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/時系列書庫[8]/2003-11

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writings concerning kasumigaseki issues and others: 2003-11

(2003-12)[9]

2003-11-24更新分
書評:大文字と小文字の間に−「CODE−インターネットの合法・違法・プライバシー」(ローレンス・レッシグ著、山形浩生・柏木亮二訳)
みなごろしの会計 VI.流言飛語の死(税効果会計の真実)
日本道路公団騒動始末記−最近の出来事: the 4th week of November, 2003 (from 11-16 to 11-22)
膝蓋腱反射「三題噺−自民党税調、日テレ、東浩紀」
2003-11-16更新分
書評:Omnia ad majorem Dei gloriam?−「コンピュータ科学者がめったに語らないこと」(ドナルド・E・クヌース著、滝沢徹・牧野裕子・富澤昇訳)
日本道路公団騒動始末記−最近の出来事: the 3rd week of November, 2003 (from 11-09 to 11-15)
膝蓋腱反射「イラク撤退へのスケジュール」
2003-11-09更新分
書評:嗤うべき逆説−「さらば外務省! 私は小泉首相と売国官僚を許さない」(天木直人著)
その挑戦、受けよう(仮) その5:「官僚OB 新人候補座談会 霞が関を捨て、永田町を襲う理由」
日本道路公団騒動始末記−最近の出来事: the 2nd week of November, 2003 (from 11-02 to 11-08)
膝蓋腱反射「総選挙2003特集・後編−結果」
2003-11-03更新分
書評:暗闇への更なる跳躍−「平成15年度 年次経済財政報告−改革なくして成長なしIII−」(経済財政政策担当大臣報告)
月旦評第11回:マハティール・ビン・モハマド
日本道路公団騒動始末記−最近の出来事: the 5th week of October/ the 1st week of November, 2003 (from 10-26 to 11-01)
膝蓋腱反射「総選挙2003特集・中編−民主党」

(2003-10)[7]

2003-11-24更新分

[書評]:大文字と小文字の間に−「CODE−インターネットの合法・違法・プライバシー」(ローレンス・レッシグ著、山形浩生・柏木亮二訳)

webmasterは法学部出身であり、一応、専門分野は法律ということになっている。 である以上、サイトを立ち上げてネット上で様々な考察を公表するからには、いつか必ずや俎上に載せてみせようと内心誓っていたのが本書。 本文だけで400ページ強、加えて詳細な注が50ページ以上という分量に気押され11ヶ月が過ぎてしまったが、こうしてテキストを打ち込んでいる今、宿題の半分をようやくこなしたような気分だ(残りの半分は、想像に難くないであろうが同じくレッシグによるコモンズである)。

さて、本書は問題提起の書であるが、取り組んでいるテーマは次のようなものだ。

  1. 世の人間を律しているのは法律だけではない。 慣習などの人間同士の法律以外のしきたりなどもあるし、経済活動であれば市場原理にも人の行動は左右されるが、自然法則もまた人間の行動を制約している(当サイトのpreview 2も参考となろう)。
  2. 他方、ネット上では全ての活動がデジタルデータ処理により行われるため、自然法則の代わりにプログラマが作成したコード−データ処理を行うプログラム−が人間の行動を制約する。 ネット上、さらにはコンピュータ上で人間ができることは、あくまでコードによってそれが可能とされていることの範囲内に限定される。
  3. 従って、ネット社会のルールを考える場合、市場原理の有効性や法律その他の参加者間でのとりきめをどうするかだけを対象とするのでは不十分であり、コードをどうするかを対象にすることが不可欠である。 コードは作成者自身のコントロールのみに委ねられている面が強く、これを放置しがちな現状が続けば、ネット社会ではさまざまな弊害が頻発するおそれが高い。
  4. 故に、コードを適切にコントロールする仕組みをどのように構築していくかが、これからのネット社会が直面する最大の課題である。

上記のコードについての考え方は、レッシグの奇抜なアイデアというわけでは決してない。 レッシグとは逆のコードを作る側の証言としては、例えば前回紹介した「コンピュータ科学者がめったに語らないこと」において、世界を代表するプログラマの一人とも言えるクヌースは・・・コンピュータ科学は非自然科学です。 コンピュータ科学が扱うのは、人工的な事物であり、自然の制約により束縛されることはありません。(p167)webmaster注:強調は原文による)であるとか、・・・プログラムの作成は、往々にして小さな宇宙を創造しなければならないことを意味する(p169)と語っている。

この問題に対するレッシグのアプローチは、基本的には従来の社会のあり方をネット上にも投影するというものである。 比喩的にいえば、あくまで神のものは神に、カエサルのものはカエサルにと守備範囲を限定し、コードであっても不可侵の領域、つまり人知の及ばない限界を人工的に作ることにより、そうした限界があることを前提とした既存のルールが、何がしかのアジャストはするにせよ妥当する社会を是としている。

だが、そこにいたる道は限りなく険しい。 最大の障壁となるのは、知識・情報拡散の不可逆性だ。 いったんコードにより何かが実現可能とわかった段階で、その可能性を消去することは不可能である。 そんなコードは社会的にまずいから禁止だと言ってみたところで、それを誰かが作り出すことは止められない。 アングラの話は捨象するとしても、全世界で条約でも締結してみたところでタックス・ヘイヴンならぬコード・ヘイヴンができるに決まっている。

この問題が深刻であるのは、コードによりコントロールをする側だけではなく、コントロールされる側にとってもコードが有益であること。 コントロールする側にとってのみコードが有益であるなら、紆余曲折はあれどコードを制約することは達成可能だろう。 しかし、たとえばアングラサイトへのアクセス制限が子を持つ親やイントラネットを構築した企業の経営者にとって望ましいように、コントロールされる側がより強力なコードによるコントロールを歓迎する一面があることは否定できない。 むろん彼らとてコードの「悪用」には反対だろうが、毒にもならないものは薬にもならないし、何が「悪用」なんてものはケースバイケースなのだから、「悪用」のみを禁止すればいいといった単純な議論は成り立たない。

それではwebmasterに何がいい代替案でもあるのかと問われると、わからないと言わざるを得ないのが残念だ。 コードという限界のないコントロールを前提とした社会規範がいつかはできるだろうからそれまでの混乱は甘受すべし、というのが一番安直な選択肢ではあるが、BEfore We Are All Deadをサイト名に掲げている以上、それを選ぶことはプライドにかけてできない。

あえて言えば、人の欲望の際限のなさに希望があるのではないか。 コードによるコントロールが強化され続けるのも人の欲望の際限のなさ故であるが、そのコントロールの下で行われる人の営みもまた、欲望の際限のなさ故に広がり続けるであろう。 であるとすれば、「小さな宇宙」のthe Creatorにとってはハードウェアに起因する制約がコントロールの強度の限界となるが(無限の記憶領域と処理能力がない限り、コードのできることは有限だ)、さまざまな活動による情報量がその限界に達するのであれば、事実上コードの無制限性は剥奪される。 人がやりたいことをやりたいようにやる中で、従来では無限と区別のつかないほど高みにあった有限が地上に降りてくるシナリオは、あながちありえないものでもあるまい。

この限界はもちろん他の知的活動にも降りかかってくるものの、5・7・5というきわめて限定された世界で創作を行う俳人が顕著な例だが、幸いなことにcreatorsにとっては、そうした制約があろうと創造性はかえって刺激されたりもする。 こうしたthe Creatorcreatorsの立場や目指すところの違いを突き詰めていった先に、何らかの妥当な解があるのではなかろうか。

(ローレンス・レッシグ(2001)、「CODE−インターネットの合法・違法・プライバシー」翔泳社)

(2003-11-24記)

[みなごろしの会計] VI.流言飛語の死(税効果会計の真実)

最近の決算期には、特に金融機関がそうだが、税効果会計に注目が集まりがちである。 この税効果会計という代物、そのコンセプトはこの連載の「バランスシートは将来キャッシュフローから作られるべし」という主張の実例の一つであるのだが、それだけ従来の考え方では理解できないということなのか、各種の報道でも誤解に基づく解説がことのほか多いのも事実だ(この点、わかりずらいのは仕方がないとも考えられるが、銀行のディスクロージャーが改善されるといった前進もあり、今後レベルの向上が望まれる)。 来週以降、各社の中間決算発表が始まるが、その前に税効果会計の見方・考え方を整理しておこう。

まず趣旨から説明すれば、税効果会計とは、具体的には繰延税金資産と繰延税金負債という2種類のバランスシート科目をどのように評価するかについてものである。 繰延税金資産は将来支払うべき税金の額が減っていることのあらわれ、つまりどれだけ将来税金が節約できるかという額の見積もりであり、他方繰延税金負債はその逆、今払う必要はないが将来払う必要がある税金の額の見積もりである。 具体例として、有価証券の時価評価に伴う会計処理を考えてみよう。 ある時点xで評価した有価証券の価値が100だったとして、その後のある時点yで同じ有価証券を評価したときに価値が変わっている場合は、次のように処理されることとなる。

公認会計士でもない限り、税効果会計というものを理解し、報道内容が正しいかどうかを判断するには、これだけわかっていれば十分である。

ある解説を読んだときに、それが信頼できるものと言えるのは上記の考え方がわかって書かれているものであるとき。 繰延税金資産が多すぎるのではという指摘について、そもそも(税会計上)赤字である法人は税金を支払う必要がないため、税金が減額されるはずもないのだが、そういうメカニズムを明らかにし、この企業の課税所得はそんなに多くない一方で、税務上の欠損金は5年間しか繰り延べられないが5年間の課税所得額の合計では繰延税金資産として計上されている額に満たないことが理由だとしているものは信頼できる。

