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/時系列書庫[8]/2003-08

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writings concerning kasumigaseki issues and others: 2003-08

(2003-09)[9]

2003-08-31更新分
書評:出藍の毀れや否や−「日本の失敗と成功−近代160年の教訓」(岡崎久彦・佐藤誠三郎著)
膝蓋腱反射「自民党総裁選」
2003-08-27更新分
みなごろしの会計 V.「含み」の死(割引率をどうするか)
膝蓋腱反射「占領下のイラク情勢」
2003-08-12更新分
官僚道を歩く「第二歩:『抵抗勢力』って、抵抗してるの?−政策立案の裏表 part 4」
膝蓋腱反射「人事院勧告」
2003-08-03更新分
月旦評第8回:藤井治芳
膝蓋腱反射「スポーツ界におけるフロント」

(2003-07)[7]

2003-08-31更新分

[書評]:出藍の毀れや否や−「日本の失敗と成功−近代160年の教訓」(岡崎久彦・佐藤誠三郎著)

私事ではあるが、故佐藤誠三郎はwebmasterの恩師の一人である。 卒業後の進路として官僚を選ぶ際に彼に相談をするなど、具体的な事柄について受けた恩も多いが、それ以上に物事を学ぶ姿勢・態度を教えてもらうという貴重な経験をさせてもらった。

しかし、本当に頭のいい人にありがちなことだが、彼の著作はわずかであり(多分、自分で文章を書いた瞬間からそのテキストの不備が自分で我慢できなくなってしまうのだと不肖の弟子は勝手に思っている。 恩師として尊敬する人の中には、他にもほとんど著作のない人がいるが、おそらく同様の理由だろう)、その多くも絶版となってしまっている。

そんな中で、彼の死の直前に行われた対談が文庫で出版され、彼の思想を広く紹介する貴重な機会が与えられた。 それが本書である。

ある事柄に直面したとき、その理非曲直を判断するためには、自らの中に基準がなければならない。 数学に代表される、純粋に論理で判断可能なほど体系化されている分野であれば、それは論理的思考能力だろう。

しかし、社会科学のように、現在の人類のレベルではノイズが除去できず、体系として確立されていない部分が多ければ、多分に経験則によらざるを得ない。 基準としての経験則の程度の善し悪しを決めるのは、1に経験=情報量の多寡であり、2にそこから仮説を導き出す論理的思考能力の有無であり、3にその仮説を他の情報に照らして検証し、過ちがあれば訂正するという知的な謙虚さの度合いである。 本書では、その3者が高いレベルでバランスした中から生まれた最良に近い基準に照らして、近代日本の歴史が語られている。

無論、指摘すべき点は、特に事実関係についてはいくらでもある。 例えば、西欧と日本がともにモンゴルの支配下に置かれなかったこととそれぞれにおける封建制度の確立を関連づけているが(pp52-53)、封建制度の成立年代を考えただけでも(どちらについてもモンゴルの侵略より遙かに前だ)、それは乱暴すぎる要約といえよう。

だが、それは学術論文ではない本書の価値を一向に貶めるものではない。 基準を持つということ、それに基づき物事を評価するということ、そして今後どうすべきかの方向性を導き出すこと、本書はいわばそうした思考過程のライブ中継である。 そのような体験を後世に伝え、多くの人を同様の知的なバトルへ誘っていることこそが真価なのだ。 上述のような些末な指摘をしたところで、「間違いを見つけてくれてありがとう」とだけ言われてしまう姿が目に浮かぶ。 本書の議論を論駁し新たな基準を構築することがこそが、あるべき用いられ方といえよう。

「師匠を乗り越えることが弟子の義務」とよく言っていた彼と、今なら対等な議論ができるだろうか。 それは、webmaster(や他の彼の教え子)だけでなく、誰にでも扉が開かれたオープンな競技場。 議論への参加に必要なのは、本書を買うことだけだ。 多くの人が本書を手に取り、彼の到達した地点からわずかでも先に進むことができたなら、そこには今よりもう少し幸せな社会が待っていることだろう。

