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勝手な月1回の人物評である。
ネットの世界では、まあこれを読んでいる以上ネットと無関係なわけはないのでそうした感想を持ってる人が多いのだろうが、ビル・ゲイツに人気がないのは常識に属するところであろう(人気がないことを知らないという方は、「がんばれ!!ゲイツ君」や"MS-Watch"などをご覧あれ。 どちらもアンチマイクロソフトのメジャーページで、おもしろく、ためになるページだ)。 曰く、作ってるソフトが人まね、曰く、バグが多いしそれを「仕様」と言い張る、曰く、OSの独占的地位を濫用する、曰く、nerdっぽい、曰く、勝手に個人情報を収集する、曰く、・・・確かに、これで人気がある方がおかしい(笑)。
でも、じゃあビル・ゲイツ(&マイクロソフト)が存在しなけりゃ今よりすばらしいか、と聞かれれば、多分そうではないのだろうし、存在はしていても、今ほど独占的な地位にはなくて、Mac OSやらUNIXと市場を分割しているような状態がいいかと聞かれても、やっぱりそうじゃないんだろう。 なぜかって、やっぱりOSは、特に一般人向け市場においては、統一されていた方が使い勝手がいいわけで(自分ちのMZ-2200上のアプリのデータは友達んちのFM-7では読み込めません、ってのはかなり不便。 何のことだかわからない人は、知らなくても全く困らないので気にしないように)。 もし一般人向け市場をMac OSが支配していれば、それはハードウェアまで統一ブランドで占められることと同値だし(あのアップルのことだから、独占企業になったらマイクロソフトよりもっとたちの悪い市場支配者になるはずとの予想はエヴァンジェリストだって賛成するだろう(笑))。 それがUNIXなら結局いろいろ細分化されて統一のメリットが出てこなくなってしまう(ソースコードなら互換性があるとかいうのは却下)。
マイクロソフト(ほぼ)独占の副作用が今の程度でとどまっているというのは、司法省やアメリカ各州政府の反トラスト法の運用や、ネットコミュニティにおける批判活動とか、マイクロソフト製品のセキュリティホールを見つけるのが楽しくてたまらないクラッカーの存在とか、そういったもののおかげ。 だから、あくまでもそれが前提ではあるけど、ビル・ゲイツという人間が、
ことは、ユーザである我々にとって、それなりに幸せなことなのでは、と思うわけだ。
ついでに言えば、時流に支えられるという一時代を画す才能には恵まれていても、プログラミングの才能とか、経営者としての才能とか、その当たりはそれほどは頭抜けていない(プログラマで「ビル」と言えばビル・ジョイだろうし(「ゲイツ」と言えばビル・ゲイツですが(笑))、X-BOXなんてこれからどうなるんでしょうかね?)こともすばらしい。 おかげで、多様なOSがきちんとニッチで生きていけるわけで。 もうちょっとビル・ゲイツがプログラミング技術に優れ、経営の才に恵まれていたら、そりゃウィンドウズは今のものよりもっといいものになって、ブルースクリーンや度重なるパッチあてからは解放されていたかもしれないけど、Mac OSもUNIXもBeOSもTRONも(その他のいろんなOSも)ウィンドウズで代替可能になって、みんな絶滅してたかもしれないんだから。
(2003-01-01記)
(2003-01-18一部修正(ほかの文章と文体を統一))
現在、次の日本銀行総裁人事を巡って議論が喧しいが、これはすなわち、現速水総裁の任期がもうすぐ終わるということを表している。 日本銀行法第2条には、金融政策の理念として、「物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資すること」が規定されているが、速水総裁が日銀を率いた5年間はこの理念がまったく実現されておらず、総裁としては落第だったと断ぜざるを得ない(デフレ=物価の継続的な下落だって「安定」していないので、念のため)。 落第の原因は何か。 細かいものまでカウントすればきりがないが、主要どころとしては次の4つだろう。
しかし、書いていて本当に腹が立ってきた。 次の日銀総裁は、速水じゃなければ誰でもいいと言いたいところだが、今の日本には速水総裁と同じような考え方をする人間がそれなりにいる。 次期総裁はそんな輩ではなく、本気でデフレに立ち向かう人間になってもらわなければ、日本経済のクラッシュはそう遠くないだろう。
(2003-02-01記)
総合格闘技、K1、プロレスを問わず、大活躍のサップであるが、バラエティにとどまらず、ついにCMにまで進出した。 格闘技(プロレスは格闘技ではないという向きもあろうが、広い意味で)の世界で活躍して欲しいと思う身としては若干複雑な気もする。
小錦のように引退してからというわけにはいかないだろうか。 芸能界は格闘家としての力が衰えた後でも活躍できるわけだし。
ただ、今の露出の多さはいかにも過剰であるようにも思えるのだが、それはそれでサップの戦略ではなかろうか。 つまり、日本のメディアの飽きっぽさを承知の上で、とことん稼いでやろうということ。
