writings concerning kasumigaseki issues and others: 2004-12
2004-12-31更新分
[共有地の喜劇]:第12幕
flapjackのbookmarksおよびisuzukiの日記でのご指摘
キャリア問題の最終回として、縦割り行政の問題をとりあげたい。 おおかたの想像どおりだと思うが、webmasterは基本的に縦割り行政といわれるものは望ましい行政のあり方と考えている。 そのロジックは政府組織と官僚のインセンティブ:中央省庁再編の評価と基本的には同じなので詳しくは述べないが、乱暴にまとめれば、現実社会に利害対立が存在するのであれば、政策決定過程においてもその対立を隠蔽するのではなく顕在化させた方が透明性は向上するし、行政の各部局の行動原理は簡明なものとなるし、行政内部の都合のみで政策決定されるおそれが減るということである。
とはいうものの、それなりに欠点があり得ることもまた事実であり、それらへの対策ができるかどうかも考えなければなるまい。 いくら長所があっても致命的な短所があっては、そうした制度を用いることは不適当だからだ。 代表的な短所は次のようなものだろう。
- 似通った業務を複数の部局が行う無駄が発生しやすい。
- 「省益(ないし局益・課益)」が「国益」に優先されるおそれがある。
- 政府内調整に時間・コストがかかり、迅速な意思決定ができない。
- 国民から見て担当等がわかりづらく、また、担当が自らのことしか対応できず、「たらい回し」が起こりやすい。
個々の短所を論ずる前に、よく官僚組織の縦割りに関して引き合いに出される旧陸海軍の例について触れておく。 第1点については陸軍が潜水艦や空母を、海軍が戦車を作ったこと、第2点については陸軍が大陸、海軍が太平洋と主力を2方面に分割することとなったこと、第3点についてはポツダム宣言受諾の意思決定が「聖断」によらざるを得なくなったことなどが代表例だろう(まあ第4点は関係ないとして)。
戦前・戦中期の陸海軍の対立構造は様々な要素が複雑に絡まり合っているが、その主要なものの一つとして統帥権問題がある。 一般に統帥権といえば行政府(内閣)からの軍(令)の独立の文脈で語られるが、大日本帝國憲法においては「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」(第11条)とされており、陸海軍相互間でも口出しがなされなかっった(軍令を総括する大本営が設立されても、日露戦争期以降はあくまで参謀総長・軍令部総長が対等の立場で組み込まれることとなっており、大本営自体のトップは存在しなかった)。 陸海軍を統合する軍令組織がないのは大いに問題ではあったが、軍(令)全体の行政府からの統帥権独立もそれ以上に問題であり、縦割り自体よりもそうした制度を生み出した状況こそがより重要な問題であったといえよう。 そして当然ながら、今は全ての省庁が内閣の傘下にあることは明らかで、戦前の陸海軍と同じものとして論じられない。
さて、各点についての考察に移ろう。 第1点については、必要なコストとして割り切るしかない。 三権分立にしても地方分権にしても、政府の機能を分割してその担い手を増やすのは、効率よりもチェックアンドバランスによる効果的なガバナンスの達成を目指す制度である。 例えば旧郵政省と旧通商産業省の間でのコンピュータネットワークを巡る対立構造は有名であった(なんでも、民間でシンポジウムを開催したりする場合には、どっちか片一方だけを呼んでも、また、両者を呼んだとしてもそのランクに差があるといろいろと物議を醸すので、出席者の調整などの無駄な業務がずいぶんと増えたらしい)が、そうした対立構造がなくどこか一つの省庁が所管していれば、キャプテンシステムやシグマプロジェクトは、何倍ものリソースをつっこんだ上で、日本のテレコム業界全体にさらなるダメージを与えるようなより大きな失敗となっていた可能性は極めて高い。
第2点は内閣のリーダーシップの問題である。 といっても、政治家の資質云々、ということがいいたいわけではない。 行政府はあくまで内閣総理大臣をトップにいただく内閣という合議体により代表される政府部門であり、法制度はあくまでそうした前提に立って設計されている。 例えば事務次官等会議は全会一致が原則であり、ここである省庁の事務次官等が反対すれば閣議の議案とすることができないことが、各省庁が高度な自治権を有する原因の一つとされているが、これはあくまで慣例である。 事務次官等会議で否決された案件や、そもそも事務次官等会議にかけられていない案件であっても、それを閣議案件とすることにはなんら法的制約はないし、そこで閣議決定されてしまえば、省庁側に拒否権はない。
私見を言えば、こうした各省庁こそが自らの省益を押し通して国益を無視している、という神話は、政治家と官庁、そしてメディア、国民のすべてにとって都合がいいからこそ形作られ、維持されてきたのではないかと考える。 こうした神話があれば、国民に不人気な政策−例えば増税−を行う場合、政治家は、これは官庁が国民を無視して押し通しているもので、自分たちとしては国民に配慮して若干の修正はさせたが、全体としてはこれが精一杯だ、といういいわけが可能になる。 他方で国民にとっては、そうした悪辣な連中の陰謀ため増税を強いられたのだ、というストーリーの方が腑に落ちやすいしあきらめもつく。 国民の部分集合たる財界にとっても、自分たちの主張の実現に額に汗して邁進し(細かなブレはあれど、法人税の引き下げ・高額所得者層に係る所得税の引き下げは、シャウプ勧告より後の税制改正の方向性としては、一貫して続いている)、さらに国民の矢面にまで立ってくれる官庁という存在がありがたくないわけがない。 メディアは国民に支持されてなんぼの商売であり、国民に受けがいい神話を否定する実益はない。 じゃあ官僚にとっては何がメリットかといえば、国のことを本当に考えているのは自分たちだけだ、という安っぽいヒロイズム&くだらない優越感に浸ることができることだろう。
