/時系列書庫[8]/2003-04
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(2003-05)[9]
(2003-03)[7]
前回に引き続いての試験対策、今回は論述試験(念のため断るが、対象はやはり法学限定)をどう乗り切るかについてだ。 といっても、何か特別なことをしなければパスできないというレベルのものではないという点では、択一試験と大差がない。 基本的に通説・判例をおさえておけばよく、おそらくほとんどの法学部の期末試験の方が難しいだろう。
従って、試験対策としては、効率よく学部の講義を思い出し(民法を4年生になってもやっているというケースは限られるだろうし)、頭に焼き付けるかがポイント。 方法論は択一試験対策と同じで、一度に根詰めて覚えようとするのではなく、何度も繰り返すうちに覚えていくということとなる。
だからといって基本書を紐解いてはいけない。 あくまで目標は通説・判例を押さえることだからだ。 情報量が多すぎ、これを繰り返し読むのでは効率が悪くなる。
ここで相手とすべきなのは、法学部生なら必ず持っているであろうアイテム、判例百選シリーズだ。 判例百選は、読んだことのある人間であれば共通して思うことだろうが、デザイン的に読みづらい上に中身も(公務員試験対策の観点からは)無駄が多く、何度も繰り返し読む気になれる代物ではない。 というわけで、最初に行うべきことは、繰り返し読むことを目的とした要約版の作成となる(百選に未掲載の最新判例も、準ずる形で判例評釈の要約を作る)。
この要約版、目的に照らせば、次のようなものでなければならない。
完成したら、後はひたすら読むだけ。
「百選」といっても掲載判例が100以上あるのはご案内の通りであり、憲法I・II、民法I・II、行政法I・IIの6冊で合計7〜800となるだろうが、1判例を1分で読み(逆に言えば、その程度にまで要約せよということ)、1日1時間読む時間を確保するとすれば、2週間で1回通し読みが可能なはずだ。 2回目以降は効率も上がってくるだろうから、通し読みに必要な時間はどんどん短縮していく。 理想を言えば、試験直前には1、2時間で全部読めるようになっていれば言うことなし。
実はwebmaster自身は要約を作ったところで飽きてしまったので、それほど繰り返し読んだりはしなかったので、それほど偉そうに薦められる立場にはないのだが、しっくりくる学習法が見つからず悩んでいる方にとっては、一度試してみて損はない方法であるはずだ。
(2003-04-27記)
最近、株価下落を受けて「時価会計の停止」「減損会計導入の延長」といった議論が喧しい。 会計のプロではない人間が言うのはやむを得ないと思えなくもないが、プロ中のプロであるはずの公認会計士協会の常務理事までが、何をトチ狂ったのか「生命保険会社については特別扱いも考えられる」などと言い出す始末。 日本の会計事情、まったくもってお寒い限りである。
ちなみに、webmasterは、今議論されている時価会計や減損会計にはとても合格点は出せないと考えていて、現行の時価会計などについては批判的。 それは、あるべき会計・財務諸表の姿からすれば、過去の経緯などにとらわれた結果、著しくゆがんだものとなっている。 「あるべき会計・財務諸表の姿」が何かかは、実は、もう決まり切っていて議論の余地はないのだ。
ここに断言する。 会計学に、今後抜本的進歩はない。 今、国際会計基準が進んでいる先に何があるのかは、わかる人にはこれ以上なくはっきりとわかっている。
もちろん今までの経緯もあり、その理想像が直ちに実現するわけではない。 しかし、中長期的には、すべての会計基準は、同じ考え方のもと統一的な体系として整備されることになるのは間違いない。 そして、その体系は、予見できる最も遠い将来においても、それ以上の進歩がまったく考えられないほど完成したものだ。 今後、会計学が取り組むべき課題は、例えば新たに出現した金融商品について具体的にどのような会計処理をすべきかといったような、実際の企業活動のあれこれについて、体系から演繹的に技術的な手法を導き出すといったエンジニアリングでしかあり得ないのだ。
では、「あるべき会計・財務諸表」とは何か、ここに明らかにしよう。 企業とは、その業種や規模にかかわらず、要すればどこかからお金をもらい、どこかにお金を払うという、いわばお金の管、かっこよく言えばキャッシュフローのビークルである。 財務諸表は、そのお金の流れを特定の切り口から表すものとなる。
具体的には以下の通りだ。
次回以降、それぞれについてより詳しく論じていくこととしたい。 会計の技術論に詳しい人ほど異論があろうが、会計の未来は当連載の示す先にしかないことを約束しよう。
(2003-04-27記)
webmasterが「余は如何にして利富禮主義者となりし乎」を連載中、あえて目を背けていた本。 概要を見た段階で、リフレ策を巡る主要な論点がコンパクトにまとめられ、仮に読んでしまえば、連載がこの本の単なる要約になりかねないと思ったからだ。