(岡崎久彦佐藤誠三郎(2003)、「日本の失敗と成功−近代160年の教訓」扶桑社)

(2003-08-31記)

[膝蓋腱反射]「自民党総裁選」

自民党総裁選がようやく面白くなってきた。 もともと、選挙には小泉総裁を担がないことには勝ち目がないのだから、野中広務その他の反小泉派であっても本気で勝ちに行くわけにもいかず、その意味では出来レースだった。

しかし、最近は小泉サイドが少々調子に乗りすぎたのか、あまりにも反小泉派を追いつめすぎてしまった。 反小泉派としても、惨敗して発言権を封じられることは受け入れがたく、こうなると遮二無二抵抗せざるを得ない。 つまり、勢い余って意に反して勝ってしまう可能性が出てきたということ。

シナリオとしては2位・3位連合ということになろう。 第1回投票での小泉総裁の優位は揺るぎそうにないが、過半数を確保できなければ決選投票となり、この場合投票権者は国会議員に限定される。 本来、国会議員のみの投票は票読みがしやすいので、そこで意に反して勝つという波乱は起きづらいのだが、勝ち目があると見せつけるために締め付けすぎると、いざというとき降りるに降りられなくなる。 3位となる候補者に、反小泉派寄りだが、自分の主張を聞き入れてくれるなら自分の支持者には自主投票を呼びかけるというポジションを取らせることができれば最高だが、事前に2位・3位が小泉総裁に対抗するため協調しすぎて、決選投票になった段階で今更連合解消とは言い出せなくなれば、それで大逆転だ。

無論、このまま地滑り的に小泉総裁が勝利し、反小泉派は見る影もなくなるという可能性も残されているが、そこはあの野中広務である。 とある政治家の経歴が彼のものかどうかはともかく(しかし、このリンク先、慎重に固有名を出すことを避けているようで、以前は不用意に一ヶ所だけ固有名が出ていたが、今では訂正されている)、その泥をかぶることをいとわない勝負強さは軽視すべきではない。

ただし、中長期的に見れば、両者の立場は逆転する。 ラフに言えば、日本において選挙で多数派を獲得してきたのは、いわゆる地方の名士に支持された政治勢力だ。 これは板垣退助の自由党からほぼ一貫している。 江戸時代の村役人(名主・庄屋など)以来の農村有力者の系譜を継ぐ農協等の幹部や特定郵便局長、開業医や商工会議所幹部、酒造業者など、今の自民党の支持基盤を見てもこれは明らかだ。

しかし、高度経済成長を経てこれらの顔役のグリップが効く共同体の多くが解体してしまったことにより、この必勝パターンが崩れ去ろうとしている。 その手の共同体は、都市よりは地方、若年層よりは高年齢層に相対的に残っているが、地方人口・高齢者人口がともに下がっているし、今後その流れが止まるとも思えない。 当然、反小泉派はここに依拠しており、だからこそ反小泉派が勝ってしまうと選挙には勝てないのだが、反小泉派の強みは、ここに依拠する政治勢力は彼らしかいないということだ。

他方、小泉総裁は都市・若年層を中心とする無党派層=政治勢力に把握される形での共同体を形成していないグループを支持基盤としているが、ここは民主党の支持基盤でもあるし、今後新しい政治運動が起こるときは必ずこの層を狙ってくることは間違いない。 小泉総裁及びその一派はこのグループの支持をつなぎ止める必要があるのだが、今のところ小泉自身の個人的資質に依存しており、それを代替する組織的対応も見つかっていない。

だから、自民党の戦略としての小泉・反小泉疑似連合を続けるために次の一手が必要とされているのは小泉総裁側だ。 それに失敗すれば、自民党が野党に転落するにとどまらず、小泉サイドは自民党内で負け組としてとどまるか民主党などに吸収されるか、いずせにせよ集団として存続するすべがない。 反小泉派は、仮に望まずして野党に転落しても、上述の基盤を背景に一定の発言力は維持可能なのだが。