第3点も第1点同様にそれも必要なコストだ、ということに加え、往々にしてここで言われる「迅速な意思決定」とは、反対派がいてもそれを無視して多数派の意向の速やかな実現を図れ、ということだったりする。 日本とは話し合い至上主義の国だ、とは井沢元彦が唱えて以来人気のある日本人論だが、実際のところ話し合いの効用とは、適度にガスが抜けあきらめがつくことが多いこと。 極端な例を出せば、三里塚は話し合いを全くしなかったことで明らかにこじれたケース。 話し合いは確かに迂遠に思える場合が多いが、急がば回れということだって世の中には数多くあるのだ。
第4点は縦割りとは実際のところ無関係な話。 政府と国民のやりとりについてのインターフェイス設計がうまくいっていないというだけのことで、バックグラウンドでの処理(各省庁における事務処理)をそのままインターフェイスにするからわかりづらくなる。 きちんとした総合窓口を設け、国民の側でどこが担当かを探す必要なく受付でそれを探し、かつ、国民からのアクセスが相談なのか苦情なのか何らかのアピールなのか等々を判定して適切な場所で処理するようにすればよい。 確かにこのインターフェイス設計に改善の余地が多分にあるのは事実だが。
(2004-12-31記)
2004-12-29更新分
[年間10大ニュース]2004年「政治・経済部門」
- 第10位 年金騒動
- 今から思い返せばあの未納騒動はいったい何だったんだ、という感もあるところ。 評判の悪かった今年の年金制度改正も、あれはあれで400兆円程度の将来債務削減効果があったのだが(計算方法によるが)、それがほとんど知られなかったというのは、メディアの功罪以前に政府の公報努力不足と言われても仕方あるまい。
- 第9位 法案チョンボ頻発
- 内輪の業界話で恐縮だが、ホント、この手のミスをあげつらうのは勘弁してほしい・・・。
- 第8位 アラファトPLO議長死去
- イスラエルやアメリカが中東和平の障害として名指ししていたが、死んでしまったことによりかえって次の一手に困る面もある。 パレスチナが群雄割拠状態になってしまっては、まともな交渉ができなくなってしまうからだ。 帝国主義華やかりし頃であれば、そうした分裂状態につけ込んで戦争を仕掛けるという手もあるが、そうしたことが許容されづらい時代にはなっているし、そもそもイスラエルにとっては純軍事的に合理的な判断として、本格的な戦争に突入するのは避けたいところ(今や戦争により失うものの方が多い)。 まして、イスラム原理主義者が新たなトップに上り詰めるようなことがあれば、アラファトが生きていれば、と思うことは必定であろう。
- 第7位 北朝鮮拉致事件の進展
- 悪手だとわかっていながらそれしか打つ手がないというのは相当に切羽詰まった状況なわけで、偽遺骨(これが極めつけの悪手であることに異論がある人は少なかろう)なんてものを使わざるを得なかった北朝鮮は、やはり追いつめられているのだろう。 北朝鮮が自らまいた種であり何ら同情には値しないが、破滅的な崩壊や、それが不可避と自覚した段階での冒険主義は日本にとって明らかにマイナスであり、どのように軟着陸を図るかは非常に難しい問題。 金正日が中国へ亡命し、親中国的な社会主義新政権が発足する、というのがおそらくはベストシナリオだが、韓国は絶対反対しそうだし・・・。
- 第6位 三位一体改革の推進
- メディアではあまり取り上げられないが霞が関的にはよくわかるアングルとして、財務省対総務省(旧自治省)というものがある。 税源移譲といったところで、過疎地にとっては、そもそも税金をとる対象が圧倒的に少ないのだから空証文に過ぎず、それだけでは単に収入減にしかならない。 それをカバーするのが地方交付税交付金であって、その配分は総務省(旧自治省)の所掌。 つまり、三位一体改革とは、都市から地方への所得再分配を、国の直接の支出として目的を限定して財務省が差配する部分と、地方交付税交付金という形で総務省が差配する部分との仕切り直しでもある。 今のところ前者の削減が先行しているものの(そういえば片山虎之助がずいぶん活躍してたし)、このままで行けば後者も削減され、結局再分配のパイ自体を小さくするという将来が有力ではあるが、来年以降も要注目である。
- 第5位 「ニート」問題化
- ニートについて語ったら負けらしいのだが、ちょっとだけ思いつきの暴論を語ってみると、やはり人間には格差があるのだよ、ということを無視した結果ではないかと。 例えば野球で言えば、高校野球で県のベスト4まで残るような野球部の選手は素人がまるっきり相手にならないぐらい野球がうまいのだが、そんな選手であってもそのほとんどはプロになれず、つまり野球で食っていくことはできず、まあ草野球以外の野球を大学ないし社会人野球まで続けるとしても、最終的には野球以外で食っていくことになる(プロになったって、活躍もできないまま引退する選手が過半だ)。 これは野球だから結果が客観的に出るからこそで、頭のできがどうか、という話になると、少なくとも野球のようには打率やら勝ち星やらといった数字で判断できるものではなく(偏差値はもはや悪役だし)、「いつかどこかで見つかるかもしれない自分の能力が発揮できる場所」を捨てるきっかけがない(学校ではみんなやればできる、なんて教育をしているわけでもあり)。 まあ要すれば自由という刑から釈放してやることがかえって救いになる人々は一定の確率で必ず人類の中にはいるのだ、ということなのだが、そうした生き方が可能なのも多くは家庭がそれなりに豊かで養っていけるからでもあり、それはそれで社会の成熟化に伴う不可避なコストなのかもしれないが。
