writings concerning kasumigaseki issues and others: 2004-06
2004-06-27更新分
[月旦評]第17回:竹中平蔵
当サイトではその構造改革路線を何度となく批判してきた竹中平蔵であるが、今回の自民党からの参院選出馬は、webmasterにとって極めて意外であった。 なぜなら、どう考えても今回の出馬は不合理だからである。 竹中自身は毀誉褒貶激しい人間だが、身の処し方が下手だといって批判されているのは聞いたことがないし、webmasterも彼が人並み以上に目端の利く人間であることを認めるに吝かではない。 そんな竹中が、あえて不合理な行動をすることに戸惑わざるを得ないのだ。
なぜ不合理か。
彼は今、経済財政政策担当大臣と金融担当大臣を兼務しているが、大臣というのは非常に力のあるポストである。
それもそのはず、大臣というのは傘下の省庁−彼にとっては内閣府と金融庁であり、「府庁」というのが正確だが−を自由に動かすことができる存在なのである。
抵抗勢力や役人にタガをはめられた
とは出馬に当たっての本人の弁だが、タガをはめられていてもなお、りそなとUFJの経営陣を事実上更迭し、足利銀行は破綻したのだから、いったい思うがままに振る舞っていたらどうなっていたことか(笑)。
とまれ、これは彼が大臣として金融庁という組織を動かすことができたからこそ可能となったことである。
では、今回の出馬によりそれ以上彼個人にとって有利な何かが生じるかと考えれば、大したことは生じそうにない。
本人曰く、国民の信任を受けていなければ、より大きな改革を進めるのは難しく、国民に対しても失礼。
国民に対して責任を負う立場になることは意味がある
とのことだが、彼の権力−大臣ポストを2つ占めていること−の源泉は小泉総理の厚い信頼であって、国民の信任なんぞではない。
田中真紀子の前例を見れば明らかなように、いくら国民から支持を得ていたところで、小泉総理の信頼を失い切り捨てられてしまえば単なる一国会議員になってしまう。
今回の出馬により彼個人にとって有利なものが生じるわけではないというのはそういうこと。
大臣の権力はその椅子から生じ、大臣の椅子は(普通の自民党議員とは異なり)総理直々の指名に依存しているのだから、「選挙に落ちればただの人」であるその他の大臣とはわけが違うのだ。
無益であっても無害ならばあながち不合理とも言えないのだが、今回の出馬はあきらかに彼にとって不利だ。 何が不利かと言えば、大臣を辞めた後の身の振り方。 国会議員にならなければ、おそらく大学のポストも引く手あまたであろうし、マスメディアへの進出や著作・講演活動など、いくらでも好きなことができるだろう。 しかし参議院議員としてはしょせんは242分の1、衆議院議員まで入れれば722分の1である。 幸いにして与党所属であり、全く力がふるえないこともなかろうが、当選回数がものを言う自民党の中では、初当選議員では大臣とは比較にならない影響力しか持ち得ないし、もちろん国会議員である以上、先に書いたようなよりどりみどりの選択肢も大幅に制限される。 一度大臣の権力を味わった人間にとっては、どう考えても物足りない未来である(というか、ある程度当選回数を重ねたらどこかの大臣政務官や副大臣にというのが自民党人事の定番であるが、相当フラストレーションがたまることだろう。 前例がないわけではないが)。
この不合理な行動について、考えられる理由その1は総理大臣を目指すというもの。 各省庁の大臣より権力があるのは日本では総理大臣のみだが、これは国会議員でないと就任できないポストだ(日本国憲法第67条第1項)。 もちろん既述のとおり、自民党で権力を握る必要条件は当選を重ねることであり、普通に考えれば誇大妄想としか言いようがないが、自らの政治家としての能力(ルックスといいコミュニケーション能力といいいわゆる「嗅覚」のよさといい、小クリントンとも称すべき政治家向きなキャラクターであるのは事実だ)と全国的な知名度を活かしつつ、自民党若手にも増えてきた改革原理主義者を糾合して道を開く可能性は全くゼロではない。
