writings concerning kasumigaseki issues and others: 2004-09
2004-09-21更新分
[日本道路公団騒動始末記]−総括(前)
ずいぶんと間が空いてしまったが、最近の郵政民営化に関する議論もにらみながら、一つの区切りとして道路公団等の民営化を巡る動きを総括しておきたい。 といっても、メディアで多く見られるような、無駄な道路建設を止めるために民営化したのに、建設が続けられる仕組みになっているから失敗だ、というような間抜けなものでは当然にない−読者にはご賢察いただけるだろうが。 道路公団はあくまでも高速道路建設を効率的に行うための道具にすぎないのであって、自ら道路を建設するという意志決定を行って勝手に道路を造っているわけではないのだ。 そんな道路公団の組織をいじくったところで道路建設を止められるはずもない。
今回の騒動で明らかになったことが何かといえば、国民という集団における価値観の共有がうまくいかなくなってきているということ。 わかりやすくいえば、「地方」と「都市」の対立である。 今後高速道路建設をどうすべきか、という論点等を巡っての価値観の両極は次のようにまとめられよう。
- 「地方」派
- 高速道路建設についての考え方:都市部(太平洋ベルト地帯)から優先して高速道路を整備することを許したのは、国の発展のために優先順位を付けることを受け入れただけ。 都市部の高速道路が整備されたら、当然次は地方の番。 都市にだけ作っておいて、地方に作る段になって効率性云々を持ち出すのは詐欺みたいなものだ。
- 都市と地方の格差についての考え方:若い人間は都市に流出し、地方の貯蓄も都市で投資されているが、なぜ地方に住んでいるというだけでこうした格差に甘んじなければならないのか。 国民は平等に取り扱われるべきで、国が責任をもって地方の基盤整備をすべき。
- 「都市」派
- 高速道路建設についての考え方:高速道路を建設するなら、外部効果を含め経済効果の高いものにすべき。 都市部の高速道路が優先的に整備されたのは、その経済効果が高いから。 たいした効果が見込めない地方の高速道路の建設など金の無駄だ。
- 都市と地方の格差についての考え方:人が集まるのは雇用機会が豊富だからだし、金が集まるのは投資機会が豊富だから。 国が介入して地方に金を持っていくのはたかり癖を育むだけだから、そんなお節介はせず地方の自助努力を促すべきで、それにより魅力的な地域へと変わることができれば人も金も集まる。 だいたい、そんなに不便がいやなら都市に引っ越せばよい。 好きで地方に住んでいるくせに贅沢言うな。
結論から言ってしまえば、この2つの価値観の対立は、中長期的には「地方」派が絶望的なまでの少数派に転落することで解決するだろう。 「地方」と「都市」は、人口以上に住む人の属性が異なる。 高齢化のスピードが段違いに速いことに加え、高付加価値産業の知的インフラとでもいうべき職種−弁護士や公認会計士、外国語やコンピュータ関連のスキル所有者や研究者など−の分布を見れば、圧倒的なまでの濃淡がついている。 つまり、政府の介入が相当程度あったとしても、それがスターリンによる強制移住ほど極端なものでなければ、民間ベースでの格差拡大のペースが若干は鈍ろうとも、反転することは想定しがたい。 一部の「地方」では衰退を免れるところもあろうが、全体の趨勢はあまりにも明らかだ。
こうした対立が最近になって先鋭化しているのは、格差が最近になってから生じたからでは無論ない。 高度経済成長に伴う大規模な人口移動からの時間の経過がこうした先鋭化をもたらしたのではないか、というのがwebmasterの推測だ。 「都会」へ移動してきた第一世代、すなわち出身地への郷愁や共感、さらにはある種の罪悪感−自分は故郷を見捨てて都会でいい暮らしをしている−を持っており、地方への重点的な資源配分をある種の仕送りや贖罪だと受け止めることができる世代は引退しつつある。 他方でその二世・三世、つまりは生まれながらにして「都会」に属し、「地方」への特別な思いを抱かない世代が現役にどんどん参入し、社会の中核を担いつつある。 とすれば当然、「地方」への所得移転への抵抗感は高まる。
しかも、そうした最大公約数的な価値観の変化については、それに追いついていないとある要因により、変化そのものがもたらす軋轢以上の軋轢が社会に生じていると考えられる。 次回は、その要因とは何かについて論じてみたい。
(2004-09-21記)
[書評]:ゆめゆめ信者となることなかれ−「FREE CULTURE/いかに巨大メディアが法をつかって創造性や文化をコントロールするか」(ローレンス・レッシグ著、山形浩生・守岡桜訳)
本書を読んで何に驚いたかと言えば、多分これはwebmasterに属人的なことだが、p348で紹介されているハーバード大学の法学教授ウィリアム・フィッシャーによる著作物使用に対する補償制度の提案である。 なぜなら、以前当サイトで本書の前著にあたるコモンズを取り上げた際の、webmasterの提案とほぼ同趣旨だからだ。 webmasterの提案が先んじていたというのであればこれ以上名誉なこともないが、当然ながらフィッシャー案の方が3年以上先だ(最終改訂2000年10月)。 なんとも得意げに書いていたことが恥ずかしいものだが、身の程を知らせてくれた本書にはまず感謝の意を表したい。
だが、誠に残念なことに、そんな恩義があるにもかかわらず、本書に対するwebmasterの評価は、眉につばを付けて読むべし、というものにならざるを得ない。 というのも、本書はアジテーションを目的としており、平均以上に批判的精神をもって相対することが適当だからだ。 アジテーションが目的であることは著者が自ら明らかにしているところであるが、いかにもそれっぽい表現はまだまし。 多くの部分で著者自身が自らの思考にとらわれており、彼がアジテーションを目的とせずに書いたであろう文章の中にも、危険なところがいっぱい。 要すれば、マイケル・ムーアの著作のように扱うべきなのだ。