- 第4位 景気回復・デフレ継続
- これだけ実質成長率が回復し、台風等により生鮮食料品が値上がりし、さらには原油価格まで過去最高値をつけるような状態でありながら、なおデフレが止まらないという状況は、もっと深刻に受け止められてよいのではないか。 日銀のバカは相変わらず受動的にしか対応しないし、財務省のバカはさっそく財政赤字恐怖症患者としての本性をあらわにしているし、景気循環が後退期に入り外需が落ち込んだらどうなることか・・・。
- 第3位 アメリカ大統領選挙・ブッシュ再選
- 最近ずっとwebmasterの頭を悩ませているのが、アメリカ国内で大規模な人口移動が起こらない理由は何か、という問題意識。 ブッシュの勝利は、土着保守層の強固さ(とインテリ層のナロードニキ的な民衆蔑視)によるところが大きいと考えているのだが、アメリカにも都市部(東西海岸・五大湖周辺=ブルーステイツ)と地方部(中西部などその他=レッドステイツ)の経済格差があるにもかかわらず、日本のように後者の衰退・前者への人口移動がさほど起こっているわけではない。 多民族国家故の棲み分けの壁の厚さなのか、距離の暴虐なのか、インセンティブ&インフォメーション・ディバイドの存在なのか。 何かいい本でもあったら教えていただきたい>皆様。
- 第2位 災害多発
- 今年前半に頻発した水害に過去最多の台風上陸、果ては新潟県中越地震で終わりかと思いきや、海外ではあるが、年の瀬も押し詰まった中でのスマトラ沖地震と、様々な災害が世を騒がせた(海外で言えば、アメリカのハリケーンも結構ひどかった)。 命に別状のなかった被災者の方々が本当に大変なのはこれからだと思うが、少しでも来年が幸せなものであるよう祈りたい。 あと、このテキストをアップした後に、今年最後の大災害が訪れることのないように、とも。
- 第1位 イラク人質事件
- 以前も書いたことだが、無防備にイラクに入国して捕まり、あまつさえ殺されるようなことを妙に美化するのは、彼の地で真剣に活動しているNPO・NGOに対する侮辱でもある。 アマチュアはイラクに入るな−プロのNGOが紛争地でやっていることという好著があるので、これがもっと多くの人に読まれるよう願ってならない(惜しむらくは、タイトルがタイトルだけに、本当にこの本を読んだ方がいい人たちが読まず嫌いで手に取らない可能性が高い。 「民間にしかできないボランティアとは何か−イラクのNPO活動が教える真実」とか、まあこのタイトルがそんなにできのいいものとも思わないが、そういった方向のタイトルであればと思う)。
(2004-12-29記)
2004-12-22更新分
[その挑戦、受けよう(仮)]:その8「官の詭弁学 誰が規制を変えたくないのか」(続)
今回の挑戦者(再掲)
- プロファイル
- 福井秀夫, 2004, 「官の詭弁学 誰が規制を変えたくないのか」, 日本経済新聞社
- 主張の概要
- 官僚の行動原理の一つは官尊民卑であり、規制は社会の実情や経済合理性ではなく、身勝手な内向きの論理で作られていることが多い。
- 公開されている審議会の議事録には、そうした内向きの論理が数多く記されており、それらを具体的に取り上げて問題点を指摘する。
対戦の結果(続)
- 第3章(1) 理容師と美容師が混じると危険か
挑戦者の主張の骨子
- 理容師と美容師は、それぞれ理容所と美容所でしか働けず、両者が同僚となることは法的に許されていない。
- それぞれは文化が違うというが、ヘアカット専門店はそれぞれの文化にあてはまらない新しい営業形態であるし、もし違いを示す必要があるなら、個人単位でできる。
- 安全性が損なわれるとの主張に至っては、まったく根拠のない言いがかりに等しい。
判定
いくら挑戦者が強弁しようと、理容所と美容所には棲み分けが成立しているというのが世間の常識というものだろう(あやふやな言い方で恐縮だが)。 理容所と美容所、という法律上の言い方をすればともかく、普通は床屋に行けば理容師が、美容院に行けば美容師が出てくると思うのが普通であり、例えば床屋に行ったときに、「当店では理容師と美容師を取りそろえておりますが、どちらがよろしいでしょうか、もし美容師にということですと顔剃りはございませんが、・・・」などという説明を聞くぐらいなら、床屋に来たのだから黙って普通の床屋のサービスをしてくれ、と思う人も多かろう。
しかし、であればこそ、厚生労働省に
・・・QBというのは、ある意味でむしろ床屋だと誤解されて行かれるところが多いわけですけれども、そういうところにおいて、美容師の混在を認めることはややいかがか
(pp156,157)(webmaster注:QBとはQB HOUSEのこと)などといわれるのは困りものである。 一例をもって代表させるのはなんだが、QB HOUSEを「1,000円床屋」というページは簡単に見つかったりするわけであり(webmaster注:先のリンク先では未熟練職人云々という記述があるが、QBの名誉のため、別の見方も紹介しておく)、あれを美容院と思って使う人も少なかろう。 でありながら、先に「別の見方」として紹介したリンク先をご覧いただければわかるとおり、QBを美容院として開業することは可能。 前述のような消費者の期待はそもそも法律の埒外にあり、今さら混在を認めない理由にはならない。通算成績:挑戦者の4勝4敗
- 第3章(2) だったら「富山の薬売り」はどうなる−薬剤師を守る医薬行政
挑戦者の主張の骨子
- 薬局には薬剤師が必要という現在の制度は、アメリカではそうした義務づけがないなど、必ずしも合理的なものとは限らず、また、薬剤師の在・不在別の副作用の発生確率の統計もないまま規制が維持されている。
