writings concerning kasumigaseki issues and others: 2004-03
2004-03-28更新分
[書評]:好敵手、お待ちいたしております−「昭和恐慌の研究」(岩田規久男編著)
著者自身による的確な概要が示されている書籍の書評というのは難しい。
本書に関していえば、著者陣の一人である若田部により、この研究の大きな軸のひとつは当時の経済論戦の解明である(もう1つの軸は、恐慌および回復過程の計量的分析である)。
とまとめられてしまっており、実際、本書の骨組みをこれ以上過不足なくまとめることはwebmasterの力に余る。
したがって、以下はこの若田部のコメントを敷衍する形で進めていくこととしたい。
今の日本がデフレに陥っていることを問題視するにせよしないにせよ、それを論ずるためには歴史上のデフレを振り返ることは有益である。 歴史上、今の日本のデフレを除いた最新の事例はいわゆる大恐慌(世界恐慌)であり、これについてはテミン「大恐慌の教訓」に代表される豊富な研究成果が世に問われている。 しかし、それらは主としてアメリカにおけるデフレを対象としたものであり、日本におけるそれ、すなわち昭和恐慌については、世の出版物は中学高校の歴史教科書レベルの理解にとどまっているというのが一昔前までの実態であった。 いわく、ブロック経済化が進む中で国際経済から締め出された日本は、大陸への進出による窮境の打開を図り、その過程での財政支出=軍事費の増大が恐慌脱出の原動力となった、と。
そんな状態を打開すべく(というのはwebmasterの勝手な憶測であるが)、著者たちは昭和恐慌研究会(詳細は本書の「はじめに」を参照されたい)を結成し、これまでにも田中・安達「平成大停滞と昭和恐慌/プラクティカル経済入門」や若田部「歴史に学ぶ 大恐慌と昭和恐慌の教えるもの」(岩田編「まずデフレをとめよ」所収)等(いずれも本書の著者陣によるもの)の成果を残してきたところであるが、その現時点での集大成というべきものが本書である。
先に紹介した若田部のコメントのうち、恐慌及び回復過程の計量的分析についてはwebmasterにはその当否を論ずるべくもないが、少なくとも議論のたたき台を示した意義は素人にも明らかだ。 本書で否定的に解された仮説、例えば昭和恐慌やそれに先立つ(昭和)金融恐慌により不良債権処理が進んだことが高橋財政成功の理由の一つであるとか(小林の論説(新聞掲載の短いものと月刊誌掲載の長いものがウェブ上で拾える)が典型)、先に紹介の戦争により恐慌を脱したという歴史教科書的通説であるとか、そういった立場を今後主張する論者には、本書における議論を念頭におき、反証を示せるだけの検討を行なうことが期待されよう。 また、本書において岩田自身が残された課題として語っている昭和恐慌期の予想実質金利の変化の影響や、アメリカ大恐慌について最近なされているRBC(Real Business Cycle)の立場からの昭和恐慌の再解釈など、本書に対する批判的検討が行なわれ、それに対して著者陣が再反論を呈するといった形での発展も大いに待たれるところである。
かたや若田部がいうもうひとつの大きな軸である当時の経済論戦の解明は、類書なき素晴らしい業績と称える以外の言葉が見つからない。 本書の第2章から第4章までを一読すれば、誰でも当時の(旧平価)金解禁派の主張が現代日本の構造改革主義者のそれと相当程度重なることは容易に察することができるが、本書の意義がそれだけだとするのは過小評価だ。 なぜなら、本書の第2章の先駆的業績である若田部のディスカッションペーパーでそうした問題意識はすでに明らかにされているし、なにより先に紹介した「プラクティカル経済入門」では当時の議論と現在の議論のテーマ別比較がなされており(pp109-112)、当時と現在の対照に限るのであれば、本書はそうした先行業績をよく補完するものではあっても、類書なきというには当たらないからだ。
