/時系列書庫[8]/2003-02
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(2003-03)[9]
(2003-01)[7]
そいつは、突然「いちご」にやってきた。 時は2002年6月4日、13時11分。
第一声は「議論が不毛過ぎる」で、「ズレテいるというのを通り越して、ちょっとレベル低いんじゃないの?」と締めくくられていた。 所は「いちご」の「経済板」、「ポストケインジアンについて」スレの139番であった。
後のザモデル氏(この書き込みは名無しだったので)、降臨の瞬間である。
ザモデルは、のちのち明らかになるのだが、実はwebmasterと同じ霞が関の住人で、しかしwebmasterとは異なり、どこぞのアメリカの大学(シカゴ大学?)で経済学博士号を取得していた。 webmasterと経済学の理解においてレベルが違うのは当然であるが、議論に穴を見いだしがたかったコテハン諸氏ですら歯が立たないというのには目を見張った(ザモデルの発言は、上記ポストケインジアンスレの他、「"ザモデル"で経済を語るスレ」スレに豊富に見られる)。
その後の「いちご」での議論を見るに、ザモデルの投げかけは、数学(と経済学)の素養のある人間にとっては非常に示唆に富んでいるものであり(例えば前々回にもクルーグマンペーパーとの関連で紹介したが、経済学には素人と自称する一夢庵のレジュメの数々は、今のwebmasterには手の届かないものである)、逆に言えば、受け止める側にもそれなりのレベルを要求するものだった。
将来的には少なくとも議論をフォローできるようにはなりたいものだが、現時点でwebmasterがザモデルの指摘をそれなりに受け止め、活かしているのは、「ルーカス批判」である(「ルーカス」とは、いわずと知れたノーベル経済学賞受賞者のロバート・ルーカスである)。 「ルーカス批判」とは何かの正確な説明は専門家に譲らざるを得ない。
素人なりの解釈を示せば、経済政策は人間を対象としているので、政策が人間の行動を変化させてしまうことも考えなければ、その効果の予測は不可能である、ということだ。 簡単な例を出せば、不況時に財政支出を増やしたとしても、「政府がやる気を見せているからきっと景気は良くなるだろう」と捉えられるか、「もう財政赤字は限界だから、政府の破産も近いな」と捉えられるかでは、効果は異なってくる(が、それ以前のケインズ経済学ではそうした点の分析が(少なくとも明示的には)なされていなかった)。
政策論議をするときにはそうした点に常に留意する必要があるとwebmasterに気づかせてくれたことを含め、ザモデルは、受け手のレベルに応じて何がしかのインプリケーションをもたらしたなかなかの人物であった(しかし、「いちご」のレベルで何度も切れかかったところを見ると、霞が関での省庁間協議や与党折衝などはさぞかし耐え難いことなのだろう。 一度、そうしたところでぶち切れているザモデルを生で見てみたくて仕方がない。 さて、内閣府の人間だとは想像するのだが、いったい誰なんだろう)。 にもかかわらず、ザモデルは当初「いちご」コテハンに拒否感を与えたし、実は、webmasterもちょっと信頼できないと思っているところがある。
口調がぞんざいだということも大きかったのだろうが、何よりも、その高度な分析手法を用いて出てきたデフレ対策というのが、RCCへの日銀出資としての量的緩和(インタゲは付録)+抜本的不良債権処理
(「ポストケインジアンについて」スレの149番)という代物だったからだ。
産業再生機構関連法案の国会審議が始まり、この構想は実現に向かっている(ザモデルからすれば、日銀出資もなさそうだし、規模も10兆円程度とのことなので、換骨奪胎されたといいたいだろうが)わけだが、どう考えても、この政策、うまくいく可能性はきわめて低いと言わざるを得ないのだ。(次回に続く)
(webmaster注:いぜんとして「いちごびびえす」はサーバダウン中(2003-02-23現在)なので、今回の内容については苺ばっくあっぷ(byろしあんぶる)にお世話になっております。)
(2003-02-23記)
結局、この記事でいいたいことは、財務省が、長年お世話になった学者の主張を間違いだと断じたのがけしからんということなのか? 長年お世話になっていたという理由だけで、主張の中身を検討もせず正しいとするのは、普段メディアが断罪してやまない癒着そのものではないか(ウェブ上では「『恩人』酷評した財務省」というタイトルが、「特区論議で財務省が名指し批判した大物学者」と差し替えられているが、さすがに癒着賛美はまずいと遅まきながら気づいたのだろう。 AERAのページではバックナンバーが見られないのでネット上ではもう確認できないが、証拠としてキャプチャしたのであしからず)。
もし加藤の主張が正しかったとしても、このようなロジックでの応援は「ほめごろし」だろう。 まして加藤の主張は、好意的に見ても意図的なすり替えがなされており(悪意で解釈すればわかっていない)、地域通貨は限定的な局面でしか有効ではないにもかかわらずあたかも万能であるかのように語っている、多分に問題の多いものなのだ(詳細は「補論」にて後述)。 そんな主張を、役人は常に間違っているかのような思いこみだけでもてはやすのは、メディアとしての責任を放棄しているとしかいいようがない。
