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@Kasumigaseki

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writings concerning kasumigaseki issues and others: 2004-05

2004-05-30更新分

[月旦評]第15回:小沢一郎

かつて高く評価していた人間が衰えゆく姿を見るのは悲しいものだ。 webmasterにとって、一時期の小沢一郎は確かに、ある種の政治家の理想像を体現していた。 自分の選挙区にその候補者がいないことを嘆きつつ、比例では自由党と書き込んだことも複数回あった。 そんなかつての小沢ファンの一人として、webmasterは彼のああした行動を見るに忍びなかった。 ポスト菅直人に関する、民主党代表選出に当たっての一連の出来事がそれである。

まだ記憶に新しいとは思うが念のために振り返っておくと、自らが代表となるためには党内一致した支援体制などが必要との条件を出しておきながら、国民年金未加入を理由に選出される直前に辞退した、というものだ。 何が見るに忍びなかったかは以下の通り。

  • 参議院選挙で勝てないと踏んで辞退したのだろうが、自分の責任でなく負けたところで経歴に傷は付かない(元ライバル橋本龍太郎の幹事長時代における宇野政権下での参議院選挙が好例)。 他方、負け戦の苦労から逃げたという事実は人の心に残る。 つまり、せいぜいが野党党首という失うものがない身(政権奪取を本気で目指しているなら、という前提だが)、参議院選挙で勝てる見込みが薄いからこそ、あえて火中の栗を拾うべきだったのだ。 それもわからなかったというのでは、保身のみに心がとらわれていた可能性が高い。
  • 仮に保身を図るのであれば、最初の路線、すなわち年金についての三党合意は認められないから菅代表からの禅譲は受けられないと突っぱね続ければよかったのだ。 条件を出して代表就任があり得るとしておきながら引き下がるのでは、どう言い訳しようとみっともなさが鼻につく。 まして、一度は三党合意に反対ではあるが受諾するとまで言ったのだ。 年金未加入で小泉総理と心中を図った? 官房長官と党代表がイコールという相場が形成された後で本気でそれが可能と考えていたのだとすれば、見通しの甘さは致命的だ(現にそんな事態にはならなかった)。
  • 以上はあくまで自らの未加入問題は承知の上で事態の推移を見ていたということを前提としているが、あのタイミングになって未加入問題が発覚したというのが本当であれば、なおさら醜態である。 そのぐらい、一介の陣笠代議士ならともかく、トップを目指そうという人間なら、ここまで騒ぎになれば当然あらかじめ調べておいてしかるべきである。

かつてwebmasterは彼のことを政策に偏して政局をおろそかにしていると評したが、今回の振る舞いは相変わらず政局での読みをはずした上に、魅力でもあった政策へのこだわりも歪めたという点で、彼にとってマイナスにしかならないものだった。 これを失敗と言わずして何を失敗と言い得ようか。

彼の絶頂期は自民党政権を崩壊させ細川連立政権を樹立させた頃であることについては衆目が一致すると考えられるが、その後の新進党党首、自自連立といった時代を経てのこの現状、おそらくは「乱世の小沢」「豪腕」「悪魔」といった世評に彼自身がとらわれてしまったのだろう。 つらつら思い出してみるに、彼が恐れられる所以である様々な逸話、例えば先の「豪腕」のリンク先にある献金かき集めにせよ、ポスト海部決定時のいわゆる「小沢面接」にせよ、自民党政権を崩壊させたことにせよ、彼自身は愚直なまでに理屈を唱えていることがほとんどであり、それが成功に結びついたのは竹下派や金丸信の力であったり、時流をうまくつかんだことであったりしたわけで、要すれば小沢は神輿に担がれた方が輝く存在であり担ぐ側にはむいていないのだ(担ぐ側というのは、小沢を見事なまでに蹴落として総理の座を彼の手の届かないものとした竹下や、「悪魔」というラベリングで小沢に柄でもない黒幕としてのビヘイビアを採らざるを得ないよう巧みに追い詰めた野中のような人間にこそふさわしい)。

にもかかわらず、陰の実力者という虚像に自ら囚われ、しかし自分ではそうしたポジションに求められるスキルを発揮できず、代わりに汚い仕事を黙って引き受けてくれる腹心も育てられなかったことからすれば、実は今の零落した姿は必然だったのだろう。 彼の行き過ぎがちな理屈の偏重を抑えることができ、かつ、腹芸の達人であった金丸信の失脚時に小沢のエネルギーは最大値をとり、慣性により進む中で自民党政権崩壊という戦後日本政治史に残る一大イベントを演出した後、エネルギーを喪失しつつ今に至ったのだ。 今後何かのめぐり合わせで政権を獲ることがあっても、おそらく短命に終わり何事かを為す間もなく崩壊してしまうだろうが、自民党政権を終わらせたという一事で彼の名は歴史に刻まれるであろうし、一事すら為すことの出来ない政治家が過半を占める中、やはり戦後指折りの政治家であったことは認めるべきであろう。