では、何をもって類書なき立場にあると言えるのか。 それは、本書の第2章から第4章に見られる、徹底的な一次文献の精査である。 無論上記の先行業績においても一次文献は丁寧に紹介されているが、何と言っても量が違う。 そして何らかの文献調査をしたことのある人間にとっては自明のことであるが、十分な量の違いは質の差と言ってよい(特に本書のようにデジタルデータ化されているわけでもない、それも正字正かな&カタカナ表記の文献を対象としていればなおさらだ)。
これまた岩田自身の言葉であるが、この部分の残された課題としてメディア・論壇における議論と実際の政策形成との関係の解明が挙げられているが、歴史学や政治学、メディア研究といった分野の専門家をも巻き込んだ学際的な取り組みが今から楽しみでならない(webmasterは、高橋(是清の方)など一部の例外はあれど、基本的には(ちょうど同時期の統帥権干犯問題などと同様に)政党間の政争のタネとして扱われたのではないかと思っている)。 優れた研究とは過去の積み重ねを花咲かせるものであると同時に、次に取り掛かるべき方向を示し、さらには反対する意見の水準向上をもたらしすらするもの。 まさに本書における当時の言論研究はそれに該当するものであり、これをスタートとしてさらに高度な論戦が繰り広げられてほしいと思わずに入られない。
(岩田規久男編著(2004)、「昭和恐慌の研究」、東洋経済新報社)
(2004-03-28記)
2004-03-14更新分
[書評]:二歩目はこれからどこへ踏み出すべきか−「会社はこれからどうなるのか」(岩井克人著)
第二回小林秀雄賞を受賞し、週刊ダイヤモンドの2003年経済書ランキング1位を獲得するなど、昨年の経済書界で「経済学者たちの闘い」と話題を二分したのが本書。 さすがに洛陽の紙価を高めただけあって、昨今の会社を巡る様々な話題について豊富な周辺情報を平易に紹介し、なんとなく物事がよくわかったような気にさせる点、読んでみれば読んだ甲斐があったと多くの人がうなずくことであろう。
・・・よくわかったような気にさせる?
そう、本書の最大の特徴は、今まであまり見られなかった切り口で「会社」から連想される論点をまとめ、かつ、わかりやすく説明しているところにあり、それが長所であり短所でもある。 つまり、本書を読んで、そこでなにか引っかかりを覚えて思考を発展させることができる人にとっては良書であるが、ふむふむなるほどと納得してしまうような人にとってはそれほどお薦めできるものではない。
何も専門書を読めということではない。 啓蒙書であっても、本書で取り上げられたような諸論点にもっときちんと取り組んでいるものは多いし、ある意味そうした世界へ卒業していくことが、本書の読者としてあるべき姿ではなかろうか。 以下、では本書の先にどのような世界が待ち受けているのかを覗いてみることとしたい。
冒頭取り上げられるグローバル化やIT革命、金融革命については、すでに「エコノミスト・ミシュラン」でもその中身のなさを指摘されているが、特にIT革命についての過大評価については眉に唾すべきである。 ネットビジネスが俗に「クリック&モルタル」と言われるように、結局のところネット化できない部分での勝負が重要であることを見逃すべきではない。 (以下は完全に脱線であるが、以上の理由から「モルタル」のいらないビジネスモデルを考えたリキッドオーディオをwebmasterはかつて高く評価していたのだが、結局この分野で成功したiPodは「モルタル」あってこそ成功したと言える。 ナップスターからwinnyに至るファイル交換ソフトの興隆は、「モルタル」を中抜きするビジネスの潜在的可能性を示すものだとは思うが。)
この点を深めていくには、IT革命の経済への影響を論ずるときの定番と言えるシャピロ&ヴァリアン「ネットワーク経済の法則」ははずせないし、ネットの発達などによるコミュニケーションコストの低下が、結局は他のメディアでは代替できないフェイストゥーフェイス・コミュニケーションの相対的価値を高めているとの指摘をしている岩田・八田「日本再生に『痛み』はいらない」を読んでみてもおもしろいだろう。
