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一読したときの正直な感想は、なぜ肝心なところが書かれていないのかというものだった。 本書で示されているような、開戦直前の時期に各省庁や日銀、企業の人間を集めて模擬内閣を作り、日米戦争のシミュレーションを行ったという事実こそ知らなかった。 しかし、開戦直前に(後知恵でなく)日米もし戦わば敗戦の可能性が極めて高いということは十分に予測可能であったことは知っていたし、にもかかわらず、東条英機が、彼自身は昭和天皇の信認も篤く、天皇の出来得れば戦争は避けたいとの願いに一個人としては応えたいと思いはしたものの、最終的には彼が開戦の上奏をせざるを得なかったことも知っていた。
webmasterが当サイトの書評で最初に取り上げようと思い本書を手に取った理由は、上記のようなシミュレーションが行われた以上、その当事者はwebmasterが"about"に示したような、時代の流れに対するドンキホーテ的な反感を抱いていたのかどうか、抱いていたとすれば開戦に至る中でそれをどうまぎらわせたのか、抱いていなかったとすればなぜなのか、それが知りたかったからだった。 だが、それは、本書では触れられていない。
読み返してみても、著者がそこに触れていない理由はわからない。 が、今は、仮に触れようとしてもそこは空だったのだろうというとりあえずの結論に至っている(著者がwebmasterと同様の意識であれば、空であったとの記述があってしかるべきなので、触れようとしなかった(意図的にそうしたのか、見過ごしていたのかは不明だが)のは事実であろうが)。 つまり、模擬内閣の構成員にとって、自分の意見が取り入れられないということは、他の仕事と同様、組織の中で自分の意見が通らないというよくある事態の一つに過ぎないのであって、反感を抱くなんてことはないのは当然のこと(上司に対して「よくわかっちゃいないんだよな」といった感情が湧くには湧いただろうが)、なぜ反感を抱かなかったのだろうかといった疑問すら持たなかったということではないか。
多少webmasterの身の上を明かせば、現在のデフレ不況については直接担当していないのだが、それ故に現在のデフレ対策の政府のありようなどに疑問を持って当サイトでこのようにいろいろと書きなぐっているわけで、直接担当していれば、案外それほど疑問も持たずに今の政府のやり方がいいのだと人に向かって説明している可能性は、多分にある。 人は、自分がやったことがおかしいとは思いたくないし、組織の中にいれば大概は他の仕事もあり、それだけに専念して疑問をとことんまでつきつめていくわけにはなかなかいかない(そういったことは多分研究者の仕事であって、官僚やその他実務を取り扱う人間は、何かに躓いたからといって実務を滞らせるわけにはいかない)からだ。 現在という時間軸に立って、模擬内閣の構成員(その他、敗戦を念頭においていた人たち)に対して、もっと戦争が無謀であることを主張すべきだったと非難するのであれば、自分がその時そこにいたとして、本当にそういったことができたかを虚心に検証した上で言うべきなのだろう(言うべきでないということではない。神であることを求めず、人として何ができたかを問え、ということだ。念のため)。
もちろん、これはwebmasterの勝手な想像であり、模擬内閣の構成員たちが本当にそのように感じていたのかはわからない。 筆者に対して、そのあたりをもっと突っ込んでインタビューしていていればより内容の深い、示唆に富むノンフィクションとなり得たとの指摘はせざるを得ない。 ではあるが、組織人が、自分の考えと組織の方向性に齟齬を感じたときに読めば得るところがある、読むことを薦めるに足る本である。 「戦争は旧軍が暴走して始めたことで、旧軍さえなければ日本は戦争しなくてすんだのに」といった意見を持つ人たちが事実関係を勉強するため読むべきであるのは無論のことだが。
そして、読後に、一度でいいから、今の構造改革「ブーム」が、当時の何が何でも戦争すべきという意見と似たところがないか考えてほしい(一番この言葉を伝えたいのは猪瀬氏ではあるが)。 webmasterも、今の郵政三事業や道路公団のあり方に問題がないと考えているわけでは決してない。 が、あたかも民営化が全ての問題を解決する魔法の薬であるかのような空気に問題はないか。 世論への違った視点からの主張に対して「抵抗勢力」とレッテルを貼り、論理にのっとった議論を封じていないか。 民営化の損得を、当時の模擬内閣のように事実から積み上げて検証しているかどうか。 結果として、民営化という答えは正しいのかもしれない。 だが、それが冷静な議論もなく出てきた答えが偶然正しかったということであれば、本質的には、60年前の失敗をもう一度繰り返していることに他ならないのだから。
(猪瀬直樹(2002)、日本の近代 猪瀬直樹著作集8「日本人はなぜ戦争をしたか/昭和16年夏の敗戦」、小学館)
(2003-01-05記)
「余は如何にして利富禮主義者となりし乎」を見てもらえれば一目瞭然だが、webmasterの経済学理解の程度はたかがしれているが、本書は、いわゆる「失われた10年」に関して、一次的な統計資料から、経済学者以外の人間に対してもわかるようなロジックを経て説得的な結論を導き出しており、そんなwebmasterでも読める敷居の低さが魅力である。
webmasterが見る限り、リフレ政策(金融緩和の拡大&インフレターゲットの設定あたりが最大公約数)については、賛成派が理論的・実証的な説明をするのに対して、反対派は感情的・印象論的な反論をすることが多い。 さらに言えば、かたやノーベル賞を受賞した経済学者(例えば2ちゃんねるの経済板の「インフレターゲティングこそ経済学の本流」スレ(2003-02-01時点でhtml化されているものの中で最新のスレにリンクを張ってあります。)の冒頭に列記されている学者で言えば、スティグリッツ、フリードマン、サムエルソン。 他にもソローやルーカス、マンデル、アカロフなど)が賛成派であるのに対して、反対派の多くは経済学については素人だ。 「ノーベル賞受賞者が賛成しているから賛成するとは盲目的な権威主義者だ」との反論が容易に予想されるので、あらかじめ再反論しておけば、本書の第6章や第12章、第13章のような主張が説得的と認めるからこそ賛成しているのであり、反対派の主張が合理的とは思えないからその立場はとらないだけのことである。
例えば村上龍のJMMでリフレ政策(JMMでは「調整インフレ」)が取り上げられたことがあるが、反対派の主張は(リフレ政策は)麻薬処方
であるとか、「調整インフレ」という言葉の意味はとてもわかりにくい。そのわかりにくさこそが、この「調整インフレ」の政策としていかがわしさ、曖昧さの象徴
といったものだ。
一方的な決めつけといい、自分の知識不足を棚に上げていることといい、素人感覚を無批判に適用することといい、天動説論者による地動説批判に匹敵するものといえよう。
一応反論しておくと、「どういうロジックでリフレ政策=麻薬処方なのかの論証なくして、麻薬処方に対する批判をリフレ政策に対するそれに転用するのは、論理的には何も言っていないのと同じ(一応論者は調整インフレを麻薬に喩えることがどの程度適当かは、ドラッグの知識と経験(残念ながら無い)が不足しているため私にはよく分かりませんが、手元のクーポン券の価値が低下するといわれれば経済主体はこれを使うだろうというクルーグマンの意見は、「じっとしていられなくなる薬」を処方すれば患者は元気になったように見えるはずだという意見に近いでしょう。
ただ、インフレは急にストップできるものでは無さそうだから、麻薬という比喩はそうはずれていないのではないかと思います
と言っているが、『よく分かりません』『意見に近いでしょう』『無さそうだから』『はずれていないのではないかと思います』というだけであれだけ悪し様に罵るっていうのもね・・・)」「言葉自体がわかりにくいのではなく、自分の勉強不足でわからないだけ」ということにつきる。
本書で行われている検討は、そうした乱暴なものの対極にあり、今後の議論の発展に寄与するところ大であるため、リフレ政策に賛成する人、反対する人、どちらとも決めかねている人のすべてにお薦めできる。 賛成する人は、自らの立場をより強化できるだろう。 反対する人は、本書の主張に対して論拠ある反論を組み立てることができれば、自らの主張により説得力が増すだろう。 どちらとも決めかねている人は、本書を読み、そこに示されている事実の数々を考えれば、最終的に賛成・反対のいずれに結論がなろうと、上記の反対派のような醜態をさらさずにすむだろう。
だが、結局のところ賛成派と反対派の議論のレベルは上がらず、従って反対派が負けを認めることもなく(論戦で「負けを認める」にはある程度の頭の良さが必要だ)、日本の大停滞はずるずると続いてしまうのではないかと思わせる今日この頃である。 もし本書がベストセラーとなり、webmasterの予想に反して早期に「日本の『大停滞』が終わる日」を迎えられるのであれば、望外の喜びである。
(原田泰(2003)、「日本の「大停滞」が終わる日」、日本評論社)
(2003-02-01記)
"about"にあるように、当サイト名として掲げる"bewaad"とは、ケインズの言葉から拝借したものだ。
実は、この言葉を最初に知ったのは、猪瀬直樹が主催するメールマガジンにおけるこの本(以下「闘い」という)の基となる連載(2003-02-08現在(この本の発売後?)、同ページのバックナンバーでは(後半部分の)タイトルのみの掲載となっており、Japan Knowledgeの同名コーナーのバックナンバーでの全連載の掲載も削除されている。 リンクを張るなど、ネット上のテキストには単行本とは別の活用法があるので、この拙文をお読みの方々の中に関係者がいらっしゃれば、是非とも再掲をお願いしたい) の第11回だった。