簡単な見分け方としては、「法人税等調整額」(税引前当期利益と税引後当期利益の差額。 ある期においてどれだけ税金を支払うのかなどを表す科目)であるとか、「将来減算一時差異」(企業会計と税会計のズレが一時的なものであるため企業会計上の損金が将来的には税会計上の損金として扱われる場合に、ある期において将来的に税会計上の損金として反映されるはずの企業会計上の損金の額。 ちなみに、一時がある以上恒久な差異もあり、例えば税会計上は認められない必要経費は将来においても反映されないというのがそれに当たるが、両者のズレであってもこの分は繰延税金資産としての計上は認められない)といった言葉が使われているかどうかを見ればよい。

他方で、信頼できない記事のパターンは様々だ。 最も初歩的なものは、「繰延税金資産がなければ資本が○割に減少する」といったもの。 他の資産科目、例えばのれん代には突然の減損リスクがあるからといって、じゃあのれん代がなくなったらひどいことになりますね、なんてことをストレートに書く人間はそれほどいないのに、なぜか繰延税金資産にはこの手の乱暴な議論をする人間が多い。 上の信頼できるパターンのようにきちんとロジックを示してあればともかく、そうした検証もなしに特定の資産科目を除いて考えるというのはナンセンスだ。

だいたい、バランスシートの読み方がわかっているかどうかも怪しいものが多々ある。 文脈を見ると、繰延税金「資産」が資本の部に計上されていると考えているんだろうな、と思わざるを得ない報道は決して少なくない。

これに似たものとして、繰延税金資産額の資本の額に対する割合が高ければ高いほど問題視するという傾向が挙げられる。 この割合が高くなる理由としては、繰延税金資産が多い場合と資本が少ない場合、そしてその双方が当てはまる場合があるが、繰延税金資産が多いことについては回収に努力が必要な傾向があるとも言えるものの、資本が少ないことは一概に悪いわけではない。 資本が少ないということはレバレッジが効き収益性が高くなる(そしてその分赤字に陥るリスクも高くなる)ということ。 エクイティファイナンスよりもデットファイナンスに傾斜するというのはデフレである現時点では不利な行動であり、その意味において全く合理性に欠けるわけではないが、一般化して論ずるのはバランスのとれていない見方に基づくものである。

税効果会計が企業会計と税会計のズレから生じたものであることをよくわかっていないものもある。 ある企業について、「赤字が続いているので繰延税金資産の計上が否認されるおそれがある」ということが書いてある場合は黄信号。 ここでいう赤字が税会計上のものであればともかく、企業会計上の赤字(で、これを指して使う場合がほとんど)が大きかったり継続している場合には、それが税会計上は将来においてのみ損金として認められるものであれば、繰延税金資産はむしろ多額の計上が認められてしかるべきだからだ。

このバリエーションとしては、やたらと何年分の計上かにこだわっているものもある。 「5年」といった取扱いは将来の課税所得額を見積もるための便法として用いられているに過ぎず、そこから議論を始めるのは目的と手段が逆立ちしていると言えよう。

「アメリカでは日本のように巨額の繰延税金資産は認められない。 アメリカ基準であればこの会社は債務超過だ」といった議論も見られるが、これは単なる勉強不足か悪質なデマゴギーのいずれか。 アメリカにおいて繰延税金資産が相対的に少なくなるのは、企業会計と税会計のズレが小さいため、あくまで将来減算一時差異の額が膨張しないことがその理由。 それを知らず盲目的にアメリカ基準を日本に当てはめるのが勉強不足のパターン。 そんなことは百も承知である会計の専門家が、それを隠してアメリカのようにすべきと語っている場合は、悪質なデマゴギーであるとしか考えようがあるまい。

(2003-11-24記)

[日本道路公団騒動始末記]−最近の出来事: the 4th week of November, 2003 (from 11-16 to 11-22)

11月21日 「『左遷』の3人本社復帰へ 道路公団、藤井色一掃の動き」との報道
11月20日 近藤次期道路公団総裁、記者会見にて採算性重視などを主張
就任時点で予想された動きが早くも顕在化。 公団民営化とその後の高速道路建設のあり方は、今年の年末に来年度予算とともに決着することとなるだろうから、あと1ヶ月が勝負所。 だからこそ、この時期に知事も高速道路建設の続行をアピールするわけだ。 来年度分だけ決定して先送りということがあり得ないわけではないが・・・。
11月18日 石原国土交通大臣、国有地払い下げに関してのイニシャル発言を事実上撤回
・・・もはや語るまい。 合掌。

関連リソース集追加サイト・ページ

(2003-11-24記)

[膝蓋腱反射]「三題噺−自民党税調、日テレ、東浩紀」

霞が関官僚日記11月15日付けの文章に関して、flapjack氏と議論させてもらった。 それを踏まえたflapjack氏の見解が、flapjackbookmarkにて公にされた。 これらに対する直接の答えではないのだが、最近のできごととからめつつ、思うところを綴りたい。

flapjack氏のような人と議論できるのは幸せなことだが、一つだけwebmasterの言うことを誤解しているふしがある。 webmasterは、国民の政治意識が低いことは悪いことだと考えていないのだ。

人が何かに興味を持つとして、それはその何かが好きなのか、事情があって興味を持たざるを得ないのかのいずれかだが、これほど世に「サーカス」があふれていれば政治が好きでなくても当然だし、好きでもないのに「パン」に困って政治に興味を持たざるを得ないのは不幸なことだ。 古の世であっても鼓腹撃壌は理想郷のひとつであったというのに、それが実現したからといって壊しにかかるべきではあるまい。。 普通の人であれば、自分の仕事や趣味のこと、好きな人や家族のことに関心を持つのが真っ当であり、そうしたことを二の次として政治向きの話題を生活の中心に据えているとすれば何か生き方を間違えているのだとwebmasterは考える。 2ちゃんねる風の言い方をすれば、プロ市民は逝ってよしということ。

政治と一口に言っても、その取り扱うテーマは極めて多岐にわたるし、一つ一つ取り上げればそれぞれが一生を費やして取り組むような複雑な問題だらけ。 官僚として、世に言う「政治」の一端に携わることで口を糊しているwebmasterであっても、自分の担当外についてはよくわからないことばかりだし、それを他の職業で活躍することにより世に貢献している人々がわからないことを責める気には到底なれない。 この傾向は、経済が発展し社会に流通する情報量が増加していく中で強化されることはあっても、その逆はあり得なかろうし、また、豊かになった各人がそれなりの発言をしたがる以上、百家争鳴の状況は混沌の度合いを増すばかりだろう。 立花隆がスノーの発言を引いて文系と理系の隔絶に警鐘を鳴らして久しいが、彼の努力とてしょせんは蟷螂の斧である(というか、立花隆自身、理系分野のテーマについては理解が怪しいと指摘されているわけだし)。 もはや、物事をよくわかったエリートの連帯感に基づく政治判断という理想像は、現実から遊離したものとしか言いようがない。

したがって、何らかの政策テーマがあるときに、その内容をできるだけ正確に伝えて判断を仰ぐということが望ましい、逆に言えばそうしたコミュニケーションがきちんとできればわかってもらえるというのは、そのテーマに携わる人間のエゴでしかない。 人々の政治に関する判断は、自分の専門分野であればともかく、その他の分野については政策そのものを見て行われるものではなく政治家を選ぶという形でしか行い得ない、つまりは政策を見たって判断不能なことについては、それを主張している人間を支持するかどうかでしか決めようがないからだ。

この点は、ある意味現代民主主義の前提となっている代議制民主主義が十分に機能しているともいえるのだが、古典的な意味での代議制民主主義とは変質しているのもまた事実。 何らかのコミュニティにおいて常日頃接する中で信頼できるか否かを見極めていくというのが古典的な代議制民主主義のありようだが、その手のコミュニティが崩壊過程にある以上、異なる手段でその手の信頼を勝ち得ることができた人間こそが、今の日本において人々の支持を集めることとなっているのだ。

小泉総理の支持率がなんだかんだいっても高止まりしているのは、今の政治家の中では小泉総理がこの点を一番きちんとおさえているから。 webmasterが総理用の資料を作成する際にも、いかに短くわかりやすいものとするかについて、官邸の事務方からくどいほど念を押される。 そうした小泉総理の手法は「ワンフレーズ・ポリティックス」などと揶揄されることも多いが、負け犬の遠吠えに過ぎない。 商品が売れないときに良さがわからない消費者が馬鹿だといっても始まらないように、小泉のよりも自分のほうが中身のあることを言っていると誇ってみたところで、良さを伝えられなかった側の負けである。

その象徴が、総選挙後に自民党税調のインナーが廃止されたことである。 インナーの象徴であった山中貞則が官僚や租税法学者、経済学者を含めてもなお日本で指折りの税制の権威であることは事実であるし、先のリンク先に張られてあるリンクに詳しいが、インナーを核とする自民党税調における政策決定はそれなりに合理的であったにもかかわらず、老害・密室とのイメージを覆せず幕を閉じることとなった。 密室というなら小泉総理の政治決断のほうがよほど密室なのだが(笑)。