(2003-08-31記)

2003-08-27更新分

[みなごろしの会計] V.「含み」の死(割引率をどうするか)

今回からは個別の論点に焦点を移す。

まず最初に、本連載にwebmasterが知る限り最初に反応してくれた有在証明日記8月9日のテキストを端緒として、現在価値を算出するための割引率を中心に取り上げよう。 本連載に対しては、資産・負債の評価を、時価評価においても特に現在割引価値のみに依ることは妥当か?(金利が確実性を有するときの計算は容易だが)とのコメントである。

まず、金利(=割引率)が確実性を有しない場合の対応をどうするか。 これは発想の転換をすればよく、つまりは確実な金利を使うと決めてしまえばよい。

資産側の現在価値算出に用いる割引率については、資産=将来のキャッシュインの現在価値を求めるのがなぜかを考えれば、どのような金利を使えばよいかがわかる。 資産価値は、現時点でどれだけの負債を抱えることができるかという制約条件を確定するために求める必要があるのだ。 従って、負債の利回りを割引率として使えばよいということになる。

多様な社債を発行しているような企業であれば、その実際のイールドカーブや(これが描ける企業は極めて限られるのは事実)、流通利回りから求められるスプレッド(流通利回りが事実上でない場合には格付け別のスプレッドでもかまうまい)を用いた推計イールドカーブからスポットレートを計算すればよい。 社債を発行していない企業であれば、取引銀行に聞くという手もあるが、CRDのようなデータベースを活用してスプレッドを計算するのが妥当だろう。

他方で負債については、同様に負債価値は将来のキャッシュアウトを支払うため、現時点でどれだけの資産が必要かという制約条件を確定するために求められるものであるから、資産の利回りを割引率として使えばよいということになる。

では、資産の利回りとしては、何が確実な金利といえるのか。 確実性でいえばリスクフリーレート=国債金利に勝るものはないので、これを使えばよい。 つまり、国債イールドカーブから導出されるスポットレートが割引率となる。

ここで当然の疑問が湧く。 資産の利回りが国債金利であるということは、事業として国債を運用しているということと一緒になる。 しかし、投信会社以外ではそのような事業を営んでいる企業はなく、国債運用以上のリスクをとってより高いリターンを目指すからこそ、わざわざ負債を抱えて何らかの企業活動を行っている。 つまり、割引率はもっと高くてしかるべき(=負債価値はより小さくてしかるべき)であって、リスクフリーレートで割り引けば、それは債務超過となりやすいバイアスがかかることになってしまう。

ここで登場するのが前回提言した自己のれん。 経営陣が達成できると考えている付加価値の原価に対する比率を割引率として用いた場合の負債価値を別途算出し、それとリスクフリーレートで割り引いた負債価値との差額を自己のれんとして計上すれば、経営陣の事業に係る判断や評価といったものがバランスシートに計上され、外部の人間が事業のリスクプレミアムをより詳細に検討することが可能となる。

これが意味するのは、いわゆる「含み」という概念がなくなるということ。 含み損益は、通常、有価証券などについて単に簿価と時価の差額をいうことが多いが、本質的には、経営陣がインサイダーとして持っている情報に基づく評価とバランスシートに計上されている簿価との差額として理解すべきもの。

そうした情報の非対称性を埋めることこそが説明責任=accountabilityであり、会計=accountingは、そのための有力な道具でなければならない。 従来経営判断としてブラックボックスに入れられていた(メインバンクや大口株主には明かされていたかもしれないが)情報をブレイクダウンし、その当否を各ステイクホールダー自身による評価を可能とするというのが、webmasterがここで主張するあるべき会計の根っこにある哲学なのだ。

(2003-08-27記)