実際に読んでみると、カバーする論点も、理論的整理から歴史の紹介、日銀政策委員会議事録の分析などが含まれ、かゆいところに手が届く。 編者の岩田規久男を始め、各章の執筆者もデフレに関してそれぞれ多くの優れた著作をものしてきた人々ばかりであり、これまでの蓄積を生かして、平易にでありながら抑えるべきところをきちんと抑えた、読みやすい文章が綴られている。
と書くと、多くの人は、webmasterが手放しで絶賛するものと思うだろう。 違うのだ。 この本は、ある意味欠陥品である。
編者が岩田規久男であることも手伝って、おそらくこの本の読者は従来からリフレ策に理解があり、日銀などに対して批判的な人間がほとんどだろう。 webmasterを含め、そうした人間にとって、自らのあやふやな知識をブラッシュアップするには最適であることは間違いない。 しかし、「まずデフレをとめよ」と題するからには、この本はそうした用途ではなく、今の経済環境は改善すべきだけど、そのためにはどうすればいいのだろうと考える人々に対して、リフレ策を納得させるためのものとして企画されたはず。 そのようなターゲットを想定した場合、この本はいかにもマーケティングが弱い。
経済書にこのような注文をつけるのは半ば反則なのかもしれないが、オレンジ色一色の背景に黒ゴシックの題字という表紙からして、もうちょっと工夫の余地はなかったか。 岩田規久男が優れた研究者であり、リフレ策の代表的論客であることについては衆目が一致するだろうが、彼の名前が前面に出れば、「ああ、また日銀に喧嘩をふっかけているんだな」とだけ見られ、手にとってはもらえない可能性を考慮したのだろうか(帯にも「日銀新総裁に決断を迫る」とあるし)。
リフレ策の実現に効果的なのは、固定客の忠誠を高めることよりも、浮動層の取り込み。 そういった観点からすれば、例えば竹森俊平の「経済論戦は甦る」は、リフレ策(というよりはインフレターゲットだろうが)をめぐる論争を敬遠している読者層にも届く優れた企画であった。 タイトルに「デフレ」や「インフレターゲット」という言葉は出てこないし、シュンペーターとフィッシャーというメインテーマの選択もうまい。 内容に一部批判はあれど、近年においてリフレ策の普及にこれほど貢献した本もあるまい(その他、既に取り上げたので詳細は省くが、若田部昌澄の「経済学者たちの闘い」なども、そうしたアプローチの好例として挙げられよう)。
webmaster自身ができていないので後ろめたくはあるが、今後は戦術的勝利(個別の論点の妥当性において反リフレ派に勝つこと)ではなく、戦略的勝利(より多くの読者を獲得し、リフレ策が必要との世論を盛り上げる)を目指し、そうした観点から本を編集すべきなのだ。 この本は、既述の通り、親リフレ派になった人間が読むには最適の本。 であれば、次の一手は、この本と役割分担をして、より多くの読者をこの本に向かわせるような、そんな本(に限らず、ネット上のテキストでもテレビ出演でもいいのだが)が求められている。
そうした存在があれば、この本の短所がカバーされ、長所がより活きてくることになろう。
(岩田規久男編(2003)、「まずデフレをとめよ」、日本経済新聞社)
(2003-04-27記)
新丸ビルやシオサイトの各種ビルなど、近年数多くの大型ビルのオープンが続いたが、その掉尾を飾る六本木ヒルズ。 これまで六本木近辺にはそれほどの高層ビルがなかったため、存在感は抜群である(ファイナルファンタジーのダンジョンに例えられたりなどしているし)。 オフィスビルの2003年問題など、何かと影響も大きいようだが、webmasterはこの手の開発、文化的観点から大いに評価したい。
こういうと、東京の開発は無秩序で問題といった反論が予想される。 パリ(他の都市でもいいのだが)を見よ、整然と美しい町並みが保存されているではないか。 それに比べ東京のなんと醜いことよ、と。 東京には東京ならではの個性がない、と。
しかし、それでいいではないか。
いや、それがいいのではないか。
無秩序な混沌こそが、ある意味で現代文明の最先端を行く、東京にふさわしい。
高層ビルが並ぶ中に地上げに屈しなかったごく普通の民家が残っていたり、渋谷の人混みの中にいきなりソープランドが営業していたり(それもボクシングジムと併設で、交番の裏にだ)。 これほど雑然とした都市、webmasterが知る限り、世界にたった一つ東京しかない(防衛庁が六本木に残っていれば、これもポイントが高かったのだが。 歓楽街と軍隊の組み合わせなど、正気を持った人間が計画を作ってあり得るものではない)。 まさに誇るべきユニークな個性だ。
実はその手の規制自体はありふれたものである景観保護など、京都や鎌倉に任せておけばよい。 今後も、これまで以上にディベロッパーが勝手に開発を進め、狂気をはらんだ現代文明の象徴としてカオティックに変貌を続ける。 webmasterは、東京にはそんな都市であって欲しい。
(2003-04-27記)
今回の題目は具体的な試験対策、それも択一式の一次試験についてだ。 「過去問を繰り返し解いて、パターンを暗記せよ」一次試験対策はこれに尽きる。
具体的には、まず、できるだけ多くの過去問を入手する(早稲田経営出版や実務教育出版から販売されている)。 次に、1回全体を通してひたすら解く。 ここで大切なのは、正解することは全く重要ではないということ。 目的は、暗記する問題を選び出すことである。 従って、わからない問題は解かない(運で正解して、わかった気になっては却って有害)。 考え込んでしまった問題も、あえて解かない方がいいだろう。
