writings concerning kasumigaseki issues and others: 2004-11
2004-11-30更新分
[共有地の喜劇]:第9幕
flapjackのbookmarksおよびisuzukiの日記でのご指摘
前回、議論を進める順番を示したリストを出しておいてなんだが、isuzuki氏から公務員が退職した後には準弁護士資格を付与するというのはどうか、という新たな提案をいただいたので、リストでは最後に位置づけていた天下り問題を最初に論じたい。
この問題を論ずるには、待遇と人材の質は平均的には比例する、ということをまずは押さえておく必要がある。 異なる業種を横断的に比較するのは困難であるが、少なくとも他の条件を固定した場合、何らかの形で待遇を悪くすれば、集められる人材の質は平均的には下がることは避けられない。 天下りは当然老後の待遇の話なので、まずここで一つ選択肢がある。 人材の質が下がってもいいので、天下りをやめさせろ、というものが。
ちなみに、天下りを含めたキャリアの待遇については、リストラ等吹き荒れ、厳しい民間の待遇に比べて官僚の待遇が乖離しすぎているなどという指摘もあるが、仮に今が働きに比して待遇が良すぎたとしても、今の働きに見合った待遇に下げれば人材の質は落ちて結局乖離は残ることになる。 実際のところ、たいていの場合キャリアになろうとする人間は、就職しようと思えば、法曹、学者、金融界(近年は外資系も相当増えている)、コンサルタントといった平均的には待遇のいい他の職業人になることができ、他に職がないのでキャリアを仕方なく選んでいるということではないので、待遇が引き下げられた場合、今キャリアを選んでいる人間のうち少なからぬ割合が他の職業を選ぶこととなろう(実証研究によると、最近では法曹に相当流れているとのことである)。
では待遇を下げない場合にはどのような選択肢があり得るか、網羅的に列挙してみると以下のようなものとなる。
- 早期退職慣行をやめて定年まで雇用を継続し、税金で待遇を維持
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- 今の頭数を維持して、総人件費を引上げ
- メリット:癒着等の「天下りの弊害」がなくなる。
- デメリット:いわゆる「老害」の可能性がある。 また、今の政治状況において総人件費の引上げはまず不可能。
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- 総人件費を維持して、頭数を引下げ
- メリット:癒着等の「天下りの弊害」がなくなる。
- デメリット:いわゆる「老害」の可能性がある。 また、現在の仕事量が減らなければ、実質的に仕事あたり給与の引下げとなり、結局待遇が維持できない。
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- 早期退職慣行は維持するが天下りはやめ、退職金・年金を引上げ
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- 今の頭数を維持して、総支給額を引上げ
- メリット:癒着等の「天下りの弊害」がなくなる。
- デメリット:今の政治状況において、退職金・年金支給総額の引上げはまず不可能。
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- 総支給額を維持して、頭数を引下げ
- メリット:癒着等の「天下りの弊害」がなくなる。
- デメリット:現在の仕事量が減らなければ、実質的に仕事あたり給与の引下げとなり、結局待遇が維持できない。
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- 早期退職慣行・再就職は維持するが、天下り(=組織的な就職先斡旋)は廃止
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- 個人の求職活動の推奨
- メリット:無能な人間を組織の力で押しつけられることはなくなる。
- デメリット:汚職が増える可能性がある。
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- キャリアOBに何らかの資格を付与
- メリット:上記各代替案のデメリットは存在せず、癒着等の「天下りの弊害」もなくなる。
- デメリット:現にキャリアOBが一般に有している能力が社会的に必要とされていれば、資格を付与するまでもなくその分野にスムーズに再就職できるはずなのに、そういった事態は一般には観測されない(もちろん、個人の能力で再就職している人は少なからずいるが、一般的ではない)以上、そのような資格に基づく商売が成立する可能性は低い。 それを制度的に市場が成立するように仕組むと、「準弁護士」のアイデアを提唱している落合弁護士のblogのエントリでいみじくも指摘されている公証人のような結果に終わりかねない。