[膝蓋腱反射]「占領下のイラク情勢」

2月9日3月9日にイラク情勢に触れたが、その後の推移は概ね予測した範囲内に収まっており、アメリカは修正決議案を撤回した上で武力行使に出て、簡単に勝利を手にした。

しかしながら、8月19日にバグダッド国連本部が爆破され、デメロ事務総長特別代表が死亡するなど、占領下のイラク情勢は緊迫の度を増してきている。 こうした現状を踏まえ、webmasterなりの分析をしてみた。

まず原因であるが、これは治安維持ができていないということに尽きる。 いわゆる夜警国家の機能にも掲げられるように、治安維持はどんな政府であれ果たすべき最低限の活動だ。 鬼畜米英と叫んでいた大日本帝国があっさりと親米になったように、治安を維持して社会の安定を確保すれば、イスラム圏のイラクといえど、親米になるかどうかはともかく反米でなくすることは可能だろう。 幸いにしてテロ行為は一部過激派の行為にとどまっており、住民の多くは過激派に同情的ではあっても自ら反米闘争に身を投じているわけではなく、治安維持=住民の迫害となる事態にはまだ至っていないからだ。

では、それをどのようにやるか。

最も低コストなのは地元にやらせることだが、イラクの場合これは取り得ない。 なぜなら、国内が大きく分ければスンニ派・シーア派・クルド人からなっており、地方分権型の治安維持をさせれば、それに必要な武力が国家分裂の火種になってしまうからだ。

これがアフガニスタンであれば、アメリカからすればそうなってもあきらめがつく(アメリカがアフガニスタンにこだわる理由はウサマ・ビンラディンただ一つであり、彼が捕まるなり死亡が確認されれば露骨に手を引き、後は野となれ山となれ、ということになるだろう)。 しかし、イラクはそうはいかない。 地政学的要因が違いすぎるのだ。 イラクが3つもしくはそれ以上に分裂し、そこへトルコやイランが介入するなどという事態が起ころうものなら、世界経済の混乱というとてつもなく大きなリスクを抱えることになってしまう。

かといって、従来の治安維持機構を使うわけにもいかない。 フセイン政権の崩壊とともに、バース党を中心とした行政機構が崩壊したため、例えばGHQ占領下の日本のように既存の機構を活用して治安維持を図ることができないからだ(当初アメリカは日本統治に40万以上の兵力を投入したが、既存の官僚機構に乗っかることでこれを半減させている)。

とすれば、後はアメリカが自力で治安維持を図るしか選択肢がないのだが、それには展開する兵力が全く足りない。 金もなければ兵力もない(戦争は終わっているというのに、まさか予備役を招集したり州兵をイラクへ派遣するわけにもいくまい)ため、23万から46万人の兵力が必要と考えられるところ、わずか16万(うちアメリカ兵15万弱)しか駐留していないのだ。

こうなると、なかなか事態の見通しは暗い。 以上の事情で絶対に動かせないのは2つ。 まず、地元主導は無理。 クルド人自治は自国への波及をおそれるトルコが黙っていないだろうし、シーア派自治は悪の枢軸の一つであるイランにとってプラスとなってしまうからだ。 次に、アメリカ軍の増派も無理。

従って、イラク情勢の安定のためには、日本を含む世界各国から少しでも多くの兵力を派遣してもらいつつ、戦後日本の公職追放解除のように、旧バース党員をできるだけ多く復権させ、かつての統治機構を少しでも使えるようにしていくしかすべがないように思える。

しかし、基本的にアメリカはそうした繊細なオペレーションが苦手なんだよなぁ・・・。

(2003-08-27記)

2003-08-12更新分

[官僚道を歩く]「第二歩:『抵抗勢力』って、抵抗してるの?−政策立案の裏表 part 4」

これまで構造改革特別区域を例に論じてきたが、抵抗の実態をまとめると次のようなものとなる。

まず、基本はよかれと思って抵抗しているということ。 特区に限らず、例えば日本道路公団による高速道路建設も前回の月旦評で触れたとおりだし、郵政三事業民営化に反対している人間は、それではユニバーサルサービスが提供できず地方の人間につけが回るので好ましくないと本気で思っている。

