/時系列書庫[8]/2003-09
go back to top page[0]
(2003-10)[9]
(2003-08)[7]
デフレから脱するためにはどうすればよいか。 供給が需要に比べて多すぎるという状態が問題であるとすれば、手段は2つで、供給を減らすか需要を増やすかのいずれかだ。
極論を言えば供給を全くなくしてしまい失業率100%という状態にすれば、それでも人は食べていかなければならず貯金を取り崩すことなどにより一定の需要は確保されるので、供給を減らすことによってデフレギャップを解消し、需要超過=インフレギャップがある状態にすることは可能だ。 しかしどう考えてもこれは幸せな状態とは言えず、ここまで極論を言わないとしても、供給を減らして失業者を増やせば、失業者は失業前に比べれば所得が減るため消費を抑えざるを得ないので、その分需要が減ってデフレギャップの拡大につながることから、結局は更なる供給削減を必要とすることになってしまう。
従って、需要を増やすという政策がとられることになるのが普通だが、では、どうやって需要を増やすか。 需要と一言で表されるが、それを細分化すれば次のような式で表すことができる。
(総)需要=消費+投資+政府支出+純輸出
それぞれどのようにすれば増やすことができるかを見てみよう(所得が増える=より儲かれば需要が増えるのは当然だが、願ったとおりに稼げるのであれば何も問題が生じようもないので、所得を増やせばよいという解答は選択肢に入れないことにする)。
まず消費。 当然ながら所得が増えれば消費は増えることになるが、この途は先ほどふさいだので他に手段はないかと考えると、もう一つ、金利が下がれば消費が増えるという経路がある。 所得が一定であるとして、所得は最終的には使うか貯めるかしか途がないが、金利が下がると貯めておく実益が少なくなるので、その分使う方に回されるというロジックだ。
次に投資。 投資とは端的に言えば借金して行うのが普通なので、当然ながら金利が下がると増える。
次に政府支出。 これは政府(狭義の行政府ではなく、予算を議決する立法府を含めた概念)がその気になればいくらでも増やせる。
最後に純輸出(=輸出-輸入)。 為替レートを円安にすればドルなど他の通貨で見た日本のモノの値段が下がって輸出が増えるし、他方で外国のモノの値段は上がって輸入は減るので、円安となれば増える。
じゃあどれでもいいからやっちゃえ、という話には残念ながらならない。 まず円安誘導による純輸出増加であるが、日本ほどの国になると他国から猛反発を食らう(先日のドバイでのG7財務大臣・中央銀行総裁会合でもこの話題が取り上げられているように。 ちなみに近隣窮乏化政策という)ので難しい。 仮にある時点では許容されたとしても、いつ反発されるかわからないのでは政策としての安定性を欠き頼ることはできない。
次に金利を下げろと言っても、名目金利はゼロ以下にはならないので限度がある一方、デフレで物価が下がるため実質金利は高止まりするため不可能。 そのため、消費や投資を増やすことはできない。
しかし、実質金利を低くするためには、名目金利を下げる以外にも方法がある。 デフレをインフレにすればよい。 インフレになってもゼロ金利政策を続ければ、実質金利をマイナスにすることすら可能だ。
これに対しては反論もあるだろう。 デフレをインフレにするために需要を増やさねば、という議論をしているときに、インフレになれば需要が増えるといっても答えにならないだろうと。
だが、前回の議論をもう一度見て欲しい。 需要不足=デフレではなく、お金の不足=デフレである。 需要不足が高じてお金が不足するという因果関係があるからこそ需要不足をデフレギャップと称するわけだが、ここから正しく導き出されるのはお金が余っていたら需要不足ではない(対偶)ということのみであり、お金が不足していれば需要不足である(逆)とか、需要不足でなければお金は余っている(裏)となることは必然ではない。 お金を何とかして増やすことができればデフレは解消できるし、デフレが解消した後においても名目金利を十分低くしておけば、それにより需要を増やすことができる(から先の対偶はやっぱり正しく、需要不足がお金の不足をもたらすという当初の命題の正しさもまた裏付けられる)。
ではどうやってお金を増やすかであるが、これを考えるためには「お金」とは何かを見ておく必要がある。 現金は間違いなくここで言う「お金」だが、それに限る必要はない。 公共料金の支払いを口座振り込みで済ます経験は多くの人が持っているだろうが、この取引には一切現金は関与していない(厳密には銀行間決済における日銀当預の存在があるが)。 しかし現金と変わらない機能を預金口座が果たせる以上、預金も「お金」として取り扱って問題ない。
こうした考えに基づきいろいろな金融商品を「お金」として取り扱うことが可能であるが、通常はM2+CDという範囲が「お金」として取り扱われる。 この「お金」の量が決まる過程を信用創造といい、現金が何倍の「お金」に増えるかを表す数を貨幣乗数(又は通貨乗数)というわけだが、簡単に言えば銀行が貸出を増やせば増やすほど信用が創造され「お金」が増え、このときの貨幣乗数は大きくなるということになる。
従って、「お金」を増やすためには、次の2つ(技術面でさらに細分化すれば3つ)の方法があると整理可能だ。
順にフィージビリティを見ていこう。 まず不良債権問題の解決によるお金の増加。 世の中にいっぱい借りたい人がいるにもかかわらず、銀行が貸し渋り・貸し剥がしをするから貸出が増えないという前提が満たされる必要があるが、本当にそうした事実はあるのか。 資金循環勘定(フロー)を見てみると、民間非金融法人部門は1998年度以降は資金余剰主体、つまり手元のお金が余っている状態であり、到底借りたくて仕方がないという様子には見えない。 だいたいそのような状況であれば金利が上昇するはずなのに、貸出約定平均金利は一貫して低下傾向にあることからも、そうした前提は満たされていないということがわかるし、そもそも実証研究では金融機関の健全性と民間投資の間には相関関係は認められていない。 従って、銀行の財務状況が改善されたとしても、貸出が増える可能性は極めて低いと言える。
