/時系列書庫[8]/2003-05
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先日、一次試験の合格発表があり、公務員試験も佳境に入ってきた。 先刻周知のこととは思うが、公務員試験はあくまで一種の資格試験に過ぎず、最終的に官僚としての人生を歩くこととなるかどうかを決めるのは、官庁訪問を通過しなければならない。
官庁訪問については、例えば2ちゃんねるの公務員試験板を見ても、玉石混淆の情報が乱れ飛んでいるので、どうしたらよいかとまどう向きもあろう。 今回は、落ち着いて官庁訪問に備えることができるよう、まずわきまえておくべきことごとを並べることとする。
試験の合格順位は重要?
下位よりは上位の方がいい、ぐらいに考えるのがちょうどいい。
今年の試験日程を見る限りは、最終合格発表(6月27日)以降の7月4日にしか内内定が出ないようなので(各省庁がこのルールを本当に守るかどうかは知らないが)、多少は考慮されるのは間違いあるまい。 しかし、2次試験前に内内定が出ていた時代には、内内定をもらったのに国Iに落ちてしまって就職できなかった事例がいくらでもころがっている。 つまり、試験の成績よりも人物を評価する気風が霞が関にはあるのだ。
成績が良かったのに卑下する必要はないが、それにおごるようでは・・・、ということ。
ちなみに、入った後は、試験の合格順位などまったく出世には無関係。 試験上位合格した人間が入った瞬間からエリートコースを歩くことが決まっている、というのは100%デマ(ま、webmasterが在籍したことのない省庁でそういったことが全くないと言い切ることはできないが、霞が関の人事評価の基本は仕事ぶりである。 どういう「仕事ぶり」が評価されるのかは、それはそれで問題だとしても(笑)))。
特定の大学・学部でないと不利?
要すれば東大法学部じゃないとだめかということ。
これも、少なくともwebmasterの省庁では間違い(東大法学部にこだわる省庁もあるという噂も聞くので、オール霞が関で間違いと言い切る自信はないが)。 「霞が関は東大法学部偏重の愚かな世界だから、バカなことばかりやるんだ」などと間違った前提で批判されることもあるが、そんなことはない。
あ、前提が偽ならその命題は結論がなんであっても真だから正しいのか(笑)。
どこに行っても第一志望?
さすがに、「滑り止めです」などというのは無礼な話。 しかし、「○○省(庁)だけしか考えていません」と言ったからといって、聞いている方としては、だからどうなの、ということ。 いくら熱心に志望してくれたとしても、どれだけやる気をアピールしてくれたとしても、使える奴だと思わなければ絶対採用しようという気にはならない。
「他にも魅力的なところがあるので迷っています」というのであれば、正直にそう言ってもらっていっこうにかまわないのでご安心を。
安心できる情報源は?
次のページなどは、官庁訪問の雰囲気をよく伝えているので、読んでおくと感覚がつかめるだろう。
(2003-05-31記)
これについては、いろんな反対運動があるわけで、官僚であるwebmasterも言論の自由の弾圧に荷担する者の一人と思われているのかもしれない。 しかし、霞が関の住人の多くは、ほとんどこの問題には関心がないと言ってよいだろう。
もともと霞が関の仕事の多くは経済関連であり、この手の治安維持につながる話は所掌外だという人間がほとんど。 だから、webmasterもそうだが、「メディアの人間とずいぶん揉めてるな」「そりゃ反対する人間も多いだろう」程度の認識しか持っていないというのが平均値だろう。
では、外野の無責任な感想としてはどうかといえば、メディアに事実無根な批判をされることは多いので、その手の報道が少しでも抑制される(言っておくが、正確な事実認識に基づく批判は、歓迎こそしないにせよ、いくらでも受けて立とうというのが霞が関の常識的なラインだ。 言いがかりは勘弁してくれ、ということ)のであればいいが、その対応策としては物議を醸しすぎにも思うし、そもそものデータベースに入った個人情報に関するセキュリティ確保という論点からは脱線しているとも思う。 とすれば、(内閣府や総務省の担当者からは怒られそうだが)今回の法案はデータベース管理に特化したものとし、報道等によるデータベースから抽出した情報の表現自体は別途の対応があったのではないか。