こうした議論に対して、それは杞憂に過ぎないのであって、あえて言挙するのは利権を確保したい等々のよからぬ狙いがあるに違いないというのはある意味過大評価。 「溜池通信」からの孫引きでなんだが、アメリカについてのアメリカが追求する利益があって、それを理念が覆い隠しているのではなく、結局その理念が実態なのであるという北岡伸一の指摘(8月1日を参照)は、いわゆる抵抗勢力にも当てはまるのだ。 結局のところ、改革派と抵抗勢力は理念に違いがあり、ある政策について求める効果の優先順位が逆になっているのだから、この両者の間での議論は往々にして水掛け論にならざるを得ない。

さらに両者の対立を根深くするのが、抵抗勢力にとって、政策の否定は理念の否定につながり、ひいては存在意義自体の否定に帰結してしまうということ。 人間の多くには自分のやっていることは正しいと思いたい側面があり(いわゆる裏社会の人間であってもそうだということは、「マルサの女2」の地上げ屋・鬼沢のラスト近くのセリフ(確か、東京が発展できるのも、自分のように地上げをやる汚れ役がいるからだ、といった内容)に端的に表れている)、逆に言えば、やっていることの否定は自らの価値体系・存在意義の否定につながるおそれを抱くことになる(小室直樹流に断言するなら「急性アノミー」の回避ということ)。

改革派が言っていることを抵抗勢力の身になって極端な翻訳をすれば、「お前らのやっていることは国富の浪費であり、この世から消え去ってくれた方が日本のため」と迫られているようなものだ。 とすれば、彼らとしても自らの誇りにかけて戦わざるを得まい。

従って、うまくいく改革があるとすれば、抵抗勢力を殲滅するものでない限り、その誇りを必要以上に傷つけることなく、抵抗勢力側に十分に花を持たせた上で、名を捨てて実を取るものということになる(うまくいかなくてよいのであれば、改革が成功したという見栄えを整えて、抵抗勢力側に実を取らせるという形もありだが)。

こうした決着をつけるには、いわゆる密室談合によることとなる。 どちらが名を取り実を取るかなど、大っぴらに行えば身も蓋もないのだから、公開の議論でできるはずもなく、密室で双方のトップが合意した上で、それぞれの支持者に対して都合のいい言い訳をするという形でなければ収まりがつかない。

それでも、改革が真に社会のニーズを捉えているのであれば、一世代を経て抵抗勢力が代替わりすれば、大筋のところで思うところは達成できるだろう。 それに要する時間は、反対派を文字通り抹殺することのない民主主義に必要なものと割り切って我慢するしかないのだ。

(2003-08-12記)

[膝蓋腱反射]「人事院勧告」

8月8日に人事院勧告が出され、年収で見れば5年連続、月給でも2年連続の引き下げがほぼ決まった。 勧告は勧告であり、実際の給与がこのままになるという制度的裏づけがあるわけではないが、まず間違いあるまい(公平を期すために付言しておくと、実質的にベースアップに等しい号俸の上昇があるので、公務員各個人が前年に比べ減収になるわけではない)。 反対するような人間がいないわけではないが、おそらく、官僚の多数派は、経済情勢からしてもこのような勧告が出されること自体はやむをえないものと受け止めていることだろう(経済政策もうまくいっていないわけで・・・しかし、それなら某中銀が先だろうとも)。

しかし、公務員給与の水準については批判も多い。 その中にはなるほどと思うものもあるが、ここではあえて官僚の立場からの反論を出して、今後の議論の発展につなげたいと思う。

人事院が実施した「国家公務員に関するモニター」アンケートにあるものを見てみよう。 最も多い批判は倒産などによる失業リスクがないことを考えると公務員給与は高いというもの。