webmasterの拙訳はさておき、「闘い」p191にはこう書かれている。
長期的にみると、われわれはみな死んでしまう。
嵐の最中にあって、経済学者にいえることが、ただ、嵐が遠く過ぎ去れば波はまた静まるであろう、ということだけならば、彼らの仕事は他愛なく無用である
この言葉が、常にwebmasterの心の中にあるのだが、この章には、さらに心を動かしてやまないエピソードがある。
webmasterが勝手にまとめるのは忍びないので、そのまま引用(pp189-196)させてもらう(強調はwebmasterによる)。
・・・1920年代のイギリス経済は、デフレ不況が続いていた。 この時代を理解するキーワードは「安定化(stabilization)」への渇望である。 多くの人的物的被害を出した第一次世界大戦がもたらした混乱からどのように新しい経済社会を構想するか。 大多数の人々の対応は、「古き良き時代」への回帰であり、金本位制はその政治的経済的象徴であった。
・・・
大蔵大臣ウィンストン・チャーチルは迷っていた。 すでに終戦から7年がたった。 今こそ、かつての大英帝国の反映を支えた金本位制へ復帰すべきではないか。 ちょうどそのころ、1925年2月21日号の『ネーション・アンド・アシニーアム』誌に「金への復帰」というケインズの論説が載った。 金本位制復帰のもつデフレ圧力を警告した論説の、その迫力に気押されたチャーチルは部下であるオットー・ニーメイヤーに、本当に金本位制復帰でいいのか、問いただす。・・・
ニーメイヤーの説明を聞いたが、まだ安心できない。 こういうときに政治家がすることは決まっている。 専門家の意見を聞くのだ。 そして、金本位制復帰の利点と欠点を挙げてもらう。 決定はそれからでも遅くはない。 会合は3月17日の夕食に設定された。 大蔵省からは、ニーメイヤー、ブラッドベリという2人のトップ官僚が出席し、それ以外にレジナルド・マッケンナという、かつて政治家であった銀行家、そしてケインズが招かれた。・・・
そして3月17日を迎える。 大蔵官僚の意見は、旧平価での金本位制復帰即時断行だった。 戦前の秩序に復帰することを象徴するものとして、戦前でのポンド・ドル比率、すなわち旧平価に勝るものはない。 これに対して、ケインズとマッケンナは、旧平価が10%ほどポンドの過大評価であること、このまま復帰するならば失業の増大と、賃金引き下げをめぐる大きな社会闘争が起きることを警告した。・・・
会合は深夜にまで及んだ。 最後にチャーチルは、マッケンナに尋ねる。 この決定は経済だけでなく、政治的なものである。 君はかつて蔵相を務めたこともある。 政治家として、金本位制への復帰をどう思うか。 マッケンナは次のように答えたと伝えられている。 「もはや逃げ道はない。 復帰しかない。 だがその行き着く先は地獄だ」
このときのマッケンナの絶望はどれほど深いものだったのだろう。 まがりなりにも政策決定に携わり、同様の局面にも立ち会ったことのあるwebmasterも、こうしたときには無力感にさいなまれてやまない。 しかし、このとき論戦に敗北したケインズは、おそらくは"bewaad"の精神(もちろんケインズ自身がこんな造語したわけではないが)をもって、その後も闘い続けた。 そうしたケインズの生涯を簡潔だが思いのこもった文章でつづった部分を味わえるというだけでも、「闘い」に1,800円(+外税)を支払う価値はある。 失敗にもくじけず立ち上がる気が湧いてくるはずだ。
しかも、「闘い」の守備範囲はケインズのみではない。 そのほかの経済学者たちの闘いもまた、それぞれのプライドをかけた壮絶なものである。 「闘い」には、人間のすばらしさと、経済学のすごさがつまっている。 それに引き替え、昨今の日本の論壇においては、単なる思いつきを叫び、思いつきであるからして当然にして現実に裏切られ、さすれば臆面もなく主張を翻す自称「エコノミスト」のなんと多いことか(このあたりは、野口旭の「経済学を知らないエコノミストたち」に詳しい)。
当サイトの主張に共感する人々には、「闘い」はお薦めするまでもない。 かかるえせエコノミストこそ、「闘い」を読んで、自らの生き方にやましいところはないか、じっくりと考えるべきだ。
(若田部昌澄(2003)、「経済学者たちの闘い/エコノミックスの考古学」、東洋経済新報社)
(2003-02-09記)
巻頭を飾る推薦文は、青木昌彦、村松岐夫という日本の経済学界・政治学界で確たる名声を誇る学者たちの手によるもの。
筆者はあのStanfordでたったの3年でPh.Dを取得(それ以前に修士号を取得していたわけでもないのに)し、松井彰彦にその才を認められるほどの傑物。 また本書(博士論文の邦訳だ)は真渕勝が讃え、岡崎哲二をして日本の政治経済に関する戦後最も重要な書物と言わしめるものだ。
そんな本書、ほめる人間にはこと欠かないのだろうし、全体の枠組みが日本の政治経済イベントの分析に有益であることに異論はない。 しかし、Ph.Dなど持っているはずもないwebmasterが言うのもなんだが、本書については結構大きな論点において肯んぜられない点がある。 それは、官僚の行動目的が何かという点だ。
本書においては、「名声の最大化」を官僚が追求する目標として捉え、それを「組織存続」として定義する(p84)
とされる。
確かに、例えば組織権限の最大化など、よくいわれる官僚の目標よりは実感としてもしっくりくる(責任の押し付け合いは、霞が関ではよく見られる風景で、これはいかに自分たちに権限がないかを争っているのだ)。
しかし、この行動原理は、本書自体の中で妥当しない局面が出てくる。
1つは、1979〜82年における銀行法の全面改正(pp256-258)
。
ここで、大蔵省は銀行の反対を押し切って経営内容に関するより厳しい開示基準を求めようとしていた(p257)
のはなぜか。
官僚が組織存続=名声の最大化を行うためには、業界の利益の確保と公衆の利益の確保の2つの手段があるが(p85)、この段階においては、明らかに業界の支持が公衆の支持に比べ組織存続に有効であるはず(pp283-285)で、厳しい開示基準への挑戦は筆者の想定する行動原理からは説明不可能である。
もう1つは、金融ビッグバンのトリガーがなぜ引かれたか。
かりに業界に相談していたら、おそらく(webmaster注:外為改革に対して)反対されていただろう。世論はわれわれにつく、というのはわかっていたし、いきなりドーンと打ち上げれば反対のしようがなくなるだろう(p204)
という榊原(英資、当時国際金融局長)のコメントを見る限り、公衆の支持=名声の最大化は目的ではなく手段であって、目的は改革それ自体である。
筆者自身、公衆の批判を一身に受けている大蔵省が、ドラスティックな金融改革を主導したならば、それ自体が改革の実行に際して致命的な打撃となった可能性すらあっただろう(p221)
と述べており、組織存続の論理は公益を優先させた(p217)
との主張と逆の因果関係を他の文脈では認めている。
ではwebmasterは何が官僚の行動目的と考えているか。 それは、「期待トラブル最小化」である(わかりやすくいえば「事なかれ主義」だったりするが)。
その具体的な発現は「官僚道の歩き方」で示した「実現重視」「『国民』無視」「理屈主義」3原則となるのだが、制度の運用により現実の問題に対応できる限り、又は制度改正に当たって予想されるトラブル(業界の反対など)がその改正により解消されると想定されるトラブルよりも大きいと考えられる限りは、できるだけ運用で対応しようとする。 また、抜本的な対応を行えばより多大なトラブルが解消可能と考えても、それに必要なコストが対応の規模に比して幾何級数的に増加する場合には、部分的な対応によりトラブル量の最適化を図る。 こうした考えをとることにより、官僚の行動が腑に落ちることは多い。
上記銀行法改正においては、大蔵省は業界の抵抗を見誤っていたが故に、制度改正による予想トラブル解消量に引っ張られて実施しようとした。 金融ビッグバンにおいては、90年代の様々な政策対応の失敗や環境変化(pp311-319)により現行制度の欠陥が明らかであり、相当程度多大なコストを負担してでも現実に対応した制度を実現してトラブル量の極小化を図る必要があった。 こう考えた方が自然ではないか。
この立場をとっても、本書でも触れられている大蔵省の組織防衛については、そもそも「大蔵省改革」が大蔵省のやることなすことの全否定と受け止め、やるべきことまでできなくなることにつながると予想したからだという別の解釈が可能。 つまり、組織防衛自体はあくまで手段であり、目的は組織が担っている機能及びそれに対する自負の維持と考えられる。
筆者の理解とwebmasterの理解のいずれが正しいかは、筆者がさらなる検討課題としている他の領域へのあてはめにより確認可能だろう。 小泉構造改革路線の絶頂期であっても、例えば郵便事業への民間参入に対して総務官僚が抵抗したことのモチベーションは、組織存続ではなく、彼らが本心からユニバーサルサービスが必要だと認識していたからだと考える方が合理的ではないか。 筆者の遺志を継ぎ研究する人には、この点を頭に留めてもらえれば幸いである。
(戸矢哲朗(2003)、「金融ビッグバンの政治経済学:金融と公共政策策定における制度変化」、東洋経済新報社)
(2003-04-13記)
webmasterが「余は如何にして利富禮主義者となりし乎」を連載中、あえて目を背けていた本。 概要を見た段階で、リフレ策を巡る主要な論点がコンパクトにまとめられ、仮に読んでしまえば、連載がこの本の単なる要約になりかねないと思ったからだ。