既述の通り、メディアのあり方には批判的であっても、これは法律によって対応することが不適当な分野。 多くの官僚は法律で言論封殺をしようなどとは思わないものだが、一部でもその手の濫用を狙った人間でてくるリスクがゼロでない以上、そこがことさらに議論の対象となり、結果として(政府にとって)高くつく可能性があるからだ。
理想論を言えば、官僚にも十分な反論権が与えられ、フェアな議論の形で官僚批判・反論が繰り広げられることが望ましいのだが、絵に描いた餅をほしがっても仕方がない。 取材に来た記者は「なるほど、そういうことだったのですか」などといって帰っても、記事を見れば悪意・偏見のオンパレードで、抗議したってよほどひどい事実誤認でなくては聞いてももらえず、聞いてもらったところで謝罪・訂正記事など言われなければ気づかないようなものとしてしか掲載されないのが実態。
これが変わると思うほどwebmasterはおめでたい人間ではない。 当サイトは、そんな問題意識を持つwebmasterの、ささやかではあるが、新しい官僚・非官僚関係の構築に向けた実験でもあるのだ。
(2003-05-31記)
官僚と国会議員が接触する機会は多い。 そんなときに必須なのが、国会議員のデータが載っている本。 いくつか種類があり、用途に応じて使い道があるのだが、読んでおもしろいのは「政官要覧」、それも春号(春・秋の年2回刊)限定だ。
というのも、春号には、特別付録として時の閣僚プロフィールが掲載されているのだが、これがまるで2ちゃんねるの書き込み状態なのだ(ちなみに、議員紹介はお手盛りそのものなので、閣僚であっても秋号だけを見ればおちょくられてはいないのだが)。 少し例を紹介してみよう。
解散権を盾に改革路線の中央突破をはかるか、はたまた、抵抗勢力の軍門に降ってミイラ取りのミイラと化すか。(平成14年春号)
改革を掲げて颯爽と登場した小泉総理も、既得権益でがんじがらめの現実の凄まじさに、いささかバテ気味なのか、最近ではどうも就任の頃の勢いが感じられない。(平成15年春号)
注目の外務省改革に悲観的な見方もあるが、強烈な北風の去った後、太陽政策が功を奏することも。(平成14年春号)
国会質疑でも「官僚以上の官僚答弁」が目立ち、昨秋の臨時国会では、同じ答弁の繰り返しに与党議員からも外相辞任要求が出たほど。(平成15年春号)
毛並みの良さは抜群だが、亀井氏とは対照的に、品が良すぎて迫力に欠けるのが難点。(平成14年春号)
麻生政調会長、古賀前幹事長、高村元外相と共に小泉総理の次をうかがう新四人組の一人にノミネートされている。(平成15年春号)
こんな調子で全閣僚が評されており、仕事中の暇つぶしには最適(官僚であれば知っている人も多かろうが)。
ただ、これは「政官要覧」に限らないのだが、紹介写真をもう少しなんとかしてもらえないだろうか。 自民党の部会に出席して、「今発現したのは誰だろう」とページをめくっても見当がつかない議員が少なからずいる。 一体何年間同じ写真を使い回しているのだろうか。
(セイサクジホウ・アイ・ピイ編(2003)、「政官要覧(平成15年春号)」、セイサクジホウ・アイ・ピイ)
(2003-05-11記)
次の2文を見て欲しい。
...In contrast, over the same period, the probability of an unwelcome substantial fall in inflation, though minor, exceeds that of a pickup in inflation from its already low level.
((経済成長についてのリスクは今後数ヶ月間は変わらないと考えられるが、)対照的に、小さいとはいえ、好ましくない、物価上昇率が相当程度下落する同期間における可能性は、すでに低い水準にある物価上昇率が上昇する可能性よりも高い。)
...the Governing Council agreed that in the pursuit of price stability it will aim to maintain inflation rates close to 2% over the medium term. This clarification underlines the ECB's commitment to provide a sufficient safety margin to guard against the risks of deflation.