そして、間違えた問題と、解かなかった(解けなかった)問題を選び出し、その解答に一応目を通す。 ここで解答をしっかり覚えようとしてはいけない。 わかっていないものは、一回読んだぐらいでは覚えられないものだからだ。 次はそうして選び出した問題だけを解き、また間違えたり解けなかった問題については解答に目を通す。 これを何度か繰り返したら、もう一度全体を通して解いてみる。 ここで再度、反射的に答えられなかった問題を選び出し、またそれらの問題だけを何回もやってみる。 以上を2、3回繰り返せば、ほとんどの問題は反射的に答えられるようになっているだろう。
とにかくコツは、繰り返し繰り返し問題を解くことで、論点メモだのテーマごとのまとめだのを作ると行ったことは一切しないこと。 相手はたかが択一試験。 本当の頭の良さが試されるわけでもなければ、専門知識の理解度を測られるわけでもない。 必要とされる知識だけを、効率よく身につけるという情報処理のスキルが問われているものと考えるべきなのだ。
ちなみに、以上は専門試験についての話。 教養試験については、一般知能は専門の勉強の合間に、気分転換のつもりでやって慣れるぐらいがちょうどよいだろう。
一般知識は、短期間ではどうしようもない。 3年生以下の人たちは、バイトで高校生の家庭教師でもやってその手の知識をリフレッシュしておくのが一石二鳥だが、試験まであと1ヶ月を切った4年生は、専門試験の勉強に差し障りのない範囲で好きに勉強するしかない。 くれぐれも、短期集中での試験対策としては、専門試験に時間を割り当てる方が圧倒的に効率的だということをわすれずに。
(2003-04-20記)
構造改革特別区域でもっとも話題となったのは、医療業務への株式会社の参入だろう。
さて、構造改革特別区域、面倒なので「特区」と略すが、そもそもの目的は何かといえば、「規制は全国一律でなければならない」という考え方から、地域の特性に応じた規制を認めるという考え方に転換を図
り、地方公共団体や民間事業者等の自発的な立案により、地域の特性に応じた規制の特例を導入する特定の区域を設け、当該地域において地域が自発性を持って構造改革を進める
というものらしい(webmaster注:「構造改革特区推進のための基本方針(平成14年9月20日構造改革特区推進本部決定)」より抜粋。なお、現行の基本方針は平成15年1月24日閣議決定版)。
従来の考え方は「規制は全国一律でなければならない」というものでもなかった(中山間地域対策など、地域限定で適用される法制度はいくらでもあるのだが)ことなど、引っかかるところは多々あるが、とりあえずそこは争うまい。 しかし、官僚的立場からいえば、少なくとも自分で言ったことぐらいは守って欲しいと考える。
さて、医療業務への株式会社への参入について、厚生労働省の反論を見てみると、初めて公になった反論(webmaster注:管理コード9201)には明記されていないが、次の反論においては、株式会社の医療参入等を認めるかどうかは、特区に限定された問題ではなく、全国的な問題として議論すべきである
としている。
「地域の特性に応じた規制の特例」を目指す制度に関する反論としては基本である。
これに対する説得的な反論は最後までなされていない。 医療法人が利潤を追求すべきかどうか等の論点についてはそれなりに反論・再反論の応酬が行なわれているが、この点に関してはゼロである(ちなみに、医療法人が利潤を追求すべきかどうかなど、現行の医療法人の問題点については、これからの医業経営の在り方に関する検討会において全12回にわたる検討が行なわれた結果、最終報告が出されて株式会社の参入には否定的見解が出されている。 回数が多ければいいというものではないが、特区推進側がこの検討会の議論を踏まえて反論していたとも思えない)。
実際、医療経営を株式会社に行なわせてもいいかどうかは、ある地域特有の事情ゆえに適当ということがない限り、全国一律であってしかるべき。 つまり、特区推進側から(このケースであれば長野県)、「この地域では○○という事情があるので、医療経営を株式会社に行なわせても問題ない」という主張があって初めてその次の段階に議論が進む(現在の医療法人が抱える問題に対する処方箋として、株式会社による経営が有効でありえるかどうかなど)はずだ。 結局のところ、官僚の価値観からすれば、今回長野県の主張が徹らなかったとして、それは長野県になすべきことをなさなかったという問題があるのだ、ということになる。
さはさりながら、最終的には株式会社の医療への参入については、自由診療の分野という前提で、地方公共団体等からの意見を聞き、6月中に成案を得て、15年度中に必要な措置を講ずることとする
という結論を出さざるを得なかったのは、官僚言葉で言えば「外堀を埋められた」結果。
悪の権化と奉られた中では、最後まで「筋を通す」(これまた官僚言葉)ことは不可能で、被害の最小化に努めるほかない。