実際に読んでみると、カバーする論点も、理論的整理から歴史の紹介、日銀政策委員会議事録の分析などが含まれ、かゆいところに手が届く。 編者の岩田規久男を始め、各章の執筆者もデフレに関してそれぞれ多くの優れた著作をものしてきた人々ばかりであり、これまでの蓄積を生かして、平易にでありながら抑えるべきところをきちんと抑えた、読みやすい文章が綴られている。
と書くと、多くの人は、webmasterが手放しで絶賛するものと思うだろう。 違うのだ。 この本は、ある意味欠陥品である。
編者が岩田規久男であることも手伝って、おそらくこの本の読者は従来からリフレ策に理解があり、日銀などに対して批判的な人間がほとんどだろう。 webmasterを含め、そうした人間にとって、自らのあやふやな知識をブラッシュアップするには最適であることは間違いない。 しかし、「まずデフレをとめよ」と題するからには、この本はそうした用途ではなく、今の経済環境は改善すべきだけど、そのためにはどうすればいいのだろうと考える人々に対して、リフレ策を納得させるためのものとして企画されたはず。 そのようなターゲットを想定した場合、この本はいかにもマーケティングが弱い。
経済書にこのような注文をつけるのは半ば反則なのかもしれないが、オレンジ色一色の背景に黒ゴシックの題字という表紙からして、もうちょっと工夫の余地はなかったか。 岩田規久男が優れた研究者であり、リフレ策の代表的論客であることについては衆目が一致するだろうが、彼の名前が前面に出れば、「ああ、また日銀に喧嘩をふっかけているんだな」とだけ見られ、手にとってはもらえない可能性を考慮したのだろうか(帯にも「日銀新総裁に決断を迫る」とあるし)。
リフレ策の実現に効果的なのは、固定客の忠誠を高めることよりも、浮動層の取り込み。 そういった観点からすれば、例えば竹森俊平の「経済論戦は甦る」は、リフレ策(というよりはインフレターゲットだろうが)をめぐる論争を敬遠している読者層にも届く優れた企画であった。 タイトルに「デフレ」や「インフレターゲット」という言葉は出てこないし、シュンペーターとフィッシャーというメインテーマの選択もうまい。 内容に一部批判はあれど、近年においてリフレ策の普及にこれほど貢献した本もあるまい(その他、既に取り上げたので詳細は省くが、若田部昌澄の「経済学者たちの闘い」なども、そうしたアプローチの好例として挙げられよう)。
webmaster自身ができていないので後ろめたくはあるが、今後は戦術的勝利(個別の論点の妥当性において反リフレ派に勝つこと)ではなく、戦略的勝利(より多くの読者を獲得し、リフレ策が必要との世論を盛り上げる)を目指し、そうした観点から本を編集すべきなのだ。 この本は、既述の通り、親リフレ派になった人間が読むには最適の本。 であれば、次の一手は、この本と役割分担をして、より多くの読者をこの本に向かわせるような、そんな本(に限らず、ネット上のテキストでもテレビ出演でもいいのだが)が求められている。
そうした存在があれば、この本の短所がカバーされ、長所がより活きてくることになろう。
(岩田規久男編(2003)、「まずデフレをとめよ」、日本経済新聞社)
(2003-04-27記)
官僚と国会議員が接触する機会は多い。 そんなときに必須なのが、国会議員のデータが載っている本。 いくつか種類があり、用途に応じて使い道があるのだが、読んでおもしろいのは「政官要覧」、それも春号(春・秋の年2回刊)限定だ。
というのも、春号には、特別付録として時の閣僚プロフィールが掲載されているのだが、これがまるで2ちゃんねるの書き込み状態なのだ(ちなみに、議員紹介はお手盛りそのものなので、閣僚であっても秋号だけを見ればおちょくられてはいないのだが)。 少し例を紹介してみよう。
解散権を盾に改革路線の中央突破をはかるか、はたまた、抵抗勢力の軍門に降ってミイラ取りのミイラと化すか。(平成14年春号)
改革を掲げて颯爽と登場した小泉総理も、既得権益でがんじがらめの現実の凄まじさに、いささかバテ気味なのか、最近ではどうも就任の頃の勢いが感じられない。(平成15年春号)
注目の外務省改革に悲観的な見方もあるが、強烈な北風の去った後、太陽政策が功を奏することも。(平成14年春号)
国会質疑でも「官僚以上の官僚答弁」が目立ち、昨秋の臨時国会では、同じ答弁の繰り返しに与党議員からも外相辞任要求が出たほど。(平成15年春号)
毛並みの良さは抜群だが、亀井氏とは対照的に、品が良すぎて迫力に欠けるのが難点。(平成14年春号)
麻生政調会長、古賀前幹事長、高村元外相と共に小泉総理の次をうかがう新四人組の一人にノミネートされている。(平成15年春号)
こんな調子で全閣僚が評されており、仕事中の暇つぶしには最適(官僚であれば知っている人も多かろうが)。
ただ、これは「政官要覧」に限らないのだが、紹介写真をもう少しなんとかしてもらえないだろうか。 自民党の部会に出席して、「今発現したのは誰だろう」とページをめくっても見当がつかない議員が少なからずいる。 一体何年間同じ写真を使い回しているのだろうか。
(セイサクジホウ・アイ・ピイ編(2003)、「政官要覧(平成15年春号)」、セイサクジホウ・アイ・ピイ)
(2003-05-11記)
勝手な推測をたくましくしてみると、筆者が(旧)経済企画庁に入ったのは1970年であり、第一次石油ショックを中心とする狂乱物価への対処が社会人としてインプリンティングされている可能性が高い。
また、あとがきを見ると、内外価格差問題が筆者の役人人生後半を賭した対象であったようだ。 内外価格差問題といえば、どうしても流通コスト問題に代表されるように中小企業の非効率性がやり玉に挙げられるが、霞が関の住人なら多くが経験しているように、中小企業関係のテーマほど政治が絡み、無理が通って道理が引っ込むものもなく(農業問題と双璧を成すだろう)、筆者の心の中には彼らへの怨念があってもおかしくない。
本書は、これらを反映してインフレ撲滅・内外価格差退治を主眼としており、近年とんと見かけなくなった「良いデフレ論」への捧げものといえる(webmaster注:この本、タイトルは「日本はデフレではない」なのだが、デフレであることは事実なので、好意的に解釈してこのように記している。 筆者自身、世では「デフレ」という言葉が継続的物価下落と不況の二重の意味で使い分けられ、言葉を都合よくすり替えていると非難している(pp18-21)が、どっちの意味でも今の日本が「デフレ」であるのは事実だろう。 第4章がタイトルと同じく「日本はデフレではない」と冠されているが、その中身を見ると、筆者の主張を忠実に受け止めても「日本はデフレスパイラルではない」か「日本のデフレはそれほどひどくない」という題であってしかるべきで、書名・章名ともども羊頭狗肉の謗りは免れまい)。
そんな本書、帯に「物価のスペシャリスト」の本であることを謳うだけあって、例えば「物価指数の本当の見方」と題された第6章など、物価指数に冠するテクニカルな説明を平易に行っている点はポイントが高い。 だが、それ以外には疑問となる点も多い。
最も救いようのない例を挙げてみよう。 webmasterのようなリフレ派からすれば、デフレを論ずる以上、その最大の害と考えられるデットデフレーションと失業率上昇についてどのような記述がなされているかは真っ先にチェックしたくなる。
本書では、デットデフレーションについては、債務者の支出性向が高いということが債務デフレの前提だということを考えれば、現在の日本で債務デフレが景気を悪化させる重大な要因になっているとは言い難い。(p89)
としているが、その理由をよく読んでみると、過剰債務を抱えた企業の投資意欲は極端に低下しており、債務者の支出性向が高いとはいえそうにない。(p89)
とあり、実質金利の高止まりにより金利負担(当然、これは支出だ)が増えていることを認識している気配がない。
さらに言えば、住宅ローンと家計について、住宅ローンありの家計が消費を減らしている一方で、なしの家計の消費がほぼ横ばい(それでも微減なのだが)となっている表(p90)の解釈として、家計全体としては債権のほうが債務より多く債権者の立場なのだから、実質資産効果という経路を通じて家計は物価下落の恩恵を受け、物価下落はこの経路からも消費下支え効果を生んでいるはずである。(p89)
との意見が出てくるのはwebmasterには理解不能だ。
もっと決定的なことをいってしまえば、筆者がデットデフレーションを全く理解していないのは、同じアーヴィング・フィッシャーに由来しながら、実は債務デフレの理論とフィッシャー効果は矛盾した理論である。
フィッシャー効果が働けば債権者、債務者間の所得移転は金利支払額の増減によって相殺されるから債務デフレは生じない。(p97)
などといっていることから明らかだ。
完全雇用かどうかというフィッシャー効果の前提条件を捨象するとしても、金利がマイナスになれないからこそフィッシャー効果により実質金利が高止まりし、デットデフレーションが生じるという単純な事実がなぜわからないのだろう。
一応筆者も、債務デフレが大きな問題となるのは、流動性の罠によって名目金利が下限に張り付いているときに限られる。
この場合、物価が下落しても名目金利が低下できないからフィッシャー効果は働かない。
債務デフレは流動性の罠が存在するような特殊な状況に限られた問題である。(p97)
と書いているので、表層的には理解はしているのだろうが、この記述と両者が矛盾しているとの記述こそが矛盾しているではないか。
権威主義に寄りかかるつもりはないが、フィッシャーほどの学者が提唱し、経済学の教科書に普通に載っている事項を「矛盾」と切り捨てるには、もう少しまともな検証が求められるのは常識というものだろう。
ちなみに失業問題についても、企業業績は悪くない、名目所得が伸び悩んでも実質所得が伸びているから問題ない(その例として引き合いに出されるのがお台場は賑わっていることだが、どこぞの首相が同じようなことを言っていたような・・・)と書きまくった上で、言い訳のように、その一方でシワ寄せが失業者に集中していることを忘れてはならない。