そういえば、同じ号のAERAで鴻池構造改革特区担当大臣のことをずいぶんと褒めそやしているけど、彼によればカジノだけはダメらしい。 官僚が抵抗勢力なのはとっくに知っていたのだろうが、構造改革特区を全部実現すると言っていたはずの大臣に裏切られるとは思っていなかったに違いない。 今後の糾弾を楽しみに待たせてもらおう。
というわけで、もう少し勉強してから出直すべきである。
まずは、クルーグマンによる「経済を子守してみると。」(山形浩生訳)を見て欲しい。 非常にシンプルな地域通貨の例(で、それでも金融政策は必要と論証している)だが、実は、この例はシステムとして極めて安定的であるものの、それがなぜかは明示されていない。 なぜかって、地域通貨が子守にしか使えないので、インフレが抑制されているのだ。
これにより、まず、クーポンの供給に限度ができる。 150組のカップルである以上、どれだけ子守をしたいと思う人が多くても、75組のカップルが外出して残りの75組が子守をする(カップルで手分けするとしても、100組のカップルが外出して残りの50組×2人で子守をする)のが限度。 1時間の子守に対してクーポン1枚が割り当てられるとして、1時間当たりの最大クーポン数は50(手分けを導入しても100)枚を超えない。
次に、クーポンの需要にも限度がある。 例えば、子供が生まれた瞬間から20歳で成人するまで一切子守はしないとしても、1枚×24時間×(365日×15年+366日×5年)=175,320枚のクーポンで足りる。 それ以上クーポンを貯めるなり借りるなりしても、単なる紙切れに過ぎない。
だから、インフレが起こる余地は小さい(ただし、1時間の子守をお願いするのに必要なクーポンの枚数を多くすれば(通貨の切り下げだ)当然その分インフレになるし、クーポンと通常の通貨(円とかドルとか)との交換市場ができる(通貨にすることができると、クーポンに対する需要の限度がなくなる)と、インフレが発生する可能性が高まる)。
実際に発行されている各種の地域通貨は、このあたりのリスクがほとんど考慮されていないようだ。 金利ゼロを謳っているものがほとんどで、かつ、円との混在決済を認めているものがほとんどだが、これは今は円がゼロ金利だからいいものの、円に金利がつきだした瞬間に、「支払いは地域通貨、受け取りは円」という行動を招くに決まっている。
まして、多くの地域通貨で使われている「通帳方式」は、通帳にマイナスの金額を書けば支払ったことになり、その返済は義務づけられないのだから、消費を刺激することこの上ない。 「円」の世界では、返済義務のない支払いができるのは日銀だけである(あくまで現代の話。金本位制の下では兌換義務がある)。 だからこそ、彼らは基本的に支払いを抑制しようとするようしつけられるのだ(それが行きすぎているのが今の日銀なので、何ごとも程度問題だが)。 じゃあ、一般の人々はそれを抑制できますか? 目の前に欲しいもの(ジュエリーでも自動車でも何でもいいが)がぶら下がっていて、通帳にマイナスと書きさえすれば買えるとき、それをがまんできますか?
がまんできなくなれば、正しい意味で悪貨が良貨を駆逐する(みなが悪貨は少しでも早く使いたがり、良貨の支払いをいやがるので、市中では悪貨だけが流通し、良貨は貯め込まれる)ことになり、あっという間にインフレ経済のできあがりである(実際、「恩人」記事で加藤が引用しているとされるオーストリアの成功例も、世界恐慌=デフレ不況の最中に、減価する地域通貨の導入=マイナス金利政策という超金融緩和策(=リフレ政策!)をとることによって経済を正常化させたのであって、中央銀行による停止がなければ、そのうちインフレを招いていたであろうことは容易に想像可能だ(で、そうした事態を避けるために、リフレ政策はインフレターゲットによりデフレ脱出後には金融を引き締めるというコミットメントを伴う必要があるのだ))。
成功している地域通貨(Ithaca hoursとかLETSなど)はそのあたりにきちんと工夫があって、マネーサプライがむやみに上昇しないように仕組まれている。 しかし、それらもいいことばかりではない。 マネーサプライをコントロールすると、いわば「独自の金融政策」がとれなくなるので、経済的には普通の通貨を持つより不利になる(普通の通貨はどこでも使えるが、地域通貨は使える場所が限られる)。
そうした地域通貨のメリットは、地域への愛着が満たされることだけだ(というわけなので、webmasterは、上記山形訳の最後の「訳者付記」にだからぼくはいずれどっかの地域通貨が、すさまじい不況に陥って完全に崩壊する様子がみてみたい。人々の善意が何の理由もなく空回りし、その同じ人々がやがて疑心暗鬼の人間不信に陥り、コミュニティが瓦解して価値が崩れ去り、人々が途方にくれて右往左往するさまがみてみたい。
とあるのは、叶わぬ夢だと考えている。
地域通貨の失敗によるコミュニティの瓦解は、不況ではなくハイパーインフレによってもたらされるだろうから)。
以上を前提に、加藤の主張を見てみよう。 理屈には無関係な事実誤認(例えば、ヴェルグルでの地域通貨発行が停止されたのは1933年で、ヒトラーがオーストリアを併合したのは1938年なのに、ヒトラーが弾圧してやめさせたというのどういうことなのだろうか)には目をつぶったとしても、以下のように問題だらけだ。
地方銀行が発行元になって、日銀と同じように自分の銀行の担保をつけて地域通貨を発行というのが意味不明。 日銀の担保とは、上に書いたように、無制限な紙幣発行がどんなに魅力的であっても抑制するということに対する信用だけで、具体的な何かがあるわけではないのですが。 まだ金本位制が続いているとでも?