そもそも、最初にメディアにいじられたのは「ワールドプロレスリング」で、新日本プロレスの中西学戦前のプロモーション。 このいじり方がひどかった。 未だにベビーフェイス=日本人、ヒール=外国人の図式でありきたりにまとめており、やっぱりプロレスがらみのメディア関係者は(少なくともエンターテイメントを演出する者としては)レベル低いよなぁと感じさせてやまないもの(中西負けて目算が外れてざまあみろではあったが)。
でも、これすら狙いなのかなと思わなくもない。 あれほどひどい演出でもいやがっている風もなくなりきっているのだから、とクリエイターの心をくすぐったことだろう(見ていればだけど)。
人生、波に乗っている時期はそれほど長くはない。 格闘界・芸能界、どちらでも思う存分金儲けにいそしんで欲しい。 結果は後からついてくるだろう。 彼自身、一瞬のきらめきの後、商品価値が落ちないうちに引っ込んで、あわよくばヒクソン・グレイシーのような形で晩節を汚すことなく余韻を残す(まあ、ヒクソン自身これから晩節を汚す可能性がないわけではないが)。
そんな将来を描いているのではないだろうか。
(2003-03-01記)
メジャーリーグも公式戦が開幕したが、松井秀喜、まずは順調なスタートを切った。 もともとポテンシャルはある選手だけに、ホームラン王が狙えるなんていう妄言(数年後の可能性は否定しないが)は無視するとしても、十分に一流選手としての活躍が期待できる。
むしろ、日本にいるときよりも中長期的には活躍できるのではないか。 というのも、イチローとは違い、松井はその人柄故か、人の話を拒絶しない。 ステップやグリップなどについて、これまでも周囲の雑音が多くあり、にもかかわらず(賢明にも)自分の考えを貫いてきたわけだが、松井は少なくとも話は聞くし、明らかに邪魔だといった態度はとらなかった。
松井自身は大して気にもとめていないのかもしれないが、明らかに時間の無駄。 だいたい日本のプロ野球界は、ろくにコーチングスキルも身につけていないのに、元選手だというだけでコーチ面する人間が多すぎるのだ。 他方、メジャーの世界では、メジャーでコーチになる人間はマイナーでコーチとしての経験を積んでいるわけで、単に選手として有名だからという理由でコーチをやることなどあり得ない。 つまり、日本プロ野球とメジャーの最大の違いは、コーチングスタッフのレベルの差。 自分でコーチを見つけてくるイチローや、そもそもコーチの言うことをどれだけ聞いているか怪しい新庄よりも、松井こそが最もメジャーの恩恵を受けるだろう(ま、ソープランドがないのに耐えられず変な女に引っかかるようなことがなければだが(笑))。
最後に、今年の松井の成績予想。 日本人の多くが最も注目するであろうホームランは、30本(プラスマイナス5本)程度にとどまるだろう。 他方、打率は.320(プラス.015〜マイナス.01)はいく可能性が高い。 打点は110(プラスマイナス10)ほどと見た。
(2003-04-06記)
合成の誤謬という言葉をご存じだろうか。 当サイトではデフレ関連テキストを数多く載せているので、ご存じの方も多かろうと思う。 つまりは、各行動主体が合理的な行動をした結果、全体としては最善ではない結果となってしまうことである。 デフレ不況下で企業がリストラなどのコストカットを進めることは、その企業にとっては極めて合理的であるが、その結果、全体としては有効需要が縮小してしまい、かえって不況が悪化するというのは典型例。
とすれば、ある社会がいろいろな状況への潜在的な対応力を持とうとするのであれば、合理的ではない行動をするような存在を許容しておいた方がよいということになる(無論、そうした許容のコスト自体が一定程度にとどまるという前提においてであるが)。 今、戦後史を振り返る中で単なる反米主義者となってしまった小林は、そういったあえて許容される非合理な存在であると言えよう。
日本の国家戦略を考えれば、アメリカとの協調路線は絶対にはずすことができない。 日本のような島国の存続には近隣の制海権の維持が不可欠であるが、アメリカの存在を念頭に置けば、アメリカと対立して独力で制海権を維持するという極めて高くつく選択をするというのは極めて非合理であり、国民が合理的であれば、基本的にはアメリカとの協調を是とするはずだ。
しかし、国民の大多数がそのような判断をすると、かえって日本としては不利になってしまうおそれがある。 アメリカが日本と協調する場合、何も善意でそのような判断をしているわけではなく、それがアメリカにとって利益となるからこそ。 両国にとって利益が合致することばかりであれば問題はないが、そうではないことがあるのは当たり前。 そのとき、アメリカがどこまで自らの利益を主張するかを考えれば、
主張をあきらめるコスト < 主張を続けることにより日米協調が崩壊する可能性×協調が崩壊した際のコスト