としているだけだ(雇用者数を減らせば企業業績が向上するのは当然だろうに)。
それですら、失業の多くは労働需給のミスマッチなど構造的要因によるもので、物価が上がれば解消するというようなものではない。
と付け加えているが、構造的要因が原因なら、有効求人倍率が底辺に張り付いていることをどう説明するつもりなのだろう。
物価と失業率の相関性には、フィリップスカーブという有力な傍証があるのだが、これに触れもせずこんなことを書いてもらってもねぇ(一応スタグフレーションによるフィリップスカーブの不安定化について触れられてはいるが(p175)、日本でいつスタグフレーションが起こったというのか・・・)。
結局、筆者のインフレは絶対許容すべからずとの、スペシャリストとしてのキャリアの中で培われたバイアスがすべてをゆがめているのだろう。
何しろ、筆者にかかれば、ニュージーランドにおけるリフレ的金融政策についても、ニュージーランドでインフレ目標の下限を下回ったときに、金融緩和が行われたことがある。
この場合もインフレ目標が物価安定(インフレ阻止)を目的に設定されたという事情は変わらない。
ということになってしまう。
安定とは落ち着いていて変動の少ない・こと(さま)なのだから、物価安定=インフレ阻止のみではなく、インフレ&デフレ阻止と考えるのが自然だと思うのだが、この言葉も筆者には届かないのだろう。
(小菅伸彦(2003)、「日本はデフレではない」、ダイヤモンド社)
(2003-06-22記)
野口旭は、リフレ派の中でも活発な活動をしている学者の一人であり、その著作も多い。 しかし、本書には、微妙な方向転換が感じられる。 といっても内容が、ではない。 デフレの害への警鐘に始まり、構造改革論や中国・アメリカなど外国に罪をなすりつける議論を排し、オーソドックスな経済学に立脚しつつ金融緩和を説き続けていることは、野口の以前の著作と同様である。 異なるのは、野口の姿勢だ。
例えば、本書と似通った狙い・内容である「経済学を知らないエコノミストたち」においては、経済学の知見を広めることが現在の日本の窮状を救うとの信念が全体を覆っていた。 しかし、本書における野口はそうではない。
本書は、筆者がこの四年ほどの間に行ってきた、ドンキホーテ的な闘争の記録である。 筆者がそれをドンキホーテ的と形容するのは、その闘争に勝利といったものはないことを、筆者自身が最もよく知っているからである。
筆者が挑んできた相手を抽象的に言えば、それは、経済の「世間知」である。 すなわち、経済問題についての、世間一般の人々によって幅広く受け入れられ、信じられている、一見もっともらしい把握の様式である。
しかし、その「世間知」のもっともらしさは、単なる見せかけにすぎない。 多少の経済学的考察を行ったり、歴史的な事実と照らし合わせたりすれば、それらが論理的でも現実的でもないことは、すぐに明白になる。 ところが、すでに「世間知」に染まっている人々−それは要するに世間の大多数の人々ということになる−に対して、そのことを十分に納得させるのは、至難の業である。 というよりも、ほぼ不可能に近い。 その意味で、筆者のこの「闘い」は、最初から敗北を運命付けられているわけである。
これが、本書のまえがきの冒頭部分だ。 まだサイトを開いて半年のwebmasterがこれまで長期間言論活動を続けてきた野口に言うのも僭越なのだろうが、後世に対する身の証を考えるには早すぎるのではないか。 まだ致命的なクラッシュが訪れたわけではない。 それはリフレ派にとって救いのはずであり、このまま恐慌に至って「やっぱりリフレ政策を採った方がよかった」と認められることが救いであってはならない。
昭和恐慌に関する若田部昌澄のペーパーによれば、昭和恐慌の際、リフレ派の言論が優勢となったのはまさに恐慌が来たからということであるが、これを繰り返すようではどこに人類の英知があろうか。 恐慌が来なくては、恐慌防止のための政策の正しさが事実により裏付けられることがないというのは矛盾ではある。 しかし、その矛盾を承知の上で、恐慌を防止するのが真のエコノミストの心意気ではないだろうか。 仮に、結果においてはカッサンドラの悲劇を繰り返すことになろうとも。
と言うだけではなんなので、野口へのエールを込めて、今後の選択肢の一つを考えてみた。 「と学会」の成功の秘訣は、20世紀末のサブカルチャー全盛を経たからこそある、あの斜めからものを見る姿勢だ。 野口の著作はあたかもマーティン・ガードナーの「奇妙な論理」であり、メジャーな人気を獲得するにはまじめすぎる面がある。 学者に付けるべき注文ではないのかもしれないが、よき編集者と巡り会って、よりマジョリティに受けるテキストを世に問うことを期待してやまない。
(野口旭(2003)、「経済論戦/いまここにある危機の虚像と実像」、日本評論社)
(2003-07-06記)
世に「○○経済学」と銘打たれたものは相当程度存在する。 この場合、「○○」というテーマを「経済学」の手法で分析するいうことになるが、これは、一体どのようなことを指すのであろうか。
本書は、題名からも明らかなように、その中でも「教育経済学」に属する分野の一冊であるが、これを読んでみて、ふと「経済学で考える」とは、モデル化するということではないかと思い至った。 経済学の特徴は何かと考えれば、お金で計ることができるものを対象とした学問ということになるが、お金という抽象的な数量を対象とするが故に、数理モデル化が文系学問の中では一番進んでいる。 「経済学で考える」とは、経済学で発展したモデルによる分析という手法の他分野への当てはめに他ならない。
単に数値をベースに考えるということであれば、例えば同じ教育学分野の著作、刈谷剛彦の「階層化日本と教育危機」にも豊富に見られることから明らかなように、経済学に限定されてはいない。 が、これは単に統計学的手法で各種の具体例を処理しているだけであり、統計学的分析ではあっても経済学的分析ではない。
他方で、例えば本書の第3章では、教育を将来の不確実性への対応の一種としてオプションモデルを用いた分析が行われているが、ここでは具体的な数値は用いられていない。 分析の枠組みとしての経済学が応用されているのだ(この点、他の分野への応用としては山形浩生による「ネットワークのオプション価値」も見られるなど、モデル化による分析手法の応用範囲の広さが伺えよう)。
本書の意義は、こうした経済学の応用をまさに教育論において行ったことにある(webmaster個人としては、親と子供それぞれの教育に対するニーズが違う可能性があるとの枠組みを用いた以上、親をprincipal、子供をagentとするprincipal-agent分析での更なる展開を見たかった気がするが)。 過去数十年にわたり広く行われ、いわゆる「ゆとり教育」問題が登場して以後はまさに諸説入り乱れている教育論ではあるが、例えば教育改革国民会議の議論を見ても、個別具体的な経験に引きずられた印象論が多くを支配するなど、有益な議論が多いとはお世辞にも言えない状況にある。 義務教育制度がある以上、どんな人間でも教育を受けた経験があり、それについて何らかの意見は必ず持っているであろうから、玉石混淆の議論となってしまうのだ。
モデル化により個別の事象は抽象化されることになる。 モデル化の巧拙、手法の是非などについて議論はあれど、そこでは一定のレベルが確保されることとなり、また、勝敗を決するルールも自ずと定められることになる。 とすれば、教育に限らず、モデルに基づく分析手法の応用により改善が図られる分野は多いはずだ。
統計学が独立のカリキュラムとして、経済学に限らず他の文系分野でも履修することが可能となっている大学は多いと思うが、モデル分析も同様なカリキュラムとして構成できないか。 基本は微積分とゲーム理論の組み合わせということになろうか。 図らずも、webmasterとしても現在の教育に対する提案を一つすることとなってしまったわけであるが(しかし、こうなると入試に数学は必須となるので、私大文系では無理だろうな)。
結局のところ、
のいずれかに当てはまる人にとっては、大いに読む価値があると言ってよいだろう。
(小塩隆士(2003)、「教育を経済学で考える」、日本評論社)
(2003-07-13記)
私事ではあるが、故佐藤誠三郎はwebmasterの恩師の一人である。 卒業後の進路として官僚を選ぶ際に彼に相談をするなど、具体的な事柄について受けた恩も多いが、それ以上に物事を学ぶ姿勢・態度を教えてもらうという貴重な経験をさせてもらった。
しかし、本当に頭のいい人にありがちなことだが、彼の著作はわずかであり(多分、自分で文章を書いた瞬間からそのテキストの不備が自分で我慢できなくなってしまうのだと不肖の弟子は勝手に思っている。 恩師として尊敬する人の中には、他にもほとんど著作のない人がいるが、おそらく同様の理由だろう)、その多くも絶版となってしまっている。
そんな中で、彼の死の直前に行われた対談が文庫で出版され、彼の思想を広く紹介する貴重な機会が与えられた。 それが本書である。
ある事柄に直面したとき、その理非曲直を判断するためには、自らの中に基準がなければならない。 数学に代表される、純粋に論理で判断可能なほど体系化されている分野であれば、それは論理的思考能力だろう。
しかし、社会科学のように、現在の人類のレベルではノイズが除去できず、体系として確立されていない部分が多ければ、多分に経験則によらざるを得ない。 基準としての経験則の程度の善し悪しを決めるのは、1に経験=情報量の多寡であり、2にそこから仮説を導き出す論理的思考能力の有無であり、3にその仮説を他の情報に照らして検証し、過ちがあれば訂正するという知的な謙虚さの度合いである。 本書では、その3者が高いレベルでバランスした中から生まれた最良に近い基準に照らして、近代日本の歴史が語られている。