その2は小泉総理に脅されてというもの。 既述の田中真紀子の例や、加藤の乱において、YKKとしての長年の盟友加藤紘一を森派会長として潰しにかかったことなど、小泉総理が政局によってはどんな相手であれあっけなく掌を返す前例には事欠かず、今回も経済マターについて全幅の信頼をよせているかに見える竹中大臣に対して、出馬しないなら切るというカードをちらつかせた可能性はある。
その3は本気で小泉総理に惚れ込んでというもの。 先に大して得にならない出馬だと書いたが、それはあくまで竹中平蔵個人にとってであり、小泉総理にとっては保険がかけられるため意味のある出馬だ。 全体として大敗してしまえば効果はないが、微妙な議席数になった際には、竹中候補が集めた票は小泉構造改革路線への信任票だとしてものを言う局面は十分あり得る。 自分を取り立てた上で自由に手腕をふるわせてくれる小泉総理に恩義を感じ、得にならないとわかっていてもあえて、と浪花節的な決断をしたとも考えられる。
以上のどれが真実かは当事者にしかわからないが、webmasterとしてはその3と予測する。 その1が当てはまるほどおめでたい人間なら既に失脚しているはずだし、その2は小泉総理の損得計算として、(小泉の主観として)安心して経済問題を丸投げできる竹中にこの段階でそんな踏絵を踏ませる実益がない。 小泉・竹中を浜口・井上の両名になぞらえる偏見ゆえにそう見えるだけではないか、との指摘には一部首肯せざるを得ないが。
(2004-06-27記)
2004-06-20更新分
[月旦評]第16回:皇太子殿下
リアル京極堂の世界、としか形容のしようがない。 今の皇族をめぐる一連の騒動がである。 その含意は、中禅寺どいえども落とせそうにないとてつもない憑物に魅入られているということ。
世間を騒がせた、皇太子妃殿下のキャリア・人格を否定するような動きがあったことを明らかにした記者会見から一月あまりが過ぎ、その内容についての文書も発表されたが、皇太子殿下がこの発言で何を言いたかったかは依然としてつまびらかでない。 報道を見るに、殿下の真意がなんであれ収束のさせ方は公務の見直しに落ち着きそうであり、おそらくは、「キャリア・人格を否定するような動き」についてはうやむやになることであろう。 が、上記記者会見で殿下自身が示しているように、公務の見直しであればかねてから期待は公にされており、あえて今回のような形の発言を必要とした道筋が見えてこない。
もっとも簡単な解釈は、新しい公務を検討するよう繰り返し求めていたにもかかわらず、宮内庁がまっとうな対応をしないから一歩前に出たというもの。 しかし、この解釈を採るには、明らかに叱責のニュアンスが含まれる言葉を選択したということの重みが障害となる。 明示的に叱責するなど満洲某重大事件(これは天皇によるものである点、より重い話ではある。 どう叱責したかはリンク先にある通り議論があるが、この文脈ではそれは捨象可能。 なお、さらに厳しいものとして二・二六事件の際の「朕が股肱の老臣を殺戮す、此の如き凶暴の将校等、其精神に於ても何の恕すべきものありや」「朕が最も信頼せる老臣を悉く倒すは真綿にて朕が首を絞むるに等しき行為なり」という発言があるが、これは戒厳令発令時なのでそもそも政治介入の問題が生じ得ず、同列に論じられない)以来のこと。 つまり、その解釈を前提とする限り目的と手段のバランスが極めて悪いのだ。
そんなバランスを気にしていられないほど殿下の宮内庁官僚への不満が激しかったのだ、という可能性もあるが、それは殿下が満洲某重大事件で確立された立憲君主制下での天皇家の原理原則をその程度のことで変える人間であると言うに等しく、必然的に昭和天皇以来の帝王学教育に不備があり、かつ、皇太子殿下は将来の天皇としての資質に欠けるということになる。 だが、立太子以前のものも含めた殿下の行動からは、そうした面を見ることができない。