- だいたい、昔ながらの「富山の薬売り」は薬剤師でないのに薬を販売しており、要すればこの規制は薬剤師とそうした薬剤師以外の薬販売者の既得権維持に他ならない。
- 医薬部外品の拡大等は、こうした問題を隠蔽するための姑息な対応に過ぎず、厚生労働省には薬販売の規制を任せられない。
判定
多分挑戦者も、医師の処方箋に基づき混合調製される薬や、完全自殺マニュアルで自殺に使えるとされているメジャートランキライザーであっても薬剤師不在の薬局で取り扱えるようにしろ、ということを主張したいわけではあるまい。 であるとすれば、その主張は薬局に薬剤師を置くことを義務づけるな、ではなくて、レディーメイドの大衆薬(の多く)は薬剤師不在の場所−例えばコンビニ−で売ってもよいようにしろ、ということであるべきであって、つまりは医薬部外品にすればよいわけだ。 webmasterは薬学の知識がないので具体的に何を医薬部外品にし、何を医薬品にとどめるべきかは判断する立場にないが、外国の例だの統計だのを見るまでもなく、先の前提を是とする限り、論理必然的にそうなる。
つまりは厚生労働省の対応は、少なくともその方向は正しいものであって、医薬部外品への分類替えが少なすぎる(ないしは医薬品と医薬部外品の中間に大衆薬を想定したカテゴリを新設すべき)という議論ならばともかく、
目くらましの材料として医薬部外品の議論を主軸に据えようとしているようにしか読み取れない
(p171)のは、官僚はおしなべて既得権維持のために規制改革に反対している、という挑戦者自身の偏見で目がくらんでいるからであろう。 もちろん、冒頭の前提があてはまらず、およそいかなる薬−鎮痛剤としてのモルヒネ等も含め−を薬剤師の関与なしで売らせるべき、という主張であれば話は別だが・・・。なお、富山の薬売りについては、挑戦者自身が
過疎地や離島など薬の入手が困難とされる地域
(p165)に限られていると書いているのに、なんでその合理性が彼に理解されないのかがわからない。 当然、そうした地域に住む人々の生活にとって、経験則上ある程度の安全性が認められる販売手段で薬が入手できる方が、全く薬が入手できないよりも望ましいからに決まっている。 そうした事情に顧慮することなく、富山の薬売りの薬を現実に管理しているのは、薬剤師でも薬売りでもない。 購入者本人だ。 カタログで郵送されている薬の副作用の説明も「対面」では行われていない。 店舗の薬剤の管理は薬剤師でないと対応できないというなら、そもそも薬剤師なしで薬剤を売る特例販売業者をただちに禁止してはどうか。
(p172) などというのは、オール・オア・ナッシングでしか物事を判断できない原理主義的な考え方がにじんでいる。実際のところ単なるイヤミなのだろうが、そういうことを言うから蟻の一穴云々、つまり一つ規制に穴を開ければ止めどなくつけ込まれるという話になり、合理的な規制改革であっても必要以上に警戒されるようになるのだから、戦術的にもやめるべきであろう。
通算成績:挑戦者の4勝5敗
- 第3章(3) 幼保一元化を阻む「園児以下」の理屈
挑戦者の主張の骨子
- 厚生労働省によると、保育所と幼稚園を同一の規制とすることができない理由は、保育所には調理施設がありそれが人格形成に貢献するからということだが、調理現場を見せる等の指導はしておらず、言っていることが一貫していない。
- そうした理屈がやりこめられると、後出しで栄養・衛生面の話を持ち出すなど、やり方が汚い。
- なお、問題があるのは幼稚園を所管する文部科学省も同じで、既述のとおり株式会社やNPOによる運営を認めていない。
判定
調理施設の設置義務に焦点が絞られた段階で、はっきり言って厚生労働省の負けである。 アレルギーへの対応や夕方・夜間における給食等、設置されていた方が望ましいのは間違いないだろうが、外部でそれもできる場合には敷地内になくてもいいではないか、と言われれば(現に言われているが)おしまいである。
しかし逆に、規制改革会議もそんなディベートには勝てるけど実際に何が問題かを意識しない議論に埋没していていいのかねぇ。 本書でいみじくも指摘されているとおり、
・・・保育所への入所は多くの地域で困難を極めている。 そもそも現状では、保育所の絶対数が圧倒的に不足している。 一方、機能的に保育所と同様の役割を果たしうる幼稚園については、保育所と比べて余裕がある
(p174)のはなぜかと考えてみれば、幼稚園に比べて保育所の枠組みが社会のニーズに応えているからであろうことは容易に推察可能だ。ちょっとネットで調べてみれば、保育所が幼稚園よりも好まれる理由は、一に子供を預かる時間が長いこと、二に弁当ではなく給食があること、三に行事や親同士のつきあいの少ないことで、要すれば共働き夫婦のニーズに応えているからだということはすぐわかる。 問題は、これらは幼稚園が規制されていてできないことではなく、長時間預かりや給食を行っている幼稚園は現にあるし、行事はちょっと微妙だが親同士のつきあいの多寡なんてものは規制でもなんでもない。 であれば、幼稚園はそうした方向に自主的にどんどん対応してしかるべきなのに、なぜかそうした自主的な対応が進まず、上記のとおり保育所不足・幼稚園余剰だというのが現実。 その原因は何かをきちんと分析して適切な対策を考えることなくして、待機児童の問題は解決しないはずだ。
そのあたりを文部科学省ときちんと議論しているかと思えば、相変わらず上にまとめたとおりの法人格の神学論争がメイン。
厚労省の言い分には、保育所設置の際に相当の支出項目を占める調理室を何が何でも義務付けることにより、一保育所当たりの建設費・維持運営費、さらにこれらに伴う補助金をなんとしても高止まりさせ、自らの省の所管として維持したいという動機以外、何も見当たらないのだ