無論、指摘すべき点は、特に事実関係についてはいくらでもある。 例えば、西欧と日本がともにモンゴルの支配下に置かれなかったこととそれぞれにおける封建制度の確立を関連づけているが(pp52-53)、封建制度の成立年代を考えただけでも(どちらについてもモンゴルの侵略より遙かに前だ)、それは乱暴すぎる要約といえよう。
だが、それは学術論文ではない本書の価値を一向に貶めるものではない。 基準を持つということ、それに基づき物事を評価するということ、そして今後どうすべきかの方向性を導き出すこと、本書はいわばそうした思考過程のライブ中継である。 そのような体験を後世に伝え、多くの人を同様の知的なバトルへ誘っていることこそが真価なのだ。 上述のような些末な指摘をしたところで、「間違いを見つけてくれてありがとう」とだけ言われてしまう姿が目に浮かぶ。 本書の議論を論駁し新たな基準を構築することがこそが、あるべき用いられ方といえよう。
「師匠を乗り越えることが弟子の義務」とよく言っていた彼と、今なら対等な議論ができるだろうか。 それは、webmaster(や他の彼の教え子)だけでなく、誰にでも扉が開かれたオープンな競技場。 議論への参加に必要なのは、本書を買うことだけだ。 多くの人が本書を手に取り、彼の到達した地点からわずかでも先に進むことができたなら、そこには今よりもう少し幸せな社会が待っていることだろう。
(岡崎久彦・佐藤誠三郎(2003)、「日本の失敗と成功−近代160年の教訓」、扶桑社)
(2003-08-31記)
webmasterはかつて、「まずデフレをとめよ」の書評で、リフレ政策が世の理解を得るため「戦略的勝利(より多くの読者を獲得し、リフレ策が必要との世論を盛り上げる)を目指し、そうした観点から本を編集すべき」と書いた。 また、「経済論戦/いまここにある危機の虚像と実像」の書評では、「『と学会』の成功の秘訣は、20世紀末のサブカルチャー全盛を経たからこそある、あの斜めからものを見る姿勢だ。・・・学者に付けるべき注文ではないのかもしれないが、よき編集者と巡り会って、よりマジョリティに受けるテキストを世に問うことを期待してやまない」とも書いた。
そしてついに、そうした目的をもった本として出版されたのが本書だ(当事者ではないので勝手な推測だが)。 かねてからのwebmasterのスタンスに照らして、まずはこうした本が出版されたこと自体高く評価したい。
出版社が太田出版というのがまず画期的。 表紙のデザインも経済書にはまったく見えないし、中身のレイアウトもいかにもサブカル本らしくあり、このあたりは太田出版の編集が豊富に持っているであろうノウハウがうまく活用されている。 テキストの調子も、特に前半の座談会は砕けた雰囲気の中に痛快な物言いがちりばめられ、そうした仕上がりに極めてうまくとけ込んでいる。
これは著者陣と編集者が事前に十分な打ち合わせを重ね、どういった本を作るかについて明確なイメージを共有することに成功した故であろうし、そうした関係者の努力が十分伝わってくる労作である。 内容に目を向けても、これまでのリフレ派内で共有されている知識が縦横に展開されており、webmasterはかつて、これほど読んでいて愉快・痛快な経済書には巡り会ったことがなかった。
しかし、webmasterが読んで愉快・痛快と思ってしまうところは、マーケティング的には問題とも言える。 つまり、見かけの割に中身の敷居がちょっと高過ぎやしませんか、ということ。
webmasterの書く文章だってわかりやすくはなく天に唾する見方ではないか、との批判を覚悟で指摘すると、例えば「インフレ非加速的失業率」(p19)、「ディスオーガナイゼーション論」(pp33,34)、「シュンペータリアン」(p60)、「近隣窮乏化政策」(pp87,88)、「ALM」(p121)といった言葉が十分に説明されないまま用いられており、もともとこの手の話題に関心があった人間であればともかく、専門知識のない人間にとってはつっかかりとなろう(この点、素人にもわかるように相対性理論などに関する説明をうまくテキストにとけ込ませることにかけては「と学会」はうまい)。 コラムといった形でコーヒーブレイク的に挿入するのか、巻末に付録としてまとめるかはともかく、「日本のデフレを理解するための用語集」的なページがあればと思う。
また、ミシュランを名乗りながら採点・格付けといった単純評価をしていないのもセンセーショナルさに欠ける。 テキストを読めば辛辣なことが書いてあるのは一目瞭然だが、いかにも評された相手が激昂しそうな決めつけをして論争に持ち込むような挑戦的態度があってもよいでは? もし名誉毀損で訴えられるとしても、それで彼らの間違いがかえって世に広まるなら本望だろう(さすがに我ながらこれは無責任な言い草だが)。
とあれこれ考えると、例えば全体を3章構成として、まさにエコノミスト・ミシュランとしてエコノミスト個人を論じる章を設けるというのも一案だろう。 pp26,27にある表(しかし、これが置かれている場所も妙に中途半端なような・・・)をその章の冒頭に掲げ評点を載せた上で、続けて1ページ1人ずつ論じるといった形で。 悪乗りかもしれないが、似顔絵なども載せてはいかが? 本書がよく売れて続編が出版される−非常に望まれることだが−ようなことがあれば、こうした形での進化があればと思う。
さらに勝手な注文をつけるとすれば、本書でも若干触れられているが、構造改革派の主張の通奏低音は「国際競争力」という概念ではないかとwebmasterは最近思っているので、クルーグマンらによる著作ですでに攻撃されているが、続編でにはそこを折伏するようなところがあってくれればと思う。 ISバランスの結果経常黒字となっているためあまり声高に叫ばれているわけではないが、金融やコンピュータ産業といった点でアメリカに遅れをとっているとか、中国の廉価製品との競争で製造業が空洞化するとか、固有名詞さえ変えれば一昔前のアメリカでの議論そのまま。 このあたりが実は洋の東西を問わず最も普遍的なトンでもの一つであり、構造改革派の主張がなんとなく正しそうに思われてしまう下地となっている可能性は高い。
とまれ、最近の堅調な株価(これも循環要因と非不胎化介入の成せる業だが)を受けて、やっぱり構造改革は成功だったのではといった言動がメディアに多く見られる中で、本書のようにその誤りを一般に知らせる著作が出版されたことは、日本のメディアにもまだ望みはある証拠ではないだろうか。 景気が回復しているという天の時には利あらずといえど、サブカルに太田出版という地の利と著者陣・編集者の人の和でその窮境を打開することを心から願っている。
太田出版の新刊案内のページに、本書の編集者の言葉が掲載されている。 既述のとおりその働きはすばらしいが、この言葉もまた非常によい。 しかし、ページのファイル名を見る限り、そのうち見られなくなってしまうと思われるので、以下にその全文を転載させていただくことにする。 著作権上問題があれば即座に削除するので、その際にはお知らせいただきたい。
経済界を震撼させる『エコノミスト・ミシュラン』本日発売!!
(2003.10.22/編集:落合)この本を作るに当たって、いろいろ経済書を読みましたが、正直言って驚きました。 日本崩壊とか、マネー敗戦とか、日本沈没とか、恐ろしい未来とか、日本はゴジラ映画に出てくる東京タワーみたいに何度も崩壊させられていて、SFもどきの世界が繰り広げられています。 確かに日本経済は何年も不況が続いてはいますが、ノストラダムスもびっくりのトンデモ予言本が経済書としてまかり通っている現実をきちんと批判しようと思ってこの本を出しました。
しかし、知れば知るほどエコノミストの世界ってとんでもない。 10年以上も不況が続いているのに、その原因が何かでいまだに揉めていたり、原因が何かのコンセンサスができていないから、処方箋だって千差万別。 なかには資本主義を一時停止しろとか、今後100年はデフレが続くから諦めろとか、そんなことまで言い出すエコノミストまでいます。 しかもそういう派手なことをいう人たちに限って、呆れたことに90年代初頭には「日本は資本主義を超えた素晴らしい経済システムをもった国だ」と絶賛していたりするんですね。 この本ではそんな馬鹿げたことを主張しているのは誰なのか、逆に信用できるのは誰なのか、を明確にしています。
最近、政府や日銀やメディアでは、日本経済も景気が底を打って、回復基調にあるという話が飛び交っています。 でも、ここ10年以上もそんな話は度々あって、期待を持ったとたん、やっぱりダメでしたという結果を繰り返してきたのが、この「失われた10年」の軌跡です。 この轍を繰り返さないためには、小泉首相は誰の言葉を信用すればいいかも書いてあります。 もうすぐ総選挙で忙しそうですが、ぜひ読んで欲しい。 少なくともそれが竹中平蔵ではないことは明白。 クルーグマンも竹中平蔵路線は「暗闇への跳躍」だと指摘しているぐらいですから。
経済書を買っても会社の経費で落ちる時代ではありません。 自腹を切って読むのに、誰のどの本を読めばいいか、この本でしっかり見極めて選んでください。
(田中秀臣・野口旭・若田部昌澄編(2003)、「エコノミスト・ミシュラン」、太田出版)
(2003-10-26記)
"A Leap in the Dark"−暗闇への跳躍−とは、以前クルーグマンが小泉構造改革を評したコラムのタイトルであり、その内容を端的に表しているのは、次の2文につきる。
すなわち、The implicit slogan of the Koizumi government is "reform or bust."
But it is dangerously likely that the actual result will be "reform and bust."