おそらく担当者は、「政治的に無理を押し付けられた結果、本意ではない妥協を強いられてしまった」と内心思っていることだろう。
それが官僚というものである。
(2003-04-20記)
官僚が「軽く外食でもしてくるか」という場合は、そのほとんどが夜である。 しかし、まれに時間に余裕があるときには、昼であっても外食が可能なこともある(通常は職場の食堂だし、案件が立て込んでいると売店の軽食を買ってきてもらって食べるとか、あるいは昼食抜きなどということも)。
webmasterが以前、昼時に日比谷公園をうろついたときには、休み時間ぐらいこうでありたいとしみじみ思ったもの。 なんのことはない、単に青空の下を散策してベンチで弁当なんて昼食もありか、というだけなのだが。
そんな日比谷公園のほぼ中心に、「松本楼」はある。 もともと日比谷公園開園時(明治36年)にオープンという古い歴史を誇り、今年の6月には100周年を迎えるという格式あるレストラン。 通常のメニューはそれにふさわしい値段と言えるが、ここ「松本楼」では味なサービスが行われている。
有名なのは毎年9月25日の10円カレー。 徹夜組が出るほどの風物詩となると、別の意味でなかなか手が出ない。
他方で、知る人ぞ知る穴的存在が、平日ランチタイムのカレービュッフェ食べ放題。 「松本楼」のサイトのトップページでも単に「とっておきお得最新情報」としか書かれていないし、さらに言えばその日電話してみないとやっているかどうかわからないというもの。 実際のところ、普通にカレーを一人前頼んでも700円〜であり、1,300円という値段がすこぶるお得というわけではないが、3種類を食べわけ、さらにサラダやスープ、デザートまで付くというのは、ロケーションも手伝ってかなりの満足感が味わえる。
というか、今までここではカレービュッフェしか食べたことがない。 時間と懐に余裕があるときには、是非他のメニューも味わってみたいものである。
| 味 | 値段 | 量 | その他 | 合計 |
|---|---|---|---|---|
| きちんとしたレストラン。4点 | 10円カレーは例外ということで。3点 | ビュッフェなら無制限。5点 | 往復して食べてくるだけでいい気分転換。5点 | なかなか行けない。17点 |
「松本楼」、千代田区日比谷公園1-2、03(3503)1451
(2003-04-20記)
2003年4月14日は、「ヒト」をめぐる科学にとってエポックメイキングな日となった。 ヒトゲノムの解読が終了したのである。
3年前にはセレーラ・ジェノミック社が解読宣言を出し、メディアの取扱い自体はそのときの方が大きかったが、あれはあくまで「事実上」のもの。 逆に言えば、当時で99%が終了したとのことだったが、あとの1%に3年を必要としたということで、人間の作業のご多分に漏れず、概ね終了と本当の終了には大きな違いがあったということだ。
ヒトゲノム解読の終了とは、乱暴に例えるなら、マゼランの世界一周航海のようなもの。 どちらも、学説が予測する有限性を実証し、以後の研究の外縁を明らかとした。
むろん、マゼランの世界一周後においても、地理学が発展し続けたように、ヒトについても今後いくらでも研究が進められていくだろう。 特に、ゲノム解読終了後は、具体的なタンパク質の発現に研究の矛先は向かうこととなるが、製薬などに関する知的財産権と直結する話であり、人類にとって実際に役立つかどうかという側面から見れば、むしろこれからが本番である。 今後は実用を目指し、投資効率で図られる世界が待っていることになる。
それでは、ヒトの遺伝子研究に、投資採算を度外視するような夢は残っていないのだろうか。 おそらく「ヒト」に限定する限りはないのだろう。
しかし、ゲノム解読が他種にも及ぶ中(ちなみに動植物ではイネやマウス、その他にも病原菌などのゲノム解読が進められている)、ヒトと類人猿など他の種、特にチンパンジーとの比較は、ヒトとは何かという人類史上繰り返されてきた問いに対する答えにつながる研究だ。 その先には、理系分野よりも、むしろ人文科学における大革命が待ち受けているのではないか。
(2003-04-20記)
国家公務員採用I種試験の申し込みが締め切られ、今年の試験を受ける官僚志望者は最後の追い込みに励んでいることだろう。 webmasterは人事担当者ではなく、採用に関しては単なる一個人ではあるので信頼できるかどうかは定かではないが(というか、人事担当者がこんなことをすれば大問題だが)、当サイトをご覧の官僚志望者へ日頃のご愛顧に対する感謝の意を込めて、いわゆるキャリア官僚(I種試験合格・本省採用)となるためのノウハウをまとめてみたいと思う。
しょっぱなから救いのない話だが、一次試験まで後1ヶ月を切った段階で試験勉強にあくせくしているようでは、正直言って採用にまで至るのは難しい(今まで全く試験勉強をせずにいて、これから始めるような人は別だが)。 それはなぜかというと、当然ながら役所といえど何らかの魅力を持った人間を採用したいと考えるわけだが、「一生懸命試験勉強に励んでようやく合格しました。 私の長所は試験勉強に盲目的に邁進できることです」という人間に魅力を感じることはないからだ。