それ(webmaster注:上記の地方銀行の担保)を県が保証する。県は土木事業を行っていいってどういうこと? 思いっきり好意的に解釈すれば、発券銀行となる地方銀行とアコードを締結して、財政支出を一定に抑えることにより、通貨発行が無制限に拡大しないようにするってことだが・・・。
必要なものは造りましょうと言わないといけない。しかし、カネがない。それなら、そのエコノミカルマネーを使えばいいなんてことを言っているのをみると、やっぱりじゃんじゃん地域通貨発行→ハイパーインフレだな。
地域通貨とよぶか第二の通貨とよぶかわからないが、一国二つの制度があれば一国二通貨があるのはあたりまえと、今、ユーロでは考えている。ユーロ圏は世界のドルに対するユーロ通貨をつくりたかったって、一国二通貨ならユーロと並行してマルクやフランを存続させなきゃいかんでしょうが。 基軸通貨論たるべしなんていう精神論を除けば、ユーロ導入のメリットは為替リスクや通貨交換コストの削減で、だから各国は金融政策の自由度を犠牲にしてまで十二国一通貨として通貨の数を減らしたんでしょうに。 どういう思考過程を経ればユーロを一国二通貨の論拠とできるのだろう。 ま、どういうわけか「一国」を世界全体と混同しているかららしいが、どうして混同するのかという新しい謎に突き当たってしまうし、世界全体で見たところで、ユーロ導入により通貨の数は減っているではないか。
しかし、財務省もよくこんな○○と10年以上つきあったものだ。
(2003-02-23記)
ここで出てくる料理は、イタリア料理だ。 しかし、イタリアンレストランと呼ぶには違和感がある。 アンティパストなどもメニューにあるし、予約をしてここで会合(お別れ会とか、そんなやつ)をすればコース料理が食べられるのだが、メインはスパゲッティ。
「パスタ」というには似つかわしくない。 あくまで「スパゲッティ」である。 なぜそう感じるのかを考えると、2つの「濃さ」がここの独特の雰囲気を醸し出しているのだ。
一つは、味。 人間は脂肪に依存症だという主張に有無をいわさず納得させられる脂っこさ(webmasterはここの脂っこさが好きなのだ)。 厨房がカウンターから見えるのだが、健康にいいオレイン酸をたっぷり含んだオリーブオイル・・・ではなく、バターをどんどんつぎ込んでいる。 でも、そんな濃い味が、ぶっとい麺によくあう。 体に悪そうと思っても、しばらくここのスパゲッティを食べずにいると、食べたくてしょうがなくなる時が来てしまうのだ。
もう一つは、店を仕切っているおばさん。 けたたましい声で、店が混んでくると相席をさせたり、常連客の注文をつないだり。 そう、このおばさんは常連客とそうでない客を露骨に差別する。 だから、常連にさえなってしまえば、サービスでガーリックトーストやらアイスクリームやら、いろいろロハでサービスしてもらえたりするのだ。 いればいるでうっとおしかったりもするのだが、いなくなりでもしたら間違いなくこの店の雰囲気は一変してしまうのだろう。
そんなここのお薦めメニューは「ダニエル」。 何でも昔のお客にちなんでそう名付けているらしいが、要すれば生クリームとチーズの入っていないカルボナーラ(というか、以前聞いてみたのだが、店側としてはあれをカルボナーラと考えているらしい(「ダニエル」と名付ける前は「カルボナーラ」とメニューに載せていたとのことだし、支店(行ったことはないのだが)では同じものを「カルボナーラ」として出しているとのこと)。
さらに言えば、ベーコンも、もちろんパンチェッタではないどころか、どう見てもハムのような気がするし、炒めタマネギが入っていたりもする。 しかし、これを食べれば(なお、「普通」「中盛り」「大盛り」の3サイズがあるが、よほどの大食らいと自負する人でなければ、「大盛り」はやめておいたほうがいい。 「中盛り」が他の店の「大盛り」サイズだ)、あなたもきっと脂肪依存症だ。
最後におばさんに言いたいことがある(絶対こんなページ読まないだろうが)。 レジ打ちのOさんを客の前で怒鳴りつけるのは、聞いていて決して気持ちのいいものではないので、やめて欲しいなぁ。
| 味 | 値段 | 量 | その他 | 合計 |
|---|---|---|---|---|
| 中毒な人間は盲目。5点(脂が嫌いな人にとっては1点) | ビジネス街ではこんなものでは。3点 | 実は「普通」だと少ないのだが。5点 | おばさん、もう少し丸くなろう。2点 | 脂と量が得点源。15点 |
「ハングリータイガー」、港区虎ノ門1-12-5、03(3591)7081
(2003-02-23記)
今週の国会は、民主党を中心とした、法務省の受刑者虐待問題と竹中大臣の「ETFは絶対儲かる」発言への攻撃に終始した。 後者の竹中発言、株式市場活性化のためにETFをPRしようとする中で出てきたようだが、本当にETFの普及を図るのであれば、やりかたが違うのではないか。
魅惑の似非科学の30兆円国債問題とコンビニ国債の似非科学という記事に、証券会社がどれだけ「株の購入が簡単になりました」あるいは「ミニ株で小額から投資できるようになりました」なんていう宣伝文句を連呼しても日本人にはだめなのである。本当に買わせたいものはコンビニのレジで売れ、本当に小額というのは100円から、なのである。
という名ゼリフがある。
これを目にして以来、webmasterが密かに頭の中で暖めていたETF普及策を発表しよう。
具体的にどのような取引となるのか。
ニュースを見ていて、どうも今後株価が上向きそうだと思ったら、コンビニに行く。 明日あがるかどうかはわからないし、かといってあんまり長期間待つ気にもならないので、1週間ものを買うことにした。 手持ちの金がそれほどあるわけではないので、買うのは500円ぐらいにしておくか。 レジ脇のETF販売コーナーで、マークシートの「TOPIX型」「5口」「1週間」「ロング」を塗りつぶす。
「TOPIX:850」か。 コーナーの端末には対象商品の一覧と、現在のレートが表示されている。 900ぐらいまであがらないかなぁ、などと思いながらマークシートをレジに持っていった。
もう10回以上買っているので、この際、カードを作ることにした。 500円しか払わなかったので、レシートには「残高0円」と寂しく書いてある。
そして待つこと1週間。
予想が外れ、TOPIXは800まで落ち込んでいた。 ちょうど職場の近くの本屋にも販売コーナーがあるので、そこで清算。 店員にカードを渡すと、レジにカードを通して「ありがとうございましたぁ〜」と返してくる。 「残高470円」か。
レシートを握りつぶして、またマークシートに向かう。 「今度はショートにしてみようかな」 と思いつつ・・・。
こんな感じで買えるなら、ちょっとぐらい買ってみようって気になりません?