次に収益性の向上によるお金の増加。 民間企業は儲けたくて仕方がなく、日々より儲かる方法を考えているのだから、政府がそれを主導する、具体的にはどうやったら儲かるかを教えたり、ましてや政府自身がより儲かるビジネスをする、なんてことができると考えること自体ナンセンス。 とすれば考えられるのは、一つは政府自身が民間企業が儲けることを阻害しているのであればそれをやめることで、要すれば規制緩和。 もう一つは儲かっていない部分を切り捨てることによって平均値を上げることで、要すればゾンビ企業の処理。
前者については、確かに規制緩和がTFP(Total Factor Productivity、全要素生産性)の上昇をもたらすのであれば投資や生産の増加につながるとの分析があるが、では規制緩和によりTFPは向上するのか。 日本経済全体におけるTFPを見ると、90年代後半という経済停滞期であってもアメリカのそれに勝るとも劣らないものであり、個別の分野であればともかく、マクロ的にTFPがこれ以上向上する余地がそれほど残されているとは想定しがたい。
後者については、企業セクターの収益率に限ってみれば上昇するかもしれないが、パイの大きさが縮小するため、収益規模がどちらに振れるかは不明だ(2:6:2の法則が正しければ、一旦は上がった収益率も結局は元に戻ってしまい、縮んだパイだけが残されることになるが)。 さらに、収益性の低い企業が市場から退出する場合には失業者や遊休資産が生ずることとなるが、これらの収益性はゼロであり、企業セクター外の収益率はその分下がることになる。 また、経験則で考えても、倒産が増えれば増えるほど投資環境がよくなり投資が増加するという因果関係があるのであれば、投資増加が景気回復をもたらすというロジックになるはずだが、景気回復初期に増加する投資はあくまで在庫投資であり、設備投資は景気が回復して始めて増加する(在庫投資は先行指数であるが設備投資は遅効指数)という実態があり、理屈はともかく現実にこのパスを通ってお金が増える可能性は極めて低いと断ぜざるを得ない。
残るは現金の増加であるが、これは絶対にお金を増やすことができる。 貨幣乗数は大幅に低下しており、現金を増やしてもお金の増加にはつながらないという指摘もあろうが、貨幣乗数は定義からして1未満にはなり得ない。 もし現金を増やしてもお金が増えないという状態が続けばそのうち貨幣乗数は1となり(預金がゼロという事態は想定しがたいが、極論を言えばである)、その後は現金増加率=お金の増加率となり、いくらでもお金の量を増やすことができることになる。 実際には、そんな勢いで現金を増やせば、必ずお金が増えるという結果を先取りして企業などの行動パターンが変化し、貨幣乗数は増加に転じると考えられ、より早期に問題は解決することとなろう。
これがリフレ策の本質であり、インフレターゲットをどうするか、現金を増やす手段は国債の買い切りオペがいいのか、等の問題は技術論であり、また如何に副作用を減らすかという別の議論である。 よってリフレ策こそがデフレ脱却のための正しい政策であると考えられるのだ。
ん、何か忘れてませんかって? そう、政府支出の増加、すなわち財政政策にまだ触れていない。 本稿のテーマである日本経済復活の会が主張する政策こそが政府支出の増加であり、ずいぶんと前置きが長くなってしまったが、次回以降、これをテーマに議論を進めることとする。
(2003-09-30記)
9月24日、東京大学の学内ネットワークの大部分がiMacに置き換えられることとなった。 アンチMSにとっては鬱憤が晴れるできごとなのかもしれないが、これほどWindowsの壁は厚いのかというのがwebmasterの正直な感想である。
コンペに勝ったことについてのアップル自身のコメントにもあるが、ジョブズがNeXTから復帰してからの路線の帰結として、Mac OS Xの中身はUNIXである。 さて、Mac OSといえば従来から操作のしやすさは定評があり、他方でUNIXといえば軽い上に安定性でもWindowsをしのぐことに異議を差し挟む人はいない。 そして、Mac OS Xはとりあえず両者の長所を併せ持つことに成功しており、つまりはMac OS XはWindowsより使いやすく、安定したすばらしいOSのはず、である。
にもかかわらず、たかが1大学のシステムが置き換わる(しかも、大学は管理者のスキル水準が総じて高く素人にとっての敷居の低さをそれほど重視しない傾向にある一方で、従来のシステムがUNIXベースであることが多いので、Windowsにとっては最も不利なマーケットの一つだ)ことがニュースとなることからもわかるように、依然としてWindowsが市場で支配的という状態は変わっていない。 アンチMSに言わせれば、MSが汚い手段で市場支配をたくらんでいるからだ、司法省だって反トラスト法違反で訴えるなど問題視してたじゃないか、ということになるのだろうが、話はそう簡単ではない。 現にMS自身、最近はともかくWindows 95あたりまでは結構良心的なベンダーとして評価されていたわけで、トップシェアを確保したのは他と比較しても特に問題のない手段によるものだったわけである。 節操がなかろうがなんだろうが、訴訟になってでもMac OSのlook & feelを備え、GNUプロジェクトやlinuxに代表されるオープンソースにも目を配り、最近で言えばTRONとの提携も辞さないなど、MSのダイナミズムはなんだかんだ言っても業界指折りであり、そうした今に連なるMSの積極性は、今の地位を確保する原動力の一つであったと評価せざるを得まい。
それでは、MSの覇権は今後も揺るがしようがないのだろうか。 その質問に対しては、やり方によってはなんとかなると答えられよう。
日本のコンピュータ業界では、市場の支配者がドラスティックに変わった実例がある。 NECのPC-98からWindowsマシンであるPC互換機への交替がそれだ。 往時のPC-98は、今のWindowsがそうであるように、過去から受け継がれた膨大なソフトウェア資産を抱えることにより顧客に高い乗り換えコストを意識させ(webmasterの経験で言うと、実際に思い切って変更してしまえば、案外過去のソフトウェアなどどうでもいいものということがわかり、新しい環境に驚くほど早くなじんでしまうものだが。 現にWindows自身、9x系からNT系への移行期にはそれなりに互換性を放棄している)、圧倒的といえるシェアを誇っていた。