次に法人名目説と法人実在説についての議論だが、そもそも人がつるんでなにがしかの行動を行うという実態が先にあり、それをコントロールするために会社法が定められ(、さらにそれを支える理論として法人○○説が唱えられ)ているのだから、会社にそれぞれの要素があるのは当たり前。 演繹的にそもそも法人とは○○であって、と論じてみてもどこかに矛盾を来すのは必然である。
さらに言えば、それすらあくまで「会社法」すなわち商法の会社関連規定に関する議論にとどまっているのだが、会社に関する制度はそれだけではない(ちなみに、商法の会社関連規定は近年では年に複数回の改正が加えられることも珍しくないほど頻繁に見直されており、ますます全体を俯瞰的に説明し得る枠組みの存在不可能性が高まっていると言える)。 税金については法人税法、労働者を雇用する立場については労働三法(労働基本法、労働組合法、労働関係調整法)等、何らかの被監督業種であれば○○業法、・・・等々数え切れない法律が会社についてそれぞれの趣旨・目的に沿って定められ、どの制度から会社を眺めるかによって会社の性質はまるで異なったものに見えるのが実態である。
こうしたものの見方をうまく説明した会社法に関する本をwebmasterは寡聞にして知らないので、ここはうんとラディカルに「ミリンダ王の問い」を推薦しておこう(ネット上でもエッセンスは味わえる)。 法人だけじゃなくって自然人(法学においては、ヒトを法人と対比してこう呼ぶ)だってそう簡単には整理できないってことで。
(なお、アマゾンの書評でも商法第254条の解釈(p83)の誤りが指摘されているが、そのほかにも本書が対象とするような大企業には商法特例法(正式には「株式会社の監査等に関する商法の特例に関する法律」)が適用されるため、監査役に対する批判(p102)は当たらない(商法特例法が適用される場合には監査法人監査を受けることとなる)など、法律の具体的な規定に関する説明は鵜呑みにしない方がよい。)
その先にある会社のヒト・モノ説の議論も、ヒトでもなければモノでもないものをいずれかに帰着させようとするからこそ無理が生じているわけで、比喩としての議論以上の意味はないと受け止めるべき(株式持合いが会社がヒトとなる典型といっても、株式を持ち合わなければヒト足り得ないのだとすれば、日本の会社が本質的にはヒトでないってことでしょうに)。 株主が経営者を往々にしてコントロールできないのはなぜかと考えれば、支配的な株主でなければ経営者を監視するコストがそれにより得られる便益に見合わないことが最大の理由と言える。
すなわち、会社の経営を何らかの方法により立て直すことができれば株価が上昇するとして、その何らかの方法が何であるかを見出し、さらに株主総会で多数派工作をしてその方法の実施を強いるためのコストを考えれば、売って損切りをした方が結局は安くつくという株主が大部分であれば、その会社においては株主はガバナンスを効かせる主体にはならない。 上場するという行為が本質的にできるだけ多くの投資家から資金をかき集めるための行為だとすれば、こうした株主によるガバナンスの欠如は不可避といえ、本書に記載の株主代表訴訟やストックオプションにとどまらず、委員会等設置会社などの制度はみなそうした実態を前提として、代替的な手法を模索した結果なのである。
ちなみになぜ株主がガバナンスの主役になるかといえば、株主だけが純資産価値の減少にセンシティブだから。 銀行を含む債権者は債務超過や流動性不足にならない限りそうしたことには関心が薄いし、顧客は他の会社と取引するという選択肢を選べばよいわけだし、ということで、会社の存続が自らの現に存する雇用の維持の必要条件となる労働者が、あえていえば株主と同様にガバナンスに取り組むインセンティブが強い存在である。 だからこそ、本書で取り上げられているような「日本型」が一つの均衡になるのだが・・・。