まあそうは言っても、こんなテキストを書き連ねているわけであるから、結局はwebmasterもまだ彼に未練があるということなのだろうが。

(2004-05-30記)

2004-05-16更新分

[月旦評]第14回:木村剛

切込隊長ともあろう人が・・・。 彼のblogにおいて5月9日付けで公開された、「木村剛氏はいかがわしい」とも思われていることにも留意すべきというテキストを読んだときの、正直なwebmasterの感想が、それである。 木村という人間、むしろ、いかがわしいと思われて悪評を受けることを歓迎しているに決まっているではないか、と疑わせるものがあるからだ。

早速行われた木村本人からの反論を見て、なおさらその疑念は強まった、というより確信に変わったといってよかろう。 例えば木村はこう語る。

世の中に対して何らかの主張を展開する者が批判されること(誹謗中傷や罵詈雑言を含めて)は致し方のないことです。 また、そういうことに一々怯むようであれば、世の中を変えることなど何もできないでしょう。 何かを変えるということは、現状においてメリットを受けている一部の人々に対して何らかのダメージを与えることに他ならず、その人々からは怨念の対象になることを避けられないからです。 したがって、本当に何かを変えようと思えば思うほど、その可能性が高まれば高まるほど、誹謗中傷や罵詈雑言は強まることになります。

ご批判はできれば直接私に対してお願いしたい@週刊! 木村剛

当然ここで彼は、字面どおりに受動的に悪評を許容しているということを訴えたくてこの文章を書いたわけではないはずだ。 彼の狙いは、自分(=木村)を批判する人間は改革に抵抗する既得権者であるとの印象を読者に植え付けることであり、さらにその先には、悪評を受けること自体が改革者の証拠である(そして自分は悪評を受けているわけだから改革者である)とのイメージ戦略を見据えていることだろう。

だから、「悪評」についての木村の捉え方は、切込隊長の言うがごとく悪評も評判のうちと弁えられてないわけでもなければ、木村本人が言うように私個人に対するあらゆる批判(誹謗中傷や罵詈雑言を含む)は甘受するなんていう受け身なものでもなく、むしろ自分の好感度を上げるために必須のものとして積極的に活用しているといって差し支えない(いわゆる「抵抗勢力」との対決を盛り上げる小泉総理の手法と類似のものだ)。 (ちなみに、同じ記事で木村は批判により糺すべきところが判然とした場合には、然るべき方向に糺していきたいなどとしているが、実名を挙げて理論的な間違いを指摘されているキャピタルフライト論について訂正などしていない点からも、彼の文章はそのまま受け入れるべきでなく、その意図を勘ぐった方がよいことがわかろう。 蛇足であるが、「ただす」が「正す」ではなく「糺す」と変換されるあたり(当然、先の引用の文脈では「正す」が日本語としては正しい)、彼の日ごろのIMEの使い方が垣間見えるようで微笑ましい。)

この観点から彼の振る舞いを見ると、いろいろと合点がいくことが多い。 例えば著作の表紙や帯にやたらと顔写真を出し、内容においても彼個人のキャラクタを前面に押し出した上、やたら正義だの浪花節だのを気取るところは、十代や二十代ならいざしらず、不惑を過ぎた人間が世に持論を問う際にやることとしては失笑ものではある。 しかし考えてみれば、彼のルックスは「エコノミスト」業界ではアイキャッチとして頭ひとつ抜けているわけで、それを前面に押し出すイメージ戦略は妥当なものであることに加え、上記のように「失笑」した人間が彼に対するコメントの中でつい言わずもがなの厭味や当てこすりを混ぜようものなら、いわれなき個人攻撃であると反論した上で、先ほどの「悪評を受ける人=改革者」のパターンにはめ込むことができるわけで、テクニカルに優れた手法であるとは認めざるを得まい。

そして木村の主張も、こうした戦略に沿ってなのかそれとも主張がそうであるから戦略がかくあるようになったのかは定かではないが、彼個人の身の丈が感じられるものとなっている。 いわば彼の主張は、納得や理解ではなく、共感や同調により相手に受け入れられることを目指したものといえよう。 だから、彼の取り上げるテーマが個人をめぐるものである場合には、そうした目の付け所を押さえているだけあって含蓄のあるコメントが多い。 投資する余裕があるなら借金を返した方がよいとか、本業の仕事をきちんとして支出を絞ることが最高の投資であるとか、経営者のなすべきことはかっこいい戦略ではなく日々の営業や資金繰りに人事・労務管理であるとか、そうした数々の指摘は非常に鋭い。