この国会で審議される証券取引法改正では、コンビニでも証券を販売できるようになるらしい。 証券会社のみなさん、お代はいりませんので、試してみてはどうでしょう。 成功したら、サイトのトップページから当サイトにリンクを張ってくれれば、それで十分ですので。
(2003-02-23記)
「いちごびびえす」という掲示板がある(webmaster注:2月16日現在、サーバダウンでアクセス不可)。 そこをwebmasterにつないでくれたのは、黒木玄のウェブサイトである。
前回書いたように、クルーグマンペーパーに出会って、どうやって読み込んでいったらいいのか模索する中で、黒木サイト中にクルーグマンによる日本の経済政策批判というコーナーを見つけたのだ。 そこのリソースを読んだり、掲示板での議論を眺めたりして、いろいろと考えをめぐらせていた。
ふと、そのリンク集に、「いちごびびえす」なる妙な名前の掲示板での議論の数々が並んでいるのを見つけた。
「敷居もそんなに高くはなさそうだし、ちょっと覗いてみるか」
「いちご」の経済板(webmaster注:2月16日現在、サーバダウンでアクセス不可。コテハン諸氏はmegabbsの経済板に一時疎開中)を軽い気持ちで覗いてみた。
新たな発見の連続。
例えば(webmaster注:リスト中のリンクは、「いちご」サーバダウンにつき、関連する他サイトのページに張ってあります)、
「いちご」は匿名掲示板であり、webmaster同様の素人も参加しているがゆえに、プロからアマチュア向けの噛み砕いた説明もあり理解が進む。 いろいろと物事を知り、少しずつ理論武装も進み、自信がついてくる。 経済学の面白さに目覚めた、幸せな時間であった。
だが、そう簡単にいくほど経済学は甘いものではない。 その事実を思い知らされる、幼年期の終わりが来るとは想像すらしていなかったあの日は、今となっては遠く懐かしい思い出である。(次回に続く)
(2003-02-16記)
去る2003年2月10日、当サイトはYahoo! Japanに掲載された。 それ以来、アクセスが急増している(対それ以前の当サイト比)。 確かにYahoo!掲載はアクセス数増加には絶対的に効果があるとは良く聞く。 それにしても、実際の効果を目にすると、意外の感を禁じえない。
そもそも、当サイトが掲載された「政治>意見」というカテゴリを多くの人がチェックしているというのも驚きであるが、より根本的には、ポータルサイトとしてのYahoo!を多くの人が利用しているということが、想像し得なかった。
人は、どうしても自分を基準に物事を図りがちだ。 webmasterは、ブラウザの立ち上がりを早くするために空白ページをホームページとして設定しているし、検索はgoogleしか使っていない(それも、IEにはツールバーをインストールしてあるし、最近のデフォルトブラウザであるOperaなら最初から検索窓があるから、サイトに行きすらしない)。
しかし、確かにウェブを見始めたころ(96年ぐらいだったと思うが)には、すべてをYahoo!からはじめていた。 誰もがウェブにはまっていくなら、Yahoo!から離れていく割合は高いのだろう。 だが、そうでなければ、「定番」の安心感を優先するのかもしれない。
実際、Yahoo!は、webmasterが愛用していたころ(当時は単なるサーチエンジン)とは大きくその性格を変化させている。 オークションで売買したり、掲示板に書き込んだり、メーリングリストを立ち上げたりと、その用法はさまざまだろう。 機能だけで言えば、他の同様のサービスを提供するサイトとは大差ないといえよう(ファイナンスのできは他のポータルに勝っていると思うが)。 だからこそ、「定番」であることが効いてくる。
その意味では、現時点でのサーチエンジンの覇者といえるgoogleの方が、将来は危うい。 今googleを使っている人間は、しょせんは検索の結果がいいから使っているに過ぎず、他にもっと使いでのあるサーチエンジンが出てくれば、すぐに移動してしまう。 Yahoo!がページ検索に使っているといっても、そうなればgooからgoogleに乗り換えたことが再現されるだけだ。 検索結果という、客観的に比較可能なものを売りにするとは、そういうリスクを抱えること。
その点、look&feelにおいてデファクトスタンダードになったというYahoo!の強さは、Windowsの強さに通じるものがあるのかもしれない。
(2003-02-16記)
それは、「調整インフレ」という言葉で紹介され始めた。 webmasterが最初にそれを読んだのがいつだったのか、定かではない。 しかし、それなりに人口に膾炙したこともあり、その存在を知ること自体は、結構早かったような気がする。 「それ」とは、ポール・クルーグマンの一連の著作だ。
「調整インフレ」で今の日本の問題は解決可能と聞いたときには、今となっては恥ずかしいものだが、「人為的にインフレを起こすなんて・・・」というのが正直な感想だった。 一応当時であってもフィッシャー方程式を知ってはいたのだから、前回紹介した「マイナス(名目)金利政策」とねらいは同じ(でもより副作用が少ない)ものだってことぐらいわかってもよさそうなんだけどね(なぜそうなるかは後述)。 それも、実際にクルーグマンのテキストを読んで判断したわけではなかったし。
ネット上であれこれ経済に関するテキストを読みあさるうちに、山形浩生によって一連のテキストが翻訳されているのを見つけた。 その中でももっともまとまっているのは「復活だぁっ! 日本の不況と流動性トラップの逆襲」(webmaster注:リンク先はpdfファイルです)であろう。