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- 天下りを維持
おそらく、一般に受けが良いのは総人件費ないし退職金・年金の総支給額を維持して人を減らし、行革で仕事も減らすという選択肢だろうが、実際のところこれは大変難しい。 何も権限を維持したいから、というわけではない。 行革の中身として、現業部門の減量(独立行政法人への移管や郵政民営化など)は、仕事量と頭数が一緒に減るので、残った人間の一人あたり仕事量には中立である。 また、事前規制から事後チェックへの転換は、とりあえずさせない(これは極論を言えば担当者一人の判断に委ね得る)、ということができず、自由にさせておいて何か起こった場合に事態の収拾を図らなければならなくなる(当然これは相当程度の仕事量(実態把握、メディア・国会対応、対応の検討等)を伴う)ので、仕事量は増える。 さらに、行政の透明化も行革の重要な構成要素であるが、これも対外説明をはじめとする仕事量の増加を伴う。 こと仕事を減らすことのみを目的とするならば、行革を逆行させた方がよいのだ。
それではどうすればよいのか。 天下りをやめることを絶対視するのであれば、webmasterの個人的見解としては、待遇を悪くして人材の質の低下を甘受するのがもっとも弊害が少ないと予想される。 既述のとおりキャリア官僚とは、金儲けがしたければいくらでも他に道はあったのに、あえてそうでない職業を選んでいるという、一種の変人の集団である。 だから、待遇が悪くなったほどにはパフォーマンスは低下しないだろう。 ・・・多分。
マーケットの馬車馬でのご指摘
第6回目、ベースマネーをいじってインフレには出来ないというエントリを受けてのコメントだが、おそらく議論が平行線をたどるであろうことが明らかになってきたようなので、ここで一区切りとすべきではないか、とまず提案したい。
なぜ平行線かというと、実はwebmasterと馬車馬氏との議論は、その内容はさておき、構造としては「ザモデル論争」と同じ種類の争点を巡るものであるからだ。 (というと勘のいい人は気付くかもしれないが、経済学に関わる議論としては・・・。)
さて、「ザモデル論争」は、様々な論点が行きつ戻りつ絡みつつ長期間にわたり進行した論争であるが(匿名掲示板故に仕方がないことではある)、その中の一つの論点を上げると、議論の対象をmicro-foundedな(=ミクロ経済学的基礎を有する)モデルに限るべきかどうか、というものがあった。 micro-foundedなモデルとは、ミクロ経済的な説明が成立する厳密に演繹可能な前提のみに立脚して完結するモデルのことで、「インタゲ設定して長期国債をどんどん買って、ベースマネーを思いっきり増やせばリフレはできる」という主張はmicro-foundedではない(ので、そんないいかげんな論証不能命題を議論しても意味がないし、最先端の経済学では相手にされない)とザモデル氏から批判を受けたわけである。
で、この批判はその事実関係は全く正しい。 しかしながら、その価値判断はいかがなものか、というのがリフレ派の「パッチワーク」論で、きちんとしたmicro foundationを有するモデルで語り得る経済事象以外にもなんとかしなきゃいけない課題は世の中にあって、そうした課題への対策を考えるときには、micro-foundedでないとわかっていても、とりあえず参考になりそうなものをかき集めただけのつぎはぎ(=パッチワーク)でいいから、何らかの方向性を打ち出すべきだ、という議論である。 実際、貨幣に対する合理的とは限らない偏愛(=流動性選好)のミクロ経済学的な効用関数化はなしとげられていないので、その帰結たるデフレへの対応について、micro foundationを前提としたモデルに検討対象を限ると、非常に視野の狭い議論しかできなくなってしまう。
こうした立場に対しては、それではどうやって議論の客観性(objectivity)を担保するのだ、という批判が成立する。 パッチワークでいいなら、極論を言えば陰謀論的モデル(例えば、日本のデフレはユダヤ・WASP枢軸が巧妙に作り上げた黄色人種をおとしめるための謀略によるものなので、その枢軸を打ち破らなければデフレは解消できない、とか)だって立論可能になってしまうではないか、と。 それに対する回答は、普遍性(universality)の有無で判断するというもので、経験則的な経済学の知見に照らして十分に確からしいかどうかを判断すればよい、ということ。 わかりやすい例をあげると、現在においても個々の気体分子について運動方程式を立てることによっては気体の状態についての解を求めることはできないのだが、ボイル・シャルルの法則(気体の状態方程式)はそんなことにかかわらず近現代の物理学・工学を支えてきたのだ(このあたりにご関心の方は、いちご経済板の数学的モデルの歴史とその特徴と使い方についてスレをご覧いただければと思う)。