なんてことを書くと多くの反発が来そうである。 あんな下品なものと同列に扱うべきとはどういうことかと。 ある意味同列に扱っていけないというのは適切な評価であって、本書は華氏911やアホでマヌケなアメリカ人などと比べると、目的は手段を正当化するという信念に基づかない無自覚の産物であり、前言を翻すようでなんだが、ムーアよりもネオコンの言説に似ている面がある。 改めて整理すると、ブッシュ政権、悪の枢軸、著作権を濫用する大企業といったものを諸悪の根元として攻撃する姿勢があるという点でムーアとネオコンの思考と本書は似ており、さらにネオコンの思考と本書は、自分の手法がまっとうなものではないかもという自覚・自省が少ないという点でとりわけ似ている。 以下、いくつか具体的な指摘をしてみたい。
例えば本書はケーブルテレビやラジオにおける市場集中等の例をあげた後、歴史上、文化の発展をこれほど少数の人々がここまでコントロールする法的権利を持っていたことは未だかつてないのだ
(p205)(webmaster注:強調は本書による)とするが−そして多分それは正しいのだろうが−、でもそれに対処するために行われるべきなのはまずは競争政策の強化であって、著作権の内容の変更ではないはずだ。
かの有名なロックフェラーのスタンダード・オイル・トラストだって競争政策によって解体されたわけであって、「石油採掘権法」とかいう法律の立法により業務に制限が加えられたわけではない。
メディア集中の危険は、集中そのものからくるわけじゃない。
むしろその集中が著作権の変化と結びついてもたらす封建主義にある
(p314)という主張は、webmasterには筆者が著作権問題にこだわりすぎるあまりのものに思え、要検証だと考える。
また、エルドレッド法案(そのキモは下記引用部でご了解いただけると思う)について著者は次のようなメリットを上げる。
実際、多くの人は登録を必要とすることの明らかなメリットを理解してくれた。 というのもコンテンツのライセンスを受けたいと思う人にとって、一番やっかいな問題の一つは、著作権を誰が持っているか調べるためのはっきりした場所がない、ということだからだ。 登録が必要でないなら、なんの手続きも必要ないから、著作権保持者を見つけてその作品を使わせてくれとかライセンスをくれとか頼むのは不可能に近いほど難しい。 このシステムはこうしたコストを下げて、著作権保持者がはっきりわかる登録場所を確立することになる。
(p292)
しかしこれにしても、著作権強化論側に立てば、積極的に使って欲しい/使ってくれてかまわないと考える著作権者が登録をすればいいということ。 現にGPLやクリエイティブ・コモンズがあるのだからそっちで好きなようにやってくれ、なんでそっちの流儀に合わせなければいかんのだと言いたくもなろう。
ん?
期間延長の原因となっているのは価値ある著作権だ。
・・・だが著作権の延長が社会におよぼす本当の悪影響は、ミッキーマウスがディズニーのものであり続けることではない。
・・・本当の悪影響は、有名ではなく、商業的にも利用されず、結果的にもはや入手できない作品に対するものだ
(pp259, 260)から、それでは全然ダメじゃないか!
・・・という反論が当然出てくるだろうが、有名でもなければ商業的にも利用されない著作物が朽ちていくことが本当に悪影響なのかには大いに議論があるはず。
多くの人は、そんなどうでもいい著作物の再利用を促すことと、それをあきらめる代わりにディズニーが張り切って新作を出してくれることのどちらがいいかと問われれば、圧倒的に後者が多いだろうから(若干脱線だが、だからエルドレッド裁判で弁護団が主張した、著作権強化の害を証明するという戦術はそう簡単なものではないと思う。
さらに脱線すれば、その戦術すら拒否して自分の好みを優先させた著者は敗訴についてまずそれを教訓とすべきなのに、「エルドレッド裁判」の教訓とは、この問題について、一般の人たちが関心を持つようにならなければ、我々に勝ち目はない、ということだ。
著作権問題が多くの人たちの関心を引くようになった時、裁判所もまた、この問題を考え始めるだろうと自分の正しさに疑いを持たず、世間や裁判所の無理解に原因を求めるようでは・・・)。
だから本書は、著者の理念を相対化しその実現に向けた戦術を立案するための反面教師として読まれるべきであり、盲目的に賛同するような人には薦められない。 というか、そういう人ばっかりが読んで過激化・先鋭化が続くようだとかえって著者の主張の実現からは遠のいてしまうのではないだろうか−エルドレッド裁判で著者が犯した誤りを拡大再生産することによって。 本来この問題は、プロライフ対プロチョイスのような形而上学的価値観が対立するケースとは異なり、しょせんは金で片づく話(少なくとも一方の当事者である著作権者にとっては)なのだから共存の道を一番探りやすいはずなんだが、わざわざ泥沼に入り込んでいくのは愚かしいにとどまらず、誰にとっても不幸な話である。 iTunesについてすら原理主義的にケチを付けているようでは、残念ながら先に待つのはやっぱり泥沼であるのだろうが・・・。
ところで最後に、読者にアメリカ憲法について詳しい方がいらっしゃることを期待して、一つ疑問点を書かせていただきたい。
著作権に関する進歩条項、本書の訳を引用すれば議会は、著者や発明者に対して、それぞれの著作(中略)に対する(中略)独占権を有限時間だけ確保することで(中略)科学(学問)と有用な技芸の進歩を推進する力を持つ。
(p253)
という条文の解釈についてである。
筆者はロペス訴訟における通商条項、すなわち議会の権限を州間通商の規制のみに限ることに関する裁判所の判断を援用して、著作権に関する議会の権限もまた限られるべきとの解釈をしている。
だが進歩条項は、議会は著作権の有効期限に制限を課す力を持つ、という規定ではない。
よって通商条項を援用するのは誤りで、やはり著作権強化が創作活動の進歩を推進するものであるかどうかを争点にしなければならなかった(極論を言えば、著作権の期限延長が世の創作活動の進歩の推進に貢献するものであれば、むしろ有限時間を伸ばすことが議会に求められる)と思われるのだが、この解釈は論外なのだろうか?
