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bewaad institute@kasumigaseki最終予告:こんな文書が掲載される、らしい(2)

bewaad insitute@kasumigasekiオープン10周年記念:この10年を振り返って(後編)

前回の要約

2003年〜2013年の10年間に密かに進んだ、でも非常に重要な社会的変化は何かというと、各種の集団がどんどん弱体化してきた、ということ。 どうしてそんなことが起こったのかということを考えてみると、世の中に流通する情報量は爆発的に増えているのだけど、人間の情報処理能力はそれほどは伸びていないので、結果として各個人はそれぞれの興味のある情報を消化するのに手一杯で、人間の集団(大は国家から小は家庭まで)内で従来であれば自然に構成員が共有していた情報量が少なくなったため、集団に内在する求心力が弱くなったから。 このことが2003年当時では全く予測がつかなかっただろうかと考えてみると、小泉政権、歴史教科書騒動、関西地方の地盤沈下など、兆しは見えていたのです。

というわけで、後編である今回は、前回具体例として頭出しだけした小泉政権、歴史教科書騒動、関西地方の地盤沈下について、ちょっと詳しく論じてみたいと思います。

小泉政権の持っていた意味

2003年に入った頃というのは、小泉政権もその絶頂期こそ過ぎていたものの、依然として彼を構造改革の旗手としてもてはやす人が多く、ただ、景気低迷が深まるに従って、次第に疑問を呈す声が増えてきていた、そんな時代であったわけです。

当時はどちらかというと少数派であった、しかし今となってしまえば多数派である彼を非難する立場というのは、多くの場合、中身のない感情に訴えかける短い言葉をうまく使うことで人気を得るだけで、中身の充実したことを話すわけでもなければ、実のあることを成し遂げるわけでもないといったものですが、それではそんな彼が、一時的とはいえ9割近くの支持率を誇ったことがどうしてなのか、必ずしも納得のいく説明がなされているわけではありません。 単にコミュニケーションスキルが高かったから? 彼のコミュニケーションスキルって、そんなに高くはなかったですよね(そんなにしゃべりに抑揚があるわけでもなかったし、声が特別魅力的ってわけでもなかったし)。

それでは何ゆえに彼は一時的とはいえ国民の多くにかくも熱狂的に受け入れられたのか(覚えている人います? 時の首相としてなぜか知らないが写真集など出していたことを)。 それは、低レベルで専門家には到底受け入れられないようなことを言っていたからです。 郵政三事業しかり、道路公団に代表される公共事業しかり、経済対策しかり。 なぜなら、どの分野であっても、その専門家は国レベルで見れば圧倒的少数派であり、大多数はそれぞれの分野の素人でしかありません。 プロから見て、例えば郵政三事業を民営化といって、そのまま民営化すれば巨大な(元)国営企業が市場を支配するだけだし、かといって、廃止なんてことが郵政三事業に従事している労働者の数や関連資産・負債の規模を見ただけでも非現実的であることは、郵政三事業の将来についてまじめに考えたことのある人間であれば誰にでもわかっていたことでした。 しかし、まじめに考えたことのない多くの人間にとっては、そんなことは屁理屈にしか受け取られず、景気のいい民営化論が拍手喝采をもって受け入れられた次第なわけです。

まあ、そのさらに10年ほど昔の細川政権ぐらいからこの傾向は明らかで、プロに通じるまっとうな議論を持ち出すまじめな政治家の支持率はそれほど上がらず(もちろん、「まっとうな議論」は「低支持率」の十分条件であって、「低支持率」であるからといって「まっとうな議論」をしているとは限りませんが(笑))、高い支持率を誇る政権は例外なく個別のテーマについては底の浅いメッセージしか送ってきてないですよね。 ほら、いくつか歴代首相の顔が浮かんできませんか(笑)。

ピンとこない? あなたの職業(学生であれば研究分野)について、合コンでも親戚の集まりでも、職場や学校関係者以外の人と会うときに、自分の職業などについてどんなことを知っているか、どんな風に思うかを聞いてみれば、いかに自分の知っている実態と違ったイメージが世間で流布されているかわかるはずです(このご時世でも「ご近所づきあい」なるものが貴重にも残っているところであれば話は別でしょう。 「ご近所づきあい」ネットワークの中に同業者がいれば、思いのほか実態が伝わっているものですから)。 それがあなたと世間との距離を図るひとつの方法であり、離れていればいるほど、通じる言葉のレベルは低くならざるを得ないのです。 いるでしょ、英語のネイティブスピーカーと話すときに"Hello!"の後言葉が続かない人、あなたのそばに。