最後にポスト産業資本主義と会社の関係についてだが、これも今一つ印象論に流れているきらいがある。 例えば本書における産業資本主義とは端的に第二次産業を想定していることはあきらかだが、産業資本主義の時代とされる日本の高度経済成長期であっても既に第三次産業が最大のGDP構成要素となっているし、その時点における一人当たりの生産性も第三次産業が優位にあった。 つまり、本書で最近においてポスト産業資本主義になったとされる証拠は、実は最近ではなく高度成長期に既に見られた事象であり、そのことと、いわゆる日本式経営が(後期)産業資本主義には適合しているもののポスト産業資本主義には不向きという主張を、単に労働力の都市部への移動と欧米の技術模倣だけで整合的に整理する(pp220, 221)のはいかにも苦しい。
さらに言えば、ポスト産業資本主義とは何かについてがよく見えてこない上に、すべての会社がポスト産業資本主義に直面するわけではない(例えば近所の床屋がポスト産業資本主義時代だからといってネットをつかって全国展開するわけではない。 終身雇用などについての議論などを見てもわかるように、本書は「会社」をテーマとしながら、実はほんの一握りの大企業しか俎上に上げていない)ことなども指摘できるが、これらについては10年以上前にライシュ「ワーク・オブ・ネーションズ」という定番が出ており、詳しくはそちらに譲りたい。
なんだか揚げ足を取ってばかりのようなテキストになってしまったが、冒頭記したように、議論のパッケージングは見るべきものがあるし、それぞれが以上のように突き詰めていくに面白い項目である。 繰り返しになるが、本書を生かすも殺すも、読者が次にどれだけ踏み出せるかにかかっている。
(岩井克人(2003)、「会社はこれからどうなるのか」、平凡社)
(2004-03-14記)
[その挑戦、受けよう(仮)]:その7:「ドキュメント平成革新官僚 『公僕』たちの構造改革」
今回の挑戦者
- プロファイル
- 宮崎哲弥、小野展克, 2004, 「ドキュメント平成革新官僚 『公僕』たちの構造改革」, 中央公論新社
- 主張の概要
- 今の日本には構造改革が必要であるが、一般には官僚組織は改革に対する抵抗勢力と考えられている。 しかし実際には、官僚組織の中にも構造改革の必要性を正しく認識し、実践している人々がいる。
- 構造改革の実現には、単に官僚組織を否定すればよいのではなく、こうした内部の改革を取り上げていくことが重要。
- 竹中大臣に率いられた金融庁、族議員や業界との関係が深い国土交通省・農林水産省、内政と外交を代表する財務省・外務省、教育・司法という社会的インフラを担う文部科学省・法務省の事例を取り上げ、こうした体制内改革の現状を示す。
対戦の結果
一見官僚擁護に見えて、実は全くそうではないのが本書。 例えるなら、イェルサレムにて虐殺を行わんとする十字軍に向かい、中にはキリスト教徒もいるのだから全員は殺しちゃいかんと弁護してくれているようなもので、彼らの言い分が聞き入れられたとしてもイスラム教徒やユダヤ教徒といった非キリスト教徒を待つ運命は殺されるだけ。 というか、非キリスト教徒は殺されてしかるべきという点は積極的に肯定しているのである。
そんなスタンスでありながら、単純な官僚叩きに傾きがちな政治、世論状況に一定の反論を加えておきたかった(p14)
、ワンサイディッドな言論状況を、私たちは深く危惧する(p15)
などとしか自己を認識できない浅はかさを自覚していないのは噴飯もの。