実は、I種試験はそれほど難しい試験ではない(少なくともwebmaster自身が受けた法律区分は)、ということは多くの人が賛同してくれることだろう。 I種・法律区分と司法試験を比べれば、お話にならないぐらい司法試験の方が難しい。 司法試験であれば、確かに相当程度試験勉強に打ち込む必要があろう。 しかし、I種試験がそれほどの難易度ではないということは、もちろん法曹に比べて要求される民法等に関する知識水準が低いということもあるが、度を超えて試験勉強に汲々として欲しくないということでもある。
官僚として必要とされる法律知識、例えば所掌する法令に関する知識や条文作成技術は、どのみち職場で身をもって習得してもらうよりほかなく、学生が事前に身につけていることなど期待していない(法学部でその手の講義があるはずもないし)。 I種の法律試験は、その手の知識・スキルを確認するためのものではないのだ。
ではなんのための試験か。 webmasterは、それはポテンシャルの確認だと思う。 I種試験を、それほど本気にならなくても合格できる能力があるかどうか、それを見ているのだと。 あくまで足切りのためのものなのだ。
だから、合格できる程度の位置(法律区分でいえばだいたい毎年8,000人程度が受験しているが、合格者数は今年度は昨年度並みらしいので、400人台といったところで、だから合格する可能性があるのは上位1,000人ぐらいだろう)にいればそれでよい(今年は違うようだが、近年は一次試験の合格発表前から学生の絞り込みが進んでいたようで、つまりは試験合格順位など大した意味はないということだ)。
では、この時期に何をすべきか。 webmasterのおすすめは3つある。
1つ目は、自分の売りを磨くこと。 研究でもサークルでも何でもいいのだが、これなら自分が嚢中の錐となれると思うものに打ち込むことだ。 あと2ヶ月ほどで始まる官庁訪問の際には、いかに自分が魅力的な人間であるかをアピールしなければならない。 プレゼンスキルを考えることも必要だが、それは短期間でなんとかなるもの。 しかし、実際に売りになる何かを高めるのはそれなりに時間がかかる。 それを思えば、残された期間がたった2ヶ月しかないことを踏まえて、とことんやり尽くして欲しい。
2つ目は、本当に自分が官僚になりたいのかどうかを考えること。 官僚という職業、役所という職場は、けっこう癖がある。 一見良家の子女で雅びた雰囲気があるが、一皮むけばとんだじゃじゃ馬。 ルックスや雰囲気にだまされて口説いてみたはいいけど、つきあいきれないということは大いにあり得る。 よく安定しているなどというが、このご時世、自分のいる役所が10年後どうなっているかも不確定であり、まして今の学生が定年を迎える頃にどうなっているかなどわかったものではない。 稼ぎは、I種に合格できるぐらいなら外資の金融やコンサルにいった方がはるかにいい。 歴史と伝統があるといっても、その分いろんなしがらみや分からず屋の上司が多いということ。 合コンやったってもてないし。 それでもいいというほど盲目的に役所に恋をして、それが一緒になった(=就職した)後も続くという確信がなければ、世の中のもっといいパートナーを探した方がよい。
3つ目は、今まだ自分が合格圏内にはいないと思うなら、しっかり勉強すること。 とにもかくにも、官僚になろうとするなら、合格しないことには何ともならない。 今の自分には十分アピールする点がある。 官僚になりたいという意志にも問題はない。 ただあとは合格できるかどうか・・・というなら、あとたった3週間あまり。 本当に情報処理能力があり、役所での無味乾燥な仕事に耐えられるというそんな人間なら、あの程度の試験は3週間(ゴールデンウィークだってあるし)でなんとでもなる。
webmaster自身がどんな試験対策をしたかなどほとんど忘れたが、次回では試験勉強のコツなど、覚えている範囲でお伝えしよう。
(2003-04-13記)
巻頭を飾る推薦文は、青木昌彦、村松岐夫という日本の経済学界・政治学界で確たる名声を誇る学者たちの手によるもの。
筆者はあのStanfordでたったの3年でPh.Dを取得(それ以前に修士号を取得していたわけでもないのに)し、松井彰彦にその才を認められるほどの傑物。 また本書(博士論文の邦訳だ)は真渕勝が讃え、岡崎哲二をして日本の政治経済に関する戦後最も重要な書物と言わしめるものだ。
そんな本書、ほめる人間にはこと欠かないのだろうし、全体の枠組みが日本の政治経済イベントの分析に有益であることに異論はない。 しかし、Ph.Dなど持っているはずもないwebmasterが言うのもなんだが、本書については結構大きな論点において肯んぜられない点がある。 それは、官僚の行動目的が何かという点だ。
本書においては、「名声の最大化」を官僚が追求する目標として捉え、それを「組織存続」として定義する(p84)
とされる。
確かに、例えば組織権限の最大化など、よくいわれる官僚の目標よりは実感としてもしっくりくる(責任の押し付け合いは、霞が関ではよく見られる風景で、これはいかに自分たちに権限がないかを争っているのだ)。
しかし、この行動原理は、本書自体の中で妥当しない局面が出てくる。
1つは、1979〜82年における銀行法の全面改正(pp256-258)
。