逆に、先ほど触れたキャピタルフライトの主張を始めとして、マクロ経済に関する知見がないことがいちご/経済板などで既に暴かれている(当の本人はマクロ経済学は今や呪術経済学だと切って捨てているらしいので、そんなことは気にも留めていないのだろうが)ことに顕著であるが、身の回りの出来事の感覚で語ることがふさわしくないことがらについては、基本的に的外れであることが多い。

それは、彼の名を人口に膾炙せしめた不良債権問題であってもそうだ。 確かに、彼の不良債権問題に対する意見(の一部)である、不良債権処理とは引当をすれば十分であって、いわゆる最終処理=直接償却を強いるのは間違っているとの柳沢大臣に対するかつての指摘はきわめて真っ当である(最近は、彼がその策定に参画した「金融再生プログラム」において不良債権比率の半減=直接償却等の推進による不良債権オンバランス計上額の削減が謳われている(webmaster注:引当をした場合、不良債権と引当金が両建てでバランスシートに計上されるため、ネットの不良債権額は減少するが、不良債権比率を計算する際の分子=不良債権ののバランスシート計上額(グロスの数値)は減少しない)せいか、このかつての正論を枉げて「『小泉改革の中で唯一進んでいるのは、不良債権改革だけなのではないか』と内心ちょっぴり自負しています」などとして竹中大臣に阿って(竹中大臣にも「直接償却を強いるのは間違ってる」と指摘して筋を通すべきであろう)いたりもするのだが)。

しかしながら、銀行が計上する繰延税金資産について、自らの実力を嵩上げしてくれていたインチキの底上げ靴などと評するのは、かつて当サイトでも触れたように、現時点で銀行の繰延税金資産計上額が巨額になってしまう理由が、引当段階では税務上の損金計上が認められないという現行税制の下で不良債権処理を引当により行った結果として将来減算一時差異が膨らんだことであることを考えると、彼自身不良債権問題の全体像を把握していないと断ぜざるを得まい。 繰延税金資産を減らすべきというなら(確かにその計上額が将来の収益見通しに依存する以上不安定にならざるを得ず、減るに越したことはない)、彼の持論を維持する限り引当金を積んだ段階で税務上の損金計上を認め、将来減算一時差異を縮小させることしかロジカルな解法はあり得ない(ただし、これで解決されるのは今後計上すべき繰延税金資産のみであり、現に計上されている繰延税金資産を減らす効果はないが、本筋には関係ないので詳細は割愛する。 なお、彼の持論を翻すことも許容する場合、不良債権処理は直接償却等によるべきとしてそれを促進することによっても繰延税金資産の減額は可能)。

つまり、彼の不良債権処理についての見解は、問題がそこだけに限定されていればいい線いっているのだが、それに税制と会計との関係という新たな要素が加わると、まるでピントの外れた青写真しかでてこなくなってしまっているのだ(ちなみに、彼は会計の専門家として本まで出しているのだから、マクロ経済学とは違って専門外との言い訳は通用しない)。

にもかかわらず、彼が不良債権問題の第一人者として世に通じていることを考えると、やはり彼のイメージ戦略、及びそれを支える彼個人の魅力がいかに優れているかとの思いを禁じえない。 最近のblogを通じた交流の広がりや、KFiClubという会員制組織の立ち上げを含め、彼が今成功を収めていることは明らかである。

だが、その前提にあるのは、不良債権処理の進展により日本経済は成長軌道に乗っているとの説明が許される環境だ。 リフレ派の見るところ、現在の好景気は循環要因と最近まで続けられていた為替介入のパスを通じたベースマネーの拡大によるものであり、今後、円安基調の下為替介入が封じられる中で別途の手段による金融緩和が講じられない限り、遠からず腰折れすると考えられる。 つまり、本来彼のマクロ経済の理解があやまっていることが、別の要因による好景気で暴かれていない状態にあるのだが、やはり誤りは誤りであると言える日が来るはず。 その際、彼は新たな「抵抗勢力」を引っ張り出してそれにより景気が悪くなったと糾弾するのであろうが、それが受け入れられるのか、それとも見捨てられるのか−その場合でもコアなファンは残るのだろうけれども。

このテキストは、その疑問が前者であった場合に、きちんとそれを指摘するための材料として使ってもらえれば幸いである。

(2004-05-16記)