そんな著者たちに「革新官僚」と持ち上げられている官僚たちも、程度の差はそれなりにあるが、webmasterは机を並べて仕事をしたいとは思えない面が多々ある。 だいたいが「革新官僚」という言葉自体、本書で丹念に説明されているように戦前・戦中の全体主義的体制の確立の一翼を担った人々を指す言葉であるが、そうした言葉を当てはめる著者や、それに特段の抵抗感を感じている様子もない官僚たちは、とにかく現状否定をして「改革」「革新」とやらに情熱を燃やせばすばらしいのだとでも思っているのだろう。 まあ、図らずも彼らのそうした単細胞さが浮き彫りになるいい表現だとは思うが(例えば彼らは、フランス革命は起こらなかった方が実はよかったのではないか、なんてことは考えても見ないのだろう)。
以下、「革新官僚」たちという4流の人間により5流の政策が立案されていく様と、それを無批判に讃える著者の6流っぷりを指摘していきたい・・・と思ったが、サラディンの故事に習って寛容を示し、本書に描かれている「革新官僚」たちの活躍をカウントダウンの形で紹介することとしたい。 虚心坦懐に改革派はアプリオリに正しいものと自らを洗脳して、真の「革新官僚」がいる省庁はどこなのかを探ってみるのだ。 ただし、残念なことに財務省と外務省の両省は選外である。 いずれについても「革新官僚」たちが出てこないので、ランキングのしようがないのだ。 酒場の愚痴ともおぼしき現状批判めいたものが記されていないわけではないが、それを「構造改革」だと認識するのはさすがに失礼だと思った結果であり、ご了解いただきたい。
- 第5位:農林水産省
コメ改革では独善に陥らずいわゆる族議員の意見でも汲むべきものは汲んだり、農業を巡る貿易交渉についても農水省のスタンスとしては従来の路線をむやみに変更するわけではなく、官邸での総合判断の必要性を訴えるなど、「革新官僚」としては猪突猛進っぷりが著しく不足していることが祟っての最下位。 著者たちの記述も、そうしたピュアな熱意の欠如を遺憾に思ったのであろう、淡々とした事実の記載が多く、「革新官僚」への賛歌はほとんど見られない。
やはり立派な「革新官僚」として認められるためのハードルは高い。 webmasterなど一生かかってもなれそうにない。
- 第4位:国土交通省
独自の道路公団改革案を作り上げたものの、官邸(ひいては国会)において必要と認められた道路の建設は許容するなど、憲法(「国費を支出し、又は国が債務を負担するには、国会の議決に基くことを必要とする」第85条)ごときに縛られて無駄な道路建設を止める気概に乏しい点、農林水産省と同じように「革新官僚」としての評価は低くせざるを得ないが、その改革案が上層部によって差し止められたときに辞職を考えたという純情を買っての第4位。 多分上層部の思惑は「負ける戦はするな」というものだと思うが、元祖「革新官僚」たちが身をもって示したように、負ける蓋然性が高いと思っていてもアメリカに喧嘩を売るのが日本男児の心意気。 キャプテン・ハーロック(あっ、日本人じゃないや。 まあ作者は日本人だからいいか)も言っているではないか、「男なら負けると分かっていても戦わなければならないときが(ある)」って。
そんな漢たちよりもさらに熱い構造改革野郎が猪瀬直樹。 その熱意に応え筆者たちも、改革派と呼ばれる知事たちが反対しているとか、最終案とりまとめの段階で改革派の中から猪瀬に反対が出て民営化推進委員会が空中分解したこと(本書の元になる連載時よりは後だが、大幅に加筆、修正し再構成したらしいので、盛り込もうと思えば盛り込めたはずである)などに目もくれず、熱烈な讃辞を捧げているのは読み手の共感を誘って止まない。 猪瀬が官僚ではなく、書名に合わない記述になってしまっている点が唯一惜しまれる。
- 第3位:法務省
さて、いよいよトップ3に入るが、著者たちによると近代法意識を日本に徹底させる革命だという、司法制度改革に取り組む法務官僚がその一角に食い込んだ。 previewで法とは成文法に限られるものにあらずと書いたwebmasterのような前近代主義者から見ると、その現実から自由に遊離して高い理想をひたむきに追求する姿は眩しい限りである。