(ローレンス・レッシグ(2004)、「FREE CULTURE/いかに巨大メディアが法をつかって創造性や文化をコントロールするか」、翔泳社)
(2004-09-21記)
[共有地の喜劇]:第7幕
マーケットの馬車馬でのご指摘
馬車馬氏に対するコメントも第4回目。 このやりとりも、svnseedsさんのところで議論が派生し始めたり(馬車馬氏のバイタリティあふれる活動はすばらしいと思う)、2ちゃん経済板の名物スレ(マンネリスレとも(笑))、インフレターゲット支持こそ経済学の本流その150で取り上げられたりと、ますます広がりを見せている。 さて今回は、馬車馬氏のポートフォリオ・リバランス及び銀行の自己資本の質についてのコメントと論点整理が対象である。
第1点、ポートフォリオ・リバランスについて。
webmasterの意見がポートフォリオから国債が減ったら代わりに株を買うだろうという直感的に到底受け入れがたい結論にたどり着いてしまった
といわれても、こちらもそんな結論にたどり着いた記憶はないのだが(笑)。
各銀行がどの程度国債を現在ポートフォリオに組み入れているかはそれぞれのポートフォリオ戦略にも依存することなので、国債が日銀にすべて買い占められた世界が仮に実現したときに、どの資産に対価として得た現金を振り向けるかは銀行によって異なるだろう(確かに国債と株式の金融商品としての特性はかなり異なる(まして、銀行には株式保有制限が課せられている)ので、株式に向かうことは考えづらいことに異論はない)。
だから国債が減ったら代わりに○○を買う、なんてことは予測がつかなくて当然ではあるが、ただ一つだけ言えるのは、馬車馬氏が主張するように一番手っ取り早いリバランスはまたどこかから国債を買ってきて、2-6-2のアロケーションを組み直すことだが、もしこれが出来ない場合、残された唯一の方法は株を全額売却し、100%のキャッシュポジションを取ることだ
(webmaster注:2-6-2のアロケーションとは、キャッシュ20%、国債60%、株式20%のポートフォリオ構成)ということだけは絶対にあり得ないということ。
なぜなら、銀行だって預金金利やら行員の給与やら各種物件費やら、とにかくもろもろのコストを支払わなければいけないのだが、100%キャッシュポジションを組んでしまっては資産からのリターンはゼロとなり、それらのコストを負担できなくなってしまうからだ(フィービジネス等の他の収益源は捨象)。
今だって例えばUFJは赤字続きで不良債権処理費用を勘案すれば資産からのリターンはマイナスなのだが、100%キャッシュポジションの方がそれよりはベターであり、あり得ないとは言えないという考え方をする人もいるかもしれない。 ただ、不良債権の場合はあくまで事後的にリターンがコスト負担に見合わなかったケースであり、他方100%キャッシュポジションは事前に見合わないことが明らかなケース。 考えてみて欲しい。 株主総会で銀行の頭取が、「国債を全部日銀に買い占められてしまった結果、当行にとってのベストポートフォリオは全額日銀当預に積んでおくことになりましたので、来年はそういう業務運営を行います。 その結果、次の決算は絶対に赤字になります」と発言して、それを唯々諾々と株主が受け入れるかどうかを。 その答えは、まあ想像に難くないだろう。
代替資産が全くなければ、それも完全には否定できない選択肢とは言える(無い袖は振れぬ、というやつだ)が、馬車馬氏にネグリジブルと判断された社債の発行残は50兆円強、為替リスクヘッジに用いられる各種デリバティブ(OTC(相対)のみであり、上場商品は含まない)の想定元本は2.1兆ドル、まあ200兆円強はある(ただし、1年以内のものが74.8%を占めており、長期国債の代わりとして使いづらいのは馬車馬氏ご指摘のとおり)。 その他を考えても、債券では発行残80兆円弱の地方債、発行残60兆円弱の政府保証債といった大所があるし、svnseedsさんが指摘する貸出だってある。 デフレ下でキャッシュリッチな企業セクターに大した借入需要があるわけではなかろうが、国債買入を進めれば長期金利は下がるわけで、多少出て行きはするだろう。
以上は、限界信用乗数はデフレ下で低下が著しくはあるがそれでも正の値をとる、つまりベースマネーが増えたときには、ほんの少しかもしれないけどマネーサプライが増えるということを主張していることに等しい。 馬車馬氏が主張するように、日銀が国債を買った際に銀行が他の資産を売却するようなことがあれば、それは非金融セクターから銀行が現金を吸収してかえって金融引き締め効果が出てくるということになり、すなわち限界信用乗数が負の値をとることとなる。 この点についてはsvnseeds氏が検証されるということなので詳しくはそちらに譲りたい(webmasterが適任でないのは明らかだし)。
第2点、銀行の自己資本の質について。 馬車馬氏は公的資金と繰延税金資産の存在に着目して質が悪いと主張している。 さて、実際にそうだろうか。
まず公的資金だが、公的資金は主に優先株という形で自己資本に算入されているわけだが、言うまでもなく株であろうが何であろうが公的資金には返済義務がある
というのが馬車馬氏の根拠である。
しかし、残念ながら優先株には返済義務はない(劣後債にはあるが)。
論より証拠、実際にどういった形で「返済」が行われてきたかを見てみよう。
これまでに優先株の引受けの形で注入された公的資金を「返済」したのは三菱信託銀行、関西さわやか銀行、住友信託銀行、横浜銀行(第一次・第二次・第三次)及びみずほフィナンシャルグループ(一部)であるが、本当の意味で返済と言い得るのは買入消却のみ(自分の金で買い戻して消却により資本を減らすため)。
その形で「返済」したのは関西さわやか銀行、横浜銀行(第一次・第三次)及びみずほフィナンシャルグループだけであって全部ではない。
その他の場合−三菱信託銀行、住友信託銀行及び横浜銀行(第二次)−は政府保有株式を売却する形で「返済」している。
つまり返済義務はないということだ(なんで政府が株式売却によって資金を回収するという「返済」は本当の意味での返済ではないかということは説明不要だろう)。
次に繰延税金資産だが、倒産の瀬戸際で自己資本の重要性は増すというのに、倒産したら消滅するのが繰延税金資産だ。
その意味で、詐欺性は公的資金よりも高い
というのが馬車馬氏の根拠である。
その理屈でいうなら、繰延税金資産に限らずすべての資産をゴーイングコンサーン価値ではなく清算価値で評価していなければ詐欺的だということになってしまうが、そんな会計基準を用いてバランスシートを組んでいる企業など国内・海外を問わずwebmasterは寡聞にして知らない。
大甘な収益計画を書くことで繰延税金資産を増やすことが出来る
というのはご指摘のとおりだが、それは他の資産にも当てはまる−例えば大甘な回収計画を書くことで貸出債権の貸倒引当金控除後の計上額を増やすことができるし、大甘な地代・賃借料を見込むことで(収益還元法で評価した場合における)不動産の減損処理を免れることができる−ことであり、要すれば粉飾をしているかどうかの話。
繰延税金資産だけをことさらに取り上げるのは為にする議論ではなかろうか。
結局、こんなに日本の銀行の自己資本は充実しているというのに、なぜ彼らはあんなに消極的なのだろうか?