ここで、大蔵省は銀行の反対を押し切って経営内容に関するより厳しい開示基準を求めようとしていた(p257)
のはなぜか。
官僚が組織存続=名声の最大化を行うためには、業界の利益の確保と公衆の利益の確保の2つの手段があるが(p85)、この段階においては、明らかに業界の支持が公衆の支持に比べ組織存続に有効であるはず(pp283-285)で、厳しい開示基準への挑戦は筆者の想定する行動原理からは説明不可能である。
もう1つは、金融ビッグバンのトリガーがなぜ引かれたか。
かりに業界に相談していたら、おそらく(webmaster注:外為改革に対して)反対されていただろう。世論はわれわれにつく、というのはわかっていたし、いきなりドーンと打ち上げれば反対のしようがなくなるだろう(p204)
という榊原(英資、当時国際金融局長)のコメントを見る限り、公衆の支持=名声の最大化は目的ではなく手段であって、目的は改革それ自体である。
筆者自身、公衆の批判を一身に受けている大蔵省が、ドラスティックな金融改革を主導したならば、それ自体が改革の実行に際して致命的な打撃となった可能性すらあっただろう(p221)
と述べており、組織存続の論理は公益を優先させた(p217)
との主張と逆の因果関係を他の文脈では認めている。
ではwebmasterは何が官僚の行動目的と考えているか。 それは、「期待トラブル最小化」である(わかりやすくいえば「事なかれ主義」だったりするが)。
その具体的な発現は「官僚道の歩き方」で示した「実現重視」「『国民』無視」「理屈主義」3原則となるのだが、制度の運用により現実の問題に対応できる限り、又は制度改正に当たって予想されるトラブル(業界の反対など)がその改正により解消されると想定されるトラブルよりも大きいと考えられる限りは、できるだけ運用で対応しようとする。 また、抜本的な対応を行えばより多大なトラブルが解消可能と考えても、それに必要なコストが対応の規模に比して幾何級数的に増加する場合には、部分的な対応によりトラブル量の最適化を図る。 こうした考えをとることにより、官僚の行動が腑に落ちることは多い。
上記銀行法改正においては、大蔵省は業界の抵抗を見誤っていたが故に、制度改正による予想トラブル解消量に引っ張られて実施しようとした。 金融ビッグバンにおいては、90年代の様々な政策対応の失敗や環境変化(pp311-319)により現行制度の欠陥が明らかであり、相当程度多大なコストを負担してでも現実に対応した制度を実現してトラブル量の極小化を図る必要があった。 こう考えた方が自然ではないか。
この立場をとっても、本書でも触れられている大蔵省の組織防衛については、そもそも「大蔵省改革」が大蔵省のやることなすことの全否定と受け止め、やるべきことまでできなくなることにつながると予想したからだという別の解釈が可能。 つまり、組織防衛自体はあくまで手段であり、目的は組織が担っている機能及びそれに対する自負の維持と考えられる。
筆者の理解とwebmasterの理解のいずれが正しいかは、筆者がさらなる検討課題としている他の領域へのあてはめにより確認可能だろう。 小泉構造改革路線の絶頂期であっても、例えば郵便事業への民間参入に対して総務官僚が抵抗したことのモチベーションは、組織存続ではなく、彼らが本心からユニバーサルサービスが必要だと認識していたからだと考える方が合理的ではないか。 筆者の遺志を継ぎ研究する人には、この点を頭に留めてもらえれば幸いである。
(戸矢哲朗(2003)、「金融ビッグバンの政治経済学:金融と公共政策策定における制度変化」、東洋経済新報社)
(2003-04-13記)
最近話題のSARS、名前自体、単に「症状が重くて、急性で、呼吸器系の病気」といっているだけという、関係者があわてていることをよく表している。 いまだ原因は特定されておらず、今後、その成り行きを注意深く見守っていく必要があるのは事実。
なんといっても、人類がきちんと記録している限りにおいて、もっとも多くの人命を奪ったのは「スペイン風邪(インフルエンザ)」なのだし(ただし、インフルエンザが危険なのはその激しい変異性&空気感染性ゆえであって、SARSがインフルエンザのように流行するということでは決してないのでご留意を。 ちなみにインフルエンザウィルスはオルトミクソウィルスであるが、SARSウィルスは現時点ではコロナウィルスであると推定されている)。
しかし、これだけ騒がれているにもかかわらず、じゃあどう対応すればよいのかがはっきり示されないのは問題。 厚生労働省のサイトでは、SARS関連ページが設けられているが、予防にはどうすればいいのかとか、香港に旅行していいのかといったことが「わかりやすく」は示されていない(どこにあるかと言えば、WHOのfaqの和訳。自前で用意しろよなぁ・・・)。
香港便の乗客が激減するなど、実際にいろいろな影響が大きく出ているのだから、まず厚生労働省がすべきなのは、正しい知識をわかりやすく国民に伝え、冷静な対応を求めること。 つまりは、SARSを予防するためには、マスクや手洗い、うがいといった、要すれば風邪への対策をきちんと行うことが大切であり、必要以上に恐れる必要はないということ。 WHOだって、香港への渡航自体を抑制するよう勧告しているわけではないのだ。