これを一読して、はたと困った。 書いてあることが当たってるのか間違ってるのか、判断することができない。 それがなぜかって、経済学をしっかりわかっていないからだ(より本質を言えば、数学がわかっていないからである。 経済学に触れて間もないものの数学がわかっている人が書いた覚書(webmaster注:リンク先はpdfファイルです)を見ると、数学がもっとわかればなぁと・・・)。
クルーグマンのテキストは達意な文章だし、山形浩生の翻訳も十分こなれているので、その主張がわからないわけではない。 論証に用いられている数式を検証できないのだ。 「調整インフレ」論(クルーグマン自身は「管理インフレ」と言っているが)への否定的な第一印象がただしいのかどうか、それを確認するためにも、もっと経済学を勉強しなければと遅まきながら思い立ち、webmasterは引き続きネット上をさまようこととなる。(次回に続く)
デフレということで、企業は、今後1年間につき物価が3%ずつ下がっていき、比例して売上高も(同じ量の商品を販売したとしても)1年間につき3%ずつ下がっていくと予想していると仮定する。 現在日本の銀行は平均して200bp(=2%)の利鞘をとっているので、ゼロ金利政策を前提とすると企業への貸出金利は2%となり(信用リスクや期間概念は捨象)、企業は2%以上の売り上げ増が見込めない投資は行わない(他のコストが一定であるとすれば、売り上げ増より金利負担が大きい。 なお、売上高は年3%の自然減なので、売れる商品の量の増減率で図ると、約5%の増加が見込める投資である必要がある)。
ここで「マイナス金利政策」により銀行の調達コストを例えば-1%に引き下げることができれば、利鞘が一定であれば企業への貸出金利は1%となるので、ゼロ金利時代には行われなかった投資が行われることとなる。
他方、「管理インフレ」により物価が年1%ずつ上昇するようになり、それに比例して売上高も年1%ずつ上昇するようになれば、売れる商品の量について約1%の増加が見込めれば金利負担とつりあうこととなるので、ゼロ金利政策&デフレ時代には行われなかった投資が行われることとなる。
借金自体は将来の消費の先食い(借金した分だけ将来消費を減らして返済しなければならないから)に過ぎず、その点だけに着目すれば「朝三暮四」だが、借金金利を上回る投資収益による所得増加があるので、いずれの施策も景気にプラスとなる。
なお、「マイナス金利政策」が「管理インフレ」に劣る(と現在webmasterが自覚している)点は以下の通り。
(2003-02-09記)
"about"にあるように、当サイト名として掲げる"bewaad"とは、ケインズの言葉から拝借したものだ。
実は、この言葉を最初に知ったのは、猪瀬直樹が主催するメールマガジンにおけるこの本(以下「闘い」という)の基となる連載(2003-02-08現在(この本の発売後?)、同ページのバックナンバーでは(後半部分の)タイトルのみの掲載となっており、Japan Knowledgeの同名コーナーのバックナンバーでの全連載の掲載も削除されている。 リンクを張るなど、ネット上のテキストには単行本とは別の活用法があるので、この拙文をお読みの方々の中に関係者がいらっしゃれば、是非とも再掲をお願いしたい) の第11回だった。
webmasterの拙訳はさておき、「闘い」p191にはこう書かれている。
長期的にみると、われわれはみな死んでしまう。
嵐の最中にあって、経済学者にいえることが、ただ、嵐が遠く過ぎ去れば波はまた静まるであろう、ということだけならば、彼らの仕事は他愛なく無用である
この言葉が、常にwebmasterの心の中にあるのだが、この章には、さらに心を動かしてやまないエピソードがある。
webmasterが勝手にまとめるのは忍びないので、そのまま引用(pp189-196)させてもらう(強調はwebmasterによる)。
・・・1920年代のイギリス経済は、デフレ不況が続いていた。 この時代を理解するキーワードは「安定化(stabilization)」への渇望である。 多くの人的物的被害を出した第一次世界大戦がもたらした混乱からどのように新しい経済社会を構想するか。 大多数の人々の対応は、「古き良き時代」への回帰であり、金本位制はその政治的経済的象徴であった。
・・・
大蔵大臣ウィンストン・チャーチルは迷っていた。 すでに終戦から7年がたった。 今こそ、かつての大英帝国の反映を支えた金本位制へ復帰すべきではないか。 ちょうどそのころ、1925年2月21日号の『ネーション・アンド・アシニーアム』誌に「金への復帰」というケインズの論説が載った。 金本位制復帰のもつデフレ圧力を警告した論説の、その迫力に気押されたチャーチルは部下であるオットー・ニーメイヤーに、本当に金本位制復帰でいいのか、問いただす。・・・
ニーメイヤーの説明を聞いたが、まだ安心できない。 こういうときに政治家がすることは決まっている。 専門家の意見を聞くのだ。 そして、金本位制復帰の利点と欠点を挙げてもらう。 決定はそれからでも遅くはない。 会合は3月17日の夕食に設定された。 大蔵省からは、ニーメイヤー、ブラッドベリという2人のトップ官僚が出席し、それ以外にレジナルド・マッケンナという、かつて政治家であった銀行家、そしてケインズが招かれた。・・・
そして3月17日を迎える。 大蔵官僚の意見は、旧平価での金本位制復帰即時断行だった。 戦前の秩序に復帰することを象徴するものとして、戦前でのポンド・ドル比率、すなわち旧平価に勝るものはない。 これに対して、ケインズとマッケンナは、旧平価が10%ほどポンドの過大評価であること、このまま復帰するならば失業の増大と、賃金引き下げをめぐる大きな社会闘争が起きることを警告した。・・・