となるときまで。 当然ながら、非合理な反米主義者がそれなりに存在した方が、「主張を続けることにより日米協調が崩壊する可能性」は高くなるので、日米の利害が対立したときには日本にとって有利となる。 無論、「それなり」でなくては困るわけで、非合理な反米主義者が過半を占め日本から協調路線を放棄したり、アメリカ側があまりに妥協を強いられることに嫌気がさしてしまうようになっては最悪だが、そこは戦後なんだかんだといって大枠では親米が多数派だった日本のこと、そうしたことにはならないとwebmasterは思っている。
しかし、「脱正義論」の頃はある意味尊敬していたのだが、ずいぶん遠くへ行ってしまったようだ。 あれだけプロフェッショナルというものを尊重していたはずなのに、安全保障問題のプロフェッショナルからは相手にもされないようになっているのが現状。 その姿を、当時の小林が客観的に見たならば認めるはずもないと思うのだが。
(2003-05-05記)
「あずみ」の上映開始にあわせ、最近やたらとメディアへの露出が目立つ上戸彩。 彼女の出世作と言えば金八先生になるのだろうが、その次のステップを間違えたようである。 「あずみ」のテレビCMを見ていると、よりにもよって向いていない役を選んでしまったとしか思えず、オスカープロが最近多用するメディア露出戦略も、こうなってしまうと大した効果はない。
現に、最近までその戦略を使っていた菊川怜も、そしてその前の米倉涼子も、露出が切れると同時に印象が薄くなってしまっている。 さらに言えば、国民的美少女コンテストの歴代受賞者を見ても、佐藤藍子ぐらいしか第一線には生き残っていないわけで(小田茜は「ぼくの魔法使い」で見かけたが、ずいぶんな様変わりだった)、メディアへの露出が生命線というのはこのプロダクション所属タレントの通弊のようだ。
それではどうすれば生き残っていけるかを考えても、なかなか難しい。 先の佐藤藍子もそうだが、宮沢りえや観月ありさを見ても、「美少女」で売ってしまうと、女優に活路を見いだすのが定番(後藤久美子はその中でもルックスが頭抜けているので例外)。 しかし、「あずみ」を見る限り、その方面の才能にはあまり期待ができそうにない。 当面はテレビドラマで場数を踏みつつ演技の勉強を重ねるにしくはないが、オスカーがそんな地道なキャリアを許容するかどうか。
まあ、許容されずにそのうちフェイドアウトする確率が高いとwebmasterは踏んでいるからこそ、「旬」の今、ここで取り上げたのだが。
ちなみに「あずみ」であるが、原作ファンの一人としては、映画化するのであればもっと人選を考えて欲しかった。
じゃあ誰がと考えると、殺陣をこなしても違和感のない雰囲気や演技力を重視するなら黒谷友香で決まりなのだが、あずみ役としては年齢がネックとなる。 年齢とルックスなら加藤あいか上原多香子だが、殺陣の違和感は上戸彩と大同小異となりそうだ(というか、上原多香子だと上戸彩より演技が下手だし)。
と悩んだ結果、松浦亜弥で決定。 あれほど完璧に「アイドル」を演じきれるのだから、半年ほど歌から隔離して演技をたたき込むことさえできれば、魅力的なあずみが十分期待できよう。
(2003-06-08記)
今回のテキストには、田中の作品に関する一部ネタバレが含まれているのであしからず。
とある書店に平積みされていた「創竜伝13」を、思わず買ってしまった。 田中の小説を読むのもずいぶんと久しぶりだったが、彼の本を買うのはこれが最後だろうとの思いを禁じ得ない。
なぜかといって、とにかくつまらないからだ。
老舗の田中批判サイト、田中芳樹を撃つ!(通称タナウツ)でも創竜伝はとかく評判が悪いが、webmasterが田中に批判的である理由はそこでの議論とはかなり異なる。 タナウツでは、田中の現代日本社会への評論に対してとかく評価が辛い(評論で糞味噌に貶されているところの官僚であるwebmasterも、事実関係はタナウツ主流派と見解を同じくすることが多い)が、それは問題の本質ではない。 現実から遊離した前提に基づく言いがかり的な作中人物への攻撃が、物語の致命的な欠点に必ずなるわけではないというのは、忠臣蔵を見ても明らかだ。
だいたい、それをもって田中の欠点とするのであれば、彼の作品中最高峰と称せられることの多い銀河英雄伝説(銀英伝)であっても、そこから免れているわけではない。 ヤン・ウェンリーの言動は竜堂始のそれとほぼ重なっているし、ヨブ・トリューニヒトに対する描写は、創竜伝中の与党政治家に関するものと入れ替えてもさほど違和感はない。 タナウツの常連諸氏もこの点には気づいているはずなのだが、スタンスとして銀英伝を肯定しているので、なぜか一貫しない評価となってしまっている。
それでは、銀英伝(に代表される初期の作品)と創竜伝(に代表される最近の諸作)とは何が違っているのか。 それは、葛藤の有無である。