こうした実態について、インテリ層が違和感を感じていることがまざまざと現れたのが、日本テレビの視聴率操作をめぐる騒動である。 テレビ局はあくまで私企業であり利潤追求が目的であって当然だが、スポンサーが視聴率をベースに広告料を決定している一方で、視聴率調査がビデオリサーチの独占事業でサンプルも少ないとなれば、こうした事件が今まで起こらなかったことの方が不思議だ。 今回の騒動について最も責められるべきは、日テレよりもむしろそんなあやふやな視聴率に基づき広告料を支払ってきたスポンサー。 財界が共同出資して視聴率会社を複数作るなどしていれば、こうした事件は起きようがないし、広告料の水準もより適正に決定可能だったということに過ぎないのだ。 それを倫理がなってないとか、志がどうのこうのとかいうのはメディアを過大評価しているとしかいいようがない。

なぜなら、そうした損得勘定とは違う何かに頼ったところで、ほころびが生じるのは不可避だからだ。 東浩紀のブログが頓挫したのは、そうしたメディア幻想がまさに幻想であることのひとつの証拠。 東浩紀が匙を投げるにいたる一連のコメントを見ると、それなりのレベルの人間が活発に議論をすることが結論の妥当性を裏打ちするものではないことがはっきりわかるだろう。 オルテガ以来の、大衆化の流れに対する社会エリートの抵抗の試みのひとつとして、ネットを通じた有識者の連帯が持ち上げられたこともあったが、結局は有効なオルタナティブ足り得てはいない。 世に何事かを訴えるのであれば、適切には伝えないメディアやわかってくれない大衆は所与の条件として戦略を考えるべきであり、エリートがメディアを通じたコミュニケーションで妥当な結論を導き出すというエデンの園を希求したところで仕方がないのだ。

(2003-11-24記)

2003-11-16更新分

[書評]:Omnia ad majorem Dei gloriam?−「コンピュータ科学者がめったに語らないこと」(ドナルド・E・クヌース著、滝沢徹・牧野裕子・富澤昇訳)

クラッシック音楽愛好家であれば、"OAMDG"(Omnia ad majorem Dei gloriam: 「すべてはより大いなる神の栄光のために」)という言葉を目にしたことがあるかもしれない。 敬虔なキリスト教徒として知られたアントン・ブルックナーアロイス・ツィンマーマンが、その芸術を神に捧げるために署名として用いた言葉である。 神への信仰を軸に著者がその才気を自由闊達に巡らせ、そこに当代一流の頭脳が加わって議論を交わした成果が結実している本書にも、その言葉は当てはまると言えよう。

何せクヌースは知る人ぞ知る「あの」クヌースであるし、MITという世界有数の土俵でガイ・スティールらが相方を務めると聞くだけで期待感がふくらむではないか。 そんな本書の土台は、同じくクヌースが1991年に出版した"3:16 Bible Texts Illustrated"という聖書に関する一冊の本であるが、本書はその延長線上にあってキリスト教や聖書に話題を限定することなく、様々な分野について、これ以上はなかなか望めない知的なエンターテイメントが繰り広げられている。

その神髄がもっとも鮮やかな形で示されているのは、「第4回講義−美学」に出てくる様々なカリグラフィだ。 上記の"3:16"とは、聖書の各文書の第三章第一節から数えて16番目の節という意味だが、その各節を世界中のカリグラファが多種多様なカリグラフィに起こしている(p33に一覧掲載されているが、せめてこのページだけはカラーにして欲しかった・・・)。 聖書という、非キリスト教徒の日本人から見るとホテルにおいてあるあまり読む木のしない本というイメージの題材から、これほどまでに異なるデザインが紡ぎ出されるさまは、文中で紹介される制作過程のエピソードとあいまって想像の連鎖をつくりだし、クヌース自身も今日お持ちしたポスターにその59節それぞれがありますが、これらは3:16のロゴも入れると、10×6のマトリックスにきれいに収まっています。このポスターをオフィスに飾ってから早くも10年が経ちますが、ちっとも見飽きることがないのは驚きです。(p32)と言っているように、どれだけ見ていてもあきない。

そのほか、「第2回講義−ランダム化と宗教」と「第5回講義−かいま見える神」はこれ以上なく面白い確率論の入門であるし、「第3回講義−言語翻訳」では言葉を学ぶことの果てしなさと、それが故の麻薬のような中毒性のある魅力の一断面を活写しているなど、知的好奇心あふれる人間にとって、どこをとってもインスピレーションが得られることは必定だ。

しかし、クヌースが聖書を論じている以上、やはり圧巻なのは「第6回講義−神とコンピュータ科学」であることは論を待たない。 特に、神の属性としての無限を不要としている点は極めて興味深い。 確かに無限という属性は、本質的に矛盾を招くこととなるので(例えば、「神は自分でも持ち上げられないほど大きな物体を作ることができるか。 もしできるなら、持ち上げられないものがあるため、全知全能ではない。 できないなら、できないことがあるため、全知全能ではない。 従って、神は全知全能ではない」ということ)、有限とすることは理に適っている。

もちろんクヌースは、有限であってもその限度が人間が認識できないほど高い水準にあるのであれば、人間から見れば無限と区別ができず、有限であることと畏敬の念は両立するという趣旨で言っている。 ところが、この指摘は神の偉大さにとって本質的な脅威である。 さすがにムーアの法則はそれほど遠くない未来に妥当しなくはなるだろうが、それでもコンピュータの処理能力が向上し続けることは間違いないからだ。

本書掲載のパネルディスカッションでミッチ・カポールやマヌエル・ベローソが言っているように、SFで語られているような人工知能はそう簡単にはできないだろうが、それでも将来のいつかには、必ずコンピュータの処理能力は人間にとって無限とした言いようがないものとなるだろう。 十分に高い水準にある有限は人間から見れば無限と区別できないというクヌースの指摘は、いつの日かコンピュータと神が区別できなくなるという予言に等しい。 それが22世紀なのか23世紀なのかはわからないが、哲学や神学に携わる人間にとって史上比すべきもののないフロンティアが待つ時代の幕が開いたと言えよう。

最後に、webmasterは無神論者を自認しているが、本書がキリスト教という土台あってのことと考えると、やはりキリスト教という一つの体系が持つ幅広さや奥深さには一目置かざるを得ない。 先に紹介したカリグラフィにしても、世界中のカリグラファによる作業が可能であったのは、それだけの普及があってのこと。 もちろんそれほどの体系だからこそ、歴史上魔女狩りに代表されるような様々な悲劇を残してきたのもまた事実であるのだが。

(ドナルド・E・クヌース(2003)、「コンピュータ科学者がめったに語らないこと」SIBaccess)

(2003-11-16記)

[日本道路公団騒動始末記]−最近の出来事: the 3rd week of November, 2003 (from 11-09 to 11-15)

11月13日 次期道路公団総裁に近藤剛参議院議員内定
11月14日 近藤剛参議院議員、道路公団総裁就任を正式受諾
やっぱり小泉総理は「民間人」と言える人物でなければならないとこだわった。 民営化後の初代社長就任も視野に入っているとのことでもあり、彼の経歴も併せ考えると、今後の公団改革の道筋は次のようなものとなる可能性が高い。 まず、道路公団のバランスシートを徹底的にきれいにすることは必至。 自分が就任した後で経営状況が悪化する事態は回避しなければならないので、不採算部門はできるだけ国に移管させ、民営化した会社が引き継ぐ資産についてはめいっぱい引当を積むというインセンティブが働く(最近りそなで細谷会長がやったことと同じ)。 方や、会社の財務に比べれば道路建設に対する思い入れはないだろうから、あくまで道路建設は国の仕事として押しつけたがるはず。 これは以前紹介したように、公団内部の改革派事務系職員の考え方に極めて近いものであり、彼らが重用され、他方で技術系職員は冷遇されるか、民営化の際に国が担うであろう建設部門に多くが転属させられる可能性が高い。 象徴的な人事として、片桐幸雄を抜擢するなんてこともあり得るだろう。

関連リソース集追加サイト・ページ

近藤剛 次期日本道路公団総裁(参議院議員、元伊藤忠商事常務取締役)
関連ページ等:公式サイトYcaster/Day by Day(11月13日19:18の記事)google検索

(2003-11-16記)

[膝蓋腱反射]「イラク撤退へのスケジュール」

11月15日、イラクの暫定占領当局(CPA, Coalition Provisional Authority)とイラク統治評議会(IGC, Iraqi Governing Council)との間で、来年6月末での占領終了を含む今後のスケジュールが合意された。 アメリカ兵の死者が増加する中で、来年の大統領選もにらんでの決断だろうが、これは明らかに占領統治の失敗を示すものだ。

治安維持がキーポイントということはわかりきっていたのに、自軍で完遂もできなければ各国の協調体制を確立もできずという、予想はしていたが当たって欲しくなかった結果に陥ったのだ。 多分深読みする解説がいくつもでてくるだろうが(例えばネオコンが軍需産業と結託してわざと混乱を長引かせているのだ、といったもの)、単に失敗しただけというのがwebmasterの予想。 ブラックホーク・ダウンで有名となったクリントン政権時代のソマリアでの失敗が最近の例だが、とことんアメリカという国は占領統治が下手で、日本でのGHQのような成功例の方がよほど稀だ。