(p184)という挑戦者の言葉をアレンジすれば、「挑戦者の言い分には、経済実態とは無関係に役所の理屈を何が何でも論破することにより、議論に勝ったというその場限りの優越感を味わいたいという動機以外、何も見当たらないのだ」ということではなかろうか。ちなみに、前回も触れた「株式会社の学校経営参入賛成・補助金受取り反対」のワタミの渡邉社長が、日経ビジネス2004.12.20-27合併号のp12においてその論拠の詳細を明らかにしている。
規制をはじめ、およそ物事の利害得失を判断するには、具体的な問題に即すべきである
(p185)というなら、挑戦者こそ先ず隗より初めよ、株式会社の何が悪いんだなどという抽象論ではなく、渡邉社長の具体的シミュレーションにきちんと答えるべきだろう。通算成績:挑戦者の5勝5敗
最終コーナーを回ったところで挑戦者が追いつき、いよいよ最後の直線に勝負は持ち込まれた。 はたしてその行方は・・・。
(2004-12-22記)
[共有地の喜劇]:第11幕
flapjackのbookmarksおよびisuzukiの日記でのご指摘
前回に引き続いてのキャリア問題シリーズ、今回は、キャリアの選抜についてである。 およそキャリアに限らず、あらゆる人材のスクリーニングはいかに有為な人材を集められるかどうかで評価すべきであるが、残念ながら人類の歴史上、有為な人材を集めるための完璧な手法が確立したことはないので(有為かどうかは外部環境や直面する課題に依存するのだから当然である)、演繹的に理想の姿を語ることは難しい。 よって、よくある指摘を手がかりに、漸進的に近づく試みとしたい。
webmasterの感触としては、キャリア選抜の問題点として以下のような指摘が比較的よく見られるように思われる。
- 東大卒、とりわけ法学部卒のような試験秀才ばかりを選んでいる。
- 博士号保有者のような専門能力を持つ人間が選ばれていない。
- 20代前半で受けるたった一回の試験だけで選んでいる。
さらに細分すると、
- II種・III種採用者との入れ替えがなく、有能なそれら職員をしかるべき地位につけることができない(選抜の話からは離れるが、その反射的効果として、無能なキャリアがのさばったり、若いうちから苦労もせずに高い地位に就き人格がゆがんだりしている)。
- 社会人経験者等を選抜するコースがなく、結局キャリアは霞が関という狭い世界で偏った価値観に基づき純粋培養された人間ばかりになっている。
- ポリティカル・アポインティ(政治的任用)がなく、官僚のテリトリが形成されている。
まず最初の指摘だが、これは誤解としか言いようがない。 何度も書いていることだが、I種試験のレベルは本当にたかがしれていて、webmasterの学生時代の認識では、司法試験や院試に比ぶべくもない。 また、昔のことは知らないが、これも何度も書いているとおり、I種試験の合格順位よりもいわゆる官庁訪問の際の面接結果の方がよほど重視されている。 結果において東大法学部卒が圧倒的に多いのは事実だが、大学入学前からI種試験を受けようとしている人間は東大法学部へ進学しようとする場合が多いとか、前回紹介したシグナリング理論とか、そうした要因を考慮に入れれば、試験秀才を選んでいるという仮説を棄却しても、十分に現実は説明可能ではないだろうか。
2つ目の指摘については、以前書いたように別に霞が関側から拒んでいるわけではない、というのが事実関係である。 なぜそうした専門的スキルの持ち主が入ってきてくれないかと言えば、やはり専門的スキルが求められる業務が少ないからだろう(金を積めば話は別だが)。 例えば旧経済企画庁には原田泰氏や新保生二氏のような、霞が関の外でもエコノミストとして通用する人がいたわけで、結局は業務で求められればそうした人々を採用せざるを得ない。 ただ、組織全体のミッションに関わるようなものであればともかく、そうでない専門的スキルについては、採用して一生面倒見るよりも、必要に応じて外部調達を図る方が効率的ではないかとも思われる(実例としては各省庁のCIO補佐官)。
3つ目の指摘の前半については、やはりII種・III種採用者からの昇格はあってもいいと考えられるが、難しいのはどのような基準で行うか。 戦時昇進のような結果をもって実力が証明される制度が仕組めればいいのだが、実際のところ、管理能力というのをどう図ってよいのだろうか。 友人のコンサルの言によると、マネージャーがマネジメントするに当たって何が大事かというと、自分が最前線に立たないことという。 下がどれほど頼りなくても、そこに自分が赴いて直接仕事に携わってしまうと全体が見えなくなってしまうからだ。 じっと我慢をし、指示をするにとどめるという能力は、例えば課長補佐や係長といった最前線の責任者たるポストでは量れないし、鍛えられもしない。
若干の脱線をするなら、その意味では、特権意識を助長する「バカ殿教育」だといって廃止された(旧)大蔵省の税務署長や警察庁の警察署長、(旧)郵政省の郵便局長へのキャリアの就任は、それなりに意味のあったことなのではないだろうか。 更に言えば、退職年齢の高齢化や霞が関のステイタスの低下に伴い、以前であれば課長がやっていたような仕事を局長がやり、課長補佐がやっていたような仕事を課長がやる風潮が最近の霞が関にはある。 将来の管理職として登用したキャリアであるはずなのに、管理職としての実体験を積むのが局長から(最近では50代前半以降)というのでは遅すぎる。 このままでは冗談抜きに、50歳を過ぎてからでないと管理職としての経験ができないという世界になってしまうのではないか、と思うときがある(身の回りだけを見た近視眼的感想で恐縮だが)。