だいたい、本当に宮内庁の役人のサボタージュが病根であるなら、その首を飛ばす方がより少ない労力で目的を達せられることは明らかだ。 これはことを公にしなければできないことではないし、世間の憶測をたくましくするという悪影響は避けられないが、それが事前にわからなかったとは思いがたい。
であるならば、皇太子殿下の発言は何故に出て、何を目的としてなされたのか。 大胆な仮説を唱えるなら、「何故」かは万世一系の継続に皇族がとらわれているからであろう。 万世一系の継続とはすなわち父系皇統の継続。 それにとらわれることの是非については見解が分かれるだろうが、ここで重要なのは当事者の認識であり、他人がとやかく言っても始まらない。 極めて卑近な例を挙げるなら、いっそのこと倒産した方が楽になる企業の経営者のようなもの。 本人が続けたいとの思いに囚われているときに、そんなこだわりは捨てた方が楽になるとアドバイスしたところで、他人事だからそんなことが言えるのだろうということになってしまう。
では目的は何かといえば、皇太子妃殿下への愛であろう。 自らが父系皇統の継続、すなわち親王誕生への執念から自由になれない(おそらくは皇太子妃殿下自身も、であるが)以上、他に「逃げ道」を見出さなければならない。 キャリア・人格を否定する動きといういかにもな仮想敵がそれ。 真の意味で皇太子妃殿下を守ることができない以上、既述のような皇族としてのタブーに触れてまで「守った」というデモンストレイトをすることで、妃殿下が絶対に必要とする拠りどころ、すなわち妃殿下を守る皇太子殿下という姿を、国民の誰よりも妃殿下に見せるため、あの発言は公になされなければならなかったのだろう。
だからおそらく、その具体的内容は最後まで明らかにされないだろう。 明らかにしてしまってはキャリア・人格を否定する動きが特定され、矯正されてしまう。 妃殿下の守られているという安らぎを生き残らせるためには、皮肉なことだがキャリア・人格を否定する動きもまた生き残らせなければならず、であればあやふやにしておくしか道はないのだ。
この仮説が正しいのであれば、父系皇統の継続という事実に対して新しい解釈を付与し、それが達せられなくとも別の真実は維持されるという世界認識の理論体系を構築することにより憑物を落とすことが可能であろう。 しかし、中禅寺ならぬwebmasterとしては、皇室典範を改正し臣籍降下後の皇族への復帰をともに盛り込んで、あとは皇族の判断に任せるとの対処しか思い浮かばない。 臣籍降下した皇族が天皇となることについては宇多天皇という前例がある。 宇多天皇は臣籍降下したといっても源氏であり、源氏は他の姓に比べ特殊な地位にある(この点は岡野友彦「源氏と日本国王」に詳しい)ため、宇多天皇の前例が現在の臣籍降下した宮家の皇族復帰・即位と同等に考えられるかについては議論があろうが、母系皇統に比べれば些細な問題であろう。 それにより父系の皇統を継続することは、憑物をさらに肥大させることに他ならないのではあるが。
(2004-06-20記)
[書評]:いっそトンデモだと思えれば−「神は沈黙せず」(山本弘著)
当サイトの書評でとりあげる最初のフィクションであるが、フィクションとしての書評ではないことと、若干のネタバレ(厳密にはメタレベルでのネタバレ)が含まれることを最初にお断りしておく。
さて、山本弘と言えば知る人も多いと学会会長であり、その書痴ぶりや博学さでも知られるSF作家である。 そんな彼であっても、いわゆる文系知識へのアクセスはこれほど困難であるのかとwebmasterを慨嘆せしめたのが本書である。 誤解を招かぬよう言い換えておくと、webmasterにしても筆者とは逆にいわゆる理系知識は乏しいのであって、知識のなさそれ自体を問題視するつもりは毛頭ない。 ただ、知らないことを知ることの難しさを嘆くのだ。 代表例を2つ取り上げて掘り下げてみたい。