それは戦後に意志の集中が続かず腰が引けてしまうことが原因なのだろうが、モンロー主義に象徴的なアメリカの孤立主義指向の悪いところ。 とことん孤立してくれるならまだしも、引っ掻き回すだけ引っ掻き回してから、というのがたちが悪い。

こうなった以上、自衛隊派遣も当面は見合わせるべきであり、アメリカと違って中東が混乱したら本当に困るEU諸国などとの、新たな枠組みの模索を先行させねばなるまい。 アメリカは自衛隊が付き合っているからといって自国の撤退を遠慮する国ではないし、中東の石油がなくてもやっていける国だからだ。 イラク国民にとっては不幸なことだと思うが、イラク国民のために日本が献身的になる義務などないわけだし。

今回は本件に関し、読者からのメールを紹介しよう。

私は、はっきり言って戦争が嫌いです。 昔の人で「良い戦争、悪い戦争などあったためしがない」と言った人がいましたが・・・まったくその通りだと思います。 良い戦争なんてあってたまるかと思います。 戦争が起きて、勝った国であろうと(←負けた国なら尚更)人が一人も死なない戦争なんて聞いたことがありません。 そして、往々にして死ぬのは偉い人じゃない。 (←webmasterさんに対しての言葉ではありませんので・・・ごめんなさい。) いつもいつも、戦争で死ぬのは、戦争で悲しむのは、本当のことを何も知らない一般の人たちです。 私は、現在自衛隊の派遣がどうのこうの言っている人たちの目の前で叫んでもいいです。 「お前が行けっっ!!」と。 攻撃に荷担しなくても戦場に行けば、死は隣にあるかもしれないのです。 日本の自衛隊の人であろうと、アメリカやイギリスやイラクの軍陣であろうと、みんな待っている人がいるのです。 家族にとってはその人が何をしようと大切な人であることに違いはないのです。 そんなことは考えないのでしょうか? 私は、看護師として、命が生きるために戦う現場にいる人間として、死に向かって行くような戦争という行為が赦せません。

そもそも。 核兵器を作るなと他国にいうなら・・・世界中の誰もが核兵器を棄ててしまうという考えはないのでしょうか? そんなもの無くても人間は幸せになれます。 いつもいつも、他の国の顔色をうかがう日本の官僚が私はバカバカしくてたまりません。 大体、1番を決めてどうするんでしょう? みんなでお互いを高めあっていくような気持ちはないのでしょうか? このまま戦争を続けたら、このまま競い合うだけなら、このまま顔色を窺うことをやめなければ・・・きっと世界は悲しい結末しかみないのではないかと私は思います。

言いたいことはわかるが、1つだけ答えさせていただこう。

それは、戦争の開始には大いなる矛盾があるということ。 歴史上、チェンバレンらの宥和政策がヒトラーを増長させ第二次世界大戦を招いたことは有名であるし、また、今のイラク情勢の淵源となった湾岸戦争にしても、アメリカ大使がフセインのクウェート侵攻を許容するかのごとき言動をしたことが引き金となった。 今のイラクにしても、アメリカが戦後も緊張感を緩めず本気で残敵掃討にあたっていれば、少しにましになっていたはずで、中途半端に手を緩めた結果、事態は悪化の一途をたどることになってしまった。 つまり、戦争をしないと相手に思われることは、戦争につながる危険性を大いに高めることになるので、戦争をしようと決意すればするほどかえって戦争が抑止できるという逆説が成り立つ。

他方で、戦争をするとの気分を高めすぎてしまうと、本当は戦争をすべきでないにもかかわらずブレーキが効かなくなるのもまた事実(戦前の日本がまさにこれだ)。 どんなシチュエーションであれど戦争などしない方がいいのは当然であるが、そのためには戦争をするともしないとも決めてはいけないとしか言えない。 戦争が嫌いというのはもっともだと思うが、本当に戦争を回避したければ、戦争反対と凝り固まるのは得策でない。

webmasterが言うのもなんだが、当サイトを読んでいる人であれば、わかっていただけるのではないか。

前回の補足

保守新党は予言どおり自民党に合流するは(さすがに月曜日とは思ってなかったが)、社民党の土井党首は辞任するはと、選挙の結果を受けいろいろな動きがある中で、さまざまな意見や分析を目にし、それぞれにうなづく点も数多くあったが、出色のものを一つ紹介させていただこう。 Irregular Expressionである。 2ちゃんねるで結構コピペされているので目にした人も多いと思うが、比例の得票数についての分析は見事。 前回の総選挙があの森政権下で今回はそこからのゆり戻しがあったことなど、重箱の隅をつつけないわけではないが、ここでの指摘には本当に目から鱗が落ちる思いであった。

(2003-11-16記)

2003-11-09更新分

[書評]:嗤うべき逆説−「さらば外務省! 私は小泉首相と売国官僚を許さない」(天木直人著)

外交官試験が廃止されて以後、官庁訪問の学生の相手をしていると、外務省志望者は結構多く、学生の間での人気はかなり高い。 しかし、他の就職時に人気のある省庁−財務省、経済産業省、総務省、警察庁が代表格−とは異なり、霞が関内部での外務省の評判は相当低い。 無論、それら4省庁についての悪口も多く聞くが、それは力を認めるが故の期待感の裏返しであったり、半ば賞賛混じりでの−かつてアメリカで通産省が"notorious MITI"と称されたように−憎まれ口であったり。 これと異なり、外務省は本気で軽蔑される傾向が強い。

なぜかと言えば、端的には世間知らずで浮世離れしており、自分の世界に閉じこもりがちであるから(これは各省庁に多かれ少なかれ当てはまる通弊であるが、その中でも外務省のひどさは際だっている)。 本書は、外務省がそうした評価を受けるのも当然であることをこれ以上なく明らかにしている。

こんな馬鹿を大使に就任させ、日本を代表する権限を与えてしまうような組織だからな!

正直に言えば、webmasterは本書を購入し、著者にいくばくかの印税収入をもたらしたことを心から後悔している。 少しでも多くの人がそうした過ちを犯さずにすむことに役立ててもらうのが、本稿の目的である。 webmasterの指摘が正しいかどうか、以下を見て判断されたい。