ではその牙城があっという間に潰え去ってしまった理由は何か。 COMPAQ(今ではもうないが・・・)ショックと呼ばれたPC互換機の低価格攻勢なども一因ではあろうが、最大の理由はグラフィックス処理能力だったのではないか。
PC互換機は、当初CGAという低レベルのグラフィックス環境からスタートし、その後EGA、VGAと進化してきたこともあり、ハードウェアの変更に伴うグラフィックス環境の変化についてもソフトウェア側で対応してきたという実態があり、Windowsも当然ながらそうした環境変化に耐え得るものであった。 他方でPC-98は、当初から640×400ドットの解像度に16色という(PC互換機に比べれば)高レベルのグラフィックス環境を備えていたが故に、ユーザ側にしてもそれを高度化するニーズがなく(だからこそ98XAなどの高解像度機種やPC-100への移行は失敗に終わった)、ソフトウェアがハードで用意されているグラフィックス環境、とりわけ日本語表示を依存してしまっていた。 その結果、PC互換機においてはSVGA以降ハードウェア側で800×600を超える高解像度が実現され、さらに各種アクセラレータチップやVLバスがその可能性をどんどん拡大していく中で、PC互換機にDOS/Vが登場し、さらにWindows 95が登場しアプリの対応が進んだ結果、そうした対応が全く行われ得なかったPC-98はあっという間に時代に取り残されてしまった。
これを見るに、革新的なハードの進歩があり、従来のソフトがそれに応じて変わっていくときが、新たなOSにとっての最大のチャンスとなるだろう。 それがウェアラブルコンピュータなのか、アラン・ケイのダイナブックなのか、それとも今では想像もつかない新たなアーキテクチャなのかはわからない。 しかし、その変化の時代についていけるOSこそがWindowsを駆逐するものになろうし、もしそれを作るのがMSであれば、結局MSの覇権は続くことになろう。
(2003-09-30記)
このテキストは、8月31日の"history"で紹介した、日本経済復活の会で提案されているデフレ対策を論じようというものであるが、その補助線として、改めてデフレーションという経済現象がどういったものかをまず最初に整理しておこう。
インフレギャップとデフレギャップという言葉がある。 完全雇用状態で達成される総供給と実際の総需要の差をとり、需要が過多であればその超過分がインフレギャップ、逆に過少であるときの不足分がデフレギャップであるが、言葉の説明よりもグラフを見れば一目瞭然であろう。
デフレギャップがある状態でどのような変化が起こるかを考えてみると、端的に言えばモノ(サービスその他の金で買える対象を含む抽象的な概念と考えて欲しい)を作っても売れ残る状態であるため、安売りして在庫を処分しようとモノの価格が引き下げられることになるし、また、モノの生産量を減らそうと生産力を落とそうという行動につながる。 生産力を落とすとはどういうことかと言えば、生産設備を減らす=投資の減少であり、労働力を減らす=失業率の増加ということである。 投資が減るということは、お金を借りる人が少なくなるため金利の引下げにつながるし、失業率が増えるということは、仕事を欲しがる人が多くなるため賃金の引下げにつながることになる。 それぞれがどの程度の変化をもたらすかは個別具体の事情に応じて様々であるが、多かれ少なかれこれらが引き起こされる。
理屈はそうかもしれないけど、という向きもあるかもしれないので、実際にそうした事象が観察されることを示しておく。 上記の現象は、需要=国内総生産の成長率が低ければ失業率が高いとも言えるし、価格引下げ圧力がある=インフレ率が低ければ失業率が高いとも言える。 それぞれオークンの法則とフィリップスカーブと呼ばれているが、これが成立しているかどうか、日本の過去のデータを見てみることにする。 まずオークンの法則であるが、オークンの法則−クルーグマン論文からの引用を見ると、実質GDP成長率と失業率の変化率との間にきれいな線形関係があることが観察される。 また、大停滞を終わらせる(の図表10)を見ると、年代によって傾きの差はあるものの、インフレ率が高いときには失業率が低く、逆もまた真であるという逆相関関係が観察される。
しかし、デフレギャップがあるからといって必ずデフレになるというものでもない。 デフレとは継続的な物価の下落を指し、IMF(International Monetary Fund)などで用いられる一般的な定義によれば「継続的」とは少なくとも2年間となる。 つまり、2年以上物価の下落が続くことがデフレであるが、これまで需要が落ち込んだとき=不況は数あれど、デフレになったのは世界恐慌などまれな事例だ。 戦後日本経済で見れば、今の経済状態だけがデフレの定義に該当するが、今だけが不況ということではもちろんない。
では、どういう事態になればデフレとなるのか。 そもそも物価が下がるということは何かと考えてみれば、モノを買うために必要なお金が少なくてすむということであり、逆に言えば、お金を手に入れるためにはより多くのモノが必要だということ。 つまり、皆が欲しがるほどにはお金が足りず、少しでもいいからお金を欲しがる状態がデフレ。 デフレギャップがあるとはモノが余っている状態であることだと先に書いたが、その余り方が世の中のお金全体とのバランスから見ても大きいのでお金が足りなくなっている状態がデフレである、とりあえずそう結論づけておくことにしよう。
(2003-09-23記)
前回でこの「第二歩」は終わりにする予定であったが、興味深いテキストを見つけたので、もう少し付け足してみることにする。 そのテキストとは、中央公論10月号(webmaster注:現時点では最新号の紹介に目次が掲載されているが、おそらく10月10日以降はバックナンバーを参照ということになろう。後者のリンク先のページは当テキスト作成時には存在していない)に掲載された、「私が霞が関を『脱藩』した理由」というもので、福島伸享という前官僚、現民主党員が書いている。