3つ目の指摘の後半については、やはりどのような待遇を用意できるかを考えるとフィージビリティの点で問題があろう。 現在でも多くの民間人が出向して霞が関で働いているが、そのほとんどは、出身母体が給料の差額を補填しており、つまり、そうした補填がなければ民間から官界に転じようなどは普通は考えないからだ。 他方で、企業の存在意義についてのコースの取引費用分析を応用すれば、内部化することにより効率化が図られる部分−霞が関であれば法令関係の事務、国会議員や関係業界間の調整等についてのノウハウの蓄積−のみを内部化することが合理的であり、その余の部分については必要に応じ外部調達を図るべき、ということになる。 要すれば、民間の方々には先に例示したCIO補佐官のように委託・嘱託等によりピンポイントで働いてもらうほうが、役所の仕事をする以外の時間にお金儲けと経験の蓄積ができ、役所の内部で質量ともに限られた経験しか積めずに朽ちていくよりよほどいいのではないか。
その点、今の霞が関の問題としては、次期防衛大綱をめぐる財務官僚の勘違いのように、本来自分の専門でもないところに法文系キャリアがでしゃばって判断ミスをする、ということが少なからずある。 自らの得意と不得意をきちんと見極め、不得意なものについてはゼネラリストとしてのチェックにとどめるという自制が必要であるし、具体的にどうすればいいかのイメージはないが、それを制度的に仕組めればなおよい。 一般論ではあるが、素人は自分が素人であると自覚している方が、中途半端に知ったかぶりをするよりよほどましなのだから。 なお、具体的にどのような分野を外部委託するかについては、まずは経済分析(これは内閣府が選任でする一方で、各省庁においてはということ。 純粋に民間企業でなくても、rietiのように独立行政法人でもいいのだが)や広報といったところだろう。
4つめの指摘については、実際のところポリティカル・アポインティでなくては政治家の統制が効かないわけではない。 外務省とは何なのか。(後編)などをご覧いただければ、政治家のリーダーシップがあれば、十分にその意思を政策に反映させることが可能なのはおわかりいただけるだろう。 ポリティカル・アポインティにも長所・短所があり、少なくとも上記のように現状のシステムの手直しで事態が改善する見通しが立つのであれば、そこまでの冒険をする必要は少ないのではないか。
Gunsi氏からのメールでのご指摘
キャリア問題に関連し、読者のGunsi氏からメールをいただいたので、以下引用しつつ(レイアウト及び機種依存文字には手を入れた)、webmasterの見解を示したい。
「共有地の喜劇 第10幕」を読ませていただきまして、今後の議論の参考になればと思い、少々長くなっておりますが、意見を申し上げます。
以下、貴サイトの文章を追っていく形で考察いたします。まず、冒頭で述べている「将来の管理職を担う人間を囲い込む特定の集団が形成されるのは、こと官界に限らず多くの世界に見られることである。」については、いわゆるキャリア・ノンキャリアをめぐる議論の焦点は特定の集団が形成されることの有無ではなく、その過程(始めに全員囲ってしまうか、始めはある程度幅広に確保して、勤務態度・実績等によって選抜していくか、或いは全員一律に競争させるか)の是非にあると私は認識していましたので、この点は異論ありません。
従って、キャリアの存在意義について言及されている「集団の管理に必要とされる一定のスキルがあるから」という点には同意します。
選抜については、今回新たに記述したので、それを受けてコメントがあれば再度メールをいただければと思う。
次に、「キャリア制度を廃止して、全ての公務員を一律の基準で採用すること」により、「従来I種採用されていた学生層にとっては、公務員という職種は選択肢からはずれることとなる」という指摘については多少言い過ぎではないかと考えます。
何故ならば、言及されている「I種採用される学生が志望する他の職種−法曹、学者、外資系を含む金融関係者、コンサルタント等」の待遇面の加重平均値とI種採用者のそれとを単純に比較することは困難であるからです。それぞれの業種によって待遇の上限と下限は、
- 民間:
- 上限も下限も経営状況の如何によって天井・底なし
- 学者:
- 上限も下限も研究・諸活動の如何によって天井・底なし
- 法曹:
- 裁判官・検事・弁護士それぞれ待遇のシステムが異なっているので単純化困難
⇒将来的には法曹人口の増加によって総体的に地位の低下が想定できる- I種採用者:
- 民間・学者との比較では、上限は劣り、下限は勝る
法曹との比較は上記により困難となっていると私は認識しておりまして、もしこれらの認識が妥当であるとすれば、それぞれリスク・リターンの兼ね合いは異なっており、合理的な学生であれば、その兼ね合いの価値判断によって業種を選択するはずであり、待遇そのものの優劣で業種を選択することは困難です。
仮にキャリア制度を廃止したとしても、待遇面の変化は勝っていた下限が他の業種に近づいていたに過ぎず(同じになるとは言えないでしょう。 何故ならば公務員は身分保障が充実しているからです。 民間企業であれば経営状況如何によって常に解雇の可能性がある訳ですから)、この変化をもって従来I種採用を選択肢にしていた学生がI種採用を選択肢から外す傾向が高まるとは言えないと思います。また、全てのI種採用者が待遇面のみを選択の基準としているわけではないと思います。 実際は職務内容や、適性等を判断して選択するはずです(特に天下り・キャリア批判の中で採用を敢えて希望する若手キャリアはそもそも待遇面にそれ程期待をしていないと思うのですが。 この点はbewaad様も過去に発言されていたと思います)。
以上により、「つまり、一般にキャリア制度を廃止すると…」の段落は説得性に欠けると思います。