思うに戦争とは外交の対極にある行為である。(p24)
「戦争とは他の手段をもってする政治の延長である」 by クラウゼヴィッツとか、「政治とは血を流さない戦争であり、戦争とは血を流す政治である」 by 毛沢東とか、そういった言葉を知らない外交官というのがこの世に存在するとは思わなかった。
「外交は感情や正義感で行うものではなく、利害得失を考えて行うものだ」となんのためらいもなく言い放つ竹内の姿勢に、私は違和感を抱き続けてきた。(p56)
竹内(行夫、現外務事務次官)の発言のとおりに外交は行ってもらわなきゃ困るだろう。 だいたい筆者が罵っているアメリカ外交なんて、正義感の押しつけが過ぎるのが問題であることぐらいわかれ。 とりあえず世界史の教科書を100回読め。
最大の対外債務を抱えている米国経済が繁栄を続ける一方で、世界一の外貨準備高を誇る日本がなぜ未曾有の不況から抜け出せないのか。 すでに専門家の多くが指摘しているように、為替・金融政策における日米間の闘いに日本は敗れたのである。 日本政府は、国民の犠牲の下に米国経済を支えてきたのである。(p73)
「専門家の多く」って、吉川元忠とその亜流以外に誰がいるのだ? とりあえずエコノミスト・ミシュランを100回読め。
レバノンという国の大使にまず求められるのは、社交上手で、経済事情に通じた人物である。 というのもレバノンは、政治的には隣国シリアの強い影響下にあり、独自外交の余地は限られている。 そのかわり、社交を通じて情報収集をすることが期待される状況にある。 ・・・いわば、もっとも外交官としての資質が必要とされる国である。(p95) &・・・当時オーストラリアは、労働党のキーティング首相の下でアジア志向を強めており、経済関係を中心に日本に対する期待が高まっていた。 しかし、そうはいっても世界の中心からほど遠いオーストラリアである。 気候はよいしゴルフには最適な国ではあっても、緊張するような外交案件は皆無といってよかった。 私は物足りなさを感じていた。(p193)
社交上手で経済がわかるなんてのは、どこの国の大使にだって必要とされる資質だろうに、なぜかレバノンに熱い思い入れのある筆者にかかるとレバノンでこそ必要な資質になってしまう。 中東事情に筆者ほどは詳しくないことを認めるにやぶさかではないが、常識的に考えて、レバノンがシリアの強い影響下にあるなら、より優秀な外交官が求められるのはシリアだろう(笑)。 他方で思い入れが薄かったと見えるオーストラリアについてはさんざんな書きようだ。 気候がいいとかゴルフに最適なんてのは、筆者は褒め言葉のつもりで書いているのかもしれないが、オーストラリアにとっては相当な侮辱。 なんのことはない、中東のように外部環境が仕事をせざるを得なくするところでは働くが、オーストラリアのように深刻な状況がない中で自分から課題を見つけて働くことが苦手なだけじゃないのか(笑)。 当の本人が全然経済事情に通じてないのは先に書いたとおりであるし。
「海外に居住する日本人にも選挙権を与えよ」と、物好きな一部の邦人が主張したことから始まったいわゆる在外選挙制度は、外務省と自治省(現・総務省)との長年にわたる交渉の末、外務省が事務の大半を押しつけられる形で、二〇〇〇年の国政選挙から実施された。(p166)
ここからも自分が興味を持つ仕事しか重視しない筆者の姿勢がよくわかる。 「物好きな一部の邦人」って、「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である(日本国憲法第15条第1項)」ことを知らないのか。 それとも在外邦人は国民でないか、国民の権利を剥奪されても仕方がないような立場にあってしかるべきとでも思っているのか。 だいたい、在外邦人のよろず窓口が在外公館になるのは当然なのに(婚姻・出産関係の事務など、日本であれば他省庁の所掌であっても外国では在外公館が窓口となって処理する事務はいくらでもある)、「外務省が事務の大半を押しつけられる」なんて言うようでは、よほど外務省はご高尚なお仕事のみをやるべきとの使命感に燃えているに違いない。
・・・本来行わなければならない困難な外交に本気で取り組むことはない。 典型は、沖縄の米軍基地縮小問題である。 そもそも面積が国土の〇・六パーセントにも達しない沖縄県に、日本における米軍基地の七五パーセントが集中していること、そしてそれを放置し続けていること自体、日本政府が沖縄をいまだ日本と見(ママ)なしていない証である。(p190)
南沙群島をはじめ、東南アジア近辺で中国がやっていることを考えれば、南シナ海に米軍基地が不可欠なのは当然。 しかし、台湾に米軍が駐留すれば米中関係がのっぴきならないものとなるし、スービック・ベイ(フィリピン)ではろくなホストネーションサポートが得られず、まさに沖縄にしか置きようがないのだ。 あのあたりに駐留する軍隊が確保しなければならない行動半径は優に1,000kmを超えるが、専守防衛を国是としてきた日本がそうした軍備を置くことは選択肢としてあり得なかった。 冷戦華やかりし頃でも北海道防衛の主役は陸上自衛隊だったように、沖縄に空自・海自が必要な展開能力を有するのであれば米軍基地を縮小させ、あくまで日本自身で兵力を展開することも考えられるが、そのためにはヘリ空母や空中給油機など、今ですら導入に議論がある兵器をそれなりの規模で配備しなければならない。 ってなこともわかってないんでしょうな。
そもそも制度上、キャリアとノンキャリアの試験がべつに設けられているのだから、優秀な者や志の高い者がキャリアの試験を受けるのは自然である。 最初からノンキャリアの試験を受けるような奴は、歩留まりを見越した敗北者なのである。 それでも、多少とも骨のあるノンキャリアなら、外務省に入ってから、その処遇の歴然とした差を見せつけられたとき、発憤してキャリア試験を受け直すか、さもなくば役人人生に見切りをつけて、早早と辞めるかどちらかの道を選ぶ。 しかし、そのいずれでもないノンキャリアは、幹部にごまをすって少しでも甘い目を見ようとするか、あるいはやる気をなくして不満を抱えながら日々の生活を送っていくかのどちらかに堕していく。(pp208,209)
ここで言うキャリアとして、もう短いとは言えない霞が関暮らしを送ってきたwebmasterであるが、ここまでひどい発言は聞いたことがない。 外務省の実態は知らないので実は当たっているのかもしれないが、普通の省庁では、キャリア・ノンキャリアは大まかに言えば企画立案部門と実戦部門という役割分担(もちろん実態はそれらが渾然一体としているが、あくまでラフなイメージとして)であり、キャリアなくしてノンキャリアなく、ノンキャリアなくしてキャリアなしである。 上記引用部分の続きには、出世の見込みがなくなったとみなされたキャリアは、色々な形で誹謗中傷の標的とされる。 普通のキャリアなら大目に見てもらえるミスであっても、落ち目になったキャリアが犯したときの仕打ちは悲惨だ。 「だからキャリアは駄目なんだ」と、不当なバッシングを浴びせられる。 とあるのを見ると、単にノンキャリアの人々からひどい扱いを受けたことに対して、今ここでその意趣返しをしているとしか思えない。 言っておくが、本書を読む限り、ノンキャリアが筆者につらく当たったのは出世しなさそうであるからではない可能性が極めて高い。 面白いと思う仕事は人の領分にも手を突っ込み、つまらないと思う仕事は自分の担当であっても人に押しつける姿勢が招いた、自業自得の結果と考えるのが妥当だ。
憲法論議で最も重要なことは、このまま日米軍事同盟を米国の言いなりに強化していくことを許すのか、あるいは本来の平和憲法の精神を明確にさせ、日本独自の安全保障政策を国民的合意の下に作っていくのか、いずれの選択を迫られていることを認識することである。(p228)
この言葉だけを取り出せばそれほどおかしいわけではないが、文脈を捉えた場合、「日本独自の安全保障政策」とやらが非同盟・軽武装で可能と考えているところが狂っている。 北朝鮮が核武装の意図を有している以上、どこの核の傘にも入らないという選択はあり得ないが、あり得る核の傘はアメリカ、ロシア、中国、そして日本自身の核武装の4つしかない。 議論すること自体はかまわないが、アメリカ以外の核の傘に入る選択肢が得策という理論構成はどう考えてもあり得ないだろうに。 そのことと、必要な意見をアメリカに主張していくことは十分に両立可能である。

断っておくが、以上は目に余るものを抜粋しただけで、そのほかにも電波ゆんゆんな記載がそこかしこにあふれている。 本書でいくつも披露されている外務省のなさけないエピソードの数々は事実であろうし、それを知るために読むことまでを否定するわけではない。 しかし、本書を買って著者に印税収入をもたらし、自分の意見は世にあまねく通用する立派なものだという妄想をかきたてるのは、日本にとって百害あって一利なし。 どうしても読みたいのであれば、図書館なり人から借りるなりして読むことを強くお薦めする次第である。

(天木直人(2003)、「さらば外務省! 私は小泉首相と売国官僚を許さない」講談社)

(2003-11-09記)

[その挑戦、受けよう(仮)] その5:「官僚OB 新人候補座談会 霞が関を捨て、永田町を襲う理由」

今回の挑戦者

プロファイル
井上信治、上野賢一郎、北神圭朗、田村謙治、福島伸享, 2003, 「官僚OB 新人候補座談会 霞が関を捨て、永田町を襲う理由」, 月刊現代12月号, pp219-228
主張の概要
  • 上記の5人がそれぞれ官僚時代の思い出や選挙に出馬した意気込みを語る(各人のスタンスに違いがあるので、「主張の概要」としてはりまとめない)。

対戦の結果

まず、選挙前(自己申告で恐縮だが)にそれぞれの主張を論じてみよう。 まずは自民党から出馬する2人。

井上信治

この人も改革が大好きなようで、私は自民党の内部で一生懸命頑張っている小泉さんを微力ながらサポートしてあげんたいんです。(p222)自民党にはとても期待しているし、自民党の中から小泉さんをサポートして改革のお手伝いをしたい。(p227)なぜ小泉総理が再選されたのかよく考えてください。 国民に圧倒的に支持されているということは、国民の声を反映しているということ。(p227) といった発言に見られるように、小泉総理への共感を示している。

しかし、どこまで深く考えてのことかについては大いに疑問だ。 私はもともと政治家志望で、役所に入ったのも国の行政を学びたいという思いがあったからですが(p223)という以上、長くは考えているのだろうが、それに続いて予想していた以上に役所はひどいなという思いが強かったですね。(ibid) と言ってしまうあたり、9年あまりの官僚暮らしで何を学んだのかが見えてこない。

国交省の若い役人も、人が通らない道路はいらないと内心では思っているのに決して外に向かっては言わない。 個人としての意識と役所という組織としての意識が全然違うんです。(ibid) と言うが、あまり使われない道路はいらないだろうという結論にはwebmasterとて異論はないものの、ではなぜそうした道路が作られ続けるのかについてきちんと考えた様子が伺えない。 地方議員が業者と癒着しているんだろう、というそれ自体は正しい事実認識で止まっている気配が濃厚で、ではなぜそうした事態が起き、それをどうしたら是正できるのかについて思いが及んでいる様子が感じられない(小泉サポーターを自称しているぐらいだから、どうせ・・・。 戦後60年かけて作ったシステムを変えていくのは大変な作業ですよ。(p225) との発言をみると、うすうす感じるぐらいのことはあるとは思うが)。

外に向かって発言するために出馬したというなら、メディアにそうした発言をして何かをした気になるのではなく、古賀誠らに面と向かって主張をするだけの覚悟がなければなるまい。 改革一辺倒であっても、そこまで極めているとしたらあっぱれである。

上野賢一郎

(財務省が減税に反対するのはおかしいとの意見に対して)いや、おかしくない。 財務省はできるだけ税源を守っていく。 通産省(現経済産業省)はベンチャー支援をやってくれというのが仕事です。 所轄官庁としては当たり前のことじゃないですか。(p220) というあたり、なかなかの見識をうかがわせる彼が政治の道を選んだのは、従来の官僚主導ではなく、政治家がしっかり決断する政治が必要だということです。(p220)政府の機能を政治家主導の形に変えていくというのは、自民党でこそ可能だと確信しています。(p224)、(構造改革特区について)あのときは鴻池さんが各部会の反対をねじふせてリーダーシップを発揮し、小泉総理がOKを出した。 自民党の中でこういう改革をしたいと思った。(p224)という発言に見える、政治の決断への期待である。