(理事会は、物価の安定性を追求するため、中期的にわたり物価上昇率を2%近辺に維持することを目指すこととすることに合意した。この明確化は、欧州中央銀行のデフレーションのリスクへの対応を可能とする十分な余地を確保するとのコミットメントが基となっている。)
それぞれ、つい最近発表されたFRBとECBのステイトメントである。
どこぞの中央銀行はデフレの責任を構造改革の進捗の遅れなどに押しつけているわけだが、やはり日本の常識は世界の非常識ということで、中央銀行の目的である物価の安定は、notインフレということだけではなく、notデフレであることが明らかにされたわけだ。 当然だが。
おそらく、ドイゼンベルクが俺たちのやっていることはインフレターゲットじゃねえと言ったことを捕まえて日銀を弁護する向きもあろう。 しかし、次期総裁人事のドタバタを見ればわかるように、日銀とは比べものにならないぐらい政治的にセンシティブなECBでは、明示的に「インフレターゲット」とは言いづらいだろうから仕方がないだけのこと(ターゲットが達成できない場合の責任問題を収拾するのは容易ではないだろう)。 これとて、かの栄光のブンデスバンクの伝統を背負うイッシングに代表される有能なインフレファイターが、デフレファイターとしても同じように有能なのかどうかを見定められるまでだろう。
変動相場制の導入により自由な金融政策が可能となってから約30年、単にインフレだけを気にしていた幸せな時代が終わり、各国中央銀行の真の政策能力が試される時代になったのだ(といっても、きちんとやるべきことをやっていれば「有能な中央銀行」として、世間から尊敬される存在になれるはずなんだが・・・)。
(2003-05-11記)
前回のテキストを読んで勘のいい方なら気がついたと思うが、財務諸表としては、資金収支計算書だけがあれば最低限必要な情報は伝えられる。
ただし、当期のものだけではだめだ。 期末において判明しているすべてのキャッシュフローについて、将来それぞれがどうなるかを示すもの(つまり、最後のキャッシュフローが予定されている期までのそれぞれの資金収支計算書)と、それぞれの期においてそれらがどのように変化したかを示すものが必要。 これらがあれば、貸借対照表や損益計算書がなくても、その企業が将来きちんと利益を上げていけるかどうかなどの、投資家や債権者にとって必要な情報はすべて入手可能だ。
なぜなら、どれだけ配当可能であるか、債務の履行は可能かどうか、内部留保はどの程度の額となるのか、といった情報は、すべて将来の資金収支計算書から確認できるからである。 貸借対照表や損益計算書は、将来の複数期にわたる資金収支計算書を読まずとも、その概要が簡単にわかる書類として、その存在意義を確かなものとしていくことになるのだ。 したがって、最終的には(技術的問題や公認会計士のレベルの問題もあり、本当にこれは最終段階にならないと実現しないだろうが)各企業の決算発表資料には、当該期末において見込まれる将来の資金収支計算書が添付されるようになるはずである。
このときには、会計学の教科書から「発生主義」という言葉が消え去るだろう。
発生主義とは、一般に、現金の収受がなくとも、経済的事実が発生すればそれを記帳するという意味で用いられている。 そして、どういった「経済的事実」が「発生」するとどのように「記帳」すべきかは、ある意味様式的に定まっている。 しかし、一切の記帳がキャッシュフローの変動という裏づけによりはじめてなされる世界では、そうした発生主義により記帳するという概念自体が無意味となる。
もちろん、現在発生主義に基づき行われる各種の会計処理、たとえば減価償却は、当該資産が生み出す将来のキャッシュフローの減少を近似的に表しており、発生主義が誤っていたということでは決してなく、同一線上にあるものとも言える。 また、ひょっとしたら、ここで述べている将来キャッシュフローの変化の記帳を、未来の会計学においても「発生主義」と称するかもしれない。
ただ、同じコンピュータといってもENIACと最新のスーパーコンピュータが実質的にはまったく異なるものであるのと同様、将来キャッシュフローの変化の記帳は、今「発生主義」と聞いて多くの人が念頭に浮かべるそれとは別物である。
(2003-05-05記)
合成の誤謬という言葉をご存じだろうか。 当サイトではデフレ関連テキストを数多く載せているので、ご存じの方も多かろうと思う。 つまりは、各行動主体が合理的な行動をした結果、全体としては最善ではない結果となってしまうことである。 デフレ不況下で企業がリストラなどのコストカットを進めることは、その企業にとっては極めて合理的であるが、その結果、全体としては有効需要が縮小してしまい、かえって不況が悪化するというのは典型例。
とすれば、ある社会がいろいろな状況への潜在的な対応力を持とうとするのであれば、合理的ではない行動をするような存在を許容しておいた方がよいということになる(無論、そうした許容のコスト自体が一定程度にとどまるという前提においてであるが)。 今、戦後史を振り返る中で単なる反米主義者となってしまった小林は、そういったあえて許容される非合理な存在であると言えよう。