さて、何が興味深いかと言えば、本連載の第二歩・part 3において、ケースバイケースの判断であればともかく、およそすべての構造改革特別区域がアプリオリに正しいと考える官僚もいるだろうが、そいつは頭が悪いといった趣旨のことを書いたのだが、その頭が悪い官僚の実例がまさにこの福島であるということだ。 まあこうした馬鹿が官僚をやめて政治の世界に飛び込むというのは、官僚側の一員としては官僚の平均レベルが上がるので慶賀すべきことだが、官僚とて納税者の一人であることに変わりはなく、妙な政治家がこれ以上増えるのも困りものであるので、きちんと論駁しておきたい。 とはいっても、あまりにもツッコミどころが多すぎて、すべてを相手にしていてはどれだけサーバのディスク領域を食いつぶすかわかったものではないので、特にひどいところをいくつかとりあげてみる。
まず、構造改革特別区域のアイデアを生み出したと福島が称する経済産業省研究会で彼が提案したプランというのが噴飯モノ。 なんでも「平成の屯田兵構想」というらしいが、その内容は以下のとおりだ。
耕作放棄地問題が深刻な北海道で、大きな資本を投下して株式会社による大農経営を行い、そこでジャガイモやコーンを栽培し、それを原料にして自動車燃料用アルコールの原料を生産し、労働者として失業率の高い都会の若年層を送り込む、というものであった。 そのために、自作農の育成を目的として、株式会社による農業経営を認めていない農地法を、北海道においては適用除外にして、株式会社が多くの従業員を雇って農業経営を行えるようにするという、まさに構造改革特区の萌芽となるアイデアであった。(中央公論(2003.10)、p117)
これほど単純なアイデアであるにもかかわらず致命的な間違いに気づかないのはなぜなのか理解に苦しむのだが、大規模農業経営は資本集約型、すなわちだだっ広い農地で機械と化学製品(農薬とか肥料とか)を最大限活用して効率的に管理するもので、要すれば雇用創出力などたかがしれている。 農地法の適用除外が仮に認められたとしても、ますます農業における省労働力化が進むことになり、福島の狙いに反して、都市の失業者を吸収するどころか都市への新たな流入者を生むに決まっているではないか。 それを屯田兵構想とは片腹痛い(というか、単なる転職を「脱藩」というなど(政治亡命でもしたのか(笑)。 脱藩浪人の多くがそうであったように、偉そうなご託を並べてお金をたかる身になったことを恥じてそう称しているわけではあるまい)、我が身を幕末の志士になぞらえて自己陶酔しているのは相当痛いと思うのだが)。 だいたい、「兵」じゃないだろ(笑)。
次に、その研究会で出てきた構造改革特別区域のアイデアについて、地公体の首長やベンチャー企業経営者、各界のオピニオンリーダーに営業活動をしたとこれまた誇らしげに書いた上で、それにブレーキをかけようとする経済産業省部内の声を、権限意識丸出しとあげつらっている。
他方で特区推進室に異動後、鴻池大臣(当時)と焼き鳥を食って意気投合したときには、大臣の一声に官僚が従う政治主導の官庁組織(p122)
と自画自賛だ。
結局、福島がやったことは、上が自分の言うことを聞くのであれば持ち上げ、自分の言うことを聞かなければ制止を無視して独断専行しているということだが、これは、大臣となった政治家を操り人形としていると彼自身が批判している従来の官僚組織(そもそも彼の事実認識が正しいかどうかは別にしても)よりも数倍たちが悪い。 少なくとも従来の官僚組織は、どんな形であれ上の了解を取って始めてアクションを起こしているわけだが、福島の行動は、自分たちの主観的な判断のみで突っ走っているからだ。 無論、緊急避難的行動というものはあろうが、構造改革特別区域の制度化がそれに当てはまるはずもない。
その意味では、70年ほど前に中国で陸軍の現地部隊が行った、一応は敵対行動に対する正当防衛という理屈を伴った各種の戦線拡大行為以下だ、というか、福島のメンタリティは皇道派青年将校のそれと同質なんだよなぁ・・・(先に自らを幕末の志士に例えていることに触れたが、青年将校たちも自分たちのクーデターを「昭和維新」と呼んでいたわけだし。 このたとえが極端だと感じる人は、踊る大捜査線に見る独断専行の危険性などをご覧いただきたい)。
だいたい、そうした行動のベースにある思想というのが、人・モノ・金が自由に動く大競争時代にあって、自分でスタンダード(基準・決まりごと)を作れる国じゃないと生き残れない(p124)
というもの。
こんな単純な頭で国家戦略など語って欲しくないものだが(今世界には国連加盟国だけでも191ヶ国があるが、彼の思想が正しければほんの一握りの国を除くと生き残れないことになる)、構造改革特別区域をつくると何かスタンダードが決められるというのだろうか。
福島の頭の中では、構造改革特別区域をつくるような政治的決断がスタンダードの確立につながるのにそれができていないということらしいが、その例としてあげられているのがほとんどの政策において、たとえばアジア諸国との経済統合を進めるために自由貿易協定(FTA)を結ぶか国内農家を保護するかというような場面においては、政治的責任を持った選択ができなくなっている(p124)
・・・って、国内農家を保護するという政治的責任を持った選択をしているだろうが(笑)。
と、とことん自分の考えは正しく、それに反するものは存在意義を根こそぎ否定する福島であるが、組織に縛られないという幻想に浸れる政治家を志したからには、今以上に原理主義的に構造改革特別区域の推進に血道を上げていただきたい。 当然、カジノ特区に消極的だったのは組織のしがらみ上やむを得なかったことなのだろうから、構造改革特別区域はアプリオリに全肯定の対象とする彼のこと、そんなしがらみから逃れた以上、カジノ特区にも必ずや積極的になってくれることだろう。 いや、カジノにとどまらず、同じく刑法その他の法律により禁止されているドラッグ特区、ソープランド特区、暴走族(おっと、珍走団と呼ばなきゃ)特区などなどを積極的に推進し、日本各地の経済の活性化目指して尽力してくれることだろう。
えっ、中にはダメな特区もあるんじゃないかって? そんな、自分のイメージにあわない特区についてだけは中身によって是々非々だなんてダブルスタンダードを福島が許容するはずもあるまい。 なにせ、グローバルスタンダードの制定者(笑)たらんとする政治家なのだから。
(2003-09-23記)
8月31日に取り上げた自民党総裁選であるが、結局は大方の予想どおり小泉の再選で終わった。 反小泉サイドのなりふりかまわぬ抵抗がどうなるかと思っていたが、瞠目すべきニュースは野中広務の引退表明があったぐらいで、総裁選自体は思いのほかあっけない幕切れとなった。