同じ自己資本比率のドイツ銀行はあれだけアグレッシブに投資をしているというのに
(webmaster注:「ドイツ銀行はあれだけアグレッシブに投資をしている」という部分については、馬車馬氏の別テキスト、今週のThe Economist:銀行がギャンブラーになる日をご覧いただきたい)という問いの答えは、自己資本比率ではなく経営判断の違いに求めるべきなのだろう。
The Economistがわざわざドイツ銀行を記事にしたのは、それが珍しいものであるということ(いわゆる「犬が人をかんでもニュースにはならないが、人が犬をかんだらニュースだ」)。
ドイツ銀行の判断の是非はさておき、そういう経営をする銀行がありふれていればニュースになるはずもなく、またThe Economistがああいった評価を下すはずもないのだから。
第3点、政策による「ゆがみ」をどう考えるかについて。
Bewaad氏が具体的にどのように「ゆがみ」をとらえているかが良く分からない
といわれても、それは財政政策が具体的にどういう手段でどの程度の規模かをお示しいただかないことにはとらえようがない。
非常に直感的かついい加減にコメントすれば、「何やったってゆがむんだから何やってもいいんじゃないの?」とも思う
のであれば、じゃあ例えばすべての失業者に毎年1,000万円づつ国からプレゼントしてもいいのでしょうか?
ということになってしまう。
だから、単に財政政策を用いるというのではなく、○○税をいくら減税するとか、××費をいくら増額するとかそういった話にならないと、そのゆがみが国債買入れとインフレターゲティングの組み合わせによるそれや円安誘導によるそれと比べてどちらがよりマシなものかどうかは議論のしようがない。
議論のしようがないなら、財政政策によるゆがみが大きいのではないかとも言えないだろう、という反論が考えられるが、一般論としていえば、あるインフラを公共事業で整備すべきじゃないかとか、経済主体間の所得再配分をどうすべきかという話は、外部性や情報の非対称性などの有無に依存し、要すれば時の経済情勢によってそう大きく変わるものではない。 逆から言えば、やるべきでないことはデフレ(ないし不景気)だからってやっちゃあいけない。 とすれば、デフレ対策として発動し得る財政政策というのは、やるべきだけど予算制約があるので後回しにされていたものの前倒しでしかあり得ない。
もしそういう財政政策を提案しているというのであれば、その発動にはwebmasterも異論はないが、そういう理解でいいのだろうか(ただ、この場合でも「そういう財政政策」とは何かという議論は残るが、少なくともやるべきかどうかという点では馬車馬氏とwebmasterの意見は一致を見たということになる)? そうではなく、本来やらない方がいいものではあるけれど、デフレの害の方がより大きいのだからやるべきというのであれば、やっぱり具体的にそれは何をどの程度やることをイメージしていて、それが各種リフレ策よりましかどうかを議論する必要があろう。
第4点、金融政策の波及経路について。
直接的な効果がゼロなのに間接的な効果だけはあるというはおかしい
というところを見ると、どうやらwebmasterが早とちりをしていたようだ。
何が早とちりだったかというと、以前、大恐慌(昭和恐慌)時のアメリカや日本における回復過程では、貸出が伸びなくてもインフレになったと書いた際に、特にそれに対する反論をいただかなかったので、その点については賛同があったものと考えていたのだ。
従ってその後の議論も、じゃあなんでそうなった(なり得る)のか、馬車馬氏の言葉を借りれば直接的な効果がゼロなのに間接的な効果だけはあり得るというのは具体的にどういうプロセスを経てなのでしょうか、という点についてのものだと勝手に理解をしており、そもそも間接的な効果があるのかどうかについて意見が分かれていたという認識がなかった。
というわけで改めて大恐慌からの回復過程における日米両国のマネーサプライ、銀行貸出と財政支出を見てみると、日本であってもアメリカであっても、マネーサプライの増加は財政支出の増加や銀行貸出の増加とは無関係に実現している。 つまり、「銀行貸出が増えない以上マネーサプライは増えない」ということもなければ、「銀行貸出が増えないときにマネーサプライを増やすためには財政支出の増加が必要だ」ということもないということが、少なくとも歴史を見る限りはわかる。 馬車馬氏がなおこの2つの仮説を主張されるのであれば、一に大恐慌期において銀行貸出・財政支出の増加がなくともマネーサプライが増加したのはなぜか、二に大恐慌期にはそうしたことがあり得たのに現時点ではあり得ないのはなぜかについての説明をいただきたい。
第5点、これは第4点と密接に関連するが、デフレ脱出に当たっての期待の役割について。
ゼロ金利の状態でどのようにデフレから脱出するかという一般的な議論と、将来ゼロ金利ではなくなったときの金融緩和を約束すればよいという議論がある
とのことだが、リフレ派で両者を分けて議論している人はほとんどいないというのがwebmasterの理解だ。
継続的なマネーサプライの十分な増加は企業セクターを中心に死蔵されているキャッシュの流動化が主力となってもたらされるものであり、そのためには期待インフレ率の上昇が必要で、期待インフレ率を上昇させるのは将来インフレ率がプラスになってもなお継続される(プラスになったらスタートする、ではない)金融緩和が必要だと。
例えばスヴェンソンの議論にしても、ずっと為替ターゲットで行かずに途中でインフレターゲットに切り替えるというのは、結局現在から将来に至るまで金融緩和を継続するというコミットメントの実効性を上げるためにはどうしたらよいかという思考の中から出てきたテクニックである。
これに対する馬車馬氏の反論は、銀行貸出の増加がない限りマネーサプライは増えないから金融緩和、具体的にはベースマネーの増加の将来に渡っての継続をコミットしたって期待インフレ率は上昇せず、死蔵されたキャッシュは死蔵されたままだ(他方で財政支出の増加ないし減税はマネーサプライを増加させられるので期待インフレ率の上昇に繋がる意味あるコミットメントが可能)、というものだが、第4点で書いたとおり銀行貸出の増加はマネーサプライ増加の必要条件ではない。 たまたま議論の行きがかり上ベースマネー増加の直接的効果の話に焦点が当たってしまっているが、本当に大切なのはいかなる政策手段が効率よく副作用が少ない形で期待インフレ率を上昇させられるかどうかの議論。 リフレ政策を実行したらハイパーインフレになってしまうという論者が相当数いる以上、リフレ政策の実施は自己実現的に期待インフレ率を上昇させることが可能だという予測がそれほど不合理だとは思えないのだが。
flapjackのbookmarksおよびisuzukiの日記でのご指摘
flapjack氏(お久しぶりである)のイギリスとの比較での公務員制度論についてのやりとり(社会の流動性について−イギリスの官僚の場合−、社会の流動性について(id:flapjack:20040909#p1の続き)および社会の流動性について(続き))並びにisuzuki氏のそれに関するコメントにおいて、webmasterのテキストが紹介された。 詳しいコメントは次回にさせていただきたいが、反射的に浮かんだものを思いつくまま並べて予告としたい。 どうせなら、ということであえてargumentativeな物言いで(笑)。
- キャリア制が諸悪の根元? ある程度大きな組織ではたいてい似通った人事制度があるのだが(総合職と一般職、将校と下士官・兵、教授と事務員など)。
- 国家公務員採用I種試験の年齢上限は33歳。 博士号を取得してからでも十分間に合う。 博士号保有者が極めて少ないのは制度の問題ではなく、受験者に修士号保有者はそれなりにいても博士号保有者はほとんどいないという博士号保有者のビヘイビアに帰せられるべきもの。
- 世界的にエリートといえば博士号保有者なのは政府部門に限った話ではない。 欧米では結構企業の上層部に社会科学系の博士号保有者がいたりするが、日本の企業ではこれが圧倒的に少ない。 就職に困っているという噂をよく聞くODの人々は、研究職しか考えてないんじゃないの?