歴史教科書騒動−蟷螂の斧としての保守回帰運動

小泉政権が広く受け入れられたことが、社会的な情報の共通基盤が失われたことの一面の帰結であるとすれば、今となっては小泉政権以上に忘れ去られた存在となってしまった、「新しい歴史教科書を作る会」発足後の、一連の歴史教科書(公民教科書なども作ってましたが)騒動は、その失われた共通基盤の再興運動と位置づけられるものだったと言えましょう。

それまでにも何回か、この手の社会運動は見られたわけですが、世紀の変わり目にかけて特に盛り上がりを見せたというのは、社会的な情報の共通基盤に対する喪失感、とりわけ、戦争体験世代が定年を迎え、社会の第一線から退いていったということと深くつながりがあるわけです。

その意味において、当時、歴史教科書を巡って往時を美化し、それをもって倫理的な基準を再構築しようとしたこと自体は理解可能ではありますが、10年余りを経た現在、その残滓がほとんど見られないというのは、彼らの運動がいわば衝動的に行われてきた(途中で袂を分かちはしたものの小林よしのりという特異な才能を取り込んだことなど、戦術面においてさまざまな工夫は見られることは事実なわけですが、時代背景であるとか、社会の方向性といったものを精緻に分析した上での戦略的指針を持った運動ではなかった、という意味)ことの帰結です。 逆に言えば、なぜ失敗したかを振り返ってみれば、当時の時代背景が見えてくるでしょう。

前回から何度か書いているように、情報の流量がひたすら増加し続け、(専門分野などを異にする)他人との間で共有する情報が少なくなってきたことが、「日本国民」であるとか、「○×県民」であるとか、「△□社員」であるとか、そういった自らのアイデンティティの一構成要素である、従来型組織に対する帰属意識の衰退につながっている最大の理由だったのですから、これに抗して、例えば、彼らが目指した公的なある種の使命感を帯びた「日本国民」との自覚を再生するためには(そうすることの是非は捨象します)、

のいずれしかないわけです。 前者が事実上不可能なのは明らかですから、後者しか戦略目標はありえなかったのですが、彼らのやったことは基本的には知識の伝達にとどまり、一時的なブームが過ぎ去った後に残ったのは、歴史的な事件の一部についての事実関係にオタク的に詳しい、限られた人数の「日本国民」専門家だけだったのです。

じゃあどうすりゃ成功したのかって? 簡単なのは戦争でもして「小異を捨てて大同につく」雰囲気を作ることですが(当時、北朝鮮の拉致問題を巡って、彼らの運動とは無関係(まあ、今はなき社会民主党の泣きっ面に蜂の一刺しをお見舞いしたり、部数減少の兆しを見せつつあった朝日新聞の過去のあやまちをほじくっていたりはしましたが)にナショナリズムが盛り上がったことがそのいい例)、もうちょっと穏やかにやるなら、このご時世でも比較的連帯感の維持に成功している宗教組織を見習って、もっと日常生活に密着した、生活の中で自然に情報に接する(食事は教育勅語を音読してから食べるといった習慣を根付かせるとか(笑))ことが可能な情報伝達体系を作り上げるべきだったのでしょう(ま、これもほとんど不可能なわけで、結局のところ、この手の運動は左右を問わずうまくいかないって事実にいいかげん気づくべきなんですけど)。

関西地方の地盤沈下、あるいは中途半端な独自性の衰退

1990年代から始まるデフレにより、メジャーな国内経済圏の中で一番深刻な影響を受けたのは関西地方だったわけですが、なぜ関西地方だったのか。もちろんこうした大きな経済変動を一つの理由だけで片付けるのは暴論の極みであって、経済学的・社会学的に大小取り混ぜて各種の分析が可能ですが、デフレ克服後においてもなお、かつての繁栄が戻ってこないこともあわせて考えたときに、やはり流通する情報量の増大というものが大きくクローズアップされてくるわけです。