それもこれも青木や堀内といった面々が毒まんじゅうを食ってしまったためであるが、webmasterのいう毒まんじゅうは野中が言ったそれ、つまり人事面での優遇ではない。 それは、選挙に勝つということだ。 選挙に勝つためには小泉が必要だという足元を見透かされた段階で毒が回ってしまったのだ。
青木の意に反して今回の内閣改造では竹中が留任したが、今さらそれに文句をつけてみたとしてもどうにもならない。 今後、例えば郵政公社民営化といった個別イシューでいくら青木が反対にまわろうとしても、「じゃあ内閣総辞職だ」と言われてしまえば腰砕けになるのは目に見えている。
小泉側についた「抵抗勢力」はこれで事実上骨抜きになったとして、亀井に代表される小泉と戦った側の「抵抗勢力」はどうか。 今回の地方票の動向を見ると、地方といえども小泉の圧勝である。 8月31日にwebmasterが書いたことが間違っているのではとの指摘もあろうが、そうではない。 地方党員もまた毒まんじゅうの餌食となってしまったのだと解すべきだろう。 むしろ牛後となるとも鶏頭となるなかれ、仮に小泉に冷遇されたとしても、小泉を追い落として民主党が与党になったときに予想される結果よりはましと判断した向きが多かったのではないだろうか。
古人の知恵は軽視すべからず、長い目で見れば一定の固定支持層を抱える鶏頭となってキャスティングヴォートを握る(今の公明党のポジション。 海外でも、スウェーデンの中央党に代表される中道諸党やドイツの自由民主党など、多くの例が見られる)ことがベストの戦略だろうが、それは石原新党ではありえない。 石原は明らかに都市型政治家、亀井や野中より小泉や菅に近しい政治スタイルの人間である以上、新党は石原というカリスマが第一線を退けば分裂するのは目に見えているし、であれば目端の利く石原が新党構想に乗るとも思いがたい(よほど血迷いでもすれば別だが)。
自民党から野党に目を向けても、小泉は総選挙に先立って事実上勝利を手にしている。 小石原(息子のこと)が国土交通大臣となり、以前予言したとおり(時期は少し外したが)日本道路公団の藤井総裁は更迭されるだろうし、これで今ですら圧倒的な差がついている支持率の格差は一段と広がるだろう。 これに安倍幹事長効果が加わるのだから負ける要素が見当たらない(し、それに対してタカ派と評して批判した気になっている菅の政治センスの悪さがさらに駄目押しだ)。
以上見たように、よほどひどいスキャンダルでも出てこない限りあと2年は安泰と思われるだけの政権基盤を確立した小泉に対して、読者はさぞ意外だろうが、リフレ派たるwebmasterとしても望みを託することができると考えている。 大切なポイントは2つ、竹中の留任とG7会合での円売り介入牽制だ。
リフレ派からは得てして評判が悪い竹中ではあるが、リフレ政策への理解度(最近の言動は少し怪しいが・・・)と政策を実現させる可能性の積により求められるリフレ政策実施期待値が一番高いのは彼である。 残念ながら主要なリフレ派論者は、前者は竹中に勝っているとしても、後者がほぼゼロであるため、期待値もまたほぼゼロとなり竹中に劣ることとなる。 他方で最近の円高傾向(デフレが止まっていないのだから当然だ)は財界の危機感を高めているにもかかわらず、為替介入による円高阻止の道がほぼふさがれたため、残る手段は金融緩和しかない(まさか資本移動規制によるドルペッグ(アジア通貨危機時にマハティールが選択した政策)を行うことはできないだろうし、構造改革が円安につながる理屈はどう考えてもあり得ない(デフレ対策としての構造改革については、常温核融合のそれと同程度ではあるが、不良債権処理の促進→貸出し増加の経路を通じた貨幣乗数の上昇によるデフレ脱出や、成長産業への資源シフトにより高どまっている実質金利以上の投資収益率を経済全体として確保することによる投資増加という理論武装がかろうじて可能ではある))。
そこで、竹中がイニシアティブをとっての円高阻止のための金融緩和政策(これなら日銀のメンツはつぶれないだろう)発動、というシナリオの実現に賭けてみたい。 そうすればアメリカ並みの金融緩和が必然的に行われることとなるが、FRBが実態としてインフレターゲットを採用し金融緩和を行っている以上、これで間接的なリフレ政策の導入ということになる。 外国頼りなのはある意味情けないが、恐慌を回避するためと考えればチンケなプライドにこだわるべきではなかろう。
(2003-09-23記)
挑戦者のテキストは多岐にわたるので、官僚に関連する部分だけを抜き出したのが上記の概要だが、全くもって噴飯ものとしか言いようがない(が、同じようなことを行政府のトップが発言しているという現実は、これ以上ない喜劇だ)。 順に撃破していこう。
まず、事務次官会議(正確には事務次官等会議)の廃止から。
あきれたことに閣議では、事務次官会議で決めたことしか議論できない(進行役の田原総一朗の発言だが、中身は菅の厚生大臣当時の発言)
などと言っているが、官僚なら誰でもわかっていることだが、事務次官等会議にだってそれ以下のレベルで決めたことしか議論できないのが実態だ(全部がそうかは自信がないが、仮に下のレベルで調整がつかず事務次官等会議でつぶれた案件が過去にあったとしても、そうでない決定をしているのが99%以上であることは間違いない)。
今の官僚社会の意志決定システムは、基本的にボトムアップで物事が動くようになっており(ただし、大臣が下の意見を聞かずに持論を外部に向かって話せば、まさか大臣の言ったことが間違っていましたとすることもできず、必死で羊頭狗肉(笑)なものに仕立てた上で省庁間調整をつける場合もあり、また、部内でも「これは何としてでもやってくれ」と言われれば無碍に断ることはできず、調整のつく範囲で意に叶うような政策を打ち出す場合もあるので、その意味ではトップダウンの政策決定が行われている)、それ自体を変えることにはメリット・デメリットがあるとしても意味あることだが、事務次官等会議をつぶしたところでそうした根本を変えないことには、実態が変わるはずもない。