待遇に関するご指摘については、相対水準の変化と絶対水準の比較を混同されているのではないだろうか。 確かに「待遇」を構成する各諸要素(給料、仕事の内容、福利厚生etc)に対する効用関数は、各職業を選んだ集団ごとに有意の差があるだろうと想像することは容易であるし、Gunsi氏ご指摘のとおり、webmasterはかねてからキャリアを選ぶような連中は(良くも悪くも)それほど金に執着しているわけではないと主張している。 しかし、今回の話は、キャリアの待遇における将来の不確定性の増加以外の要素は不変との前提で、それのみを引き下げた場合におけるキャリア志望者の行動の変化に係るものである。 簡単に言えば、平均的なリターンが下がりリスクが上がるわけで、そうした待遇についての効用評価の絶対水準がどうであれ、そうしたリスク・リターンバランスの変化の前後を比べれば、必ず職業選択肢間での相対的魅力は下がるはずである。
次に、「大学教育を受けるというコスト負担を受け入れることに意味がある」とするシグナリング理論ついて、それ理論自体には説得力がありますが、だから「学校歴」のみを採用の基準として良いか否かという訳にはいかないと思います。
「学校歴」について考察する際には社会階層の観点が必要であると考えます。近代国家における「学校歴」が一般的に受け入れられている大きな理由に、「(大学)教育を受けるというコスト負担」という「平等」な基準によって「全て」の国民に社会階層の上昇の機会が開かれていることにあります。言い換えれば「頑張れば報われる」というということです。
しかし、教育社会学者(海外ではP.ブルデュー、国内では刈谷剛彦が著名)の実証研究によれば、社会階層移動は実際には部分的なものであり、階層固定がかなりの程度進んでいることが明らかになっています。
彼らの議論によると、社会階層において相対的に高い位置にある世帯は、低い位置にある世帯に比べて、子どもに対してより充実した教育の機会を提供できるとしています。 社会階層において相対的に高い位置にある世帯の子どもは、家では親が見識を得るために獲得した新聞・書籍等に囲まれ、また小さい頃からお稽古、塾に行ったり、旅行等によって様々な経験をしたりすることが可能です。以上のような充実した教育を受けた子どもは結果として「学校歴」においても有利な位置におかれることになるでしょう。
また、コスト負担への意識においても貧乏な過程に育った苦学生に比べれば、「学校歴」のコスト意識もそれ程感じることもないでしょう。 生活費・学費等において親に依存することができますから。一方苦学生はアルバイトや奨学金制度によってやりくりする必要があります。
これは入学試験だけではなく、国家公務員試験や司法試験においても言えます。 これらの試験に合格する手段としては試験のノウハウを効率的に吸収できる各種試験予備校通うことがスタンダードでしょうが、社会階層的に上位にある子どもは試験予備校に通うコストも殆ど感じることなく、勉強に専念できる一方、下位にある子どもは予備校に通うためには学費のやりくりに苦労することになるか、(手段としては不利な)独学に頼らざるを得なくなります。以上を踏まえますと、「学校歴」に対するコストを負担することは、個人の資質だけではなく、その親の社会階層に大きく左右されるということが分かります(また、生まれた地域にも大きく左右されるでしょう。 国家公務員に限定すれば、霞ヶ関がある東京周辺に実家を有する者の方が、地方の片田舎に実家を有する者に比べて、I種採用へのコストは相対的に低いでしょう。 何故ならば、後者は採用の段階で東京と実家を往復する必要性があるでしょうし、また採用されてからも引越し・一人暮らしを余儀なくされることになるからです)。
故に、「大学教育を受けるというコスト負担を受け入れることに意味がある」とするシグナリング理論のみをもってI種採用者を確定し、彼らのみに幹部候補生としての地位を与えてしまうことは、個人の資質は高いが社会階層・環境によってI種採用を断念せざるを得なくなった人々へ幹部候補生への道を閉ざしてしまうことになります。
もちろん、人事管理の点で、I種採用を断念せざるを得なくなった人々へ特段の配慮をすることはその人々の比率に比してコストが高過ぎるから行わないという施策も可能です。 しかしながら、このような施策は自由民主主義社会の原則である機会均等を否定し、社会階層固定を容認していく方向性になるのではないでしょうか(残念ながら現在の教育政策は(政策担当者がそれを意図しているか否かは別として)その方向性に進んでいるようですが)。
まずお断りしておきたいのは、Gunsi氏の指摘するとおり、どうやら現在の社会情勢は階層の固定化方向に動いている可能性が高く、それに対して何らかの対策が必要だということについては、webmasterにも異論はない。 ただ、その対策がキャリア採用に当たってのアファーマティブ・アクション的な学校別クォータの導入かどうかについては懐疑的だ。
なぜなら、それが有効となるためには、キャリアが他の職業に比べて圧倒的に有利な立場にあり、その程度の選択肢としての魅力の低下(端的には東大法学部卒にとっては競争率の上昇をもたらすので)では他に逃れない、という前提が必要だからだ。 しかし、既述のとおりそうした前提は成り立っておらず、少なくとも就職におけるキャリアという選択肢には有力な競合先があり、そちらについても同様の措置をかけない限りは、単にキャリアの社会的ステイタスが下がるだけで何も解決されないこととなる。
結局この問題への対応はティンバーゲンの定理に従って、社会階層の固定化への対策とキャリアとしての優秀な人材の確保のための対策を別々に用意することが正しいと考えられる。 webmasterの感想としては、決してキャリアの採用は学校歴を基準として行われているものではないが、結果において特定の大学−と言葉を濁しても仕方がない、東大法学部−出身者が多くなろうとも、キャリアとしての優秀な人材確保策としては、そのことのみをもって否定されるべきではない。