会合は深夜にまで及んだ。 最後にチャーチルは、マッケンナに尋ねる。 この決定は経済だけでなく、政治的なものである。 君はかつて蔵相を務めたこともある。 政治家として、金本位制への復帰をどう思うか。 マッケンナは次のように答えたと伝えられている。 「もはや逃げ道はない。 復帰しかない。 だがその行き着く先は地獄だ」
このときのマッケンナの絶望はどれほど深いものだったのだろう。 まがりなりにも政策決定に携わり、同様の局面にも立ち会ったことのあるwebmasterも、こうしたときには無力感にさいなまれてやまない。 しかし、このとき論戦に敗北したケインズは、おそらくは"bewaad"の精神(もちろんケインズ自身がこんな造語したわけではないが)をもって、その後も闘い続けた。 そうしたケインズの生涯を簡潔だが思いのこもった文章でつづった部分を味わえるというだけでも、「闘い」に1,800円(+外税)を支払う価値はある。 失敗にもくじけず立ち上がる気が湧いてくるはずだ。
しかも、「闘い」の守備範囲はケインズのみではない。 そのほかの経済学者たちの闘いもまた、それぞれのプライドをかけた壮絶なものである。 「闘い」には、人間のすばらしさと、経済学のすごさがつまっている。 それに引き替え、昨今の日本の論壇においては、単なる思いつきを叫び、思いつきであるからして当然にして現実に裏切られ、さすれば臆面もなく主張を翻す自称「エコノミスト」のなんと多いことか(このあたりは、野口旭の「経済学を知らないエコノミストたち」に詳しい)。
当サイトの主張に共感する人々には、「闘い」はお薦めするまでもない。 かかるえせエコノミストこそ、「闘い」を読んで、自らの生き方にやましいところはないか、じっくりと考えるべきだ。
(若田部昌澄(2003)、「経済学者たちの闘い/エコノミックスの考古学」、東洋経済新報社)
(2003-02-09記)
先々週のブッシュ大統領による一般教書演説、先週のパウエル国務長官による国連安保理演説と、イラク問題の帰趨がずいぶんクリアになってきた。 「溜池通信」などを読んでいる人には先刻承知であろうが、アメリカは遠からず武力行使に踏み切り、その際にはフランス・ロシアもアメリカに賛成し、もしドイツが最後まで反対するのであれば以後ドイツの発言力はずいぶんと低下し、イラクはあっけなく敗北することとなろう。
「溜池通信」2月7日号(webmaster注:リンク先はpdfファイルです)などではこのような万全の下準備を整えたパウエルは絶賛されており、実際たいしたものだとしか言い様がないのだが、果たしてブッシュ大統領の役割はどのようなものなのだろうか。
ブッシュ大統領については、弟のジェブに劣る不肖の息子であり、クリントン=民主党の長期政権へのバランスで選ばれた(といっても選挙結果は疑わしいし)に過ぎず、よくいってお人好しのぼんくらといった評判がついてまわっている。 しかし、リンゼーやオニールといった経済閣僚の首切りを見ても、単なる御神輿とも思えない。 今回のパウエルによる舞台回しについて、本来いろいろと言いたいことがありそうなチェイニー、ラムズフェルドといったあたりが黙っているのも、ブッシュが抑えていると見るべきだろう。
つまりは、チェイニーに代表される強硬派を温存したいのではないか。 ここで強硬派が何を言っても、パウエルの成功を前にしては負け犬の遠吠えに過ぎず、彼らにとって最もダメージを少なくするには黙っているのが最善だからだ。
戦後の日本外交の勝利は、一に自由主義陣営についたことであり、二に軽軍備を貫いたことだが、その前提となったのは主流派が自由主義陣営派である一方で、「平和主義者」勢力がそれなりに力を持っていたことだ。 それにより、対ソ・対中戦略において「いや、アメリカに協力したいのはやまやまですが、それでは国内世論が・・・」といういいわけが可能となっていた。 冷戦終了後、「平和主義者」勢力の衰退によりこのいいわけが通じなくなったため、湾岸戦争では「金だけ出して人は出さない」といった非難を甘んじて受けざるを得なかったことになる。
要すれば、世論が制御可能な範囲で分裂していることは、外交上の有利につながる。 なまじ世論が統一されてしまえば、選択の余地がなくなるからだ(戦前の日本のように)。 とすれば、イラク問題が片づいた後、強硬派には活躍の機会が再度与えられる可能性が極めて高い。
その対象は、おそらく北朝鮮。 「悪の枢軸」3ヶ国のうち、次にイランを標的とすることについては、「欧米対イスラム」の見方を不必要に強めることとなるというマイナスがあるが、北朝鮮を標的とすることについては、その問題を避けるのみならず、中国に対する牽制材料として使えるというプラスがあるからだ。
ブッシュの頭の中には、まずチェイニーらを表にたてて北朝鮮・中国に対して強圧的な態度に出るという戦略が描かれていると思われる。 それで北朝鮮・中国が妥協すればよし、妥協しなければ、そのときの国内世論や他国の動向を見て戦略を練り直せばよい。
強硬派の受けが悪ければ、「パウエル」カードを切るという代替案があるのだから。
(2003-02-09記)
ちなみに、「利富禮」ってのは「リフレ」の当て字。 縁起がいいだろう。
さて、今でこそいっぱしのリフレ政策を主張するwebmasterだが、バブル崩壊後しばらくの間は、そんな考えは全く持ってなかった。 不景気だって言うけど、週末の新宿や渋谷を見れば、日本以外のどこの国の人だってそんなこと信じるわけないじゃん、といった感じだったわけだ。 それが、なんで今のようなものの見方をするようになったのか。 webmaster自身がここで改めて振り返って考えを整理するわけだが、これを読むことによって、今の日本経済に対して関心を持っている人にとってなにがしかのインプリケーションを得てもらえればと思う。