より一般化すれば、失業にとどまらず将来の給与についてのボラティリティが小さい(=ローリスク)のだから、その水準も低くあるべき(=ローリターン)という議論となるだろう。 さて、総務省調査による国家公務員の給与等に掲載されている人事院勧告と民間賃上率を比較してみると、それぞれの平均と標準偏差は、人事院勧告5.9%と5.5%ポイントに対して、民間8.4%と6.2%ポイント。 つまり、すでにローリスク・ローリターンなのであって、およそローリスク・ハイリターンであるかの議論は当たらない(その水準が妥当かどうかの問題は残るが)。

続いては、中小企業と比較すると公務員給与は高いというもの。 これについては、就職に当たって公務員志望者が選択肢とする企業の規模を考える必要があろう。 II種やIII種について言及するのは実感が伴わないので避けるが、ことI種に関してはその主流は大企業か、中小企業であっても外資系コンサルティングなど高給業種であり、労働市場での競争力を考えれば、(上記のリスク・リターンプロファイルを考慮するにせよ)大企業に伍していけるだけの給与水準は必要ではないか(民間では採用され得ないような低レベルの人材だけが集まればいいという高度の判断があるのであれば話は別だが)。

最後の批判的意見は、全体としては適切な水準だが、地域によっては公務員給与は民間よりも高いというもの。 これは、一つには国家公務員である以上全国統一基準とならざるを得ないこともあるが(それを是正するのが最近悪名高き調整手当(調整手当が何かについては上記人事院勧告を参照のこと))、おそらくは地方公務員の給与によりそうした印象がより強くなっているのではないかと思われる。 確かに各都道府県での給与格差はあり、全国一律であれば地方によっては高いと思われよう。

しかし、あわせて地方公務員の給与水準を見てほしい。 平成14年4月1日現在で、都道府県・政令指定都市では、国家公務員より低いのは大阪府と鳥取県しかないのだ。 これらが各都道府県の民間水準に近づくだけで、上記の印象はそれなりに弱くなると思うのはwebmasterだけだろうか。

以上のような比較的まっとうな批判に比べると、取るに足らないのが、例えば公務員の人件費と税収がともに約40兆だといった議論(一時期2ちゃんねるで盛んにされていた議論。 元ネタは民主党の浅尾慶一郎の指摘だと思うが、さすがに彼はそこまで議論を飛躍させてはいない(が、「一人あたま1,000万って、政治家を含む特別職だけを取り出してみればどうなんだよ、浅尾」とは言いたい))。

浅尾の指摘の中にもあるが、40兆円は地方公務員の人件費も含んでいれば(というか、地方公務員分が約27兆円と過半を占める)、国家公務員であっても特別会計関連の人件費も含んでいるし、さらには退職金なども含んだベースだ。 他方で、歳入は国の一般会計のみ。 当サイトの読者にはそうした方はいないと思うが、こうした短絡的な議論には注意されたい。

最後に、これもデフレの影響などと首相自らが評論化然と語っているが、お前のセリフじゃないだろう。

(2003-08-12記)

2003-08-03更新分

[月旦評]第8回:藤井治芳

今アンケートをとれば、よほど偏ったサンプリングをしない限り軽く90%を超える否定派を集めること必定の、ある意味時の人である。 しかし、よく考えれば、結果として非常に合理的な行動をしているとの解釈が可能だ。

それはどのようなものか。

達成すべき目標は、道路建設の維持。 その観点から現在の行動を見れば、日本道路公団という組織やその総裁としての自らに批判を集めることにより、総裁更迭→公団民営化という形で問題の決着を図り、道路建設には議論を及ぼさずにこの問題に幕を引くという筋が浮かんでくる。

いくつか補助線を引く必要があるだろう。

まず、「道路建設の維持」という目標の意味は何か。 当然、ファミリー企業の利権漁りなどではない(そうした考え方の関係者がいる可能性は否定しないが、マジョリティがそれということはあり得ない)。 (道路公団ではなく本四架橋公団関連だが)かつて瀬戸大橋がプロジェクトXで取り上げられ、これに感動した人もいるだろうが、道路建設にかける思いは、その中に出てくる工事関係者のそれと同じだ。 藤井総裁は建設技官=技術畑出身であるが、本気で世のため人のためと信じて、道路をもっと建設しなければという使命感に燃えているのだ(と思う)。