日本の国家戦略を考えれば、アメリカとの協調路線は絶対にはずすことができない。 日本のような島国の存続には近隣の制海権の維持が不可欠であるが、アメリカの存在を念頭に置けば、アメリカと対立して独力で制海権を維持するという極めて高くつく選択をするというのは極めて非合理であり、国民が合理的であれば、基本的にはアメリカとの協調を是とするはずだ。
しかし、国民の大多数がそのような判断をすると、かえって日本としては不利になってしまうおそれがある。 アメリカが日本と協調する場合、何も善意でそのような判断をしているわけではなく、それがアメリカにとって利益となるからこそ。 両国にとって利益が合致することばかりであれば問題はないが、そうではないことがあるのは当たり前。 そのとき、アメリカがどこまで自らの利益を主張するかを考えれば、
主張をあきらめるコスト < 主張を続けることにより日米協調が崩壊する可能性×協調が崩壊した際のコスト
となるときまで。 当然ながら、非合理な反米主義者がそれなりに存在した方が、「主張を続けることにより日米協調が崩壊する可能性」は高くなるので、日米の利害が対立したときには日本にとって有利となる。 無論、「それなり」でなくては困るわけで、非合理な反米主義者が過半を占め日本から協調路線を放棄したり、アメリカ側があまりに妥協を強いられることに嫌気がさしてしまうようになっては最悪だが、そこは戦後なんだかんだといって大枠では親米が多数派だった日本のこと、そうしたことにはならないとwebmasterは思っている。
しかし、「脱正義論」の頃はある意味尊敬していたのだが、ずいぶん遠くへ行ってしまったようだ。 あれだけプロフェッショナルというものを尊重していたはずなのに、安全保障問題のプロフェッショナルからは相手にもされないようになっているのが現状。 その姿を、当時の小林が客観的に見たならば認めるはずもないと思うのだが。
(2003-05-05記)
例の白装束集団である。 独自のサイトもきちんとあるので、いつどうなるかわからない今、とりあえず見ておくというのがこの手の問題に興味がある人間のしておくことだろう。
国内の宗教団体関連では、オウム(現アーレフ)騒動以来となる注目を浴びつつある(もうそろそろあのライフスペースを抜いただろう)。 なぜ今になって急に騒がれたのかはよくわからないが(ずいぶん前から社会には溶け込めなくなっていたようだし、あの「と学会」では、
この作者の方、エルアール出版で働いている方なんですね。ご存知ない方のために説明しておきますと、エルアール出版というのは、GLA系の団体で、しかもGLAからは異端視されている団体です。GLAの開祖である高橋信次さんが亡くなられたときに後継ぎを誰にするかでもめまして、その時にこの団体の主催者の千乃裕子さんという方は高橋信次さんと後継者の娘さんの高橋佳子さんを両方とも否定して独自の方向を打ち出したんですね。それで結局GLAからは異端視されたんですが、使っている用語などにはGLAのスタイルが残っています。
(と学会(2003)、「と学会年鑑BLUE」pp121-122より抜粋。強調は引用者による)
と、2000年の段階で注目していたりするわけで)、間違いなく言えることは、これで彼ら(宗教団体としての名称は千乃正法会)は団体として一段と成長するだろう、ということだ。
成長、という言葉に違和感を持つ人もいるだろう。 メディアでは、白装束姿に渦巻き模様は、放送コードなどを気にしてはっきりとはいっていないが、「気違い沙汰」(webmaster注:「気違い」ってのはIMEでは出てこなくなってしまったということに初めて気づいた。 教科書などに載せるかどうかはともかく、いったいどこまで言葉狩りは進むのだろうか・・・)そのものとして扱われているのだから。
しかし、これだけ頻繁にメディアで流され続けたというのは、パブリシティとして考えれば相当なもの。 あれを目にして何かを感じてしまう人間は必ずいるはず。 「スカラー波」という言葉にも、なぜかそれで長年の疑問を氷解させてしまう人間はいるのだ。 だから、メディアであのような取り上げ方をされていることは一向に問題ない。
また、当局との関係を考えても、上記のとおり、あのオウムだって今に至るまで存続しているのに、破防法適用といった話題からは遠いところにいる彼らが、その存続を公的に妨害されようはずもない。 道路交通法違反で移動を迫られるのも、法難の一つとして宣伝材料になり、さらには内部の団結を固めることに貢献するだけだろう。
伝わる限り余命短いと考えられる代表の死を、分裂などすることなく乗り越えることができれば、そのうちメディアも飽きるだろうから、そこそこの規模のよくある宗教団体のひとつとして存続し続けるだろう。 何年か経ったらサーチエンジンで調べてみると面白い結果が見つかるはずだ(というか、webmasterも、今回、ライフスペースがまだ続いているのを見つけて、ある種の感慨に浸ってしまったわけで)。
(2003-05-05記)
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