そういった見せかけだけの「行革」には格好の前例がある。 かつて構想日本という官僚OBの主催するシンクタンクが、諸悪の根元は各省設置法の権限規定だといってその削除を主張し、実際に中央省庁等改革の際それが採用されたのだが、それで一体何が変わったというのか。 この加藤秀樹という官僚OBが現役だった頃はどうだか知らないが、設置法上の権限規定を根拠として振り回すような時代はとっくに終わっており、実態としては、この法改正が成される前から各作用法上の権限に基づき行政府は各種の行為を行っているのだ。 今の官民関係についての是非の判断はあろうが、それを設置法規定の改正だけで解決可能だなどというおめでたい考え方はナンセンス以外の何ものでもなく、この事務次官等会議の廃止案もそれと同質の目くらましに過ぎないと言えよう。
次に地方分権。 それ自体は非常に多種多様な論点を含む問題であり、一方的にいいとも悪いとも片づけることができない話だが、ここでの挑戦者の主張はあまりに単純すぎてお話にならない。
挑戦者によると、地方の方が中央より癒着しずらく、なぜなら中央での政官業の癒着は、国民にはわかりにくいんです。
ベールに包まれている。
ところが、地方での癒着はいま表に随分でてきている。
地方自治体ならば、首長が私腹を肥やす、地方議員が業者と結びついて普通では考えられないことをするといったことがあれば、地方の人の目についてすぐバレるからです。
という理由らしいが、それにしては地方で贈収賄はしばしば見かける(ということは、発覚せずに終わっているものも当然あるだろう)わりに、霞が関でのそれは圧倒的に少ない(最近では外務省スキャンダルでのキックバックぐらいか?)ことをどう考えるのか。
張り付いているメディアの数が全然違うことや、首長は首相と比べても所掌範囲内での権限が圧倒的に強く、反対派を徹底的に弾圧可能(それこそ田中知事誕生前の長野県がいい例だろう)であることを考えれば、地方の方がより腐敗する可能性が高くて当然ではないか。
もう一つ主張している補助金が政治家、中央官僚の手から離れることにより、補助金がらみで国政がゆがめられてしまうことがなくなるという点
にはまだ見るべきところがあるが、「ゆがめられる」という言葉遣いがバイアスがかっていることは指摘させてもらおう。
資源配分機能は財政の三機能の1つであり、国の金を使うことによりどのような分野に資源を集中させるかということは政治そのもの、ゆがむかどうかはともかく金の使い方に国政が影響を受けることは当たり前だからだ。
次に護送船団行政。 チャレンジを妨げているのは護送船団行政(ゼロとは言わないが)なんぞよりデフレだというのはカバレロとハマーの研究を見ろということにつきるが、リフレ政策をハイパーインフレをも招きかねないような調整インフレ論などと言って退けている民主党の方がよほどチャレンジを妨げていると言えよう。
また、この論点においてそもそも矛盾しているのが「2回目のチャレンジ」推進策。 法的整理時に債務者の手元に残る財産の増加や本人保証・連帯保証の制限などがその骨子になろうが、いずれにしても規制強化でしかあり得ない。 問題はそこではない、再チャレンジを許さない社会だなどとは言わないで欲しい。 人々の行動パターンがけしからんからそれを変えてやろうなどと政府が考えたとしたら、そりゃ規制は不要になるかもしれないが、本質は規制どころではない圧政・洗脳だ(カルトのディープな信者に対して教団トップは規制を作る必要もないわけで)。 菅直人のお里がしれるような、文化大革命やクメール・ルージュを目指しているわけではさすがにない、と信じてはいますがね。
最後に国会の議論。 どうせイギリスの例を出すに決まっているから指摘しておくが、イギリスでは2日前か3日前には(記憶が不確かで失礼)国会で何を聞くかがわかるが、日本ではほとんどは前日、それも夕方以降にならないと何を聞かれるかがわからない(で、特に遅くなるのが民主党の面々)。 議論のテーマがイギリスぐらい時間の余裕を持って設定され、事実関係などについて担当に確認した上で国会審議に臨むというのであれば大臣や副大臣になった政治家が自分の省庁に関するすべてについて答えることも可能だろう。 しかし、前日の夕方にようやく何を聞くかがわかり、事実関係などを夜遅くまで調べ、翌朝審議が始まる前にそれらを報告するというスタイルで、官僚が自ら答弁するのは無論のこと、官僚が作った答弁を読むのもけしからん、自力で全部の質問に対応しろというのは無理な相談だ。 そのような事前準備が不要なプロを大臣に選ぶべきなどという議論もあるが、日本全国の研究者を捜したところで、ある省庁の担当分野すべてをカバーしている人間はいないわけで(官僚であっても、今自分がいる部局以外のところの話題については素人に毛が生えたようなものだ)、そんなことを求めるのは政治家に神であれと求めるもので、どだい実現不可能。
ちなみに、政府委員制度が廃止され、国会答弁が原則大臣・副大臣・大臣政務官に限定されるようになって以後、各省庁の事務作業量が増えていることは間違いあるまい。 政府委員(通常は局長クラス)が先刻承知の事項であっても、大臣たちには答弁資料をきちんと作らなければならないといったことがあるからだ。 官僚ばかりが答弁するのは望ましいことではなく、そうした作業量の増大もある程度は必要なコストではあるが、そうしたコストに言及せずベネフィットだけを声高に並べ立てるのも問題があろう。
しかし、民主党にも相当程度官僚OB議員がいて、しかも最近官僚から政治家に転身するのはほとんど民主党に行く(官僚が従来の自民党政治を見限って、などとかっこよく理由付けされることが多いが、小選挙区制となったため、ほとんどすべての選挙区に候補を立てている自民党では官僚OBが前職や元職、2世や地方政界からのたたき上げを押しのけてそこに割り込むことが難しく、他方で民主党はまだ空白選挙区があるので入り込む余地が残っているというのが最大の理由であろう)というのに、どうしてこうも上っ面を撫でるようなアイデアしか出てこないのかねぇ・・・。
(2003-09-15記)
メキシコ・カンクンで行われていたWTO(World Trade Organization)新ラウンド閣僚会議であるが、9月14日、合意に至らぬまま終結した。 ぜーリックUSTR(United States Trade Representative)代表(webmaster注:しかし、representative=代表なのだから、この訳語も変なのだが)が現ラウンド期限までの合意は難しいと記者会見で述べたが、これは現在のWTOの本質的な問題が原因でありやむを得ない事態である。