最初にデフレに対する問題意識を持ったのは、日銀が1999年にゼロ金利政策を導入してしばらくたった時だった。 「これで金融政策は手詰まり」といった雰囲気が漂ってきたわけだが、「ゼロで足りなければマイナスがあるだろ」と反射的に考えた。
だが、待てよ、と。 確か大学時代に経済学(法学部生だったのであくまでも初歩的なものだが)を勉強したとき、「流動性の罠」なんて言葉を聞いた気がするな。
「流動性の罠」がどういうことかということ自体は、とてもシンプルな概念だ。 銀行が預金の金利を0にしたら、誰も預金などせず現金で持っておくだろう。 ましてマイナスならなおさらなので、金利の引き下げという金融政策の手段には、ゼロ金利という下限があるということだ(ちなみに、当座預金は0金利ではないかとの指摘もあろうが、あれは手形・小切手を使うといった当座預金に付属するサービスの対価が込みでゼロ金利ということ(それがまっとうな価格かどうかは疑問だが)で、つまり、理論的には、預金部分にx%の金利がついている一方で、-x%のサービス対価が徴収されるので、差し引きでゼロ金利になっていると考えられる)。
そうはいっても、日銀は中央銀行、つまり政策の執行機関であり、マイナス金利で日銀が銀行に貸し出すとすれは金利分だけ損するわけだが、政策のためのコストと割り切れば、民間企業であるまいしコストを負担できないわけではあるまいと考えていた。 つまり、銀行からの貸出金利がマイナス金利となれば、銀行から借り入れてそれを預金し直すだけで儲かる(既述のように、ゼロ金利の場合預金と現金が代替可能となるので、預金金利はゼロ金利が下限だ)わけで、さすがにそれは行き過ぎだろうが、貸出金利をゼロ金利としても人件費などのコストをまかなえる利鞘がかせげるようになるまでは日銀が公定歩合を引き下げることは可能なはずで、「流動性の罠」まではまだ余地があり、必要とあれば日銀が損を出しさえすればもっと踏み込めるはずだと思っていたわけだ。
ここで考えるべきは、日銀が損失を負担する=銀行に対して実質的に補助金を出すことによる政治的な軋轢や、銀行が資金調達を日銀に頼ってしまうといういわゆる官業の肥大化といういわば政策コストと、それに対するマイナス金利政策による政策効果で、後者が前者より大きいのであれば導入すべきということになる。
そんなことを素人考えしていたときに、webmasterの人生を変える出会いがあった。(次回に続く)
(2003-02-01記)
「余は如何にして利富禮主義者となりし乎」を見てもらえれば一目瞭然だが、webmasterの経済学理解の程度はたかがしれているが、本書は、いわゆる「失われた10年」に関して、一次的な統計資料から、経済学者以外の人間に対してもわかるようなロジックを経て説得的な結論を導き出しており、そんなwebmasterでも読める敷居の低さが魅力である。
webmasterが見る限り、リフレ政策(金融緩和の拡大&インフレターゲットの設定あたりが最大公約数)については、賛成派が理論的・実証的な説明をするのに対して、反対派は感情的・印象論的な反論をすることが多い。 さらに言えば、かたやノーベル賞を受賞した経済学者(例えば2ちゃんねるの経済板の「インフレターゲティングこそ経済学の本流」スレ(2003-02-01時点でhtml化されているものの中で最新のスレにリンクを張ってあります。)の冒頭に列記されている学者で言えば、スティグリッツ、フリードマン、サムエルソン。 他にもソローやルーカス、マンデル、アカロフなど)が賛成派であるのに対して、反対派の多くは経済学については素人だ。 「ノーベル賞受賞者が賛成しているから賛成するとは盲目的な権威主義者だ」との反論が容易に予想されるので、あらかじめ再反論しておけば、本書の第6章や第12章、第13章のような主張が説得的と認めるからこそ賛成しているのであり、反対派の主張が合理的とは思えないからその立場はとらないだけのことである。
例えば村上龍のJMMでリフレ政策(JMMでは「調整インフレ」)が取り上げられたことがあるが、反対派の主張は(リフレ政策は)麻薬処方
であるとか、「調整インフレ」という言葉の意味はとてもわかりにくい。そのわかりにくさこそが、この「調整インフレ」の政策としていかがわしさ、曖昧さの象徴
といったものだ。
一方的な決めつけといい、自分の知識不足を棚に上げていることといい、素人感覚を無批判に適用することといい、天動説論者による地動説批判に匹敵するものといえよう。
一応反論しておくと、「どういうロジックでリフレ政策=麻薬処方なのかの論証なくして、麻薬処方に対する批判をリフレ政策に対するそれに転用するのは、論理的には何も言っていないのと同じ(一応論者は調整インフレを麻薬に喩えることがどの程度適当かは、ドラッグの知識と経験(残念ながら無い)が不足しているため私にはよく分かりませんが、手元のクーポン券の価値が低下するといわれれば経済主体はこれを使うだろうというクルーグマンの意見は、「じっとしていられなくなる薬」を処方すれば患者は元気になったように見えるはずだという意見に近いでしょう。
ただ、インフレは急にストップできるものでは無さそうだから、麻薬という比喩はそうはずれていないのではないかと思います
と言っているが、『よく分かりません』『意見に近いでしょう』『無さそうだから』『はずれていないのではないかと思います』というだけであれだけ悪し様に罵るっていうのもね・・・)」「言葉自体がわかりにくいのではなく、自分の勉強不足でわからないだけ」ということにつきる。