銀英伝では、主人公ラインハルトは姉アンネローゼを皇帝に奪われ、友キルヒアイスは自らの判断ミスが原因で命を落とすなど、ラインハルトには様々な障害が待ち受けており、希望が叶わないが故の悩みもあった。 他方で創竜伝では、主人公たち(始は無論のこと、それより年少の続、終、余も当然含め)が無敵の竜王であることも手伝い、この手の悩みを抱えている様子は全くうかがえない。 この点は創竜伝に限らず現在田中が執筆している諸作にも言えることであり、例えばタナウツでもかなりの高評価を得ているアルスラーン戦記も、物語としてみれば、万能軍師ナルサスと無敵の勇者ダリューン(その他のアルスラーン陣営の人物も多かれ少なかれ人間離れしているが)のせいで勝負の行方が見え透いており、盛り上がりに欠けること甚だしい。
さて、田中はこの手の葛藤をしっかり書けるのに書かないのか、それとも書けないのか。 銀英伝では書いていたから書けると思いたいところだが、実際のところ、少なくとも田中が思い入れをもって描こうとする主人公については、書けないのではないだろうか。 銀英伝の主人公は(おそらく田中自身の人格が投影されている)ヤンではなくラインハルトであるが、ラインハルトについては女性に人気が出ることを予想するなど、多分に意図的に作り出したキャラクターであり、作家として彼にまつわるドラマを構想することもできたのだろう。 しかしヤンについては、自身の思い入れが手伝ってか、彼にとって厳しい二者択一を迫られ、どちらを選んでも後悔にさいなまれること間違いなしといった場面には遭遇していない。 田中の分身であるが故に、直面しがたい課題は免除されたのだ。
田中にとって不幸なことに、ヤンは多くの人に受け入れられ、高い人気を得た。 ヤンのようなタイプを主人公とした小説を書いても、商売として成功することが見えてしまった。 それでも銀英伝直後は、作家としての意識が強かったのか、タイタニアのように、田中の分身的キャラクター(ジュスラン)を田中が嫌うであろう支配者側に設定するという新たな試みも見られていたが、その続刊が出ないのは、おそらく今ではその後が書けなくなってしまったのだろう。 結局書き続かれているのは、創竜伝や薬師寺涼子シリーズなど、田中が作中に自らを投影したキャラクターが、気分のいい世界で、都合のいい活躍をするものばかり。
若き日の美しい思い出は、そのままにしておいた方がよかったということか。 少なくとも銀英伝を読み返すのはやめよう、とwebmasterは思っている。
(2003-07-06記)
今アンケートをとれば、よほど偏ったサンプリングをしない限り軽く90%を超える否定派を集めること必定の、ある意味時の人である。 しかし、よく考えれば、結果として非常に合理的な行動をしているとの解釈が可能だ。
それはどのようなものか。
達成すべき目標は、道路建設の維持。 その観点から現在の行動を見れば、日本道路公団という組織やその総裁としての自らに批判を集めることにより、総裁更迭→公団民営化という形で問題の決着を図り、道路建設には議論を及ぼさずにこの問題に幕を引くという筋が浮かんでくる。
いくつか補助線を引く必要があるだろう。
まず、「道路建設の維持」という目標の意味は何か。 当然、ファミリー企業の利権漁りなどではない(そうした考え方の関係者がいる可能性は否定しないが、マジョリティがそれということはあり得ない)。 (道路公団ではなく本四架橋公団関連だが)かつて瀬戸大橋がプロジェクトXで取り上げられ、これに感動した人もいるだろうが、道路建設にかける思いは、その中に出てくる工事関係者のそれと同じだ。 藤井総裁は建設技官=技術畑出身であるが、本気で世のため人のためと信じて、道路をもっと建設しなければという使命感に燃えているのだ(と思う)。
次に、債務超過問題である。 みなごろしの会計をお読みの方にはご案内の通りだが、企業体にとって重要なのはキャッシュフローがきちんと回るかどうか。 その観点からは、実は平成11年度から政策コスト分析というものが公表されており、道路公団に関して言えば、現在価値ベースでの将来キャッシュフロー不足は約1兆4,000億円(平成15年度ベース)から約4兆3,000億円(平成12年度ベース)程度にのぼることが明らかとなっている。 つまり、債務超過などと今さら騒ぐのは、これまで不明であったか、為にする議論をしているかのいずれかなのだ。
さらに言えば、道路公団は道路を建設・維持するための組織であり、そもそもどれだけの道路を建設すべきかは、予算・法律の議決により国会で決まっている。 道路は準公共財であり、事業は赤字で当然(蛇足ながら、累積すれば言うまでもなく債務超過となる)。 そもそも黒字で回るなら政府・特殊法人等ではなく民間企業の守備範囲であるが、道路事業は本質的にそうではあり得ない(無理にそうすれば、外部性により供給過少とならざるを得ない)。 だからこそ、国民負担を伴うことを承知で道路を作るのだということを国会で決める必要があるし、そう決めた以上、それを実現する手段に過ぎない道路公団の債務超過(=デフォルトさせない限り、国民負担で穴埋めする必要がある)を問題視することは本末転倒なのだ。