(小泉政権の盲目的なスローガンは「改革か、破滅か」だ。
しかし、実際の結果は「改革して破滅」となる可能性がおそろしいほど高い。)
そうした警告にもかかわらず暗闇に向かい跳躍し、しかしながら今のところ破滅から免れている小泉政権であるが、ここに更なる跳躍を遂げた。 それが、今回の経済財政白書である。 更なる跳躍とは、昨今の株価に代表される経済情勢を構造改革の成果の表れとし、構造改革を今後とも進めていくとの決意表明であり、webmasterとしては、この路線はやはり失敗するおそれが極めて大きいからこそ、そのように呼びたい。
なぜ失敗するおそれが極めて大きいと考えているのか。 平成12年度経済白書で書いていることと実は中身が似通っているのだから、また同様に景気が悪くなるに決まっている(財政支出を見れば当時より悪いのだからなおさらだ)、と言ってしまえばおしまいではあるが、きちんと論じてみよう。
まず、これは白書自身が認めていることだが、現在は2002年1月を谷とする景気回復局面にあたり、構造改革が進もうと進むまいと経済は好調であって当然な時期である。
他方、代表的な景気循環指標である在庫水準は、これまた白書自身の記述を引用すれば、在庫循環図の上では、あたかも在庫積み増し局面の終了に向かうような右斜め下の動きとなっている
(しかし、「あたかも」ってのはなんだよ、「あたかも」ってのは。
そのものだろうに)。
これを素直に読めば、もうそろそろ景気後退が始まるということになるし、設備投資についても、資本ストック循環図からは頭打ちが近いとしか言いようがなく、資本財出荷もそれを裏付けている。
このように先行きが明るいとは決して言えない情勢について、白書の記述を追いかけていくと、(輸出増や需要増加、需要予測の改善という)条件が整ってくれば、生産の増加が持続的なものとなり、景気の回復を確かなものにできる
、企業の期待成長率が今後高まるかどうかが大きなポイントとなる
って、それは景気がよくなれば景気が回復するっていう同義反復ではないか。
さすがにこれでは気が引けたのか、別の箇所ではデフレ克服のためには、(i)デフレをもたらすGDPギャップが縮小しなければならない。
また、(ii)デフレをもたらす「金融的要因」に対応するため、実効性ある金融政策が展開され、金融政策の効果がマネーサプライの増加を通じて、総需要の増加に結び付くことが必要である
としており、マネーサプライ増加→総需要の増加という解決策を提唱している。
その結論やよし、しかしロジックがGDPギャップが縮小するためには、不良債権の処理や過剰債務の削減等が進むことによって、成長分野における潜在的需要が開花し、効率性の低い部門から効率性や社会的ニーズの高い成長分野へと資金が円滑に移動することが重要である。また、不良債権の処理や過剰債務の削減が進むことは、金融政策の効果波及経路を回復することにもなる
というのではお話にならない(なぜお話にならないかはかつて論じたので、本稿では割愛する)。
従って、ここではっきり予言しておくが、新たな金融緩和策が講じられない限り、来年中には再び景気は腰折れする。 不良債権処理や企業再生をいくら進めたところで、この動きは止められない。 今回の暗闇への跳躍は必ずや失敗に終わるだろう(唯一の望みは、かねてからwebmasterがその導入を訴えている円高阻止を口実とした金融緩和政策を日銀の中原政策委員が提唱し始めたこと。 足下円高が進む気配を見せていることもあり、これが大規模に導入されれば、ロジックは誤りであっても無事着地できるに違いない)。
最後に非常に残念ではあるが、重大な問題を一つ指摘しなければならない。 白書の記述が誤っていて景気が悪くなり、小泉・竹中の政治責任が問われたとしてもそれは自業自得(最近の、景気の本格回復にはあと3年は必要という小泉総理の言葉を見るに、今から言い訳は用意されているようだが)。 その結果、新たに失業者が増えるといった悪影響が経済全体に及ぶことは問題ではあるが、それもまた他の時代・地域でも見られることであるとは言えよう。
しかし、整理が必要な企業として、特定可能な形で132社という数字を白書に記載する(既にこれを元にしたリストが作成されているともいう)というのは、まったく何様のつもりかと信じられない思いだ。 かつて「30社リスト」「51社リスト」といったものが出回り、風評被害を含め様々な波紋を投げかけたことがあったが、あれはまだ民間での話(当時の木村剛が純粋な民間人と言えるかどうかについては議論があろうが)、公文書に載せた今回は輪をかけてたちが悪い。 民間の経済主体に対して政府が整理が必要かどうかを十把一絡げに判断するなど、自由主義社会であればおこがましいにもほどがあると感じるのがまっとうではないか。
だいたい、過剰債務だ等々と言っていること自体についても、そうなってしまったのは政府がデフレを治癒できていないが故という企業だって数多くあるはず。 崖の下に蹴落とした当の本人が、這い上がってこられないような軟弱ものは生きていく価値がないと判定するなんてことは、ごく普通の人の道としても許し難いところ、公の職責を担っている人間にとっては絶対に論外でなければならない。
今までリフレ政策に対する理解者の一人として竹中大臣を擁護することもあったwebmasterではあるが、今回の判断については見下げ果てた思いでいっぱいであるし、それを職を賭してでも止めなかった内閣府の担当者に対しても、同じ官僚として軽蔑の念を禁じ得ない。
(竹中平蔵(2003)、「平成15年度 年次経済財政報告−改革なくして成長なしIII−」、内閣府)
(2003-11-03記)
外交官試験が廃止されて以後、官庁訪問の学生の相手をしていると、外務省志望者は結構多く、学生の間での人気はかなり高い。 しかし、他の就職時に人気のある省庁−財務省、経済産業省、総務省、警察庁が代表格−とは異なり、霞が関内部での外務省の評判は相当低い。 無論、それら4省庁についての悪口も多く聞くが、それは力を認めるが故の期待感の裏返しであったり、半ば賞賛混じりでの−かつてアメリカで通産省が"notorious MITI"と称されたように−憎まれ口であったり。 これと異なり、外務省は本気で軽蔑される傾向が強い。
なぜかと言えば、端的には世間知らずで浮世離れしており、自分の世界に閉じこもりがちであるから(これは各省庁に多かれ少なかれ当てはまる通弊であるが、その中でも外務省のひどさは際だっている)。 本書は、外務省がそうした評価を受けるのも当然であることをこれ以上なく明らかにしている。
こんな馬鹿を大使に就任させ、日本を代表する権限を与えてしまうような組織だからな!
正直に言えば、webmasterは本書を購入し、著者にいくばくかの印税収入をもたらしたことを心から後悔している。 少しでも多くの人がそうした過ちを犯さずにすむことに役立ててもらうのが、本稿の目的である。 webmasterの指摘が正しいかどうか、以下を見て判断されたい。
思うに戦争とは外交の対極にある行為である。(p24)
「外交は感情や正義感で行うものではなく、利害得失を考えて行うものだ」となんのためらいもなく言い放つ竹内の姿勢に、私は違和感を抱き続けてきた。(p56)
最大の対外債務を抱えている米国経済が繁栄を続ける一方で、世界一の外貨準備高を誇る日本がなぜ未曾有の不況から抜け出せないのか。 すでに専門家の多くが指摘しているように、為替・金融政策における日米間の闘いに日本は敗れたのである。 日本政府は、国民の犠牲の下に米国経済を支えてきたのである。(p73)
レバノンという国の大使にまず求められるのは、社交上手で、経済事情に通じた人物である。 というのもレバノンは、政治的には隣国シリアの強い影響下にあり、独自外交の余地は限られている。 そのかわり、社交を通じて情報収集をすることが期待される状況にある。 ・・・いわば、もっとも外交官としての資質が必要とされる国である。(p95)&
・・・当時オーストラリアは、労働党のキーティング首相の下でアジア志向を強めており、経済関係を中心に日本に対する期待が高まっていた。 しかし、そうはいっても世界の中心からほど遠いオーストラリアである。 気候はよいしゴルフには最適な国ではあっても、緊張するような外交案件は皆無といってよかった。 私は物足りなさを感じていた。(p193)
「海外に居住する日本人にも選挙権を与えよ」と、物好きな一部の邦人が主張したことから始まったいわゆる在外選挙制度は、外務省と自治省(現・総務省)との長年にわたる交渉の末、外務省が事務の大半を押しつけられる形で、二〇〇〇年の国政選挙から実施された。(p166)
・・・本来行わなければならない困難な外交に本気で取り組むことはない。 典型は、沖縄の米軍基地縮小問題である。 そもそも面積が国土の〇・六パーセントにも達しない沖縄県に、日本における米軍基地の七五パーセントが集中していること、そしてそれを放置し続けていること自体、日本政府が沖縄をいまだ日本と見(ママ)なしていない証である。(p190)
そもそも制度上、キャリアとノンキャリアの試験がべつに設けられているのだから、優秀な者や志の高い者がキャリアの試験を受けるのは自然である。 最初からノンキャリアの試験を受けるような奴は、歩留まりを見越した敗北者なのである。 それでも、多少とも骨のあるノンキャリアなら、外務省に入ってから、その処遇の歴然とした差を見せつけられたとき、発憤してキャリア試験を受け直すか、さもなくば役人人生に見切りをつけて、早早と辞めるかどちらかの道を選ぶ。 しかし、そのいずれでもないノンキャリアは、幹部にごまをすって少しでも甘い目を見ようとするか、あるいはやる気をなくして不満を抱えながら日々の生活を送っていくかのどちらかに堕していく。(pp208,209)
出世の見込みがなくなったとみなされたキャリアは、色々な形で誹謗中傷の標的とされる。 普通のキャリアなら大目に見てもらえるミスであっても、落ち目になったキャリアが犯したときの仕打ちは悲惨だ。 「だからキャリアは駄目なんだ」と、不当なバッシングを浴びせられる。とあるのを見ると、単にノンキャリアの人々からひどい扱いを受けたことに対して、今ここでその意趣返しをしているとしか思えない。 言っておくが、本書を読む限り、ノンキャリアが筆者につらく当たったのは出世しなさそうであるからではない可能性が極めて高い。 面白いと思う仕事は人の領分にも手を突っ込み、つまらないと思う仕事は自分の担当であっても人に押しつける姿勢が招いた、自業自得の結果と考えるのが妥当だ。
憲法論議で最も重要なことは、このまま日米軍事同盟を米国の言いなりに強化していくことを許すのか、あるいは本来の平和憲法の精神を明確にさせ、日本独自の安全保障政策を国民的合意の下に作っていくのか、いずれの選択を迫られていることを認識することである。(p228)
