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/時系列書庫 or テーマ別書庫/previews in 2002(目次)[8]/preview 2

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2nd preview of "bewaad institute@kasumigaseki": webmasterに聞く

questioner(以下"q"):本日は、来年元旦に"bewaad institute@kasumigaseki"を開設予定のwebmasterにお話をうかがいます。 中身については公開後にそのものを見てくれ、ということかと思いますので、そもそもこのようなサイトを立ち上げようとした動機からお伺いしたいのですが。

webmaster(以下"w"):具体的な動機については、サイトの中で触れていくことになると思いますから、ここでは、もう少し抽象的というか、心情的な部分についてお話しした方がいいのかな、と思いますが、それでいいですか? (はい。) ・・・1st previewでも若干触れたとおり、こちらは霞ヶ関の官僚、小泉政権発足後の言葉でいえば典型的な「抵抗勢力」なわけですが、官僚と普通の人々の関係を一言で表すとすると、「永遠の片想い」という一面があるわけです。

q:片想いですか・・・。例えば、公共事業の入札なんかで、業者があの手この手で「お上」に近づいて甘い汁を吸おうとしているのに、なかなかそうはさせてくれない、ということ? でも、結構癒着してて、つまりは両想いの間柄になっているんじゃないんですか?

w:予想通りの反応をありがとう(笑)。 おそらく、あなたの考え方はメディアの方々の定番っぽい考え方じゃあないかと思います。 一般の方があなたのように考えているのか、それともこれから私が話すような考え方に近しいのか、どちらなのかは正直言ってわからないのですが、多くの場合、官僚はいじらしいほどに国民の皆様に好かれたい、愛されたいと思ってるわけですよ。 ただ、愛情表現が稚拙だったり、自分勝手な思いこみが多かったりで、相思相愛のハッピーエンドにはまずなりませんが(笑)。

q:しかし、国民から見れば、そんな愛され方をしても迷惑なだけですよね。

w:今の行政のあり方が社会にとってベストであるといった主張をするつもりはなくって、いろいろと改善すべき点はあるわけですが、原因やプロセスの理解が誤っていれば、間違った処方箋になってしまいますよね。 一人暮らしの女性が、どうも最近怪しい男につきまとわれているらしいと気づいたとして、その男が下見をしている泥棒なのか、妄想をたくましくしているストーカーなのか、なにがしかの容疑をかけてマークしている警察なのか、誰かから依頼を受けた興信所の人なのか、実は単なる気のせいなのか、まあいろいろ可能性は考えられますが、正体によってどう対処したらいいのかは変わってきますよね。 私見ではこの女性が国民だとすると、我々は妄想をたくましくしているストーカー(笑)。

q:そのたとえに乗っかるとして、女性としてはストーカー防止法で男をしょっぴいてもらうべきでしょう。 ということで、小泉さんにまとめて構造改革してもらう(笑)。

w:今までの霞ヶ関のやり方ではそういう結論になっても仕方がない面があるけど、それではお互いに不幸じゃないですか。 一方的に熱を上げて追いかけたうえで、ストーカーとして嫌われるのでは。 きちんと告白して、想いを伝えるところから始まるのでしょう。 その結果嫌われたのならしょうがないですけど。 まあ、その先だっていろいろあって、仮につきあい始めることができたとしても、つきあえばつきあうほどお互いの違いがわかってきたりして、そりゃあばたもえくぼでその違いを乗り越えられればいいですけど、そうでない場合にはどう折り合いをつけていくかとか、そういったことも含め、ハッピーエンドを迎えたければそれなりにお互い成長していかないと。

q:でも、そもそも公務員は国家国民のための存在であって、告白されて対応を迫られ、あげくに成長しろと言われるというのも変じゃないですか。 公僕っていうぐらいだから、そもそも対等な仲じゃなくって、上下関係。 下僕はご主人の意に叶って当然であって、意に添わなければ馘(笑)。

w:理念を言えばそうでしょう。でも、そういった「ご主人−下僕」関係がうまくいくかどうかってのは、学問的にprincipal-agent問題として研究されるぐらい一筋縄ではいかない話で、現実問題としてうまくいかないんであれば、どうやったらうまくいくかを考えないと。 片っ端から馘にしたはいいけど、その結果誰もいなくなったらご主人様が困るわけで。

q:それでは、来年以降発表されるものというのは、俺たちはこんなにお前のことが好きなんだ、つきあってくれ、という告白になるのですか? それを受けて国民が、こんな気が利かなくて思いこみの強い奴とつきあっても疲れそうでやだけど、冷たくあしらって暴走されても困るし、どうすればいいんだろうと悩むことになってしまったりとか。

w:告白さえすればうまくいくと思ってる自信家もこの業界にいるでしょうし、そしてもっと自信のある奴は自分が惚れられてると思ってるのかもしれませんが(笑)、私はそんな境地に至るような経験には恵まれなかったので、まずはコミュニケーションからということで。 いろいろ誤解はあるかもしれないけれど、それを一つずつ解きほぐしていく先には明るい未来が待って・・・いるといいなぁ(笑)。