しかし、その本末転倒に議論を集中させるからこそ、道路の建設は維持され得る。 石原行革担当相が北海道の高速道路についての熊発言をしたように、そもそも道路など造るのを止めてしまえ、という議論こそが本質論。 焦点がここに絞られれば、道路族を含め今とは比較にならないほど猛烈な抵抗をするにせよ、その勝負に勝てる保証はない。 であれば、道路建設が必然的に債務超過=国民負担になるのではなく、道路公団がファミリー企業と癒着するなど非効率な事業運営をしているから債務超過になるのであり、そうした事実を隠蔽する藤井総裁や道路公団こそが諸悪の根元だとして議論をそらす方がベターな戦略となる。
大胆に例えるなら、藤井総裁は備中高松城の清水宗治。 小泉首相=羽柴秀吉は、藤井総裁=清水宗治の命と引き替えに戦闘の早期終結を図り、自民党総裁選=山崎の合戦に備える。 藤井総裁は自らの更迭=自刃により、道路建設を支える技術者集団=城兵を守る。 自民党道路族=毛利家は、藤井総裁を生け贄にすることにより、道路建設の継続=本領安堵を確保する。
とすれば、藤井総裁の更迭はおそらく8月後半から9月前半。 小泉首相はこれにより支持率を浮上させ、再選をより確かなものとするのだろう。 陰謀論に与するものではないが、誰かが書いたシナリオとすれば大したものだし、そうでないとすれば、事実は小説よりも奇なりとしか言いようのない偶然の妙である。
最後に藤井総裁の敵役についても一言。 片桐幸雄にしても織方弘道にしても、藤井総裁とは異なり文系ホワイトカラーであり、かつ、道路公団プロパーだ。 彼らと藤井総裁の対立を、公団内部の派閥争いと弾じた猪瀬直樹の指摘は、さすがにこの問題を長らく手がけてきたと思わせる鋭さではあるが、なぜ派閥争いがあるのかに論が及んでいないところが物足りない。 同じく猪瀬の指摘で、片桐らが国鉄改革のイメージ戦略を模倣しているとしているが、より本質的に彼らは国鉄改革を手本としているはず。 文系ホワイトカラーから見たJR成功の鍵は、新規路線建設を放棄し、長期債務を政府に移し替え、組合を崩壊させたこと。 これを踏襲し(この場合、組合は技術者集団と読み替えるべし)、優良企業として民営化することが、彼らにとっての理想なのだろう。
逆に言えば、道路建設の理想を二の次として、単に企業としての優良さを至上のものとする彼らの態度は、藤井総裁からすれば唾棄すべき拝金主義者のそれと映っているに違いない(ちなみに、旧建設省における派閥対立は霞が関でも有名であり、「五族協和(記憶が頼りであやふやだが、法文、道路、河川、下水道、官庁営繕の5派閥だったように思う)」とまで揶揄されていたほどだ)。
(2003-08-03記)
(お断り)今回引用の事実関係のソースとしては、リンクを張っていないものについてはすべてを疑え!! MAMO's Siteの久米宏論を参照されたい。
来年3月でのあのニュースステーション降板を発表した久米宏。 特に細川政権発足時には自民党からいたく攻撃を受けたように与党からは受けが悪く、同様に悪者扱いされることの多い霞が関の住人たるwebmasterとしても、そのコメントを苦々しく思うことも少なからずあった。 批判されること自体はともかく、せめてこちらの言い分も取りあげた上でやってくれと。
しかし、彼のそうした手法がニュースステーションの高視聴率の源泉となっているのは否定できない事実であり、つまりは他から抜きんでた優れたものであったのだ。 しょせん大衆に受けるのはそうした無責任な政府批判さ、とすねるのではこちらの頭が悪くなってしまうので、しばし分析してみよう。
結論から言えば、久米が最も優れているのは視聴者の2次発信のハードルを大きく下げていることだ。
久米自身、「僕がコメントすることで、テレビを見ている側に、何かリアクションが起きてくれればいいと思っているんです。黙って見ているだけじゃなくて。何をバカなこと言ってるんだとか、たかがタレントがこれだけ言うのだから自分ももっと発言していいはずだ、という人が出てきてほしい。特に政治的問題に関する発言についてはね」と発言しているが、ここの「リアクション」というのがポイント。 久米の言うとおりだね、であっても、久米の言うことは間違っている、であっても、久米が言っていたということを隠して自分の意見であるかのように語るのであっても、ニュースステーションの視聴者が久米のコメントをきっかけにして情報発信をすることができるというのが、他のキャスターに見られない久米の人気の秘密と考えられる。
例えば今人気のトリビアの泉も、まさに無用な知識が得られるだけだが、それをいろんな場で−堅くは説教の元ネタから柔らかくは合コンのとっかかりまで−視聴者が使える(さらには、「へぇ〜」というリアクションも使える)からこそ人気を博している(これはクイズ番組一般にも通じるが)わけだし、実用本位であるかに見える番組、例えば伊東家の食卓も、あそこで紹介される裏ワザや大発見を実際に家庭でやってみる何倍も、話の材料として活用されているはずだ。
抽象化すれば、生のニュースや背景事情の解説という一次的な報道の価値にとどまらず、それをどう語ればいいのかという付加価値をつけたところに成功の秘訣があったということ。 テレビ放送におけるコミュニケーションは基本的に送り手から受け手へという一方通行性が強いが、これにより受け手は、送り手との間にインタラクションが成立しているかのような気分に浸ることができ、視聴者はそれにはまっていったわけだ。