しかし、部会での意思決定が自民党としての意思決定に通じるという現状も、彼のイメージには違うであろうが、一つの政治決断であるとの理解があるや否や。 彼の望む政治決断とは、ある種の現状否定を伴うものであると考えられるが(部会(そして当然ながら、そこに諮られる役所の原案も)などでは、現状の足らざるを補うという形での決断にとどまりがちである)、それは小泉総理のような短慮・蛮勇・暴論の帰結。 彼の意に反する乱暴な政治決断に直面したときに、それでもその決断を尊重できるかどうか。 そこで悩んだときに、政治家として一皮向けるのではないかと期待したい。 その決断がいずれであっても。

そのためには、石原伸晃さんや塩崎泰久さんら、これからの自民党を支える人々(p227)という認識は改めるべきだろう。 以前触れたが、政策新人類と称される彼らは自分の正しさに酔って反対する人間を説得する労を厭う人間である。 そんな彼らに同調しているようでは、あまり人間に深みがでず、先に言ったような一皮向けることは期待できなくなってしまうからだ。 それより「経済学者たちの闘い」(当サイトの書評でもいいからさ)を読んで、マッケンナの立場に身をおいてのロールプレイをするよう勧めたい。

続いて、民主党から出馬する3人。

北神圭朗

今回の挑戦者5人の中でwebmaster一押しなのが彼。

まず、出馬を決めてすぐ、地元で大会があったんですが、その数日前に、「『役所について、どう思いますか?』 という質問をアンタにするから、そこで『大嫌いだ』と答えなければオレは認めない」と、事前通告してきた党員の方がいた。 その人はめちゃくちゃ真剣です。 でも「大嫌い」だとは言えないですよ。 私はOBだし、それは嘘になってしまう。(p219)というのがいい。 そんなに率直で政治家としてやっていけるのか、と思わず心配してしまうほどだ。

そのほかにも、民主党は基本的に利益団体がないから改革ができる。 郵政の部分にあるかもしれないけど。(p225)組織の内部にいろんな派閥があるのは当たり前です。(p226)民主党だって、政権を取って何年かたてば、自民党と同じようにそれなりに利権やしがらみが生じますから。(p228)いろんなしがらみや利権が出るかもしれないけど、そのときはまた自民党さんに出番を願ったらいい。(p228) といった一歩引いた、自己陶酔に陥らぬよう抑制された認識をする能力があるというのは、当サイトの読者なら得心するだろうが、webmasterの好みなのだ。

また、私は野中さんと戦りたかったね。(p219) というのもいい。 本人の気質なのかもしれないが、あの野中広務とガチンコで戦ったことがあるという経歴は、たとえ負けても箔になるということが、多分わかっているのではないかと思う(彼が京都4区で出馬を表明したのは野中引退発表よりも前)。

田村謙治

上の北神と好対照なのがこの田村。 既述のとおり上野に反論された95年ごろは主税局にいたんですが、「ベンチャー企業促進」策として優遇税制が俎上にのぼっても、財務省というのは他の先進国のなかから「優遇をやってない国」のデータを探し出して、現行の制度を守ろうとする。 おかしいでしょう。(p220) という発言をしたのが彼だ。 そんなにいやだったらもっと早くやめればよかったのに。

先ほど、自民党も民主党も変わりがないという話が出ましたが、スピードが決定的に違う。 ・・・スピードを遅くするのは、結局は利権や特権などのしがらみですから、改革を進めたくても構造的に無理なんです。(p225)結局、絶望感や危機感の度合いの差なんでしょうね。 ゆるやかな改革でも大丈夫だろうという人は自民党。(p226)いまの自民党は7〜8割が抵抗勢力で、トータルの政策を考えたことがない人ばかりでしょう。 やっぱり自民党に期待はできませんよ。(p228) といった、物事を一面的に捉える姿は好感できない。

まあ、「政策新人類」と呼ばれたような自民党の若手の一部は違うと思いますけど。(ibid) とのことなので、彼らと同じようにご立派な主張をどうぞお続けください。

福島伸享

私もいまの官僚自体を批判するつもりはありません。(p219) だなんて、以前言っていたこととずいぶん違うんじゃありませんか?

今回の対談を見ると、彼の本質はディベイターなのではないか、とwebmasterは考える。 つまり、言っていることが前と違うというのは、そのときの場の雰囲気に応じて言葉を使い分ける癖があるということなのだろうが、用いているレトリックはなかなかうまい。 上記リンク先では彼をこき下ろしたwebmasterではあるが、そこでの議論が一般に受けがよかろうということを否定するものではない。 今回の対談にしても、党は違えど改革を目指し官僚をやめた人間同士で闊達な議論を、という編集の意図をよく汲み取った上での気の聞いた発言が多い。

しかし、哲学ともいうべき思考のバックボーンが弱いというのもまた先に指摘したとおり。 こうした人間が政治家としていいのかどうかと問われれば、やはりいかがなものかといわざるを得ないだろう。 というか、私は通産省という何の権限もない役所にいたんで、各役所の予算や補助金に茶々を入れる仕事ばかりしていた(p224)というのが適職だったのではないか。 通商問題で農水省との国内調整がろくにできないなど、本来やるべき仕事があるわりに、それに尽力しないままそうしたことをやる経済産業省は実に評判が悪く、そこで彼のような人間が活躍すればますますその傾向は強まるだろうが、いかにも経済産業省の一面を体現した人物であるのは事実だ。

なお、彼の政策新人類に対する自民の政策新人類とか二世の人たちってアメリカの大学を出ていたりして、たしかに頭はいいんですよ。(p228)飲んでる場やマスコミの前ではなかなか立派なことを話すんですが、部会に行くとぜんぜん違う。 「俺は同期で最初に内閣府の副大臣をやったぞ」とか、「橋本さんに話ができる何回生議員は俺だけだ」とか、そういう話ばっかりしている。(p228) という評価については、もう食傷義務かもしれないが(笑)、webmasterは全面的に同意だ。

さて、開票結果が出揃った。

選挙が終わってみれば、井上信治が唯一当選し、残る4人は落選となった。 北神や上野が落選したのは残念に思うが、それもまた彼ら自身が選んだ道の定めであり、仕方がなかろう。 特に北神については、エキセントリックな人間が多い民主党において、あのように自分や所属組織を客観視できる人材は大変ありがたいので、これに懲りずまたチャレンジして欲しい。

(2003-11-09記)

(2004-06-27一部修正)

[日本道路公団騒動始末記]−最近の出来事: the 2nd week of November, 2003 (from 11-02 to 11-08)

11月6日 次期総裁に牧野総理補佐官(元建設事務次官)、補佐官の後任は猪瀬直樹氏か? との報道
ニュースソースは「複数の首相周辺」とのことだが、いわゆるアドバルーンとしてのリークであろう。 これといった反発も出なかったので、一つの有力な選択肢になり得たということなのだろうが、最後に残る高いハードルは総理本人がどう考えるかということ。 先の組閣において、竹中大臣が金融担当から外れるとのニュースが流れたが外れたように、小泉総理に関しては周辺情報があてになるとは限らない。 小泉総理の成功体験からすると、民間人を新総裁にするという選択をしたいとの思いは依然として強いと考えられる。 ただし、結局藤井前総裁は投票日より前には提訴しなかったということは、彼に対して何らかの働きかけをしてなだめた人間がいることを伺わせるが、もし牧野氏が新総裁になったとすれば、そうした働きかけをした人間が彼を推していて、小泉総理もその功績に報いたということなのではなかろうか。

関連リソース集追加サイト・ページ

(2003-11-09記)

[膝蓋腱反射]「総選挙2003特集・後編−結果」

メディアでは民主党の躍進という言葉が踊るだろうが、各政党を勝った順番に並べれば公明党、自民党、民主党(一応ここまでは勝利と言える。 2ちゃん風に言えば>>>>>越えられない壁>>>>>)、保守新党、共産党、社民党というのがwebmasterの見解。 与党対野党については、与党に軍配が上がろう。 とりあえず前回の予測が当たってwebmasterとしてはなによりである。

公明党は、低い投票率も手伝ってか3議席増加で34議席。 与党全体での議席数が少なくなった中で相対的な存在感を増し、キャスティングヴォートの威力を高めた。 リフレ政策に一番理解のある政党なので、連立与党の中でリフレ政策の実現に向けて努力してもらいたい。

自民党は237議席と単独過半数241を下回ったかにも見えるが、実際にはそれほど痛手をこうむったわけではない。 なぜなら、無所属で当選した11人のうち、秋田3区の御法川信英、山形3区の加藤紘一、静岡7区の城内実、兵庫9区の西村康稔、鳥取2区の川上義博、福岡11区の武田良太、熊本3区の坂本哲志、宮崎2区の江藤拓、宮崎3区の古川禎久の9人が自民党系無所属であり(田中真紀子も入れれば10人だが(笑))、これらの少なくとも過半は自民党に入党するか、無所属であっても自民党と連携した動きをすることが予想されるので、結局は自民党単独で事実上過半数である241を確保しているも同然だからだ(坂本はあの鈴木宗男と並び称された松岡利勝に逆らっての出馬であるが、松岡は比例で復活しているので今後の動きは予断を許さない、といったそれぞれの事情はいろいろとあるにはある)。 もう少し議席を減らして構造改革路線にお灸がすえられ、公明党が抜けたら連立政権崩壊となるぐらいがちょうどよかったと思うのだが。