断っておくが、以上は目に余るものを抜粋しただけで、そのほかにも電波ゆんゆんな記載がそこかしこにあふれている。 本書でいくつも披露されている外務省のなさけないエピソードの数々は事実であろうし、それを知るために読むことまでを否定するわけではない。 しかし、本書を買って著者に印税収入をもたらし、自分の意見は世にあまねく通用する立派なものだという妄想をかきたてるのは、日本にとって百害あって一利なし。 どうしても読みたいのであれば、図書館なり人から借りるなりして読むことを強くお薦めする次第である。
(天木直人(2003)、「さらば外務省! 私は小泉首相と売国官僚を許さない」、講談社)
(2003-11-09記)
クラッシック音楽愛好家であれば、"OAMDG"(Omnia ad majorem Dei gloriam: 「すべてはより大いなる神の栄光のために」)という言葉を目にしたことがあるかもしれない。 敬虔なキリスト教徒として知られたアントン・ブルックナーやアロイス・ツィンマーマンが、その芸術を神に捧げるために署名として用いた言葉である。 神への信仰を軸に著者がその才気を自由闊達に巡らせ、そこに当代一流の頭脳が加わって議論を交わした成果が結実している本書にも、その言葉は当てはまると言えよう。
何せクヌースは知る人ぞ知る「あの」クヌースであるし、MITという世界有数の土俵でガイ・スティールらが相方を務めると聞くだけで期待感がふくらむではないか。 そんな本書の土台は、同じくクヌースが1991年に出版した"3:16 Bible Texts Illustrated"という聖書に関する一冊の本であるが、本書はその延長線上にあってキリスト教や聖書に話題を限定することなく、様々な分野について、これ以上はなかなか望めない知的なエンターテイメントが繰り広げられている。
その神髄がもっとも鮮やかな形で示されているのは、「第4回講義−美学」に出てくる様々なカリグラフィだ。
上記の"3:16"とは、聖書の各文書の第三章第一節から数えて16番目の節という意味だが、その各節を世界中のカリグラファが多種多様なカリグラフィに起こしている(p33に一覧掲載されているが、せめてこのページだけはカラーにして欲しかった・・・)。
聖書という、非キリスト教徒の日本人から見るとホテルにおいてあるあまり読む木のしない本というイメージの題材から、これほどまでに異なるデザインが紡ぎ出されるさまは、文中で紹介される制作過程のエピソードとあいまって想像の連鎖をつくりだし、クヌース自身も今日お持ちしたポスターにその59節それぞれがありますが、これらは3:16のロゴも入れると、10×6のマトリックスにきれいに収まっています。このポスターをオフィスに飾ってから早くも10年が経ちますが、ちっとも見飽きることがないのは驚きです。(p32)
と言っているように、どれだけ見ていてもあきない。
そのほか、「第2回講義−ランダム化と宗教」と「第5回講義−かいま見える神」はこれ以上なく面白い確率論の入門であるし、「第3回講義−言語翻訳」では言葉を学ぶことの果てしなさと、それが故の麻薬のような中毒性のある魅力の一断面を活写しているなど、知的好奇心あふれる人間にとって、どこをとってもインスピレーションが得られることは必定だ。
しかし、クヌースが聖書を論じている以上、やはり圧巻なのは「第6回講義−神とコンピュータ科学」であることは論を待たない。 特に、神の属性としての無限を不要としている点は極めて興味深い。 確かに無限という属性は、本質的に矛盾を招くこととなるので(例えば、「神は自分でも持ち上げられないほど大きな物体を作ることができるか。 もしできるなら、持ち上げられないものがあるため、全知全能ではない。 できないなら、できないことがあるため、全知全能ではない。 従って、神は全知全能ではない」ということ)、有限とすることは理に適っている。
もちろんクヌースは、有限であってもその限度が人間が認識できないほど高い水準にあるのであれば、人間から見れば無限と区別ができず、有限であることと畏敬の念は両立するという趣旨で言っている。 ところが、この指摘は神の偉大さにとって本質的な脅威である。 さすがにムーアの法則はそれほど遠くない未来に妥当しなくはなるだろうが、それでもコンピュータの処理能力が向上し続けることは間違いないからだ。
本書掲載のパネルディスカッションでミッチ・カポールやマヌエル・ベローソが言っているように、SFで語られているような人工知能はそう簡単にはできないだろうが、それでも将来のいつかには、必ずコンピュータの処理能力は人間にとって無限とした言いようがないものとなるだろう。 十分に高い水準にある有限は人間から見れば無限と区別できないというクヌースの指摘は、いつの日かコンピュータと神が区別できなくなるという予言に等しい。 それが22世紀なのか23世紀なのかはわからないが、哲学や神学に携わる人間にとって史上比すべきもののないフロンティアが待つ時代の幕が開いたと言えよう。
最後に、webmasterは無神論者を自認しているが、本書がキリスト教という土台あってのことと考えると、やはりキリスト教という一つの体系が持つ幅広さや奥深さには一目置かざるを得ない。 先に紹介したカリグラフィにしても、世界中のカリグラファによる作業が可能であったのは、それだけの普及があってのこと。 もちろんそれほどの体系だからこそ、歴史上魔女狩りに代表されるような様々な悲劇を残してきたのもまた事実であるのだが。
(ドナルド・E・クヌース(2003)、「コンピュータ科学者がめったに語らないこと」、SIBaccess)
(2003-11-16記)
webmasterは法学部出身であり、一応、専門分野は法律ということになっている。 である以上、サイトを立ち上げてネット上で様々な考察を公表するからには、いつか必ずや俎上に載せてみせようと内心誓っていたのが本書。 本文だけで400ページ強、加えて詳細な注が50ページ以上という分量に気押され11ヶ月が過ぎてしまったが、こうしてテキストを打ち込んでいる今、宿題の半分をようやくこなしたような気分だ(残りの半分は、想像に難くないであろうが同じくレッシグによるコモンズである)。
さて、本書は問題提起の書であるが、取り組んでいるテーマは次のようなものだ。
上記のコードについての考え方は、レッシグの奇抜なアイデアというわけでは決してない。
レッシグとは逆のコードを作る側の証言としては、例えば前回紹介した「コンピュータ科学者がめったに語らないこと」において、世界を代表するプログラマの一人とも言えるクヌースは・・・コンピュータ科学は非自然科学です。
コンピュータ科学が扱うのは、人工的な事物であり、自然の制約により束縛されることはありません。(p167)
(webmaster注:強調は原文による)であるとか、・・・プログラムの作成は、往々にして小さな宇宙を創造しなければならないことを意味する(p169)
と語っている。
この問題に対するレッシグのアプローチは、基本的には従来の社会のあり方をネット上にも投影するというものである。 比喩的にいえば、あくまで神のものは神に、カエサルのものはカエサルにと守備範囲を限定し、コードであっても不可侵の領域、つまり人知の及ばない限界を人工的に作ることにより、そうした限界があることを前提とした既存のルールが、何がしかのアジャストはするにせよ妥当する社会を是としている。
だが、そこにいたる道は限りなく険しい。 最大の障壁となるのは、知識・情報拡散の不可逆性だ。 いったんコードにより何かが実現可能とわかった段階で、その可能性を消去することは不可能である。 そんなコードは社会的にまずいから禁止だと言ってみたところで、それを誰かが作り出すことは止められない。 アングラの話は捨象するとしても、全世界で条約でも締結してみたところでタックス・ヘイヴンならぬコード・ヘイヴンができるに決まっている。
この問題が深刻であるのは、コードによりコントロールをする側だけではなく、コントロールされる側にとってもコードが有益であること。 コントロールする側にとってのみコードが有益であるなら、紆余曲折はあれどコードを制約することは達成可能だろう。 しかし、たとえばアングラサイトへのアクセス制限が子を持つ親やイントラネットを構築した企業の経営者にとって望ましいように、コントロールされる側がより強力なコードによるコントロールを歓迎する一面があることは否定できない。 むろん彼らとてコードの「悪用」には反対だろうが、毒にもならないものは薬にもならないし、何が「悪用」なんてものはケースバイケースなのだから、「悪用」のみを禁止すればいいといった単純な議論は成り立たない。
それではwebmasterに何がいい代替案でもあるのかと問われると、わからないと言わざるを得ないのが残念だ。 コードという限界のないコントロールを前提とした社会規範がいつかはできるだろうからそれまでの混乱は甘受すべし、というのが一番安直な選択肢ではあるが、BEfore We Are All Deadをサイト名に掲げている以上、それを選ぶことはプライドにかけてできない。
あえて言えば、人の欲望の際限のなさに希望があるのではないか。 コードによるコントロールが強化され続けるのも人の欲望の際限のなさ故であるが、そのコントロールの下で行われる人の営みもまた、欲望の際限のなさ故に広がり続けるであろう。 であるとすれば、「小さな宇宙」のthe Creatorにとってはハードウェアに起因する制約がコントロールの強度の限界となるが(無限の記憶領域と処理能力がない限り、コードのできることは有限だ)、さまざまな活動による情報量がその限界に達するのであれば、事実上コードの無制限性は剥奪される。 人がやりたいことをやりたいようにやる中で、従来では無限と区別のつかないほど高みにあった有限が地上に降りてくるシナリオは、あながちありえないものでもあるまい。
この限界はもちろん他の知的活動にも降りかかってくるものの、5・7・5というきわめて限定された世界で創作を行う俳人が顕著な例だが、幸いなことにcreatorsにとっては、そうした制約があろうと創造性はかえって刺激されたりもする。 こうしたthe Creatorとcreatorsの立場や目指すところの違いを突き詰めていった先に、何らかの妥当な解があるのではなかろうか。
(ローレンス・レッシグ(2001)、「CODE−インターネットの合法・違法・プライバシー」、翔泳社)
(2003-11-24記)
というわけで、前回に引き続いてのレッシグ、今回は「コモンズ」である。 CODEで指摘したコードによる過剰なコントロールによる弊害の具体例として、本書でレッシグが丁寧に論じているのは著作権に代表される知的財産権である。 レッシグは、こうしたコントロールの広がりはイノヴェーションを妨げる悪しき風潮であるとして難じており、インターネット草創期の各人がそれぞれの知識を自由に交換しあい発展していた様子を対照的な姿として描いている。
