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writings concerning kasumigaseki issues and others: 2004-04

2004-04-18更新分

[書評]:修辞学という技法−「経済学という教養」(稲葉振一郎著)

長らく日本では、様々な主張を二分法的に捉える場合には「右」「左」という分類が用いられてきた。 しかし、それしか分類するすべがないということではもちろんない。 例えば、言葉というものに対するこだわり−言葉やそれを操る「人間」というものの存在自体に価値を置くのか、それとも言葉は単にコミュニケーションの一手段に過ぎないとしてそれにより表現される内容を重視するのか−なんていう分け方もある。 もし自分はどちらに当てはまるのか知りたいのであれば、タゴールとアインシュタインのエピソードを借用して、月はそれを見て物思う人間の存在があってこそと考えるか、月は人類創世前から将来あり得べき人類滅亡後に至るまで人間とは無関係に存在するものと考えるのか、そのどちらに共感するのかで量ることができよう。 この区分にわかりやすい言葉を当てはめるなら、本書に言う「人文系」かそうでないか、である。

実際のところ、日本では長らく、少なくともメディアの大多数はここでいう「人文系」で占められていた。 その期間における著名な言論人を思い浮かべてみると、例えば柄谷行人吉本隆明福田恆存江藤淳など、文芸畑の人間が並んでしまうことからもそれがわかろう。 他方人文系以外の人間では、戦後しばらくは丸山真男大塚久雄らの活躍も見られたものの、webmasterの私見では、日米安保体制の確立や高度成長を経て現実的な政策の方向性についての選択肢が事実上一本化され、政策の枠組みそのものに関する議論の余地がなくなっていく中で脇役へと後退していった。

そういう意味では、極東情勢も手伝って冷戦が終了してもなお安保の再定義についての国民的合意が形成されたわけではなく、「失われた10年」の経済低迷下にある現代日本は、他国と同様に非人文系のウェイトが高くなる見込みがあるとも言える。 しかし、かのホーキングがその著書「ホーキング 宇宙を語る」にて書籍に数式が一つ加わるたびに売り上げが半減するといい「知の欺瞞」は英米仏で相当な議論を呼んだことに鑑みれば、要の東西を問わず、「人文系」のプレゼンスが相当程度あることは避けがたいようだ。 まして、世代交代に一定の期間を要することを考えれば、今後しばらくの間における「人文系」の有意は動かないことだろう。

さて、長々と本書に直接関係があるわけではない記述を続けてきた。 その所以は、本書の売り方に違和感を感じたからである。 著者の狙いはそうは単純ではないことを承知で書く(第1章を読んだだけでもわかる)が、本書の帯には「『人文系ヘタレ中流インテリ』に捧ぐ」とあり、要すれば人間性を無視した数字と記号の羅列が経済学であると思っている人々に向けた経済学の手引きという位置づけである。 が、既述のとおり社会的マジョリティである「人文系」の中で、いったいどれほどの人がそうしたニーズを抱えているであろうか?

筆者によるブレイクダウンを見ると、ぼくが期待している読者はたとえば例のソーカル事件、そして「サイエンス・ウォーズ」でかなり不安になった人、「ポストモダン知識人の書き物のあらかたはファッショナブル・ナンセンスだ」と告発したアラン・ソーカル/ジャン・ブリクモン『知の欺瞞』(岩波書店)を読んで「ポストモダン本がわからないのは、どうやらこっちの頭が悪いからというだけじゃなかったらしい」と少しホッとすると同時に、「それじゃ人文系の知にはどんな意味があるってんだ?」と悩んだ人たちだ(p5)ということになるが、「知の欺瞞」を巡る言説をまとめた黒木のページを見れば、実際この問題について積極的に発言した人のほとんどは「人文系」ではないのだ。