民主党は177議席と40議席を増加させ、さらに比例区では自民党の69議席を上回る72議席を獲得したため、健闘したとはいえる。 が、「政権選択選挙」を掲げて戦った以上、政権獲得に失敗したどころか、与党に絶対安定多数のボーダーライン269を上回る275(先の自民党系無所属を加えれば284)もの議席を許したことは失敗と受け止めて真摯に反省すべし。 昔の社会党のように、野党第一党としての議席数増加を喜ぶような立場に甘んじたいのであればこんなことは申しませんが。

これ以下の3党はいずれも議席を半分以上失うという大敗を喫しているが、一番ましなのが保守新党。 党首が落選し辞任に追い込まれるような状態のどこがましか、との声が聞こえてきそうだが、これほど負ければ独自政党へのこだわりが消えるだろう。 自民党に吸収されるという将来像が現実味を帯びてきたことは、政党という法人格にとってはともかく個々の議員やその支持者にとっては、慶賀すべきであろう。

共産党社民党はどちらがより悲惨かという争いだが、喪失した議席数と、あの土井たか子が選挙区では負けたことを考えれば、社会党こそが今回の選挙における一番の負け組みということに異論はないだろう。 共産党は組織がある分だけ救われたのだろうが、いずれにしたって、どちらの党もいい加減に「護憲」「戦争反対」を唱えているだけでは社会から遊離するだけという現実を見つめた方がいい。 又吉イエスのように、2ちゃんねるでのみ妙な注目のされかたをするような存在になりたいというなら話は別だが。

最後に与党対野党については、民主党のところで書いたが、絶対安定多数を確保している以上与党の勝利。 民主党が議席を増やしたといってみたところで、他の野党が大幅に議席を減らしたこともあり、5回コールド負けが7回コールド負けになった程度の話だ。 真に政権奪取を目指すのであれば、民主党はあと1年足らずで訪れる参議院議員選挙に向けて大胆な戦略の見直しが迫られよう。 投票率が高かったらって言ったところで、投票率が上がるような魅力的な選挙を演出できなかったことだって反省すべき事項の1つなのだから。

(2003-11-09記)

2003-11-03更新分

[書評]:暗闇への更なる跳躍−「平成15年度 年次経済財政報告−改革なくして成長なしIII−」(経済財政政策担当大臣報告)

"A Leap in the Dark"−暗闇への跳躍−とは、以前クルーグマンが小泉構造改革を評したコラムのタイトルであり、その内容を端的に表しているのは、次の2文につきる。 すなわち、The implicit slogan of the Koizumi government is "reform or bust." But it is dangerously likely that the actual result will be "reform and bust." (小泉政権の盲目的なスローガンは「改革か、破滅か」だ。 しかし、実際の結果は「改革して破滅」となる可能性がおそろしいほど高い。)

そうした警告にもかかわらず暗闇に向かい跳躍し、しかしながら今のところ破滅から免れている小泉政権であるが、ここに更なる跳躍を遂げた。 それが、今回の経済財政白書である。 更なる跳躍とは、昨今の株価に代表される経済情勢を構造改革の成果の表れとし、構造改革を今後とも進めていくとの決意表明であり、webmasterとしては、この路線はやはり失敗するおそれが極めて大きいからこそ、そのように呼びたい。

なぜ失敗するおそれが極めて大きいと考えているのか。 平成12年度経済白書で書いていることと実は中身が似通っているのだから、また同様に景気が悪くなるに決まっている(財政支出を見れば当時より悪いのだからなおさらだ)、と言ってしまえばおしまいではあるが、きちんと論じてみよう。

まず、これは白書自身が認めていることだが、現在は2002年1月を谷とする景気回復局面にあたり、構造改革が進もうと進むまいと経済は好調であって当然な時期である。 他方、代表的な景気循環指標である在庫水準は、これまた白書自身の記述を引用すれば、在庫循環図の上では、あたかも在庫積み増し局面の終了に向かうような右斜め下の動きとなっている(しかし、「あたかも」ってのはなんだよ、「あたかも」ってのは。 そのものだろうに)。 これを素直に読めば、もうそろそろ景気後退が始まるということになるし、設備投資についても、資本ストック循環図からは頭打ちが近いとしか言いようがなく、資本財出荷もそれを裏付けている。

このように先行きが明るいとは決して言えない情勢について、白書の記述を追いかけていくと、(輸出増や需要増加、需要予測の改善という)条件が整ってくれば、生産の増加が持続的なものとなり、景気の回復を確かなものにできる企業の期待成長率が今後高まるかどうかが大きなポイントとなるって、それは景気がよくなれば景気が回復するっていう同義反復ではないか。

さすがにこれでは気が引けたのか、別の箇所ではデフレ克服のためには、(i)デフレをもたらすGDPギャップが縮小しなければならない。 また、(ii)デフレをもたらす「金融的要因」に対応するため、実効性ある金融政策が展開され、金融政策の効果がマネーサプライの増加を通じて、総需要の増加に結び付くことが必要であるとしており、マネーサプライ増加→総需要の増加という解決策を提唱している。 その結論やよし、しかしロジックがGDPギャップが縮小するためには、不良債権の処理や過剰債務の削減等が進むことによって、成長分野における潜在的需要が開花し、効率性の低い部門から効率性や社会的ニーズの高い成長分野へと資金が円滑に移動することが重要である。また、不良債権の処理や過剰債務の削減が進むことは、金融政策の効果波及経路を回復することにもなるというのではお話にならない(なぜお話にならないかはかつて論じたので、本稿では割愛する)。

従って、ここではっきり予言しておくが、新たな金融緩和策が講じられない限り、来年中には再び景気は腰折れする。 不良債権処理や企業再生をいくら進めたところで、この動きは止められない。 今回の暗闇への跳躍は必ずや失敗に終わるだろう(唯一の望みは、かねてからwebmasterがその導入を訴えている円高阻止を口実とした金融緩和政策日銀の中原政策委員が提唱し始めたこと。 足下円高が進む気配を見せていることもあり、これが大規模に導入されれば、ロジックは誤りであっても無事着地できるに違いない)。

最後に非常に残念ではあるが、重大な問題を一つ指摘しなければならない。 白書の記述が誤っていて景気が悪くなり、小泉・竹中の政治責任が問われたとしてもそれは自業自得(最近の、景気の本格回復にはあと3年は必要という小泉総理の言葉を見るに、今から言い訳は用意されているようだが)。 その結果、新たに失業者が増えるといった悪影響が経済全体に及ぶことは問題ではあるが、それもまた他の時代・地域でも見られることであるとは言えよう。

しかし、整理が必要な企業として、特定可能な形で132社という数字を白書に記載する(既にこれを元にしたリストが作成されているともいう)というのは、まったく何様のつもりかと信じられない思いだ。 かつて「30社リスト」「51社リスト」といったものが出回り、風評被害を含め様々な波紋を投げかけたことがあったが、あれはまだ民間での話(当時の木村剛が純粋な民間人と言えるかどうかについては議論があろうが)、公文書に載せた今回は輪をかけてたちが悪い。 民間の経済主体に対して政府が整理が必要かどうかを十把一絡げに判断するなど、自由主義社会であればおこがましいにもほどがあると感じるのがまっとうではないか。

だいたい、過剰債務だ等々と言っていること自体についても、そうなってしまったのは政府がデフレを治癒できていないが故という企業だって数多くあるはず。 崖の下に蹴落とした当の本人が、這い上がってこられないような軟弱ものは生きていく価値がないと判定するなんてことは、ごく普通の人の道としても許し難いところ、公の職責を担っている人間にとっては絶対に論外でなければならない。

今までリフレ政策に対する理解者の一人として竹中大臣を擁護することもあったwebmasterではあるが、今回の判断については見下げ果てた思いでいっぱいであるし、それを職を賭してでも止めなかった内閣府の担当者に対しても、同じ官僚として軽蔑の念を禁じ得ない。

(竹中平蔵(2003)、「平成15年度 年次経済財政報告−改革なくして成長なしIII−」内閣府)

(2003-11-03記)

[月旦評]第11回:マハティール・ビン・モハマド

ある一つのことで成功するのは、難しくはあるかもしれないが、才能と努力で何とかなる場合が多かろう。 が、二つのことで成功するのは、格段に困難である。 というのも、最初の成功体験が往々にして次の成功の障害となるからだ。

そんな難事を成し遂げたのが彼、マハティールである。 もちろん一つ目の成功は80年代から90年代前半にかけての経済成長であり、二つ目の成功はアジア通貨危機への対応だ。

日本では、彼のルック・イースト政策という自尊心をくすぐる取扱いもあり、台湾の李登輝と並んで古き良き日本の理解者として持ち上げる向きも多い。 また、その延長線上ではあるが、彼の反自由主義経済的言動もまた、ときとしてアメリカに反感を抱く日本人にとって心地よいものとして響く(その代表例は、石原慎太郎との共著「『NO』と言えるアジア」であろう)。

しかし、単純に日本にあこがれるような政治家が、20年以上も政権を保ち成果を上げられるはずもない(彼の発言の数々インタビューなどを見ると、例えば先の共著者の石原慎太郎に比べ良くも悪くも複雑でつかみ所のない人間なのは明らかだろう)。 例えば先に挙げた李登輝は、台湾の地政学的ポジション故に、マハティールほど反米的な立場は取り得ない。 マレーシアにとって最大のライバルとも言えるシンガポールを導いたリー・クアンユーは、国内の華僑を意識すれば(彼自身のエスニシティもそうだが)、政治的にはより反日的なスタンスをとって当然。