こうした久米のスタンスは、無論センス・才能に恵まれたこともあるが、彼が生粋の報道畑ではなく芸能畑でアナウンサーとしてのキャリアをスタートさせたことによる部分が大きいだろう。 ザ・ベストテンでは栄枯盛衰激しいJ-POP(当時そんな呼称はなかったが)の世界をかいま見、ぴったしカンカンではあの元コント55号の2人、とりわけ当時人気絶頂であった萩本欽一の芸を間近で味わったこと(ある意味、萩本が衰え型に頼り始めた時期であったことが、エッセンスを吸収する側であった久米には幸いだったのだろう。 萩本の真の全盛期では圧倒されるだけで得るものは少なかったのではないか)は、久米の人生に大きな影響を与えたと思われる。 これらの経験の後、図らずもニュースステーションのたたき台になったと思われるテレビスクランブルでは、かの横山やすしをしてしゃべりで挫折感にまみれさせるにいたった久米である、他のニュースキャスターなど勝負になりようがない。
かくして功成り名を遂げた久米であるが、本人も降板に当たっての記者会見で語っていたように、テレビ人としては下り坂にさしかかっている。 才人であるだけに、己が満足できない姿を人前にさらすことは潔しとしないと思われるが、もし第二の人生を探すのであれば、やはり政治家ではないか。 現首相が体現しているように、コミュニケーターとしての技量さえあれば政策など二の次、三の次という日本の政治である(断っておくが、これこそ日本がアメリカと並んで人類史の最先端を進んでいる証拠である)。 成功することが約束されているといってもいいだけに、日本にとっては不幸な結果となる可能性が高い(本当にいいブレーンがついて彼が御輿に徹するのであればよいのだが・・・)。
その最大の歯止めは久米自身の矜持に尽きるが、このまま静かに公人としての幕を閉じることができるかどうかで、彼が真に一流の人間であるかどうかが試されるのだろう。
(2003-09-11記)
タイガースをセリーグ優勝に導き各界から絶賛を寄せられている星野監督であるが、実際のところ彼の何が評価されているかについては、なかなかに疑問である。 ドラゴンズ監督時代にも2回セリーグ優勝は果たしているが、そのときと今期をともに見ると、彼が優勝するときのパターンが見えてくる。
一つはセットアッパー・クローザーを中心とした投手陣の整備。 最初の優勝時(1988年)の郭源治、2回目の優勝時(1999年)のサムソン・リーと宣銅烈、そして今回の安藤とウィリアムスといったリーグトップクラスのセットアッパーやクローザーをそろえた上で、さらに今期でいえばリガンや金沢、吉野といった粒のそろったラインナップを作り上げている。
次にオーナーをはじめとするフロント幹部との強い結びつき(彼が老人に受けがよいのは知る人ぞ知る話だ)を最大限活用した大胆な人事。 88年には牛島ら当時の中心選手を含む4人を放出して落合を獲得し、99年には現在の投手王国ドラゴンズを作り上げた宮田コーチが抜けた後釜に山田コーチを引っ張り込み、そして今年の金本、伊良部、下柳といった人材の活躍は記憶に新しいところだ。 外人獲得(本来はフロントの仕事だが)が結構うまいのもその一つの現れといえるだろう。
最後は選手やスタッフの家庭に誕生日プレゼントを欠かさないといった心配り。 これは優勝時に限った話ではないが、そうした形で組織全体のやる気を引き出すというのはなかなかできることではない。
他方で、今のようなときには見逃されがちだが、実はそれほどでもないという面もある。
まず、監督としての采配自体は決してうまいものではない。 以前の2回の優勝時にはいずれも日本シリーズで完敗(特に99年は下馬評では随分優勢と見られていたわけだが。 ちなみにそのときの相手は奇しくも今年と同じ王監督率いるホークス)していることがその代表例だろう。
カッとなって突っ走るのも悪い癖。 選手に暴力をふるうというのもなんだが、ディミュロと橘高の2人の審判に対する振る舞いはどう考えても失態以外の何ものでもない。
そして、選手を使い潰すまで酷使しがちだ(これは星野に限らない日本プロ野球界全体の通弊であり、最大の原因は高校野球だとは思うが)。 (ドラゴンズ)第一次政権での近藤、第二次政権での与田と森田を潰さなければ、ドラゴンズ時代にあと2、3回は優勝できたのではないか。
こう考えてみると、星野は陣頭に立つ熱血指揮官のイメージが強いが、実はそうした面ではあまりいい監督とは言い難く、GMとしての側面がうまく効いているときの方が結果が出ている。 まだ日本球界ではGMという制度はなじんでいないし(そう明示的に名乗ったのは過去にはマリーンズの広岡だけ。 近頃、ブルーウェーブで中村が日本球界史上2人目のGMとなった)、今後も根付くかどうかわからないが、将来的には、星野には是非根本に続く2人目の成功せるGM(いや、中村が失敗すると決めつけているわけではないが・・・)となって、プロ野球球団のあり方を変えて欲しいと思う。 それが可能である数少ない人材の一人であると考えるし、また、彼にとってもそちらの方が本当の意味で力が発揮できるのではないだろうか。