付け加えるなら、「人文系」とそれ以外ではアッピールするポイントも異なる。 「人文系」の多くでは極論すれば説得=立場・考え方についての共感を得ることであり(具体例としてはインビジブルハートを読まれたし)、非「人文系」がロジカルな議論を展開したとしても、それが「人文系」にとって説得的であるかどうかには関係が薄いケースが往々にしてある。 本書に関して言うなら、本書を評価する中村達也の書評に著者が感じるもどかしさも、逆に本書を難じる松本功の書評に著者が感じる(大げさに言えば)絶望感webmaster注:リンク先に4月13日付けの記事がない場合はバックナンバーをチェックしてみてください)も、理解の程度と共感の程度に相関関係が観察されない一例である。 おそらく著者の誤読に対する憤りは相手に届くものではなく、それが届くと思っているのであれば、著者もまた相手の考え方、というよりむしろ感じ方の枠組みが彼岸にあることを見誤っているのであろう。

webmasterの見るところ、本書が真に必要とされるのは、同時に本書が想定するもう一つの潜在的読者グループ−どちらかというと実務的世界で生きている経済書・ビジネス書の読者たちに対しても、逆に人文系知識人の世界という異文化の匂いをちょっとかいでみていただく−「哲学」だの「思想」だのの人々はこういうことを考えているのか、を垣間見ていただく−というサービス(p22)という側面ではないかと思われる。 こうした観点からすれば、本書の白眉はマルクス経済学を対象とした第7章。 その根拠は、いみじくも本書が指摘しているように、人文系知識人の間では、どの程度自覚されているかどうかはともかく、主流派の経済学よりもマルクス経済学の考え方のほうが、じつはいまだに影響力が強い(p15)からだ。

とりわけ冷戦終了後に知的成長を果たしたであろう30代以降の人間にとっては、マルクス経済学はデフォルトで時代遅れの産物とみなされているわけだが、他方でそれ以上の世代(特に「人文系」である人々)にとっては、相当程度マルクス主義的な考え方の影響が残っている。 そうした若き世代が世に通じる議論をするためには、より上の世代に通じる言葉を用いて語っていく必要がある−世代交代まで漫然と時を過ごすのであれば話は別だが。 今さら資本論を読む気もしない、かといって森嶋通夫の「マルクスの経済学」では文系・非文系のコミュニケーションギャップをむしろ拡大してしまう可能盛大であるならば、まさに本書に示されたようなマルクス経済学の批判的ではあれど否定的ではない総括こそが求められていることになる。 世代を超えて自分の主張の理解を求めるならば、本書を読んでマルクス経済学に代表される「人文系」に親和性の高い修辞法に触れることは、最低限求められる技法であるのだ。

最後に、このテキストを読んで「人文系」を軽視する人がいるとしたら、それはwebmasterの本意ではない。 だからこそ冒頭にタゴールを引いたわけだが、それぞれ向き不向きがあり、非「人文系」が「人文系」に及ばぬ点などいくらでもある(まあ、属人的な要素のほうがはるかに優劣を決定付けるということだ)。 ただ、タゴールは決してマクロ経済政策に余計な口をはさまないであろうし、他方で現代日本では余計な口をはさむ「人文系」が多すぎる、というだけのことなのだ。

稲葉振一郎(2004)、「経済学という教養」東洋経済新報社

(2004-04-18記)

2004-04-11更新分

[月旦評]第13回:曽田正人

先週の月曜日、いつもと同じようにコンビニでビッグコミックスピリッツを手に取り目を通していると、次のような(webmasterにとっては)衝撃的なページが目に飛び込んできた。

世界がキミを待っている。

物語の第一部、
ローザンヌ国際バレエコンクールの頂点に立ち、
第二部、ニューヨーク編では、
女王プリシラとボレロ対決、
観衆を自らの踊りの「中毒」状態にまで導いた。
そして今、すばるが向かおうとする場所は?
彼女の目だけに映る、
誰も知らない、その場所、
"奇跡を超える"第三部へ!!!

ビッグコミックスピリッツ04年4月19日号, p198

何がどう衝撃的だったのか、以下説明していきたい。

上記引用が対象としているのは、曽田正人描く「昴」というマンガである。 それがバレエを舞台としていることはご覧のとおりだ。

曽田が既に完結させた作品を見ると、出世作である「シャカリキ!」では自転車のロードレースを正統的スポ根スタイルで描き、テレビドラマ化もされた「め組の大吾」では天性の勘で炎に立ち向かう消防士を描いている。 これらの作品と昴、そして現在進行中のもう一つの作品である、F1へと続くであろう自動車レースの物語「capeta」は、共通して「天才」を描こうとした作品としてよく語られる。 だがその中でも、「昴」は特別な作品であると言ってよい。

思うに、天才を描くということは、次の各要素を表現するということである。

  1. 何が天才か。 すなわち、余人では為し得ない何かを為すからこそ天才と称されるべきなのだが、その何かとは?
  2. どうして天才か。 すなわち、どうしたら1.のようなことができるようになったのか?
  3. どのように天才か。 すなわち、その人しか体験できない世界を持っている人間は、そのことと向き合いながらどう生きていくのか?