この論争をこうした観点から整理するなら、micro-foundedであるかどうかを重視する(例:ベースマネーを増やしたらなぜ(期待)インフレ率が上がるのか、その理論的背景を示せ)という馬車馬氏の立場と、普遍性に照らして妥当かどうかを重視する(例:過去のデフレ脱却プロセス等を見ると、どういう理屈かはわからないが、ベースマネー増加が(期待)インフレ率を引き上げるだろうという推論は十分に確からしいと言えるはず)というwebmasterの立場の違いが残された論点ということになる。 公平を期すために確認しておくが、経済学の議論としては、馬車馬氏の立場の方が極めてまっとうである。 本来、webmasterがリフレ策のmicro foundationを示すことができればかみ合った議論になるはずのところ、それができないことを分かっているので、別の立場・観点を導入して、その結果として平行線になっているのである。 だから、ディベートの勝敗を仮に判定するなら、webmasterの反則負け、ということになるだろう。
なお、どうせ負けなら開き直って、リフレ策がどういう端布のパッチワークかを示しておくと、次のようなものである(素直に白旗を掲げるのも悔しい(笑)ので負け惜しみを一つ言っておくと、馬車馬氏がスヴェンソン流の為替介入を用いたリフレ策を政治的には難しいだろう
(金融政策論議の不思議(16) 再び、論点を整理する)として採用しないのは、パッチワーク論的な価値判断に基づくものであろう)。
- micro-foundedではないが多分、限界信用乗数は負の値はとらないようなので、ベースマネーを増やせば、マネーサプライは少しは増える(少なくとも減ることはない)。 中長期的には貨幣数量説はある程度妥当するようなので、マネーサプライを増やすことができれば、中長期的にはインフレ率は上昇する。
- それがデフレ脱却に必要とされるだけの効果をもたらすかどうかは定かではないが、
長期実質金利の低下をもたらす金融拡張は、それがいかなるものであるにせよ、均衡においては必ず実質ベースでの為替減価を伴うものである
(ラルス・E・O・スヴェンソン, 開放経済下における名目金利の非負制約:流動性の罠を脱出する確実な方法, p32)ので、長期国債買切増加→長期金利低下→円安→インフレ率上昇という効果は生じる。 - それがデフ(略)、
金利の引下げは、銀行が保有する長期債券の量に応じてプラスの富効果を生むものであり、この効果は、(1993年のアメリカの景気回復期にそうであったように)支配的となるかもしれない。 この場合には、銀行は当初たとえ屈折点に位置していたとしても、次第にはっきり離れていくようになる
(J・E・スティグリッツ/B・グリーンワルド(内藤純一/家森信善訳), 新しい金融論 信用と情報の経済学, p193)(webmaster注:引用部冒頭の「金利」とは長期金利、中程の「屈折点」とは貸出が増加しない均衡点)ので、銀行の長期国債保有量によっては、長期国債買切増加→銀行貸出増加→マネーサプライ増加→インフレ率上昇という効果は生じる。 - 財政政策は対象がなんでもいいというわけではなさそうだが、では何がいいかはよくわからなさそうという見解を覆す有力な材料も見あたらない現状で直ちにむやみな財政拡大に走るのはuniversalityの観点からは抵抗がある(ただし、「いい財政政策」があるならそれを行うにやぶさかではない)が、とりあえず中央銀行に国債をどんどん買わせておけば、買うこと自体ではリフレ効果が出ずにデフレが継続して非常にまずい状態になり、とにかく何でもいいから財政出動でがんばろうということになった場合でも、国債償還のロールオーバー等ですぐに財源がひねり出せるので、やっておいて損はない。
以上が本筋に関する議論であるが、そのほかにも上記エントリでは別途3つ議論があり、それを無視するのも不誠実であろうから、以下コメントさせていただく。
- 銀行が100%キャッシュポジションをとったときの株主の行動はいかなるものか
馬車馬氏の主張は、株価が低下してもなお株主が株式を保有し続ける場合、そこでいう低下した株価とは100%キャッシュポジションを織り込んで形成されたものであり、退出しても損が取り戻せるわけではないので、経営陣の100%キャッシュポジションは追認される、というものである。
まず、退出した場合に損が取り戻せるかどうかはサンクコストなので、考えても意味がない。 ここで株主が考えるべき選択肢は、このまま現経営陣の判断を追認するか、銀行を清算してしまうかの2つである(現経営陣はベストの判断をしており、首をすげ替えたところで、よりよい判断は行い得ないものと仮定)。
追認する場合、キャッシュは収益を生まない一方でランニングコストは発生し続けるので必ず毎期赤字がでるが、その割引現在価値(P)はP=C/r(C:毎期の赤字、r:割引率。 100%キャッシュポジションは将来にわたり変化しない=赤字が永続すると仮定)の式で表せる。 ここで、今はデフレ下の状況を前提としており、rは限りなくゼロに近づく(ゼロ金利状態)ので、Pは無限大に発散する。 すなわち、現在の純資産額がいくらであれ、経営を継続する場合にはこの銀行の純資産を時価評価するとマイナス(債務超過)となる。