- 国家公務員採用I種試験のレベルは本当にたいしたことない。 司法試験と比べれば冗談みたいに簡単だし、院試より簡単だ。 それが難関試験だと言い、試験秀才ばかりが集まる原因になっていると言うのは、科挙になぞらえるような比喩を現実だと思いこんだ批判だ。
- 天下りがあるから俗に言う「老害」を防止できている。 天下りをやめ、かつ「老害」を防止したいなら、戦前の恩給のように公務員の年金を引き上げる必要があるが、それは政治的にフィージブルでない。
- 同様に、公務員の給与を引き上げて民間から中途採用しやすくしようというのも、残念ながら政治的にフィージブルでない。
- 白地に絵を描くならともかく、現に与党は官僚組織をシンクタンクとして無料で使えるので、政策提言シンクタンクを作ってもそこに金を出して発注するインセンティブがない。 強いて言えば野党にはそうしたシンクタンクを活用するインセンティブがないではないが、そのような動きは聞いたことがない。
- 縦割りと言えば聞こえは悪いが、戦前・戦中期に軍事費の伸びがあの程度で収まったのは大蔵省が軍部に抵抗したから。 大蔵省が「国益」を「省益」に優先させてもっと軍部の言うことを聞いていた方が良かった? きれい事を言えば、「省益」をぶつけ合うのは裁判において双方の弁護側がそれぞれの主張の立証に最大限努力するようなもの。 それよりも双方の弁護側がなれ合って落としどころを探った方がいいとでも?
- 政府全体で一括採用・省庁横断的人事異動をするなんてのは絵空事。 今の省庁別採用・人事異動だって一人一人の特性をどこまで把握・評価しているかあやしいというのに、それを10倍以上の規模にしてうまくいくとは思いがたい。 かえって派閥・情実人事が横行するだけかと。
切込隊長BLOG〜俺様キングダムでのご指摘
日本経団連レポートに関するエントリのコメント欄で、webmasterのテキストが隊長氏がリフレ派であるとのサポートとして挙げられていた(55番)。 かつて隊長は中国発デフレ論をバカバカしいと断言していたのでそう思っていたのだが、53番コメントにあるように「インタゲに反対するようなエントリ書いてた」ということであるなら認識を改めなければならない。
早速過去のエントリを探ってみると、財政についてのエントリがそれっぽくある。
インフレターゲットなど金利が上がる政策はもってのほかだ。 打ち出の小槌である日銀のバランスシートは金利に弱い。 1%上がれば、日銀の資産は2兆円近く吹き飛ぶ。
ただ、日銀の資産が吹き飛んでインフレになって日本の富が海外に流出しても良いと思っている人もいる。 早稲田の教授に収まった植草某や野村證券の某クーなどもそうだが、とにかくデフレを止めることを起点にしている人は、あまり健全化に興味がない。
という部分は明らかにリフレ派ではない。ただ、同じエントリで次のようなことも書かれている。
最終的に歳入を安定させ、ある程度の構造の最適化をする旗振り役が、支持率を気にしている以上、先送りありきで話を進める以外に方法はない。 政府紙幣発行やインフレターゲットのようなアイデアがあったとしても、その是非を検討する以前のところで実行されないのであれば、偉い人がリスクを背負ってまで改革に力を傾けるモチベーションも沸かない。
りそなの事実上の国有化も、既に起きていた未来だったことも言うまでもない。
不良債権処理によって国有化された暁には、銀行経営の、特に資産面で根幹を占めていた持合の構造が崩れ、勢い日銀による国債の引き受けを無制限に行っていかざるを得ない。 次に起きる未来は、より脆弱だが大手の生保破綻だろう。 りそなで試されたセーフティーネットが機能したことが証明され、さしたる混乱もなかったのだから、2兆円でりそなが処理されたのと同じスキームで生保の破綻を整理することに金融政策上の問題点は相当クリアされた。 後は、持合によってバランスシートが痛んだ生保の我慢比べでどこが脱落するかだけになった。 セーフティーネットを発動する>特別金融を履行する>国債を新規発行する>日銀が引き受けるの大枠がある限り、何年先のピザでも口に入る。
というあたり(なお、強調はwebmasterによる)は、リフレ派的な主張でもある。 シニョリッジ活用による財政政策に力点を置き、その政策パッケージにおける金融政策には悲観的とも考えられ、広い意味でのリフレ派と分類できなくもない。 とりあえず、もう少し隊長の意見を見るまでは、彼の立ち位置についての判断は留保するのが正解という気がする。
(2004-09-21記)
[法令XML文書化計画]:舞台裏通信第7号(2004-09-21)
修正・訂正・変更レポート
- 「目次」を表す要素を「目次要素」に変更した。(変更箇所:要素解説及びスキーマ−tableOfContents要素及び関連要素)
編集後記
前回、本企画が2ちゃんのどこかのスレに紹介されていたらしいということを書いたが、ニュース速報+板の「【行政】条項ずれや引用の誤り等"条文ミス"防止、ソフト頼み 内閣法制局が1億円要求」スレ(webmaster注:既に過去ログ倉庫に入っている)であった。 何度か書き込んでageに努めていたが、さすがはニュー速+、あっという間に消えていってしまったのだった(笑)。
(2004-09-21記)
2004-09-05更新分
[月旦評]第21回:浜崎あゆみ
MAX松浦らの電撃解任で幕を開けたavexのお家騒動において、移籍をちらつかせて松浦サイドにつくことを鮮明にし、彼の復帰・依田会長の退任をもたらしたことにより、改めてその存在感を世に示した浜崎あゆみ。 なんでそこまで松浦に対して信頼を寄せるのだろうかと考えると、もちろん本当のところは当事者にしかわからないことではあるのだが、なかなか興味深い。
歌手である彼女を外部から窺うための手段として真っ先に思いつくのはやはりその歌(念のため申し上げれば、浜崎はすべての曲の歌詞を手がけ、最近は作曲にも携わっている)。 というわけで、まずは彼女のCDの履歴を見てみたい。