というのも、ルール上は締約国団の2/3、慣行上は全会一致でなければ意思決定ができないという縛りがある以上、参加者が多くなればなるほど合意形成は幾何級数的に困難なものとなるからだ。 この問題は前身のGATT(General Agreement on Tariffs and Trade)時代からあるものだが、さすがに人類として国際連盟の失敗を経験している以上、一応これには対応策があったし、ウルグァイ・ラウンドまでは合意にこぎつけていたように、それなりに機能はしていた。
その対応策とは、フォーマルなものとしてはラウンドという交渉形式、すなわちすべての議題に対して一括して賛否を問うことにより、つまみ食い的な合意が先行し、本当にシビアな交渉だけが取り残されるということを防いだことがあげられ、インフォーマルなものとしては先進国が経済力を活かして発展途上国を吊り上げるという多数派工作が有効(議題が経済問題だけに安全保障系の会議よりはこうした手法の効力が高い)であったことがあげられる。 しかし、発展途上国の参加数が増えてきたため、その有効性も限界に達している。
また、東京ラウンドまでは関税率が交渉の主たる対象であり、最後は数字を足して二で割るという妥協が容易であったという環境要因も大きかった。 これについては、すでに前回のウルグァイ・ラウンドでも、サービス貿易や知的財産権などモノの貿易以外にも適用範囲を広げ、アンチダンピングに代表される非関税障壁についても交渉対象としたため相当難航したのだが、この傾向は現ラウンドではますます強まっている。
さらに事態を悪化させているのがNGO・NPOの参加。 関係者が多くなればなるほど合意形成が困難となるのは上記のとおりだが、NGOの参加は関係者をいたずらに増やすにとどまらず、ラウンド形式をとることによる妥協形成の対象にならない(基本的に彼らは何らかの主義・主張の実現を目指しているが、それ以外は関心の外であり、主張するテーマ以外のところで「借り」を作るということがあり得ない)ので始末に終えない。
以上からWTOは、例えばパネル(小委員会)による紛争処理など、すでに出来上がったルールの執行機関としては大いに活躍が期待されるが、現ラウンドを含め、新ルールの決定機関としては多くを望むべくもないのだろうし、各国政府も同様の見通しを持っているからこそ、FTA(Free Trade Agreement)の結成に力を注いでいると考えられる。
最後に少し脱線だが、webmasterが学生のころ、外務省の外郭団体が主催する論文コンテストで、ある外交上の目的を達するためにどうすればよいかというテーマ(これ以上テーマを特定すると年がばれそうなのであいまいに書くと、安全保障関連)で、まともな国内での政策決定がなされなければ外交などやりようがないので、まずは国内の政策決定過程を整備すべしという枠組みのペーパーを書いたのだが、まったく相手にしてもらえなかった。 冷静に考えれば趣旨が違っているので相手にされなくて当然なのだが(しかし当時は、受賞作を読んで、なんでこんな小手先の術策をあれこれひねくりまわすペーパーが評価されるのだと憤慨していた。 若かったなぁ)、どうしてこんな認めたくない若さ故の過ちを引っ張り出したのかというと、農水省の弁護のためだ。
米(アメリカじゃなくっておこめ)にこだわり全体をぶち壊しかねない農水省のやり方に反発する向きも多いだろうし、webmasterも大いに同意するのだが、国内でそうした意思決定がなされる以上、外交ではどうにもなるまい(だからこそ国内の大勢に背を向けた伊藤博文や小村寿太郎らによるポーツマス条約が英断として評価されるわけだし(フィクションではあるが、ポーツマス条約締結後、帰国した小村を伊藤が出迎える場面は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」の中でも5本の指に入る名場面だと思う)、これとて一歩間違えれば独善に基づく外交官の暴走だ)。 農水省による自由貿易の足を引っ張るかのような姿勢に釈然としないのであれば、まずは農業ロビイストに左右されない政策形成過程の構築に力を注ぐべきであって、農水省をなじったところで物事は解決しないのだ。
(2003-09-15記)
(お断り)今回引用の事実関係のソースとしては、リンクを張っていないものについてはすべてを疑え!! MAMO's Siteの久米宏論を参照されたい。
来年3月でのあのニュースステーション降板を発表した久米宏。 特に細川政権発足時には自民党からいたく攻撃を受けたように与党からは受けが悪く、同様に悪者扱いされることの多い霞が関の住人たるwebmasterとしても、そのコメントを苦々しく思うことも少なからずあった。 批判されること自体はともかく、せめてこちらの言い分も取りあげた上でやってくれと。
しかし、彼のそうした手法がニュースステーションの高視聴率の源泉となっているのは否定できない事実であり、つまりは他から抜きんでた優れたものであったのだ。 しょせん大衆に受けるのはそうした無責任な政府批判さ、とすねるのではこちらの頭が悪くなってしまうので、しばし分析してみよう。
結論から言えば、久米が最も優れているのは視聴者の2次発信のハードルを大きく下げていることだ。
久米自身、「僕がコメントすることで、テレビを見ている側に、何かリアクションが起きてくれればいいと思っているんです。黙って見ているだけじゃなくて。何をバカなこと言ってるんだとか、たかがタレントがこれだけ言うのだから自分ももっと発言していいはずだ、という人が出てきてほしい。特に政治的問題に関する発言についてはね」と発言しているが、ここの「リアクション」というのがポイント。 久米の言うとおりだね、であっても、久米の言うことは間違っている、であっても、久米が言っていたということを隠して自分の意見であるかのように語るのであっても、ニュースステーションの視聴者が久米のコメントをきっかけにして情報発信をすることができるというのが、他のキャスターに見られない久米の人気の秘密と考えられる。
例えば今人気のトリビアの泉も、まさに無用な知識が得られるだけだが、それをいろんな場で−堅くは説教の元ネタから柔らかくは合コンのとっかかりまで−視聴者が使える(さらには、「へぇ〜」というリアクションも使える)からこそ人気を博している(これはクイズ番組一般にも通じるが)わけだし、実用本位であるかに見える番組、例えば伊東家の食卓も、あそこで紹介される裏ワザや大発見を実際に家庭でやってみる何倍も、話の材料として活用されているはずだ。