つまり、彼の反米・反中国・親日という政策スタンス(例えばEAEC構想)は、国内のムスリム勢力の存在と中国との距離感から導き出された極めて合理的な選択だ。 だからこそ、彼の政策にはきちんとした合理的説明が可能。 一時期は自由主義・市場主義に反するとして悪評が高かった、通貨危機に対して打ち出された資本移動規制も、自由な金融政策・固定的な為替相場・自由な資本移動の3者は同時には達成不可能というトリレンマやタイに比べ良好だったISバランスといったことを踏まえた現実的な対応であり、だからこそクルーグマンもすぐさま評価したわけだ。

そんな彼も、この11月1日に引退し、後をアブドラ新首相に委ねた。 この人事も絶妙の一手であるとwebmasterは感心している。 新首相の経歴で特徴的なのは、イスラム穏健派であることと、日本人と姻族関係にあること。 いくら反米の立場でユダヤ人を非難する発言をしようと、本当にアメリカと事を構えてしまっては中国に屈服せざるを得ず、かつ国内の華僑勢力と深刻な対立を招くことは避けなければならない以上、後継者の素質としてイスラム穏健派という要素は絶対必要である。 他方で、アメリカとの関係を壊さないといっても、日本からより多くを引き出すための対中接近を真に受けて自ら中国にすり寄るようでは何もならないわけで、日本人と縁戚であるということは常に日本という存在が念頭に置かれることとなり、3極のバランスを重視するという現在のマハティール路線の堅持に必ずや寄与するであろう。

一応打てるだけの手は講じたマハティールであるが、これから後には彼にとっての最後の難事、見事な引き際を見せるということが待っている。 マレーシア国内が混乱すれば再度表舞台に出ざるを得ないかも知れないが、これほどの見事な成果を残した彼の幸せのために、そして何より東南アジアの安定のために、そんな事態が起こらないことを祈りたい。 ある意味で彼の一番の理解者とも言えるクルーグマンが引退直前に発表したテキストにも、そうした思いがあふれていると感じるのはwebmasterのひいき目が過ぎるだろうか?

(2003-11-03記)

[日本道路公団騒動始末記]−最近の出来事: the 5th week of October/ the 1st week of November, 2003 (from 10-26 to 11-01)

10月28日 第49回道路関係四公団民営化推進委員会にて総理へ勧告
委員会として、意見書が取り上げられないリスクに敏感なのはわからないではないが、それならそもそも総理が意見書公表後に尊重するとのみし、その通りにするとはしなかったことをとがめておかなければならなかった。 道路関係四公団民営化推進委員会設置法の規定を見ても、意見書どおりにしなければならないとの縛りはなく、総理がその通りにすると約束しない限り、道義的・政治的責任はあれど義務違反にはならないからだ(厳密に言えば約束を破っても、委員が慰謝料を求めるような場合でなければこの点はかわらないだろうが(笑))。 しかし、今井・中村の両名をパージし、民営化論者だけで委員が固められた現在の委員会運営も、冷静に見ればあまり褒められたものではない。 議事概要から感じられるのは、人民裁判そのものの雰囲気だ。

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(2003-11-03記)

[膝蓋腱反射]「総選挙2003特集・中編−民主党」

自由党との合併を経て野党第一党との地位をより確実なものとし、どうやらメディアからは好意的に受け止められているように見受けられる民主党であるが、あえて独断すれば、今回の選挙では勝てないだろう。 そもそも全員当選など見込めようもない割りに単独過半数(241議席)の確保がきわめて怪しい程度の数しか候補者を出していないという問題もあるが、より根本的なのは、自民党との差異化が不十分であることだ。

自民党の最大の特徴は、前回書いたことでもあるが、独立した選挙区選出議員の連合体であり、したがって政策面では思われているほどいわゆる右でまとまっているわけではなく、個々の議員によっては左もおり、党全体としてみればやや右よりの中道が平均で、標準偏差が大きめの分布となっている。 こうした傾向は、民主党というどちらかというと左よりの政党と、自由党というどちらかというと右よりの政党が合併した、今の民主党にも見られる。

つまり、自民党の亜流でしかないのだ。 反官僚を合言葉に自民党との違いを訴えても、しょせんは程度の問題にしか有権者には受け止められない。 自民党は世襲議員が多く官僚と癒着していると言ったところで、民主党にだって世襲議員はいるし(というか、党首の息子である菅源太郎が公認候補というのは何か悪い冗談か?)、官僚OB議員だっているわけだ。 だからこそ、自民党に致命的なスキャンダルがあればともかく、そうでなければ自民党に対して勝ちようがない、というのがwebmasterの分析の根拠だ。

仮に将来、そうしたスキャンダルによって政権を奪ったところで、マニフェストがあのように実現する際の手続きなどをろくに考えていないようなものでは、選挙に勝った直後から混乱だらけで遠からず立ち行かなくなるのは目に見えている。 言いがかりではないことを示すため、1つだけ具体的にあげてみよう。 webmasterの身近なところで、官僚の天下りを禁止し、公務員人件費を縮減しますと題された官僚の天下り・人件費問題を例にとってみる。

官僚の天下りを禁止します。 民間企業への再就職しか対象になっていない規制を、平成17年度中をめどに、特殊法人などの政府関係法人等にまで拡大します。 また、政権任期中に、国際労働機関(ILO)勧告にもとづいて、一般の公務員に労働基本権を保障する一方、人事院機能の見直しや公正な人事評価システムの確立などをすすめ、国民に開かれた公務員制度とします。 同時に、局長以上のポストの民間等からの登用など政治のリーダーシップ確立と政策責任の明確化を実現します。 分権の推進や中央省庁の機能・役割の見直しにより、国家公務員の省庁間異動や定数削減、高級官僚の手当等の見直しなどを順次すすめ、4年以内に、国家公務員人件費総額を1割以上縮減する効率的な政府に改革し、さらに分権の推進等により効率化と縮減を図ります。

民主党政権公約/マニフェスト 2.2

良くも悪くも天下りという制度は、公務員の人事滞留(俗っぽく言えば「老害」といっても当たらずとも遠からず)を防ぐものであり、その結果として、公務員の人件費負担はその一部が政府から準政府(特殊法人など)や民間に移転することとなる。 とすれば、天下りを禁止すれば、(定年以前の離職はそのままだなんて組み合わせにしない限り)理の必然として人件費は増えざるを得ない。 労働基本権を認めればストライキだってあり得るため、これにより人件費が増えることこそあれ減ることはなかろう。 また、局長以上(ランク的には、局長=大企業の専務・常務クラスの役員、と考えてもらってよい)を民間から登用するとすれば、まともな人材を集めようとするなら民間並み給与が求められ、これまた人件費増加要因だ。

とすれば、人減らししか人件費を引き下げる手段はないが、既述のとおり天下りをやめれば放っておいても人は増えるのだ。 今40代後半から50代半ばで離職している人間を全員60歳なり65歳まで抱えるようになる中では、採用を完全停止したって絶対に4年で頭数が減るなんてことは、普通ではありえない。 普通じゃない手段でもやろうとするなら、現業部門があらかた独立行政法人化した中でそれほど大きな玉が残っているとも思えないが、とにかくどこかを政府から外に出すか、ストライキや解雇権濫用訴訟を覚悟で首を切りまくるしかないし、それらがたいした混乱もなくできるはずもない。

話を元に戻すと、そうした混乱があったときに、民主党が自民党と相当程度違う方向性を持ったものとして認識されていれば、どうせ同じようなことをやるのなら自民党でいいや、ということにはならず、自民党にはどうやったってできないのだから民主党で仕方がない、我慢しようということになるはずだ。 ではどこに自民党に押さえられていない票田があるのか。

それは、都市部だ。 高速道路をめぐる問題でも、対応策が「三位一体改革」と称されている地方財政問題にしても、郵政三事業、とりわけユニバーサルサービスをめぐる問題でも、その根底には都市と地方の対立という構造があるのだが、未だかつて都市の繁栄のためには地方をある程度切り捨てるのはやむを得ないと正面から訴えた政党はない(個人はいる。 石原慎太郎だ)。 石原都知事もそうだし、民主党関係者では埼玉の上田知事、神奈川の松沢知事、横浜の中田市長もそうだが、都市部では一般にやや右の受けがよいが、自由党亡き後自民党に代わる保守政党がない(まあ、保守新党ってのもあるにはあるが)ことも考え合わせれば、保守&都市重視というマーケティング戦略の成功率は高い。

もちろんその場合、地方での得票は大して見込めないが、ラフな試算では、東京で9割、南北関東・東海・近畿で8割、残りは2割の議席という計算でも選挙区で140程度(全体で300)、比例区で100超(全体で180)の議席が確保可能でありほぼ単独過半数に手が届くレベルであり、状況に応じて他の政党と連立を組めば与党になることは十分可能と言える(ついでに言えば、この戦略で一度政権をとってしまえば、あとは「一票の格差」解消を名目に都市部の議席配分を厚くすることにより、まず負けない体制が出来上がる)。

といいつつ、このアイデア、実はwebmasterのオリジナルではない。 某国の同名政党の集票パターンをまねただけである。 その某国の選挙で、その政党がどんな地域で勝ちどんな地域で負けたか、色を塗ってみるなどすると、都市部重視戦略(ただし、あちらはリベラルであり、本邦とは逆となるが)にもフィージビリティが感じられるのではないだろうか?

(2003-11-03記)

bewaad<webmaster@bewaad.com>

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