以下は余談となるが、今年の日本シリーズについては、総合力で見ればホークスが上なのは間違いない。 既述のとおりセットアッパー・クローザーでは勝っている(タイガースが優れていること以上に、ホークスはこの点が弱点だ)が、それが日本シリーズでの勝ちにつながらないリスクは過去の星野の実績が示している。
ムーア、伊良部、下柳といった面々が調子を落としていることを考えると、ここは井川と心中を決め込む一手ではないか。 井川は1、4、7戦の3回登板を覚悟で回し、その他の試合はちょうどそれぞれが1日おきになることを考え、勝てそうな試合にはいくらでも投手をつぎ込む。 その他の試合を五分で持っていければ井川で1敗できるし、逆に井川が3つ勝てば後の4試合は1勝でよい。
他方ホークスは、斉藤、和田、杉内、新垣の4人で先発を回すと思われるので、投手の活躍でシリーズの流れを作るということにはなりづらいだろうから、松中、城島、井口といった打撃陣を調子に乗せないことが重要となるだろう。 とすれば、井川のピッチングに負けず劣らず矢野のリードに期待がかかるところであり、シーズンMVPを井川と矢野のバッテリーで争うような展開に持ち込めるかどうかが勝敗の分かれ目ではないか。
(2003-10-15記)
ある一つのことで成功するのは、難しくはあるかもしれないが、才能と努力で何とかなる場合が多かろう。 が、二つのことで成功するのは、格段に困難である。 というのも、最初の成功体験が往々にして次の成功の障害となるからだ。
そんな難事を成し遂げたのが彼、マハティールである。 もちろん一つ目の成功は80年代から90年代前半にかけての経済成長であり、二つ目の成功はアジア通貨危機への対応だ。
日本では、彼のルック・イースト政策という自尊心をくすぐる取扱いもあり、台湾の李登輝と並んで古き良き日本の理解者として持ち上げる向きも多い。 また、その延長線上ではあるが、彼の反自由主義経済的言動もまた、ときとしてアメリカに反感を抱く日本人にとって心地よいものとして響く(その代表例は、石原慎太郎との共著「『NO』と言えるアジア」であろう)。
しかし、単純に日本にあこがれるような政治家が、20年以上も政権を保ち成果を上げられるはずもない(彼の発言の数々やインタビューなどを見ると、例えば先の共著者の石原慎太郎に比べ良くも悪くも複雑でつかみ所のない人間なのは明らかだろう)。 例えば先に挙げた李登輝は、台湾の地政学的ポジション故に、マハティールほど反米的な立場は取り得ない。 マレーシアにとって最大のライバルとも言えるシンガポールを導いたリー・クアンユーは、国内の華僑を意識すれば(彼自身のエスニシティもそうだが)、政治的にはより反日的なスタンスをとって当然。
つまり、彼の反米・反中国・親日という政策スタンス(例えばEAEC構想)は、国内のムスリム勢力の存在と中国との距離感から導き出された極めて合理的な選択だ。 だからこそ、彼の政策にはきちんとした合理的説明が可能。 一時期は自由主義・市場主義に反するとして悪評が高かった、通貨危機に対して打ち出された資本移動規制も、自由な金融政策・固定的な為替相場・自由な資本移動の3者は同時には達成不可能というトリレンマやタイに比べ良好だったISバランスといったことを踏まえた現実的な対応であり、だからこそクルーグマンもすぐさま評価したわけだ。
そんな彼も、この11月1日に引退し、後をアブドラ新首相に委ねた。 この人事も絶妙の一手であるとwebmasterは感心している。 新首相の経歴で特徴的なのは、イスラム穏健派であることと、日本人と姻族関係にあること。 いくら反米の立場でユダヤ人を非難する発言をしようと、本当にアメリカと事を構えてしまっては中国に屈服せざるを得ず、かつ国内の華僑勢力と深刻な対立を招くことは避けなければならない以上、後継者の素質としてイスラム穏健派という要素は絶対必要である。 他方で、アメリカとの関係を壊さないといっても、日本からより多くを引き出すための対中接近を真に受けて自ら中国にすり寄るようでは何もならないわけで、日本人と縁戚であるということは常に日本という存在が念頭に置かれることとなり、3極のバランスを重視するという現在のマハティール路線の堅持に必ずや寄与するであろう。
一応打てるだけの手は講じたマハティールであるが、これから後には彼にとっての最後の難事、見事な引き際を見せるということが待っている。 マレーシア国内が混乱すれば再度表舞台に出ざるを得ないかも知れないが、これほどの見事な成果を残した彼の幸せのために、そして何より東南アジアの安定のために、そんな事態が起こらないことを祈りたい。 ある意味で彼の一番の理解者とも言えるクルーグマンが引退直前に発表したテキストにも、そうした思いがあふれていると感じるのはwebmasterのひいき目が過ぎるだろうか?