本書で行われている検討は、そうした乱暴なものの対極にあり、今後の議論の発展に寄与するところ大であるため、リフレ政策に賛成する人、反対する人、どちらとも決めかねている人のすべてにお薦めできる。 賛成する人は、自らの立場をより強化できるだろう。 反対する人は、本書の主張に対して論拠ある反論を組み立てることができれば、自らの主張により説得力が増すだろう。 どちらとも決めかねている人は、本書を読み、そこに示されている事実の数々を考えれば、最終的に賛成・反対のいずれに結論がなろうと、上記の反対派のような醜態をさらさずにすむだろう。
だが、結局のところ賛成派と反対派の議論のレベルは上がらず、従って反対派が負けを認めることもなく(論戦で「負けを認める」にはある程度の頭の良さが必要だ)、日本の大停滞はずるずると続いてしまうのではないかと思わせる今日この頃である。 もし本書がベストセラーとなり、webmasterの予想に反して早期に「日本の『大停滞』が終わる日」を迎えられるのであれば、望外の喜びである。
(原田泰(2003)、「日本の「大停滞」が終わる日」、日本評論社)
(2003-02-01記)
現在、次の日本銀行総裁人事を巡って議論が喧しいが、これはすなわち、現速水総裁の任期がもうすぐ終わるということを表している。 日本銀行法第2条には、金融政策の理念として、「物価の安定を図ることを通じて国民経済の健全な発展に資すること」が規定されているが、速水総裁が日銀を率いた5年間はこの理念がまったく実現されておらず、総裁としては落第だったと断ぜざるを得ない(デフレ=物価の継続的な下落だって「安定」していないので、念のため)。 落第の原因は何か。 細かいものまでカウントすればきりがないが、主要どころとしては次の4つだろう。
しかし、書いていて本当に腹が立ってきた。 次の日銀総裁は、速水じゃなければ誰でもいいと言いたいところだが、今の日本には速水総裁と同じような考え方をする人間がそれなりにいる。 次期総裁はそんな輩ではなく、本気でデフレに立ち向かう人間になってもらわなければ、日本経済のクラッシュはそう遠くないだろう。
(2003-02-01記)
最近は一貫して長期国債(=10年国債)の金利が低下しており、金曜日(2003-01-31)にはついに0.75%に至った。 これはもちろん史上最低の金利である。 こうした現在の国債相場を評して「バブルだ」といった言い方がなされる(国債金利の低下=国債価格の上昇なので)が、なぜそうなのかについてはそれほど語られない。
金融商品の値段がどのように決まるかと言えば、理論的には、将来予想される収益の現在価値であるとされる。 現在価値を簡単に説明すれば、ある額の将来のお金は今のお金に直すといくらかを計算したものだ。
1万円が確実に1年後には1万100円になるのであれば、その資産(例えば国債)の1年後の1万円の現在価値は、10,000:10,100=x:10,000をxについて解いた値、つまり約9,900円になる。 「確実」というのは、現段階で決まっているという意味で、固定金利であれば事前に確定しているので、このような計算となる。 多少リスクのあるもの、例えば現在1万円の資産が1年後に30%の確率で2万円、70%の確率で5千円になるのであれば、1年後に2万円を上記の確実な運用で得るために現在必要な額約19,800円と、同様に5千円について求めた現在価値4,950円にそれぞれの確率を掛け合わせた額の合計約9,400円がその資産の現在価値である。
見ればおわかりだろうが、この計算には1つ予測が入りこむ。 将来(上記の試算であれば1年後)いくらの金が手にはいるのか、という点だ。 この将来予測が非合理にふくらむことが、バブルの原因となる。 日本のいわゆるバブルにおいては、土地や株式が将来もっと高く売れると皆が信じたからこそ、その将来予測額の現在価値=地価・株価がつり上がり、ちょっと前のITバブルにおいては、株式の価値の根元は発行体の収益だが、IT業界の会社が将来うんと儲かると皆が信じたからこそ、IT関連株が暴騰したのだ。
とすれば、国債バブルと称されるものの正体は明らかだろう。 皆(投資家)の、「物価水準の下落が続く」という予測のことなのだ。 物価水準の下落が続くのであれば、名目金利が0近くに張り付いていても物価下落分だけ実質金利が上昇するため、それだけ投資の妙味があるということであり、極めて合理的な結論だ。 デフレが克服された場合、「物価水準の下落が続く」という予測に基づき価格が上昇していたので、事後的にバブルと言われることとなり、デフレが克服されなければ、市場の予想は当たっていたことになるので、それは事後的にもバブルとは呼ばれない(だから、あるものが「今」バブルかどうかは判断できない。 今が「国債バブル」なのかそうでないのかは、結果によって事後的に判断されることになる)。
最近になって国債金利が低下=国債価格が上昇しているということは、皆のデフレ予測が強まっているということだ。 つまり、政府・日銀はデフレを打破することはできないと思われている。 逆に言えば、小泉政権が続いて今の政策路線が継続し、日銀は総裁が替わっても金融政策を変えない(おそらく日銀OBであり、現在の日銀の方向性を維持するであろう福井氏が総裁となるとの予想なのだろう)ということについて、市場の信頼は極めて厚いようだ。
政治不信が叫ばれる中、こんな信頼のせいでいつまでたってもデフレが解消されないとは、なんとも皮肉なことである。 数々の小泉首相の公約違反を思い出して、道路公団改革で今井氏を切り捨てたように、近い将来リフレ政策を巡って日銀を切り捨てることを信じるよう、市場関係者には切にお願いしたい。
(2003-02-01記)
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/時系列書庫[8]/2003-02