一応断っておくと、後者の世界はカリスマ的なリーダーあってのこと−linuxにとってのリーナス・トーバルスとGNUプロジェクトにとってのリチャード・ストールマンが双璧だろう。 具体的なリーダーシップの模様は、例えば圏外からの一言(2003-11-17)でヴィヴィッドに描かれている−であり、国のコントロールにより逆説的にコードのコントロールを弱めるとのレッシグの主張に照らせば、彼らこそがそうしたコミュニティにおいて国の代わりを務めているからこそうまく機能していると言えるわけで、決して無政府状態でそうした世界が築けるだなんていう単純な主張をしているわけではない。 で、そのような皆がそれぞれの知識を共有して自由に扱える世界、すなわちコモンズをネット上に構築することが、今後のネット社会の最大限の発展につながっていくとしている。
webmasterも、それなりの規模のコモンズの存在が極めて有益であるとの指摘には賛成であるが(ただし、コモンズが真にイノヴェーションに寄与するかどうかについては、例えばフリーウェアでできること、できないこと(webmaster注:これは作者である石原潔氏の夭折により既に閉鎖されてしまったサイトの1998年初出のテキスト(ちなみに、後で出てくる「コピーされると儲かるシステムにすれ(命令形)」もこのサイトのテキスト)だが、今でも十分通用するレベルの考察であり、internet archiveというプロジェクトがこの世にあることに感謝)で指摘されているように、即断しがたい。 webmasterは、少なくともコントロールされたコモンズの存在によりイノヴェーションが妨げられるリスクは小さいし、それ以外のメリットを考えれば有益だと判断している)、それを実現する手段については悩みどころだ。 レッシグ自身、本書でも言及されているようにエルドレッド裁判に関与するなど、コモンズの復興に向けて運動をしているものの、いみじくもエルドレッド裁判がエルドレッドの敗訴に終わったように、その道は平らかでない。 だいたい、仮にエルドレッド裁判で勝訴していたとしても、それは現状の著作権の有効期限を増やさないという効果にとどまり、ようすればコモンズの縮小を留めるに過ぎないものではあったのだ。
ではどうすればいいのか。 ここで、書評という本稿の趣旨からは脱線ではあるが、webmaster私案を世に問うてみたい。 基本はレッシグと同じく国の介入による自由の確保。 手法としては、現行の著作権保護の仕組みよりも自由にコピーなどをさせた方が著作権者の利益が増えるようなスキームとしなければ実現不可能だろう、という問題意識から出発し、国が自由なコピーを求める一方で著作権者に見返りを支払うという枠組みを採用したものである。
もしコモンズというテーマに関心のある人は、この案を多いに議論して欲しいと思う(コピーされると儲かるシステムにすれ(命令形)やクリエイティブ・コモンズ関連サイトの諸テキスト、デジタル証券システムによるコンテンツ流通などを読んだ上での議論であれば、議論はさらに実り多きものとなろう)。
こうしたアイデアをついつい考えてみたくしまうのは、本書が事態の本質をつかんでおり想像力を刺激する論考をしているからこそであるが、今の日本がまさにこの問題についての議論をすべき時にあるという、一つの奇跡的な幸運の働きもまた大きいと言えよう。 本書が日本で出版された頃には、関連する話題といえばせいぜいCCCD(コピーコントロールCD)であり、しかも音質についての議論が多かった。 しかし今は、地上波デジタル放送との関連でのコピーワンスコンテンツを巡る議論があり、Winny使用で逮捕者が出、さらにはその作者47氏が取り調べを受け(ちなみに、Winnyと著作権の問題については、真紀奈's れぽーと ぼりゅーむとぅーが詳しい)、NTTコミュニケーションズがP2Pでの流通を前提とした動画配信サービスを始めるなど、まさにデジタルコンテンツの著作権についての議論を深めるべきまたとない好機であるのだ。
そんな時代に出会えた幸運に感謝するための最高の方法は、本書を読むこと。 思う存分考えを巡らせるための材料がきちんと整理された形で、しかも後から振り返っての整理ではなく事前に用意されているなんてことは、本当に滅多にないことなのだから。 それを使わないなんてもったいないことをしては、後世の人間から恨まれても言い訳できまい。
(ローレンス・レッシグ(2002)、「コモンズ/ネット上の所有権強化は技術革新を殺す」、翔泳社)
(2003-12-04記)
本書の特色を一言で表すなら、読んで得られることについての時間効率が極めて高いということだろう。 全体でたったの186ページという薄い本であるが、そこで取り扱っている事柄は幅広い。
と聞くと、「○○が×時間でわかる」といった謳い文句のノウハウ本が頭に浮かび、味気なく奥深さもないのではないかとの危惧を抱く人もいるかもしれないが、それとは全く正反対なのが本書。 それぞれのテーマについて実に得難い貴重な内容が込められている。 そんなことが可能となった秘訣はまず簡潔にして要を得た文体、そして相互のテーマ間の連関を見抜いているため、それぞれに関する記述がお互いのサポートとなって二度も三度も味わえるものとなっている構成の妙であろう。
中心となる話題は、タイトルがまさに表しているBIS規制を巡る日本の金融史。 日本人初のバーゼル銀行監督委員会事務局長に就任した著者にとっては自家薬籠中の話題であり、BIS規制がどのような交渉を経て国債合意に至り、それを日本の法制度にどのように組み込まれていったかが、当事者ならではのエピソードを交え克明に記されている。
その際あわせて、その規制が対象としている金融機関側の事情も明らかにされている。 BIS規制の原型が生まれたのは1980年代半ばであり、つまりはこの20年間−日本ではバブルの生成と崩壊が起こった激動の時代−の金融機関の行動を、当局との関係というまれにしか見られない見地から綴ったものとも言える。
さらに当然ではあるが、現行のBIS規制及び現在進められているその見直し案についてのまとまった説明という側面。 各種メディアで様々に語られるBIS規制であるが、「8%」「4%」という断片はよく見られても、そもそもの枠組みやその含意するところが紹介されることはめったにないため、本書を読んでそれらの説明を読めば腑に落ちること(さらにはウソを見抜けること)請け合いである。
また、単なる説明にとどまらずよくある批判に対する反論も盛り込まれているなど、銀行や金融とは何か、今の日本経済における金融セクターの真の問題とは何かについて考える手がかりも与えられているのだ。 この点を若干敷衍してみよう。
本書の82ページには、家計の「自己資本」=余剰資金が銀行に預けられ、その預金と銀行の自己資本が貸出金として企業に回り、企業は借り入れたお金と自己資本で事業を行っている姿が描かれている。 そして、企業における損失がその自己資本の範囲を超えれば銀行の貸出金が毀損し、その毀損が銀行の自己資本を上回れば預金に損失が及ぶという関係があわせてわかりやすく示されている(webmaster注1:企業の損失が実物資産の価格下落(株価や地価の下落)に伴うものとして図示されているが、そうしたストック要素にとどまらず収益の悪化というフロー要素もまた企業の資本を減少させるものであり、より一般化して考える必要があろう)(webmaster注2:従来、銀行が破綻しても預金は全額保護されてきており、ここでの記述にそぐわない実態となっているが、税金による穴埋めという形で国庫に転嫁されているだけであり、本質的な違いではない)。
ここで着目すべきは、ある経済が負うことができる最大限の損失は、家計・銀行・企業の各セクターの自己資本の合計額ということに等しいということ(海外からのリスクマネーの流入は捨象)。 日本経済における生じ得る損失=リスク量が適正であるとすれば、企業の過剰債務負担がどうとか、銀行の資本不足がこうとか言ったところで、本当にそれが問題であれば家計が超過資本であることの裏返しに過ぎないこととなり、解決策は各セクターが負担するリスク量とそれぞれのリスク負担能力=自己資本を調整すればよいということになる。 それを市場=金融セクターを通じてやるのであればリスク資産を流動化して家計に保有させるということになるし、政府を通じてやるのであれば企業なり銀行なりに公的資金を使って資本をつぎ込むということになる。
だが、日本経済全体の自己資本とは結局は過去と現在の儲け、端的にはGDPに帰着するわけで、それが伸び悩んでいるということは、自己資本が全体として目減りしている、つまりはリスク量が大きすぎて負担しかねていることが問題なのだ。 銀行がリスクを減少させればよい(債務者の企業再生というやつがそれだ)との意見もあるが、上記のとおり金融とは経済の中でリスクを負担する能力のあるセクターに当てはめることがその本質的機能であり、リスクの減少などしょせんはマージナルな話に過ぎない。
それは邦銀がだらしがないからだという声もよく聞くが、米銀のリスク管理技術が高度といったところで、リスク量を計測する技術はともかく、本質はみずからが負担すべきリスクは負担し、負担すべきでないリスクは他に転嫁する
(本書p112にて引用の池尾和人「銀行のリスク管理と自己資本比率規制」pp47,48)技術−まさに既述の金融の本質的機能−であり、リスク自体を大規模に減少させる魔法を使っているわけではないのだ(だいたい、もしそんな魔法を外国の金融機関が使えるなら、日本市場は競争相手のいないビジネスチャンスがあふれていることになり、彼らは大挙して参入してくるはずだが、そんな事実は全くない)。
こうした示唆にあふれている本書は、今や日本経済を語る上で避けて通れない金融問題を論ずるに当たっては、銀行を弁護するにせよ批判するにせよ、避けて通れない存在であると言えよう。
最後に断っておかなければならないが、霞が関で行われている作業のほとんどは、本書に描かれた国際交渉ようなドラマティックなものではない。 書籍とする段階でつまらない部分が省かれたという側面はあろうが、これほどのテーマに長年取り組むことができた筆者が幸運だったということも否定しがたい。 「官僚になればこんな面白い仕事ができるんだ」などと過大な期待をもたれぬよう、あえて無粋な一言を付け加えさせていただく。
(氷見野良三(2002)、「[検証]BIS規制と日本」、金融財政事情研究会)
(2003-12-24記)
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