次に、債務超過問題である。 みなごろしの会計をお読みの方にはご案内の通りだが、企業体にとって重要なのはキャッシュフローがきちんと回るかどうか。 その観点からは、実は平成11年度から政策コスト分析というものが公表されており、道路公団に関して言えば、現在価値ベースでの将来キャッシュフロー不足は約1兆4,000億円(平成15年度ベース)から約4兆3,000億円(平成12年度ベース)程度にのぼることが明らかとなっている。 つまり、債務超過などと今さら騒ぐのは、これまで不明であったか、為にする議論をしているかのいずれかなのだ。

さらに言えば、道路公団は道路を建設・維持するための組織であり、そもそもどれだけの道路を建設すべきかは、予算・法律の議決により国会で決まっている。 道路は準公共財であり、事業は赤字で当然(蛇足ながら、累積すれば言うまでもなく債務超過となる)。 そもそも黒字で回るなら政府・特殊法人等ではなく民間企業の守備範囲であるが、道路事業は本質的にそうではあり得ない(無理にそうすれば、外部性により供給過少とならざるを得ない)。 だからこそ、国民負担を伴うことを承知で道路を作るのだということを国会で決める必要があるし、そう決めた以上、それを実現する手段に過ぎない道路公団の債務超過(=デフォルトさせない限り、国民負担で穴埋めする必要がある)を問題視することは本末転倒なのだ。

しかし、その本末転倒に議論を集中させるからこそ、道路の建設は維持され得る。 石原行革担当相が北海道の高速道路についての熊発言をしたように、そもそも道路など造るのを止めてしまえ、という議論こそが本質論。 焦点がここに絞られれば、道路族を含め今とは比較にならないほど猛烈な抵抗をするにせよ、その勝負に勝てる保証はない。 であれば、道路建設が必然的に債務超過=国民負担になるのではなく、道路公団がファミリー企業と癒着するなど非効率な事業運営をしているから債務超過になるのであり、そうした事実を隠蔽する藤井総裁や道路公団こそが諸悪の根元だとして議論をそらす方がベターな戦略となる。

大胆に例えるなら、藤井総裁は備中高松城の清水宗治。 小泉首相=羽柴秀吉は、藤井総裁=清水宗治の命と引き替えに戦闘の早期終結を図り、自民党総裁選=山崎の合戦に備える。 藤井総裁は自らの更迭=自刃により、道路建設を支える技術者集団=城兵を守る。 自民党道路族=毛利家は、藤井総裁を生け贄にすることにより、道路建設の継続=本領安堵を確保する。

とすれば、藤井総裁の更迭はおそらく8月後半から9月前半。 小泉首相はこれにより支持率を浮上させ、再選をより確かなものとするのだろう。 陰謀論に与するものではないが、誰かが書いたシナリオとすれば大したものだし、そうでないとすれば、事実は小説よりも奇なりとしか言いようのない偶然の妙である。

最後に藤井総裁の敵役についても一言。 片桐幸雄にしても織方弘道にしても、藤井総裁とは異なり文系ホワイトカラーであり、かつ、道路公団プロパーだ。 彼らと藤井総裁の対立を、公団内部の派閥争いと弾じた猪瀬直樹の指摘は、さすがにこの問題を長らく手がけてきたと思わせる鋭さではあるが、なぜ派閥争いがあるのかに論が及んでいないところが物足りない。 同じく猪瀬の指摘で、片桐らが国鉄改革のイメージ戦略を模倣しているとしているが、より本質的に彼らは国鉄改革を手本としているはず。 文系ホワイトカラーから見たJR成功の鍵は、新規路線建設を放棄し、長期債務を政府に移し替え、組合を崩壊させたこと。 これを踏襲し(この場合、組合は技術者集団と読み替えるべし)、優良企業として民営化することが、彼らにとっての理想なのだろう。