この点、きちんとした情報を押さえているのは在香港日本総領事館と、日本旅行業協会・日本旅行医学界。 さすがに当事者だったり、利害に直接関係する人々は、きちんとした対応をしているものだ。
(2003-04-13記)
当連載も今回で終わり。 スタートしてから日銀総裁が替わり、年度も新しくなったが、いっこうにリフレ策が始まる気配もない。 連載の最後は、いかにも官僚らしく、リフレ策の実現に向けた、まったく経済理論とは離れた話で締めくくることとしたい。
ここまでインフレターゲットに対して否定的な態度を継続してきた以上、日銀がインフレターゲットを採用する可能性は極めて低いと考えざるを得ない。 ゆえに、多少政策効果が劣るものであっても、同様の働きが期待できる何らかの手段が必要だろう。
考えられるのは、マネーサプライターゲット(昔なつかしの「k%ルール」(webmaster注:リンク先のページでは、日本ではマネーサプライが増えてもうんぬんと書いてあるが、ベースマネーの間違いでしょうに)を拝借。 今は非定常状態だから、定常状態におけるあるべきk%に若干のプラスをした伸び率を目指すべしとしても、フリードマン大先生に許容してもらえるだろう(希望的過ぎるだろうか))。 マネーサプライの(前年同期比)伸び率を公約して、公約が達成されるまでの間は国債買い切りオペの額を増やし続けることとする。 マネーサプライはアンコントローラブルというのがかねてからの日銀の主張ではあるが、インフレターゲットを免れるためなら前言を翻すこともあり得るのがまた日銀(株式買取のように)。 金融緩和&レジーム転換の必要性を日銀が自覚した場合、こっちの方が(覚えている人が少ない分恥をかかずにすむから)ハードルが低いだろう。
これでもまだメンツが失われるというのであれば、ベースマネーターゲットでも許容せざるを得まい。 ただし、いまのように当預の残高ではなく、あくまで伸び率にコミットさせることが重要。 このままずるずる行くぐらいなら、次善・三善の策としてこれらを日銀に採用させるべきだ。 ただし、あくまでも「インフレターゲットなんて無茶を言ってすみませんでした」という態度で提案することが肝心。 「こっちならお前の面子も立つだろう」では、やっぱり受け入れられないだろうから。
理系であっても、創造説に苦慮する人や「相対性理論は間違っている」という主張に辟易する人がいるくらいだから、実験などによりそうしたトンデモを論破できない経済学に暴論が存在すること自体はいたしかたあるまい。
しかし、理系の世界ではその手の暴論を唱える学者が学界では完全に異端視されているのもまた事実。
自らを「まとも」としたい経済学者にあっては、積極的にトンデモな言説を吐き出す学者に関して、当の本人を説得するのは無理であろうから(野口悠紀雄は公衆の面前でコケにされてもめげなかったし)、学界の主流がその手の言説を妄言とみなすようになることが現実的な目的だろう。
「それでもデフレは続く」とほざくかもしれないが、放っておけばよい。 「それでも常温核融合は存在しなかった」し、「それでも永久機関は不可能」なのだ。
そもそも三大紙の二、朝日と毎日が今もって日銀に同情的(毎日なんぞ、自分の主張が世間的多数派である限りいつまでたっても経営危機から逃れられないだろうに)であり、テレビにいたってはリフレ政策の主張などほとんど聞かないが、他方、単行本の世界では当サイトの書評で取り上げた若田部氏や原田氏の著作をはじめ、岩田規久男氏の一連の著作など、希望がもてる展開ではある。
また、雑誌でも、先日経済セミナーで原田氏、エコノミストダイヤモンドで竹森氏が、最近「よいデフレ」説の補強に使われだした19世紀デフレについての文章を発表するなど、なかなか捨てたものではない。
心ある編集者の方々の引き続きの奮闘を期待したい。
今の野党は政策形成に関与するだけの力がないのでこの際無視するとして、与党内部の力学を考えれば、リフレ派は財政出動派と結託するよりほかない。
現在の財政事情を考えれば、ここで多少の財政出動に抵抗したところで焼け石に水。 むしろ、あたかもリフレ派が金融政策万能で財政出動にアレルギーを持った存在と捉えられ、単なるノイジーマイノリティとなってしまうことこそ避けなければならない。 デフレ脱却が最優先である点では目標を同じくするし(漆で述べたように、財政出動派としてもインフレ率がそれなりになくては困る(ドーマーの定理)わけで、このままでは歳入欠陥が広がって新規歳出の余地は絞られる一方だ)、日本の貯蓄投資差額を考えれば、一定規模の財政出動は恒常的に必要なはず。
反デフレ統一戦線を作るべきところ、逆に分断統治されてしまっては親デフレ派の思う壺ではないか。 まずは「抵抗勢力」有力者の雑巾がけに励んでいただきたい。
webmasterもこのカテゴリーだが、できることからこつこついくしかあるまい。 一応当サイトもわずかながら固定客に恵まれているようだし、職場でも(所掌に関係なく)まずはデフレを止めなければという主張の賛同者を少しは増やしている(職場の周辺でも「経済論戦は甦る」の読者を見かけるようになったし)。