| 年 | シングル総売上(平均) | アルバム総売上(平均) | 国内シングル総売上 | 国内アルバム総売上 | シングル総浜崎/国内(平均) | アルバム総浜崎/国内(平均) | シングルタイトル | アルバムタイトル |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1998 | 50.8(10.2) | n.a. | 15,321.6 | 21,066.9 | 0.33%(0.07%) | n.a. | poker face, YOU, Trust, For My Dear, Depend on you | n.a. |
| 1999 | 376.4(62.7) | 401.4(200.7) | 14,542.9 | 19,575.1 | 2.59%(0.43%) | 2.05%(1.03%) | WHATEVER, TO BE, Boys & Girls, A, appears, kanariya | A Song for XX, LOVEppears |
| 2000 | 497.4(71.1) | 290.4(290.4) | 13,649.2 | 19,768.5 | 3.64%(0.52%) | 1.47%(1.47%) | Fly high, vogue, Far away, SEASONS, SURREAL, AUDIENCE, M | Duty |
| 2001 | 380.2(76.0) | n.a. | 10,758.2 | 18,277.7 | 3.53%(0.71%) | n.a. | evolution, NEVER EVER, Endless sorrow, UNITE!, Dearest | n.a. |
| 2002 | 237.9(59.5) | 416.5(208.3) | 8,117.2 | 16,930.3 | 2.93%(0.73%) | 2.46%(1.23%) | Daybreak, Free & Easy, H, Voyage | I am..., RAINBOW |
| 2003 | 118.1(39.4) | 102.7(102.7) | 8,594.1 | 15,254.7 | 1.37%(0.46%) | 1.28%(0.64%) | &, forgiveness, No way to say | Memorial address |
(出所)業界売上:日本レコード協会、個別CD売上:YAMACHAN LAND(webmaster注:オリジナルシングル・アルバムのみ。 各種リミックスやベスト版は含まない)
さて、以上から客観的な事実として次のようなことが指摘できる。
- 売上枚数のピークは2000年。 特にこの頃は枚数限定版(Fly highなど)があり、それがなければもっと売上げは伸びていた可能性は高い。
- 2000年以降売上げが減少した最大の理由はタイトルの減少。 タイトル当たりの平均売上のピークは(シングルは)2001年であるし、その国内全体の比率でいえば2002年がピーク。 つまり、タイトル数が維持できていればもっと売上げが伸びていたと考えられる。
- 2003年に入ると、タイトル数の減少に加えタイトル当たりの売上げも落ちてきている。
これと歌詞を組み合わせてあれこれ考えてみると、冒頭の問いに対して一つの仮説を立てることが可能だ。 曰く、浜崎はそのトラウマ−彼女の家庭環境がそれなりに複雑であることはよく知られているが、おそらくはそれに由来する、自分は必要とされていない人間なのではないか、一時的に居場所が得られたとしても遠からず失われてしまうのではないか、という強迫観念−を歌い上げ、それが社会に受け入れられていく中で癒され、その癒しをもたらした松浦に深い信頼を寄せている、と。 JASRACがいるので具体的に歌詞を引用できないのでわかりづらいかもしれないが(webmasterの思索におつきあいいただけるのであれば、うたまっぷで歌詞を見ながらご覧いただきたい)、なぜそういう仮説が立てられるかを書いてみよう。
デビュー作poker faceからその片鱗は既に感じさせたが、徐々に売れ出した後には、見せかけの自分にみんな喝采を送るけど本当は違う、といわんばかりに作風を先鋭化させる。 私小説的に自らの半生を語ったとされるA Song for XXや、正統派ラブソング路線で引っ張ってきておきながら最後にすべてをカオスと結論づけるappearsが、そうした時代を代表している。
だが、そうした曲もまた売れた。 次々に心の中をはき出しても、それが拒否されることはなかった。 もちろん金が儲かったということなのだが、多分それ以上に、浜崎にとっては、自分が社会に受け入れられている、自分の素をさらけ出しても大丈夫なんだ、自分の居場所はあるのだ、という確認の意味が重要だったのだろう。 そうした彼女の心の変化を如実に表しているのがSURREALだと思う。
その中で浜崎は初めて自分を肯定し、今のままの自分でいても大丈夫だ、明るい将来が待っているんだという確信を歌っている。 それ以前の曲では明るさを表現していても、それは過去の思い出だったり、今のうたかただったり、未来へのはかない希望だったりしていたのが。 前作SEASONSがひたすらに過去を振り返り、最後に不確実な未来に直面する現在を語ったこととセットで考えると、なおさらその感は深い。
ある意味歌手という職業を絶叫療法の手段として用いたようなものだが、SURREAL以降、曲の内容において特に将来についての肯定が強くなるにしたがって、発売ペースが落ちていったのも頷ける。 彼女にとって歌うことでしかトラウマを鎮められなかったのが、トラウマそのものが徐々に昇華されていったのだから。 その路線に終止符をうったのが、この世に存在できたことの歓びの歌、Voyage。 この歌は、彼女がトラウマから自由になったからこそ生まれたものであろう。
2003年に入ってからの極端な販売枚数の低下は止むを得まい。 彼女の精神は、次々にCDを出さなければならない切羽詰った状況にはないから、リリースの間隔は空く。 浜崎自身のやるせない思いが込められている、というファンにとっての浜崎らしさの最たるものが失われたのだから、離れるファンも出てくる。 商売である歌手としては悪い方向に進んだのかもしれないが、浜崎あゆみ、いや浜崎歩本人にとっては幸せな変化であろうし、自分の思いに縛られず自由に作詞・作曲・歌唱ができるという意味では、商売以外の部分の歌手としても、むしろ今の方が充実しているのではないか。 つまりマイナーアイドル浜崎くるみに手を差し伸べ歌手という世界に自分を導いてくれた松浦は、まさに彼女の人生を変えた人間であり、だからこそ彼に対する浜崎の思いは強いのだろう。