ただ惜しむらくは、一部に面白くないなんて言っている反対者がいるということが紹介されるだけで、「抵抗勢力」たちの姿がクリアに描かれていないため、「革新官僚」の素晴らしさがひきたっていない。 そこで、極めつけの抵抗勢力の論説を紹介しよう。 畑中鐵丸という弁護士の「ファック・ザ・司法改革」シリーズである。
このシリーズでは、本書で司法改革のメリットとして挙げられている
(ロースクールの目標は法曹人口の増加にとどまっておらず、)一発試験の弊害是正をめざし、法科大学院では養成プロセスが重視される。 法理論だけでなく、弁護士や検察官、裁判官の実務に合わせた教育に力を入れる(p220)
、市民参加型の裁判を実現することで、民主的で、開かれた司法をめざす仕掛けの柱が「裁判員制度」の導入(p221)
といった点について、大学の実務教育レベルなんて司法研修所のそれにはるかに劣っているのだから「実務に合わせた教育」なんてできるわけないだとか、市民の裁判への参加なんて近代司法制度の魔女裁判や人民裁判への退行だとか、そういったひどい誹謗中傷が行なわれている。これに対して、「司法研修所の高いレベルとかいっても、結局のところ今司法研修所で育てられている弁護士を見れば、企業法務において要請されている国際契約や知的財産権契約に関する知識、デリバティブやM&Aについての基礎がまるでなってないのだから、それはあくまでこれまでの法曹の視点から見た評価に過ぎない。 地方で不足している弁護士は従来型の何でも相談窓口的な弁護士である一方、企業法務において不足している弁護士は先に述べたとおりであり、これらを同じ『弁護士』として同じ試験・研修を受けさせることが不合理。 それこそ医者が内科や外科といった専門分化が行なわれているように、今よりも分野限定で法曹になれる『限定免許』を制定して試験・研修の効率を改善することが、法曹の質・量の改善につながるだろう」とか、「裁判は外部からほぼノーチェックなのが問題なのであって、学説と判決があまりにも食い違っている場合には裁判所側に説明義務を課すとか、検察審査会の機能を拡充するとか、司法修習中の研修プログラムに企業その他への出向を大胆に取り入れるとか、そういった外部の見方を取り入れていくことが必要だ」とか、そういった果敢な反論が見られていればもっと「革新官僚」の素晴らしさが引き出されていたことだろう。
・・・あれっ? 反論が司法改革の中身と食い違っているような気が・・・。
- 第2位:金融庁
本書で列挙されている省庁のうち、唯一一つの章を丸々割り当てられて「革新官僚」たちの活躍が縦横無尽に描かれている金融庁が第2位。 ここで描かれる「抵抗勢力」の、官僚組織と業界が癒着しきっての悪逆非道ぶりを見れば、やはり構造改革なくして日本の未来はないとの誰もが思うこと必定だろう。 そんな「抵抗勢力」の姦計を潜り抜け、竹中大臣以下木村剛や「革新官僚」たちが
したたかな戦略を持ち、強い意志を貫けば、物事は変えられるのだと(p74)
いう希望を将来につなぐ様子は、あの長征にも似た波乱万丈の一大叙事詩である。それではなぜ第1位ではないのか。 それは、webmasterの構造改革に対する盲信が足りない故もあろうが、「抵抗勢力」の卑劣さっぷりがプロバガンダではないかとの疑念が完全には払拭できないことにおいて画竜点睛を欠いているように思えるのだ。
例えばりそなグループへの公的資金注入に関して、金融庁が監査法人に圧力をかけたという策動について、そうした情報が入った段階では
この情報源は信頼性が高い。 経験則に照らせば、すべて事実だろう。 それでも精緻に事実関係を確認する手続きが必要だ(p34)
としているのだが、その事実関係を確認する手続きの詳細を見ると、自由な心象を得た。 その結果、確かな回答が引き出せた(p37)
というのは冤罪事件の捜査当局がその手のことをよく言うなぁとか、金融庁の事情に詳しい金融関係者はこう断言する(p37)
っていうのじゃあ怪文書と信頼性が変わらないなぁとか、当事者である金融庁の人間の証言かと思えばやはり恐かったんでしょうね(p47)