(2003-11-03記)
アントニオ猪木のプロレス界における役回りは、豊臣秀吉の16世紀末から17世紀初にかけてのそれと同じである。 最近この考えにいたり、ずいぶんと頭がスッキリした気がする。
織田信長に比すべきは、もちろん力道山。 例えば太閤検地に先立って信長による指出検地があったように、今年の大晦日のK-1、Pride、猪木ボンバイエの3大格闘技イベントの開催に象徴的な日本における格闘技の普及は、猪木による異種格闘技戦あってのことであるのは間違いないが、その源流は力道山の対木村政彦戦である。 しかし、太閤検地が信長による極めて限定的な検地よりも格段に歴史的意義があるように、オリジナリティがないことは業績をいささかも傷つけるものではない。
あえて言うなら、第1回UFCでケン・ウェイン・シャムロックがホイス・グレイシーに秒殺されずパンクラス=プロレス最強の神話が崩壊しなければ、これほどまでに総合格闘技が盛り上がることもなかったように思えるが、パンクラスとてその創設者である船木誠勝が第2次UWFに入ったからこそ成立し得たのであり、その前身たる第1次UWFが猪木に対するクーデターを端緒としていたことを考えれば、それもまた猪木の影響下でのできごとに過ぎない。 これに限らず、例えば大仁田厚のFMWにおける受け・負け・痛みを前面に打ち出した「涙のカリスマ」戦略にしても、力道山の足四の字固めとの苦闘(対ザ・デストロイヤー)を濫觴とする、猪木の初代IWGP戦のハルク・ホーガンのアックス・ボンバーによる舌だし失神が典型例である「負けても揺るがないカリスマ」のカーボンコピーであるなど、今のプロレス・格闘技界は多かれ少なかれ力道山が突き猪木がこねた餅の変形である。
そんな猪木の影響力はどこから来たのか。 それはやはり彼の根深いコンプレックスの成せる業としか言いようがあるまい−これもまた秀吉と同じように。
ブラジルでは移民の子として若くして厳しい労働を強いられ、力道山に見出されて日本に来てからはジャイアント馬場の下に立つことを呑まされ、力道山死後に自ら新日本プロレスを立ち上げれば(それ以前に東京プロレスの崩壊も経験した上に)テレビ放映や外人招聘ルートを締め上げられ、ようやく団体の長として格好がつくころにはプロレス自体が力道山時代とは異なり社会的に低く見られ、しょせんは八百長、ショーに過ぎないと蔑まれる。 そうした常人であれば挫折して当然の境遇においても、いつか社会を見返してやるとの暗い情念を燃やし続け闘いに明け暮れ、ついには参議院議員にまで上り詰めた猪木の姿に、いつしかファンは魅了され、後進は彼を目指すべき理想として尊敬するに至った。
そんな猪木にとっての絶頂は、あの小沢一郎に都知事選から降りるよう懇願された瞬間であっただろう。 当時自民党幹事長として一世を風靡していた小沢が、学もないプロレスラー上がりの自分に屈服していたのだ。 だが、コンプレックスに突き動かされていただけの猪木にとって、コンプレックスを癒されてしまってはその魅力が減じることは避けがたかった。
もともと感情の赴くまま動いてきたのだから、スキャンダルめいた事情は常につきまとっていた猪木。 必死にもがく中でのそれは彼のカリスマ性を引き立ててすらいたのだが、下り坂の彼にとっては議員生命にとどめを刺され落選の憂き目にあい、結局は猪木をリングの中に押し戻す原動力となってしまった。
だが、年老いた猪木にとってリングは既に帰るべき場所ではない。 頭ではなく体の存在感あっての猪木が、不器用なアングルを仕掛けても惨めさが増すだけである(UWFがまさに当てはまるが、彼のアングルが当たるのは見込みが外れてもがき苦しんでいるときだ。 彼の思うようにアングルを描かせ、それが思ったように実現すると、たいがい失敗する(海賊男の乱入によるファンの暴動が代表例))。
本来誰かが彼の(比喩的な意味での)介錯をしてやるのが情けというものであるが、徳川家康になるべきジャイアント馬場は既にこの世を去り、藤波辰爾は加藤清正か石田三成で師にからめとられ身動きがとれず、長州力は千利休がごとく自ら求めて滅びの道を歩き、と誰もその役をこなすことができない。
今や下手をすれば春一番のネタとしての方が有名になりかねない存在でありながら、ヒョードルの引き抜きなどますますブレーキが効かなくなってきている。 朝鮮出兵か醍醐の花見か、周りから後ろ指をさされつつもなお歩みを止めることができないその業深い姿を見るのは、往年の姿を知るかつての1ファンとしては寂しい限りである。
(2003-12-11記)
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