(2004-09-05記)
[共有地の喜劇]:第6幕
マーケットの馬車馬でのご指摘
再度馬車馬氏から、財政政策についてのコメントとベースマネー増加の効果についてのコメントをいただいたので、それらに関するwebmasterの考えるところを述べていきたい。 なお、この議論については、svnseedsさん、H.A.Economicさん、ジュタローのボヤキ。さん、徒然なる数学な日々さんという多くのギャラリーを集めるにいたっている。 これもひとえに馬車馬氏に丁寧にお付き合いいただくことができた故だろう。 あらためて感謝させていただくとともに、結果がどうであれ、恥ずかしくない姿勢を最後まで貫くことができればと思う(内容が恥ずかしいことは大いにありえるので、それについてはそんな希望を持てないのが残念だが(笑))。
さて本題。 まず財政政策についてであるが、かなり議論も長くなってきたので、鹿座氏のコメントも参考に次のように論点を整理したい。 まず、これまでの議論を通じて明らかとなった、馬車馬氏とwebmasterのおおむね一致した認識は次の通りである:
バーナンキの背理法は、「政府の支出をすべて刷り増した紙幣で購う=無税国家は不可能」であることを前提としている。 従って、バーナンキの背理法を用いてリフレ政策を正当化する論者は、(当然に無税国家の前提となる)税の減免を肯定すべきである。
他方、議論が分かれているのは次の点である:
- 馬車馬氏の見解
- 不良債権問題がある以上、銀行をチャネルとする金融政策は(単独では)無効であり、財政政策を活用すべき。
- webmasterの見解
- 不良債権問題があっても金融政策は有効である可能性が高く、かつ、金融政策は財政政策より副作用が少ないことから、まずは金融政策をメインとして活用すべき。 仮に金融政策が無効であれば、その際には財政政策を活用すればよい。
以上から、残された論点は、1に不良債権の存在と金融政策の効力をどう考えるか、2に財政政策の副作用をどう考えるか、に整理されることとなる。 これを前提に(もしwebmasterの整理に問題がある場合にはご指摘願いたい)、以下論じていきたい。
ここでは、順序は上記整理の逆となるが、馬車馬氏のコメントのそれに従い財政政策の副作用について。 とりあえず「実際にインフレ率の上昇が起こるまでベースマネーを継続的に増加させていく」というコミットメントが期待インフレ率の上昇に貢献すると仮定すると(その仮定の是非は後述)、今政府が行いたいのはベースマネーを増加させることであって、経済主体間の相対的な有利・不利の関係を変化させることではない。 例えば法人税を引き下げれば、企業活動が相対的に有利となり、個人や家計の活動は相対的に不利となるが、そんな関係の変化をもたらしたいわけではないのだ。
もちろん馬車馬氏の指摘するとおり、あらゆる経済政策は資源配分にゆがみをもたらす
。
国債買切りオペの増額であっても、国債の保有者でなければ買い取ってもらえないわけであるし、なによりオペ対象は金融機関に限られているわけであるから、なんの歪みも生じさせないわけではない。
しかし、国債市場は日本で最も規模の大きい市場であり、かつ、インターバンク市場でもない。
日銀がどんどん国債を買い取っていくことにより国債価格が今後上昇すると予測する投資家は市場で国債を買うことができるし、非金融機関は金融機関に国債を売却することにより、日銀オペに参加するのと同様の効果を享受できる。
ゆがみを生じさせること自体が目的であればともかく、そうでないのだからなるべくゆがみが少ない手段を選ぶべきだというのがwebmasterの主張である。
次に不良債権の存在と金融政策の効力についてだが、これは馬車馬氏の2つめのコメント、ベースマネー増加の効果についてのテキストのテーマでもある。 これを取り上げるに当たって最初にお詫びしなければならないのだが、ベースマネー増加が円安に繋がるとの仮説について馬車馬氏からいただいたコメントについては、webmasterにそれを理解し、了解なり反論なりをする知識・能力がないので、仮説自体を(webmasterの主張としては)取り下げさせていただきたい。 馬車馬氏と議論できる方々がいらっしゃれば、直接馬車馬氏のサイトでコメントをしていただくか、webmasterまでメールをいただければご紹介はさせていただくので、そのようにしていただきたい。 自分でネタを振っておきながらこのような次第となり、本当に申し訳ない。
というわけでもう一つのロジック、ポートフォリオ・リバランスであるが、馬車馬氏によればポートフォリオから国債が減ってしまったので、その分株や社債を買おうなんていうでたらめなポートフォリオマネージメントは聞いたことがない
ということになるのだが、では馬車馬氏は、今年3月末現在で民間金融機関が保有している160兆円以上の国債(FBとJGBの合計(速報値))を残らず日銀が買い取った場合であっても、その代金を全額日銀当預にブタ積しておくとお考えなのだろうか。
株と国債とでは、そのリスクも値動きの特性も全く異なる
というなら、日銀当預と国債だってそのリスクも値動きの特性も全く異なるわけで、ポートフォリオから国債が減ってしまったのでその分日銀当預にブタ積しておこうというのもでたらめなポートフォリオマネイジメント。
国債に投資するということは、一定の価格変動リスクをテイクしてリターンを求める投資活動を行うことに等しく、それが全くのノーリスク・ノーリターン資産である当預への投資で完全に代替されるものではないはず。 ポートフォリオ戦略に変更がなければ、国債が日銀当預に入れ替わったことを受け、何らかのリスク資産への投資が一定程度行われ、リスク・リターンバランスの修正が行われるはずである(それがどういった資産かは各金融機関の投資判断によるが)。
これに対する馬車馬氏の見解は次のとおりだ。