逆に言えば、道路建設の理想を二の次として、単に企業としての優良さを至上のものとする彼らの態度は、藤井総裁からすれば唾棄すべき拝金主義者のそれと映っているに違いない(ちなみに、旧建設省における派閥対立は霞が関でも有名であり、「五族協和(記憶が頼りであやふやだが、法文、道路、河川、下水道、官庁営繕の5派閥だったように思う)」とまで揶揄されていたほどだ)。

(2003-08-03記)

[膝蓋腱反射]「スポーツ界におけるフロント」

トヨタといえば、「世界の」という言葉をよく冠せられるほどの企業であり、日本を代表するものとして語られることも多い。 オリックスといえば、会長の宮内義彦は財界著名人の一人であり、総合規制改革会議の議長を務めるなど、多彩な活躍で知られている。 が、一つの分野に秀でていることは必ずしも他分野においても秀でていることを意味するものではなく、それゆえに、嘆かわしいことも起こることとなる。

トヨタについては名古屋グランパスエイト。 先ごろ、このチームはベルデニック監督を解任した。 社長人事などからも明らかなように、グランパスエイトはトヨタの実質的な支配下にあるのだが、そのフロントは、ベンゲルやジョアン・カルロス、そして当のベルデニックなど、使える監督を呼ぶことは長けていて、ストイコビッチというJリーグ史上最高の外国人選手を獲得することもでき(ベンゲルのおかげではある)、金の使い方もJリーグトップクラスだが、そのくせリーグ優勝とは無縁だ。 つまり、リクルーティングなどのここのパーツはそれなりのものがあるのだが、マネジメントがまるでなってない組織ということだ。

監督も選手も、まずはチームをどうしたいかという戦略があって選ぶべきものであるのに、まったくそれが感じられない。 たった半年で首を切るようでは、ベルデニック獲得も単に行き当たりばったりだったのだろう。 JEFのサポーターからすれば、そんな使い方をするなら奪うようなまねするな、という気になっても当然だ(オシムが代わりに来たので結果オーライという話もあるが)。

次はネルシーニョをつれてくるとのこと。 彼も優秀な監督であるが、フロントがこのままでは明らかに宝の持ち腐れ。 「グランパスのフロントには腐ったミカンがいる」といわれないようせいぜい気をつけてほしいものだ。

しかし、そのグランパスですら、「監督にはそれなりの人間を確保できるし、きちんと金も使うからよほどまし」と思えるのがブルーウェーブ7月27日に26-7とパリーグ新記録となる大敗を喫したかと思えば、一週間も経たない8月1日には29-1とパリーグ記録はおろか、2リーグ分裂後の日本記録まで更新してしまった。

95、96年とリーグ連覇を飾ったチームを年俸抑制の観点から冷遇し(ニールへの仕打ちなどひどいものだ)、イチローを筆頭に主力選手を軒並み放出した上で、ろくな選手補強もせず、あげくに石毛監督である。 ホークス二軍監督時代に22失点デビューを飾るなど、監督としての能力には疑問が呈せられていたにもかかわらず、なぜ彼を監督に据えたのか。 もちろん石毛自身にも大いに責任があるが、この場合、そうと知って監督に選んだフロントの方がより悪い。

ブルーウェーブが連覇した後、パリーグの優勝は一昨年のバファローズを除きライオンズとホークスが分け合っている。 いずれも、フロントがきちんと組織として機能していることで有名なチームだ(ちょっと前のホークスのスパイ行為のように行き過ぎた面もある)が、結局は根本陸夫の遺産。 以前にも触れたが、やはり根本は偉大だ。

しかし、トヨタにせよオリックスにせよそれなりの組織であり、チーム経営に手腕を発揮できる能力の持ち主はいるはず。 そんな人々をぜひとも派遣してもらいたい。 1スポーツファンからのお願いである。

(2003-08-03記)

bewaad<webmaster@bewaad.com>

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