そもそも、なぜ関西地方は日本第二の経済圏足り得たのか。 古墳時代のいにしえから1,000年以上の長きに渡り日本の政治・経済の中心であったという蓄積もあったでしょう。 人口規模としても日本第二の圏域であったこともあるでしょう。 織田信長や豊臣秀吉が惚れ込んだ地の利・水の利もあるでしょう。 これら全てが重なり合った上にもう一つ重要な要素として考えられるのが、東京からの適度な距離です。

東京から近い地域というのは、関東地方の諸都市を見ればわかるように、東京に飲み込まれた上で事実上東京の一部として繁栄していく(横浜や川崎が典型例でしょう)のでない限り、東京に従属し活力を吸い取られていくのは避けられないことです。 他方、東京からあまりに離れていると、東京との交流によって得られるメリットが少なくなってしまいます。 例えば福岡は、韓国や中国へのアクセスを通じてそれなりに繁栄はしていますが、それを言うなら東京は総じて世界中へのアクセスが日本国内でもっとも整備されているわけです。

関西地方は、その点、東京に飲み込まれるほどには近くはないですが、東京との交流に著しい支障が出るほどには離れてはいません。 加えて、関西以西については、当然ながら東京よりも近いわけですから、東京と関西以西をつなぐ中継点としての役割がありました。 こうした機能は、電話や新幹線が整備された前世紀半ば以降に最盛期を迎えるわけで、つまり、そうした交通・通信網の発達により、日本の相当程度の地域が東京の影響下に入っていく中において、電話などで済まない用件については、いわば東京の出先としての関西地方において処理が行われることとなってきたわけです。

そうした「東京の出先」性は、関西人のプライドもあったのでしょう、表にはあまり出てきませんでした。 経済活動における「大阪商人」、芸能活動における「関西のお笑い」、スポーツにおける「阪神タイガース」、学問における「京都大学」などの各種のシンボル、ブランドによって、あたかも関西地方が関西地方ゆえに(日本国内では東京だけがライバルとなるような)独自の価値があるのだという評価が通用してきたのです。

しかし、こうした関西地方の優位性は、情報流量の増大によって次第に失われているわけです。 東京と地方との間で情報交換が容易になれば、関西地方という出先をすっとばして進む物事が増え、仲介によって得られていた中間利益が手に入らなくなります。 また、関西地方が有していた各種のシンボルやブランドの「独自性」が、それ自体東京のシンボルやブランドと比べてみればそんなに顕著なわけではないことが明らかにならざるを得ず(上記の4つの例の現状を見れば明らかですよね?)、まして全世界のシンボルやブランドとの比較すらなされるようになれば、しょせんは日本代表(=東京)の控えに甘んじるよりほかありません。

したがって、関西地方が今後何とかかつてのような栄光を取り戻したいと願うのであれば、真の意味で東京にはない独自の価値を見出すか(明らかに観光資源である各種の歴史遺産では東京に勝っていますが、それを売りにしたいとは思っていないでしょうから)、いっそのこと東京に完全従属してそのおこぼれにあずかるか(といっても、地理的要因が仇になって横浜には勝てないでしょう)、苦しい選択をせざるを今後迫られることになるでしょう。 とはいえ、そうでなくては、今の低迷状態からの脱出は引き続き困難なままである可能性が極めて高いことは否定しがたいのです。

最後に

後知恵でいろいろ言うことは事前に物事を見通すことに比べればはるかに簡単で、当サイト立ち上げ時に今まで書いてきたようなことがわからなかったからといってそれをどうこういう気はまったくないので、一方的に有利な立場から攻撃していると受け止められるのは本意ではないです(いや、若干そういう気分がわいてくる言説がないわけではないのですが。 んなこといくらなんでもあり得ないだろ、って(笑))。 ただ、ここに書いたことは相当程度構造的な変化を捉えて中長期的な方向性を論じているので、もし何らかの将来予測をしたい向きには、テーマがきちんと合ってさえいれば、それぞれの延長線上に何があるかを考えてみるのも一案でしょう。 それで当たっても何もいりませんが、外れたからといって責任はとりませんのであしからず(笑)。

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