q:しかし、量的にコミュニケーションを増やしたところで、俗に言う役人言葉の数だけ増えるだけなのであれば伝わる中身は変わりようがないですよね。 どうやるのか、というやり方の問題が大切ではないのでしょうか。

w:ちょっと脇道ですが、役人言葉はそれなりに合理的なんですけどね。 仲間内だけで通じる一種の符丁、いわゆるジャーゴンを使えば情報の伝達効率が上がるわけで、どんな世界にでもその手の言語体系はあるでしょう。 今更ではあるけど、ワールドカップ開催年の締めくくりとしてサッカー関連の例を出せばボランチなんて言葉があって−ニュースでは「守備的ミッドフィールダー」と読み替えてるけど、「ボランチ」と聞いてわからない人に「守備的ミッドフィールダー」と言ったところで、よくわからないことに変わりはないと思いますが(笑)−、知らない人には5分ぐらいかけて説明しなきゃ通じないけど、両者が知っていれば一言ですんじゃいますよね。 本論に戻すと、コミュニケーションをとるのであれば、まずはどのような人に物事を伝えたいのかを考えた上で、その人たちに通じる言葉を選ばなくちゃいけないというのはその通りでしょう。 もちろん、サイト開設後にインタラクションがあって、対象が変わっていくということはあっていいんだけど、とりあえず社会科学にある程度素養のある人をターゲットとして始めようとは思ってます。

q:とすると、「善意」は事情を知らないという意味で使ったりとか、「限界」なら一単位変化時の差分という意味で使ったりとか? そういう人とのコミュニケーションを図っていくということですか。

w:言い方がまぎらわしかったかな。ジャーゴンが一定の目的を達成するためには合理的である局面が考えられるとは言いましたが、あくまで一般論ということで、今度立ち上げるサイトでジャーゴンを使いたいと言いたいわけではないです。 「社会科学にある程度素養のある人」というのは、そういったテクニカルタームが通じる人という意味で言ったのではなく、社会科学的な思考の枠組みを身につけている人たちをイメージしています。

q:「思考の枠組み」っていうのもずいぶん抽象的な話ですよね。具体的にはどういうことなんですか。

w:自分が法学部卒だから法学の例を出すと、法学的な思考の枠組みがなっちゃいない場合、例えば「悪法もまた法なり」って言葉があるけど、そういった言葉を振りかざして、「法はどんなものであっても守られるべきだ」とかいう短絡的な結論を出したりするわけです。 これはどれだけ多くのジャーゴンを知っているかといったこととは無関係で、弁護士であってもそんな人がいたりする一方で、法学部に行っていない人であっても、センスがあればそれはおかしいと直感的にわかったりします。 この例で何がおかしいかと言えば、実際には、法はあくまで社会的な集団の中のルールのあり方の一つにすぎないわけで、「守られるべき」と言ったところで守られないものは守られません。 自動車の制限速度なんて守ってない人の方が圧倒的多数派でしょう?

q:確かにそうですね。

w:ただ、そうはいっても、多くの人にとっては、40km/h制限の道路を60km/hで走っていて捕まれば運が悪いねってことになるけど、150km/hで走っていて捕まったのなら当然だってことになる。 そうした判断をする頭の中には、明確に何km/hならいいというものではないけど、何らかのボーダーラインがあるのです。 本当に守る意味があるのは、そのぼんやりとして何とも言い難いボーダーラインであって、法じゃあない。 「守る意味がある」ってのは、それが守れなければそういったボーダーラインを共有する集団では居心地が悪くなるってことで、つまり、40km/hの道を150km/hで走りたいと思ってしまう人は、その思いをぐっとこらえて欲求不満になるか、思い通りに走ったあげく警察に捕まって社会的制裁を受けることに甘んじるか、それがいやならスピード制限の緩い外国へ移住するしかない(笑)。

q:そのボーダーラインこそが真の法だ、ということですか?

w:いや、法というのはルールを実現するための手段、さっきの言葉でいえばルールの「あり方」であってルールそのものではないし、逆に、ルールやボーダーラインは守られるべきものとして受け入れられている規範そのものであって、手段ではないんです。 自動車のスピードは無制限ではだめだというルールは、道路交通法があるからルールなのではなく、そういうルールがまずありきで、具体的に守らせるための方法として道路交通法があるというのが正しい理解で、ボーダーラインは、そうしたルールの状況に応じた具体的当てはめということです。 例えば、アメリカやオーストラリアなどの見渡す限り道路と砂漠しかないところと、日本の道が込み入っている駅前商店街では、ボーダーラインが違って当然でしょう? ちなみに、砂漠の中の道路なら無制限でいいだろ、だからそこにはルールはないんだ、という考え方もあるでしょうが、それは実態には合っているけど、理屈としては間違い。 砂漠の中でも極論を言えば光速はヤバいわけで、そこにはルールがあるのですが、物理的に現代(「ヒュンダイ」と読まないように(笑))の自動車が出せるスピードの上限が砂漠の中の道路でのボーダーラインより遅いから事実上無制限=ルールがないものとみなしても問題なし、ということになるわけです。 で、ルールを守らせるための道路交通法の実装が不適切だから、多くの状況において法がルールをブレイクダウンしたボーダーラインと食い違って守られなくなっているわけですが、だからといってボーダーラインが法の代わりにルールを守らせるための手段になりはしません。