1つ目は、当サイトの読者に親和性が高いであろう経済の話。
作中では近未来の日本が経済破綻し、それを受けてとある対応策がとられるが、それらの中身自体については、筆者自身が「こんなことが起きるとは思えない」という批判はご遠慮願います。
作者はそんなことは充分に分かったうえで書いていますので
と述べているのであるから、とやかく言うべきではなかろう。
慨嘆すべき点はそこではない。 経済には素人であると自認する筆者が創作に当たり参照した資料の方である。 巻末の参考文献において、経済問題に関連して挙げられているのは以下の4冊。
- 跡田直澄+浅井隆「2003年、日本国破産[衝撃編]」(第二海援隊)
- 木村剛「キャピタル・フライト 円が日本を見棄てる」(実業之日本社)
- 深尾光洋「日本破綻」(講談社現代新書)
- 米山秀隆「世界恐慌」(ダイヤモンド社)
作中の経済破綻は、大枠ではこれらのうち跡田・浅井本と木村本に沿ったものとなっている。 前掲の筆者コメントとあわせて好意的に解釈すれば、これらの本が主張するところは起きるとは思えないと筆者が自覚した上で作中描写として採用したともとれるが、素直に解すれば、作中世界の設定にあわせてアレンジした部分については非現実的であると言っているにすぎず、その大枠は筆者が起こりえる将来像だと考えているように思われてならない。 というのも、当サイトの主張を賛否はともかく合理的な一つの体系だと認めてもらえるのであれば、跡田・浅井本や木村本に書いてあることなど、と学会世界におけるコンノケンイチの著作のそれと同じレベルであることに異論はなかろうが、筆者がそうした事情を承知で自作にとりこむとは思えないからである。
2つ目はプロットの本質に関するものとして、神の話。 本書における神の位置づけは予定説的である。 そう、世界史の教科書でおなじみの−手元に世界史用語集がないので断言はできないが−あのカルヴァンが唱えた予定説である。
予定説とは、多くの日本人の常識に合致するであろう因果律の対極にある考えである。 いいことをすれば救われ、悪いことをすれば罰が当たるというのが因果律であるが、予定説の立場からすれば、これは人間の不遜きわまりない思い上がりということになる。 なぜなら、救済の有無という神の判断が人間の行為に依存することになる故に。 人間ごとき、神からすれば取るに足らない存在の善悪などネグリジブルであって、神の判断はそんなものに振り回されるものではないと考えるのだ。 ある人が救済されるかどうかは予め定められているから予定説。
さて、本書を読んだ人であれば、この予定説が本書に全く登場しない−ある意味、「予定説」としてではなく登場してはいるのだが−ことにwebmasterが違和感を抱いたことを理解してもらえるだろう。 作中での神に関する疑問や悩みに対しては、予定説の枠組みから体系的な答えを導くことが可能であり、だからこそ筆者が主人公たちに与えた道筋も、予定説を知っている人間から見ると何とも微妙なモノになっているのである。
しかし、筆者がそれに気づいていないのみならず、本書を読んだ人間もそれに気づいている節が見あたらない。 筆者が主宰する掲示板でもそうした議論は全く見られないし、「神は沈黙せず 予定説」でぐぐっても現時点ではヒット0件である。 先の経済話とは異なり、プロットの中核をなす事柄であるにもかかわらず。 取材が足りないわけでもなかろうし、読者層がそれほど狭いわけでもなかろうし、とすればこの乖離は何に原因をもとめることができるのか。 作者の狙いとは異なる視点から笑い飛ばすというトンデモ本の定義に当てはまるものとして、webmasterは本書を笑いたいとは思うのだが、この疑問に突き当たってそれができずにいる。
(2004-06-20記)
(2004-06-27一部修正)