2点目。 100歩譲って、現金保有が増えた銀行が株や社債を買いたくなったとしよう。 しかし、自己資本比率の低い今の(2年前の)日本の銀行は株や社債を新規に買うことが出来ない。 銀行はBIS(国際決済銀行)の定めた規則に従わなければならず、BISは自己資本比率の低い銀行が株や社債、融資などを増やすことを事実上禁止しているからだ。
唯一の例外は国債で、これは自己資本比率が低くてもいくらでも買うことが出来る。 過去数年間、都銀が血眼になって国債ディーリングに賭けてきた理由はこれだ。 他に買えるものがなかった以上、国債で勝負を賭けるしかなかったのだ。
だから、たとえ銀行が現金を持ちすぎて他の資産に換えたいと思ったとしても、現実的には国債しか買えない。 結局、日銀が国債を買っても都銀は新発債の入札にますます気合を入れるだけで、世の中は何も変わらない、ということになる(もう少し詳しい話はコメント欄の脚注参照)。
この点については、これまで何回か書いてきたことだが、すべての金融機関が自己資本比率の制約に縛られているわけではなく、財務状態が健全な金融機関がいることをどう捉えるかお伺いしたい。 実際に数字を見てみよう。 金融機関の自己資本比率の分布は次のとおりだ。
| 基準未満 | 〜+2%ポイント未満 | 〜+4%ポイント未満 | +4%ポイント以上 | |
|---|---|---|---|---|
| 国際基準行(基準値:8%) | 0 | 0 | 11 | 5 |
| 国内基準行(基準値:4%) | 3 | 5 | 22 | 86 |
(出所)全国銀行協会
さて、いったいどれだけの銀行が自己資本比率が制約となって国債やキャッシュのようなリスクウェイトがゼロの資産にしか運用できないと考えられるだろうか。 基準+2%ポイント以上(国際基準行で10%以上、国内基準行で6%以上)あれば健全という場合、ほとんどの銀行は自己資本比率故に運用が制約されるということにはならない。 基準+4%ポイント以上(国際基準行で12%以上、国内基準行で8%以上)とハードルを上げても、国際基準行の約3割、国内基準行の約7割は大丈夫だ。
問題は自己資本比率の水準ではない、現在の邦銀は極めてリスクアヴァースで自己資本比率は高ければ高いほどよいと考えているのが問題なのだ、という主張もあるかもしれない。 この主張が正しければ、いくら自己資本比率が高い金融機関であっても投資活動をシュリンクさせることになるので、そうした行動が不良債権問題によってもたらされているのであれば馬車馬氏の主張はそのとおりと言える。 しかしそうであるなら、金融機関はすべてのリスク資産からどんどん資金を引き揚げてリスクウェイトがゼロの資産に振り向ける−わかりやすく言えば、限りなくいわゆる貸し剥がしが進行する−はずだが、現実はそうではない。
結局のところ、馬車馬氏が指摘するように銀行が国債を日銀に売った分だけ新発債を買っているのは、日銀の国債買入規模が小さすぎるから。 webmasterがかねてから主張しているように、日銀の国債買入規模は市中で流通する玉の数を減らすものでなくてはならない。 今年度でいえば、市中で流通する国債の残高は、最大で新規財源債と財政融資特会債(市中発行分)あわせて50兆円弱増加する(新規財源債については市中発行分とそれ以外の内訳が表示されていないが、市場外消化が皆無ということはないだろうから、これよりある程度は少ない額だろう)。 以前webmasterは毎月4兆円の国債買入を提案したが、これなら年48兆円の国債を市中から吸収するわけだから、絶対にある程度のポートフォリオ・リバランスは発生するはずだし、それで足りなければ月5兆でも6兆でも買えばよいのだ。
で、そこまで日銀がベースマネーを供給する態度を明確にしたとき−正確には、ちょっとインフレ気味になったらすぐやめるというのでは意味がないから、インフレターゲットを設定しマイルドインフレになるまで供給を絞らないとコミットすることを伴う必要があるが−、直接オペの対象となる銀行以外の経済主体は、オペの対象ではないからといって影響を受けないだろうか? 日銀がある意味「堕落」したとして、手持ちのキャッシュや企業間信用を用いた消費や投資を活性化させる−経済学的にいえば、期待インフレ率の上昇により期待実質金利が低下し、将来の消費・投資(=現時点での貯蓄)が現時点での消費や投資により代替される−ことはないだろうか? 金利操作による通常の金融政策であっても、コールレート水準を誘導するためのオペの効果に加え、金利というわかりやすい形で示される中央銀行の姿勢が直接金融機関以外の経済主体に影響を与える部分もあろう。 国債買入にしたって、金利ほどわかりやすい形ではないにせよ、そうしたメッセージとしての役割を果たすと考えられるし、その意味で、金融機関は金融政策にとって重要なチャネルではあれど、唯一のチャネルではないと思うのだが。
(2004-09-05記)
[法令XML文書化計画]:舞台裏通信第6号(2004-09-05)
修正・訂正・変更レポート
- ルート要素を「法令要素」に、「法令名」を表す要素を「法令名要素」に、「前文(制定文)」を表す要素を「前文要素」に、「本則」を表す要素を「本則要素」に、「附則」を表す要素名を「附則要素」に変更した。(変更箇所:要素解説及びスキーマ−code要素、title要素、preamble要素、main要素、appendix要素及び関連要素)
編集後記
前回、法制局の法令審査支援システムについて、タスマニア(オーストラリア)のEnActやアメリカのLegislative Documents in XML at the United States House of Representativesを直訳して導入すればということを書いたのだが、訳するまでもなく日本においてすでに同様のシステムが開発されているのを発見した。 株式会社クレステックが開発したじょうれいくん®である。 もうオープン開発であることしか本企画の存在意義がなくなってしまっているのだが(笑)、法制局もこれをカスタマイズして法令作成支援システムを作ればいいんじゃないかと思う。 多分、1億円はかからないんじゃないの?
ところで、本企画が2ちゃんのどこかのスレに紹介されていたらしいのだが、ご存知の方はいらっしゃるだろうか。 ご教示いただければ幸いである。
(2004-09-05記)