他方、清算を選択すれば将来の赤字は考慮する必要がなく、現時点での純資産について出資比率に応じて分配を受けることとなる(なお、分配を受けたキャッシュを銀行預金に放り込んでおく限り、株主にはランニングコストはかからない)。
したがって、株主にとっての合理的判断は、やはり経営判断の追認ではなく清算となる。
- 公的資金は銀行の自己資本を水増ししているかどうか
当初の馬車馬氏のロジックは、
返済義務のあるお金をしゃあしゃあと自己資本に算入すること自体がほとんど詐欺だ
(金融政策論議の不思議(14) 日銀が国債を買うと株投資は増えるか)というものであったが、正直、この理屈と今でも、銀行が新規の出資者探しに苦労している状況に変わりはない以上、公的資金を抱えている銀行の自己資本比率は十分に割り引いて考えなければならない
(金融政策論議の不思議(18) ベースマネーをいじってインフレには出来ない)という理屈がどうつながるのかわからない。 当初の「返済義務」の議論と、直近の「返済のフィージビリティ」の議論は同じことの言い換えなのか、違う話なのか。ある株主が株式を売却し得る法的ステイタスにあることを返済義務と呼ぶなら、それは株主が一般投資家であろうと政府であろうと同様に当てはまることなので、公的資金「のみ」は返済義務のあるお金なので自己資本に算入するのはおかしいという議論はなりたたず、出資者が誰であれすべての資本金は自己資本に算入すべきでないということになる(この場合、各種準備金・剰余金のみが自己資本の構成要素となろう)。
他方、新規の出資者探しに苦労する状況を問題視するのであれば、確かにそうした状況においては、いったん自己資本が毀損した際に新たに出資を仰いで埋め合わせることができないので、自己資本を毀損する可能性のある行動はとりづらくなるとは言える。
しかしながら、新規の出資者探しに苦労するかどうかは、基本的には現在の株価と、新規の株式発行に係る株価との関係で決まる(当然、前者が後者よりも高ければ出資者は集まりやすいし、逆であれば集まりづらい)話であり、やっぱり公的資金の有無とは関係ないし、そもそも返済義務があるから自己資本に算入すべきではない、という当初の主張とは別の話になっている。
- 繰延税金資産の計上は銀行の自己資本を水増ししているかどうか
こちらも、公的資金の話と同様、当初の議論と現在の議論をどう整合的に理解して良いか、webmasterにはわからない。
倒産の瀬戸際で自己資本の重要性は増すというのに、倒産したら消滅するのが繰延税金資産だ。 その意味で、詐欺性は公的資金よりも高い
(金融政策論議の不思議(14) 日銀が国債を買うと株投資は増えるか)という主張は取り下げられたという理解でいいのだろうか?もしBewaad氏のコメントを全面的に受け入れたとしても、結局「繰延税金資産以外でもバランスシートはいくらでも粉飾できるのだから、この問題だけを特に取り上げる必要はない」という主張は、筆者の「銀行の自己資本比率はあてにならない」という主張をむしろ補強するものでしかない。 Bewaad氏は足利銀行の例も紹介されているが、これも自己資本比率というのがいくらでも操作可能な数字でしかないことを強調するものであって、Bewaad氏の本来の主張とは矛盾したものとなっている
(金融政策論議の不思議(18) ベースマネーをいじってインフレには出来ない)とのことだが、馬車馬氏の当初の繰延税金資産に係る指摘は、あくまで邦銀の自己資本比率の高さにはからくりがある
(金融政策論議の不思議(14) 日銀が国債を買うと株投資は増えるか)という主張の証拠として提示されたものであったはず、要すれば「邦銀」についてであって「銀行」一般についてではなかったはずである。 つまり、「筆者の『銀行の自己資本比率はあてにならない』という主張をむしろ補強するもの」といっても、それは主張がすり替わっていることに留意する必要があって、少なくとも当初の主張を補強するものではない。他方、webmasterの主張が矛盾しているかどうかであるが、少なくとも繰延税金資産の存在故に邦銀の自己資本比率は外銀のそれに比べて信頼性が劣るわけではない、という点については矛盾していないはずだ。
では一般論として、繰延税金資産以外の要素も加味した場合に邦銀の自己資本比率が外銀のそれに比べて信頼性に劣るかどうかであるが、webmasterは大差ないと考える。 いわゆるレジェンド問題は解消に向かっているし、そもそもレジェンド問題自体、各種粉飾決算がタイミング的に日本で一番早く露見したことにより起きた面が大きいと考えられる(少なくとも日本では、エンロンのように監査法人が積極的に粉飾に荷担した事例はないはずで、タイミングが逆であれば理屈としてはアメリカ企業の会計にレジェンド問題が生じてもおかしくはなかった(会計事務所の世界シェアを考えれば、タイミングが逆であってもそういったことにはならなかったろうが、それは理屈ではなく実態の話))。
参考までに付言すれば、ある銀行−この場合足利銀行であるが−の自己資本比率が不正確だったとしても、それが邦銀全体の傾向を代表しているものとは限らないのは当然である。
(2004-11-30記)