抽象化すれば、生のニュースや背景事情の解説という一次的な報道の価値にとどまらず、それをどう語ればいいのかという付加価値をつけたところに成功の秘訣があったということ。 テレビ放送におけるコミュニケーションは基本的に送り手から受け手へという一方通行性が強いが、これにより受け手は、送り手との間にインタラクションが成立しているかのような気分に浸ることができ、視聴者はそれにはまっていったわけだ。
こうした久米のスタンスは、無論センス・才能に恵まれたこともあるが、彼が生粋の報道畑ではなく芸能畑でアナウンサーとしてのキャリアをスタートさせたことによる部分が大きいだろう。 ザ・ベストテンでは栄枯盛衰激しいJ-POP(当時そんな呼称はなかったが)の世界をかいま見、ぴったしカンカンではあの元コント55号の2人、とりわけ当時人気絶頂であった萩本欽一の芸を間近で味わったこと(ある意味、萩本が衰え型に頼り始めた時期であったことが、エッセンスを吸収する側であった久米には幸いだったのだろう。 萩本の真の全盛期では圧倒されるだけで得るものは少なかったのではないか)は、久米の人生に大きな影響を与えたと思われる。 これらの経験の後、図らずもニュースステーションのたたき台になったと思われるテレビスクランブルでは、かの横山やすしをしてしゃべりで挫折感にまみれさせるにいたった久米である、他のニュースキャスターなど勝負になりようがない。
かくして功成り名を遂げた久米であるが、本人も降板に当たっての記者会見で語っていたように、テレビ人としては下り坂にさしかかっている。 才人であるだけに、己が満足できない姿を人前にさらすことは潔しとしないと思われるが、もし第二の人生を探すのであれば、やはり政治家ではないか。 現首相が体現しているように、コミュニケーターとしての技量さえあれば政策など二の次、三の次という日本の政治である(断っておくが、これこそ日本がアメリカと並んで人類史の最先端を進んでいる証拠である)。 成功することが約束されているといってもいいだけに、日本にとっては不幸な結果となる可能性が高い(本当にいいブレーンがついて彼が御輿に徹するのであればよいのだが・・・)。
その最大の歯止めは久米自身の矜持に尽きるが、このまま静かに公人としての幕を閉じることができるかどうかで、彼が真に一流の人間であるかどうかが試されるのだろう。
(2003-09-11記)
今日9月11日は、2年前にWTCツインタワーでのテロがあった日(脱線だが、「同時多発テロ」って呼び方、今でも結構使われてるのね)。 その後アフガニスタンからイラクへと続く戦争をもたらしたアメリカ社会へのショックと後遺症は多くの人が語っているところであるが、もう少し長いスパンでこの事件を捉えるとどうなるか。
ある事件が起きたとして、それはあくまでそれ以前から生じていた物事の変化の現れであるに過ぎず、その事件が直接時代を変えるわけではない。 しかし、それが歴史的とも言うべき大事件であれば、バックグラウンドで動いている流れを人々に周知させ、そうした周知自体が人々の行動を変えることにより、間接的に時代を動かすこととなる。 9.11テロが歴史的大事件であることに異論を挟む人は少ないと思うが、では果たしていかなる文脈において大事件なのか。
人によってはサミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」を想起するかもしれない。 しかしこれは的はずれだ。 本稿は「文明の衝突」の書評ではないので深く立ち入ることは避けるが、少なくとも9.11がいかなる時代を象徴しているかの観点からすれば、キリスト教文明とイスラム教文明(この分け方自体おおざっぱすぎだが)との間の武力紛争など今に始まったことではないからだ。
では、9.11が含意する時代の特徴とは何か。
それは、科学技術や産業の発達により、個人が国家と戦えるようになったということだ。
無論、まだ対等な戦いとは到底言えない。 だが、そもそも個人が国家を敵に回すということがフィクション(007シリーズでよくあったネタだが)ではなくなったことの意味は大きい。 こうした目線で近年の出来事を見てみれば、例えば日本でいえばオウム真理教による地下鉄サリン事件、アメリカでいえばユナ・ボマーやティモシー・マクベイによる爆弾テロなどがあるわけで、9.11テロはその延長線上にあると考えられよう(そういえば、ユナ・ボマーに触発されて文明の暴走に警鐘を発したビル・ジョイがSUNからいなくなるのも、webmasterとしては何か将来を暗示するものと深読みしたくなる)。
また、近年の社会はこうした物理的有形力の行使を伴わないウィルスなどによるネットワークへの攻撃も、こうした観点からは統一的に思考対象とすることができる(もはや珍しくもない話だが、最近の例としてはblasterの亜種作成容疑で18歳の少年が逮捕されている)。
こうしたことが個人や少人数のグループでも可能となるのは、どんな知識であれ、いくら隠そうとしたところで必ず広がっていくものであり、そうした知識の拡散は不可逆だからだ。 その気になれば、今では個人が核兵器を作ることも十分可能であり、そうである以上、いつか必ず核兵器を作ってテロを起こす人間が出てくることは避けられない。 当然ながら、個人レベルでそれだけの破壊力を有することができるのであれば、国家レベルではもっと強力な兵器をいくらでもそろえることが可能だが、それは対個人では意味がない。 国家対国家では有効であったMAD(Mutual Assured Destruction, 相互確証破壊)ではあるが、そもそも通常の治安維持機構で個人を抹殺することは造作もないことであり、今さら抑止効果の増加は求めようもないのだ。
それがいつかはわからないが、大量破壊兵器による個人・少人数グループによる国家の打倒や、ウィルスなどによる社会機能の大規模な混乱は必ずや発生し、それがまた一つの時代を象徴する出来事として語り継がれることになるだろう。 できることなら、それがwebmasterの生きている間ではないことを祈りたい。
(2003-09-11記)
go back to top page[0]
/時系列書庫[8]/2003-09