ってあくまで推測やんとか、そういった不確かな確認しかなされていないのではないかという思いがどうしても脳裏を去らないのだ。無論、
金融庁は・・・やり取り自体を事実上否定している(p37)
という「抵抗勢力」の見解は信用できないと思うべきなのだろうが、本件については構造改革の体現者竹中大臣自身が否定している。 というわけで、ここは金融庁内の「革新官僚」たちが、竹中大臣を欺瞞した(当然、竹中大臣が「抵抗勢力」と手を握って偽証したなんてことはあるはずがないのだから)「抵抗勢力」の悪巧みを暴くべきだろう。 正義の「革新官僚」たちが言いがかりなどつけるはずもなく、本書のように書籍の形で公にされるものにおいては守秘義務との関係などにより表に出せなかった証拠も当然握っているのであろうから、それらを携えて竹中大臣に直訴してみるというのはどうだろうか。「抵抗勢力」が君側の奸として「革新官僚」のそうした直訴を阻むというのであれば、先輩の顰に倣って斬奸をも決断してくれるものと期待しているし、そうした快挙がなされれば、webmaster上記のような疑念を晴らすことを約束したい。
- 第1位:文部科学省
さて、なみいる省庁を押しのけて栄えある第1位を獲得したのは文部科学省。 その原動力となったのは、かのスーパースター寺脇研。 そう、あの「ゆとり教育」の推進者として名をはせる彼である。
教育はともすれば百家争鳴となるテーマであり、誰もが何らかの意見を持っているものだ。 webmasterも、教育サービスは人によって効果が異なりがちで、しかも結果が出てくるまでにそれなりの期間が必要だから典型的なレモン市場になる可能性が高いだろうとか、私立学校に通わせる、ましてや越境入学させるだけのお金がない人にとっては学校の選択肢なんてほとんどなく、さらには選択した後で変更することは極めて困難だから機会均等を確保するのは相当難しいだろうとか、そういったことを考えれば市場の失敗が生じることは明らかで一定の公的介入は不可避なのだろうと漠然と考えていたのだが、こんな考えは寺脇には通じるはずもない。
曰く、教育における自由化であり規制緩和が重要なのだ。 今までは入試・教科書・授業の最高水準が学習指導要領により画されていたが、これからは最低水準が示されるだけで、そこからどこまで高いレベルを望むかは各学校次第であると。 そもそも一部進学校や予備校の現状にとらわれて、学習指導要領が(とりわけ授業の)最高基準を定めているとは思いもせず事実認識が誤っていたwebmasterが正しく思考を進められるわけもなかった。
・・・ああっ、さすがにもう我慢の限界である。 世の「ゆとり教育」反対論者は、学習指導要領が最低基準となることに反対しているのではなく、最低基準だとしてもあまりにもレベルが低いことに反対しているに決まっているのではないか。 競争原理もくそも、通える学校が一つしかないことだってありえるのに、そこにどうやったら競争が生じるというのか。 詰め込み教育に戻ればいいと思っているのかと脅したところで、今の生徒・学生人口と学校定員を考えれば、昔ながらの受験戦争だの詰め込み教育だのが生じるはずもない。 だいたい勉強が楽しいなんて子どもはごくまれにしかいなくて当然であり、近代教育ってものはそれを権力を用いて強制することに意味があるのは当然だろう。 教育行政を担っていながら、そんなこともわかってなかったのかこいつらは。 個の尊重だぁ? 個性は周りから抑圧されても抑えきれないからこそ個性なのであり、他から甘やかされて試練も経ていないような個性をむりやり植え付けるほうが問題だってことぐらいわかれ。
まったく、こんなことだから文部(科学)省は霞が関でも最低レベルだって馬鹿にされるんだ。 他省庁からどれだけさげすまれているか、こいつらわかってないんだろうなぁ・・・。 言っておくが、お前らが自覚している以上に軽蔑しているんだからな。
(2004-03-14記)