少しでも間違った見解をただせるようさらに知識を吸収しつつ、いつかレジーム転換が可能となると信じて努力を続けることを誓って、この連載の結びとしたい。
(2003-04-06記)
メジャーリーグも公式戦が開幕したが、松井秀喜、まずは順調なスタートを切った。 もともとポテンシャルはある選手だけに、ホームラン王が狙えるなんていう妄言(数年後の可能性は否定しないが)は無視するとしても、十分に一流選手としての活躍が期待できる。
むしろ、日本にいるときよりも中長期的には活躍できるのではないか。 というのも、イチローとは違い、松井はその人柄故か、人の話を拒絶しない。 ステップやグリップなどについて、これまでも周囲の雑音が多くあり、にもかかわらず(賢明にも)自分の考えを貫いてきたわけだが、松井は少なくとも話は聞くし、明らかに邪魔だといった態度はとらなかった。
松井自身は大して気にもとめていないのかもしれないが、明らかに時間の無駄。 だいたい日本のプロ野球界は、ろくにコーチングスキルも身につけていないのに、元選手だというだけでコーチ面する人間が多すぎるのだ。 他方、メジャーの世界では、メジャーでコーチになる人間はマイナーでコーチとしての経験を積んでいるわけで、単に選手として有名だからという理由でコーチをやることなどあり得ない。 つまり、日本プロ野球とメジャーの最大の違いは、コーチングスタッフのレベルの差。 自分でコーチを見つけてくるイチローや、そもそもコーチの言うことをどれだけ聞いているか怪しい新庄よりも、松井こそが最もメジャーの恩恵を受けるだろう(ま、ソープランドがないのに耐えられず変な女に引っかかるようなことがなければだが(笑))。
最後に、今年の松井の成績予想。 日本人の多くが最も注目するであろうホームランは、30本(プラスマイナス5本)程度にとどまるだろう。 他方、打率は.320(プラス.015〜マイナス.01)はいく可能性が高い。 打点は110(プラスマイナス10)ほどと見た。
(2003-04-06記)
予算が成立し、「3月危機」もなく昨年度が過ぎた一方で、国会議員の多くは選挙のために地元に張りつきがちであり、今の霞が関は(外務省や防衛庁、厚生労働省など例外はあれど)ちょっと一息ついている。 その意味で、統一地方選挙には感謝すべきなのであるが、どうにもつまらない。
霞が関の住人たるwebmasterであるからして、統一地方選挙とはつまりは都知事選(区長選とかもあるにはあるが)なのだが、どう考えても石原慎太郎が再選されるに決まっている。 どうせ無風選挙区なら、かの羽柴誠三秀吉氏にでもご出馬いただければ、一票を投じたのだがなぁ・・・(というわけなので、webmasterは今回の選挙は棄権する)。
とまれ、選挙民として選挙への参加が無意味なので、いきおい他の選挙がどうなるかということに興味が出てくる。 今回の統一地方選挙、やはり最大の見ものは神奈川県知事選であろう。 何が見ものといって、田嶋陽子だ。 比例区で選出されておきながら(それも社民党トップでだ)離党し、その際議員辞職すべきと言われながらも議席にしがみついたあげく、知事選出馬で辞職と、選挙民をなめきっているとしかいいようがあるまい。
しかし、試されるのは彼女ではない。 神奈川県民だ。 選挙まであと一週間を残す段階で、十分に有力候補として戦線に踏みとどまっているようだが、公式サイトに今回の選挙に向けての公約(参議院選挙のときのものはあるけどね)も載せていない(公平を期して他の候補者もチェックしたが、同じく議員辞職組の松沢成文は公約のほか、議員を辞職し県知事を目指すことの説明をしているし、その他有力候補とされている飛鳥田一朗、宝田良一、吉村成子も公約をネット掲載している)。
断っておくが、webmasterは民主主義の信奉者であり、仮に選挙で彼女(って呼ぶと怒るんだろうなぁ)が当選した場合、仕事上でどうしても接点ができたとしたら、きちんと県知事として遇するだろう。 選挙というシステムが、投票という行動を通じて当選者に対して民意という正統性を付与するものである以上、たとえば何らかのスキャンダルに見舞われた議員であっても、当選した以上「みそぎ」が済んだという扱いは十分に合法。 個人的な見解がどうであれ、法的に正統なものを区別・差別することが許されるわけもない。
民主主義とは、そうしたある意味「危険」な制度であり、かのチャーチルがdemocracy is the worst form of government, except for all the others that have been tried from time to time
(民主主義ってやつは最悪の政体だ。
実在したそれ以外の政体を除けば)といったのもむべなるかな。
日本国憲法第15条第4項において「選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない」と定められているのは、一見選挙人に対して優しくうつる。 しかし、その結果により政治が機能しなくなったとき、結局は身をもって責任をあがなわざるを得ないのだ。
(2003-04-06記)
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/時系列書庫[8]/2003-04