q:でも、それなら何でそんな法が存在するんでしょうかね。

w:その答えは法学よりむしろ経済学・社会学の枠組みから導かれる話で、主なものとして考えられるのは時代の変化と法の変更コスト。 ある時代には法が多くの人にとってのボーダーラインからそうは離れないものとして制定されたとしても、時が過ぎてボーダーラインが変わったから法が取り残されているとか−よく罰金の額が低すぎるなどといわれますが、そういったもの−、そもそもルールが変わったとか−今の世の中で不敬罪を復活させようというのはナンセンスですよね−、そうした事情によりルール・ボーダーラインに法があわなくなることは防げません。 防げないとして、それならできるだけタイムリーに変えられるかどうかと言えば、法の変更にはいろんなコストがかかるので、なかなか変えられなかったりして、結果的に「何でそんな法が存在する」のか疑問が出るようなことになってしまうことがあるわけです。 でも、実際のところ、警察が法を弾力的に運用していて、ある一定の時期や場所に気をつければ、事実上スピード制限は緩和されてるも同然だから、法そのものを変更するニーズに乏しいでしょ? 罰金だって軽微な違反ならたいしたことはないし。 だから、わざわざ変更するのも面倒だからいいやって判断はありです。 これが、いつでもどんな道路でも必ず違反した人間を捕まえて、1km/hオーバーでも罰金100万円だったら、さすがに法改正されているでしょう。

q:それは日本だからじゃないんですか。 その点、アメリカなんかではそういったあいまいな運用がなくて、法や契約できっちり決めてますけど、そんなアメリカと比べたら、日本のやり方がおかしいという議論がありますよね。

w:何もアメリカは好きこのんできっちりしているわけじゃなくって、あれほど多種多様な集団が混在しているので、明文化した実現手段がないとルールがルールとして普及しないという必要に迫られてやっているだけです。 日本はその点主流となる集団が概ね均質な教育、それほど偏差のない言語・文化を共有していて、深刻な宗教的相違もないから、「常識としてそんなことしない」という自制心が明文化されざるルール実現手段として機能するので、あえてコストをかけて明文化しなくてもそれなりに遵守されるルールが相対的に多いのです。 実現手段を明文化すべきかどうかは、きちんとコストとベネフィットのバランスを考えてやるべきで、明文化原理主義を唱え、明文化そのものを目的にすべきではないのです。 で、結構長い「例えば」になっちゃいましたが、こういった話が通じる人をターゲットにしていきたいな、と思ってます。

q:そういった考え方ができる人が、「社会科学にある程度素養のある人」ということですか。

w:ええ。しょせん万人に対して通じる言葉なんてものはないのですから、聞く耳を持っている人に伝えわればいいと思っています。

q:だけど、「聞く耳を持っている人に伝わればいい」って、そんなんで「片想い」は成就するんですか?

w:ある意味、片想いって、成就するかどうかは運を天にまかせるしかないと思うんですよ。 どうすれば相手が振り向いてくれるかわかっているなら片想いにとどまっているわけはないので、どうやったら想いが通じるのかわからずにあがくしかないから片想いなわけで。 だいたいそうしたあがきって、後になってみれば「あんなことしなきゃよかった」って思うことばかりなんでしょうけど。

q:それって、結局のところ自分がかわいいだけですよね。 「片想いしている自分」や「一生懸命になっている自分」に酔ってるだけでしょう。

w:・・・痛いところつくなぁ。 でも、開き直って言えば、サイトを開いて自分の意見を並べるなんてことは、さらに言えばそれが文章であれ画像であれ音楽であれ、なにがしかの表現をするということは、そうしなくてはいられないからそうするわけだから、しょせん我が身かわいさで自己満足のためにしていることなのでしょう。 それが受け入れられればアーティストとして違った満足が得られるし、そうでなければ自慰行為に終わってしまうだけで。 私もやる以上は自慰行為だけの意味しか持たないものに終わらせたくはないから、少しでも質の高いものにしたいと思ってますが。

q:それではあと10日ほどでオープンと言うことなので、単なる自慰行為なのかどうか、じっくり見させてもらうことにしましょう。 どうもお忙しい中インタビューに応じていただきありがとうございました。

w:こちらこそ。 サイトを立ち上げる以上、やはり少しでも多くの人の目に触れたいと思いますから、こうした機会があってうれしいと思います。 これをご覧の方々も、是非来年1月1日以降、当サイトにお立ち寄りのほどを。

1st preview (12.15 on the web)

2nd preview (12.21 on the web)

3rd preview (12.29 on the web)

last preview (12.31 on the web)

and...

bewaad institute@kasumigaseki

03.01.01... OUT!

webmaster@bewaad.com

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