これらを見ていくと、いかに「昴」が野心的な作品かが思い知らされる。

まず何が天才かについて見れば、それは既述のとおりバレエ。 「シャカリキ!」や「capeta」であれば話は早い。 他人より少しでも速ければそれで終わり。 無論その描写に説得力がなければ単に駄作となるだけだが、にしてもそれは方法論に過ぎない。 が、バレエであればそれをどう表現すればよいというのか。

人より高く跳べばよいというのでもなく、人より柔軟に身体を動かせばよいというのでもなく、人を感動させるように動く、ということがバレエにおける「天才」。 これを静止画で表現することは、基本的に無理な話だ。 というより、実在の天才ダンサー(例えば主人公すばるのモデルの一人といわれるシルヴィ・ギエム)のバレエを見ないことには始まらないはずである。 もちろんマンガ的には観衆に「感動した」と言わせるという道はあるのだが、「昴」を見ているとそんな手法に頼ることなく、静止画の中にそうした動きを封じ込めようとしているように見える。 webmasterの知る限り、そうしたマンガの枠を越えた表現に挑んだという点で比肩するものは、ブロックの組み合わせで音楽を表現した(と書いても意味不明だとは思うが)手塚治虫の「ルードウィヒ・B」があるのみである。

次にどうして天才かを見ると、これもまたバレエはスポ根で片付けられるものではない点が難しい。 スポ根路線だった「シャカリキ!」はともかく、「め組の大吾」ではこの点が十分書ききれておらず、単に主人公は勘がいい人間でした、で終わってしまっている。

これまでのところ、人事不省の双子の弟である和馬とのコミュニケーション手段としての踊りが自己目的化してしまったことがモティベーションの根源に据えられているが、曽田のインタビューを見ると、今後はライバルとの競い合いがそれを上書きしそうではある。 エジソンのいう99%の汗の説明としては十分だと思うが、残る1%をどうするのかが不安半分、期待半分と言えよう。

最後のどのように天才かについては、曽田自身がジョルジュ・ドンのエピソードを紹介しているように、そもそも実在の天才ダンサーたちのエピソードが数多くあることもあり、白地であれば一番ハードルが低いといえる。 ただ、そのありようとして、他人に背中を向ける主人公すばるのキャラクター選択は冒険だった。 世に天才といわれる人にそうしたキャラクターが多いのは事実だが、マンガとして商業的に成功するためには、そうしたキャラクターにリアリティを持たせつつ、読者に共感させなければならない。 つまり、曽田自身があえて「昴」をナローパスに追い込んでいるのだ。

故に、webmasterは、これまで「昴」の連載中止があくまで第二部終了であって完結とはされていなくても、「SLAM DUNK」がそうであるように事実上終わったものと思い続きをあきらめていた(マンガ喫茶で見たときも11巻の背表紙に「完結」って書いてあったし)。 曽田としても、これからどう描いていってよいのやらわからなくなってしまったのではないか、と。 だからこそ、スピリッツの第三部再開の予告に衝撃を受けたのだ。 非常に成功へのハードルは高いが、それをもし曽田がクリアできたとすれば、マンガ史上に残る傑作となるだろう(バレエとして見ればおかしいところがあろうと)。

誤解を招いたかもしれないので付け加えておくと、「シャカリキ!」「め組の大吾」「capeta」のいずれもエンターテインメントとして十分満足できる水準である(というか、「昴」は今後の展開によっては商業的にはコケるリスクもある)。 特に現在月刊少年マガジンで連載中の「capeta」は、独自の世界を追求する面では「昴」に一歩譲るが、なにせ六田登「F」という似通った世界での成功作があるだけに、これもまた曽田の野心的な挑戦の一つと考えられよう。

以上をまとめれば、曽田は今という時期に目を離すべからざる漫画家なのだ、ということである。

(2004-04-11記)