概念が提案されているのだ)。
つまるところ、財務諸表の役割はステイクホールダーに事業の継続可能性を示すことであり、その観点からは、例えば持ち合い株式の時価評価をして減価していることが明らかとなった場合、本業の収益力とは無関係だといって損失に計上しなかったり(現行会計基準では「その他有価証券」などの時価評価がこれ)、損失計上しても特別損失として取り扱う(現行会計基準では減損処理がこれ)のはおかしいのだ。 将来の実質的なキャッシュインが減ったがゆえに継続可能性にとってマイナス影響を及ぼしているようなものを、なぜ特別扱いする必要があるというのか。
こうした見方に対しては、金利や株価、外為といった経営者自らの経営努力とは無関係な外的要因によって損益がぶれるのが問題という意見がよくある。 外的要因で評価が変わってしまうようなリスク資産を数多く持っている以上、そうした結果を受け入れてしかるべきなのだが、どうしてもというのであればいい折衷案がある。
それは、「自己のれん」の計上を認めることだ。 のれんとは、例えば合併時に買収側が被買収側の純資産がxしかないのにx以上の金を支払ったときなどに、xと支払額の差額を現経営陣が認定した換価しがたい企業価値として資産計上するもの。
先の例で言えば、持ち合い株式の価格が大幅に下落したような場合、市場価格が下がったとしても、持ち合い関係の維持に伴う取引の安定確保や将来の株価の回復可能性があるとして経営陣が評価する額を足し戻して相殺するのだ(で、ある年度に自己のれんに繰り入れた額はその年度の利益に計上する)。 持ち合い株式の下落が本当に経営にダメージを与えないと考えるのであれば、そのことをきちんと立証する責任が経営陣にはあるはずだ。
現在、自己のれんが会計基準上認められていないのは、経営陣の主観に依存し客観的に検証が困難だからとされている。 しかし、毎期毎期の外部環境の変化を損益として表示しないこと自体、経営陣の主観を前提としたもの。 それを一律にルール化する方がよほど乱暴かつ具体の検証を困難とする話であり、このような主観に依存する項目の具体的な検証という面倒な作業から公認会計士は逃げるべきではない。
ゴーイングコンサーン開示や減損処理適用の有無、繰延税金資産に係る将来の課税所得見通しなど、公認会計士がそうした事項をチェックするということはすでに導入されているし、そうしたことまでチェックして初めて、投資家や取引先が直面する情報の非対称性の解消という外部監査制度の趣旨が果たされるのだから。
(2003-07-21記)
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