また、I種採用を断念せざるを得なくなった人々へ幹部候補生への道を閉ざしてしまうことは、業務へのモチベーションの点でもマイナス点があります。 採用段階で将来がある程度固定されていること(I種採用者で言えば課長級までの昇進が保障されていることによること、II種・III種採用者であれば、せいぜい課長補佐級までの昇進でしか保障されていないこと)はII・III種採用者における業務へのモチベーション低下につながります。 頑張っても頑張らなくても待遇面で大きな差は生じないという理不尽さに直面するからです(I種採用者においても同様だと思います。 「頑張らなくても課長にはなれる」という甘えを許してしまうシステムですから)。
以上の問題を解決するためには、入省後に「幹部候補生」と「一般職」との入れ替えを制度として担保しておく必要があると思います。 役に立たないI種採用者が保障された地位によってのみ昇進を繰り返し、課長級になった場合の業務上の損失は恐らく省内にとどまらないことは容易に想像できます。 一方、「管理者」として有能な資質を有するII種・III種採用者のモチベーションを徒に下げてしまうことも長期的に見れば組織にとって損失になるでしょう。
ただし、「幹部候補生」と「一般職」との入れ替えの基準となる評価の方法を導入する際には慎重を要すると思います。
まず実績評価は公務という特殊な業務である上、それぞれの業務が多種多様であるため、定量的に量れるプラス面の実績基準は殆ど皆無でしょう。 従って実績評価については現状通りマイナス査定にせざるを得ないでしょう。
一方、勤務態度については360度評価等によって多面的に評価する余地が残されていると思います。
I種採用者とII種・III種採用者の入れ替えそのものについての評価は今回のテキストをご覧いただくとして、モチベーションについてのみ触れるとすると、競争の有無は確かに重要だが、そうした採用区分別の昇進のいわばキャップの存在は、決して競争がないことを意味しない。 まずI種採用者について言えば、課長にとどまるのか、それとも事務次官まで昇進するかの差がある以上、そこに競争は存在する。 課長までの昇進保証といったところで、無能故に馘にすることがなければ、しょせんは程度問題に過ぎないだろう。 他方でII種・III種採用者にはそれほどの地位の差は生じないが、これも「課長補佐」と言ってもそのステイタスは千差万別である以上、やはり競争は存在する。
結局重要なのはいつまでそうした競争が存在するかであって、仮に事務次官から平係員まですべてになり得る競争であったとしても、例えばそれが30歳までに終わってしまうのであれば、当然ながら30歳以降は無競争になってしまう。 つまりは、キャリア制度及び上記入れ替えの有無とは別の話、ということではないだろうか。
最後に、あくまで例示されただけだとは思いますが、II種・III種を廃止して派遣社員・アウトソーシングにすることについては反対です。 例え現在II種・III種の業務として与えられている「一般職」的な業務であっても公務である以上、守秘義務に関わる知識を得る可能性は大いにあります。 民間企業に比して、守秘義務事項に係る情報が漏洩した時の周囲への損害は計り知れない訳ですから、「一般職」的な業務であっても派遣社員・アウトソーシングにしてしまうことは危険であると思われます。
これは余談ですが、現在情報システムについて霞ヶ関の各省庁は業者にアウトソーシングしているようですが、これは非常に危険であると思います。 もちろん業者の側は「お得意様」である官庁の不利益なことを行なうことは想定しずらいですが、一方一度漏洩してしまってからでは手遅れであるという考え方もあります。
情報システムについては専門的に従事する職員を雇い(もちろん給与面等において十分な保障をする必要性はありますが)、守秘義務を徹底させることが必要であると考えます。以上、長々と論じてしまいましたが、私の考察とさせていただきます。
ま、あれは例示というより当てこすりですが(笑)。
マーケットの馬車馬でのご指摘
前回のwebmasterのテキストを受け、議論の終わり方と政治のあり方というエントリが示された。 馬車馬氏の誠実かつ冷静な議論もあって、いい形での意見の応酬ができたのではないかと思う。 webmasterにもう少し専門知識があればより高度なやりとりになったかもしれないが、それは今後の馬車馬氏及びそれに対するネット上の他の論客の方々のご活躍に委ねたい。 馬車馬氏、それに議論を見守っていただいた読者の方々に感謝を申し上げて、この一連の議論の締めとしたい。
(2004-12-22記)
[年間10大ニュース]2004年「芸能・スポーツ等部門」
- 第10位 映画「デビルマン」公開
- 原作ファンの端くれとして、これだけ原作ファンの話題となったテーマはやはりはずせない。 内容についてはm@stervisionのレビューに付け加えることは何もないが、とりあえず「ハッピーバースディ・デビルマン!」
- 第9位 皇室悲喜こもごも
- 今年終盤にさしかかって紀宮殿下の婚約(の事実上の)内定や高松宮妃殿下の逝去が起こったが、やはり皇太子殿下ご夫妻の話題が中心。 最近の秋篠宮殿下のコメントは、天皇家の歴史より皇太子妃殿下という一人の女性を選んだ皇太子殿下への割り切れない思い故なのだろう。 「王冠を捨てた世紀の恋」どころか、「皇統を捨てた千年紀の恋」であるからして、波紋が起こるのも当たり前。 秋篠宮家に男子が産まれ、その男子が男系皇統を継ぐこととなるのが、皇太子殿下・皇太子妃殿下・秋篠宮殿下の3人にとってもっとも幸せな未来だとは思うが。
- 第8位 若手お笑い芸人ブレイク
- webmasterの好みのトップ3は第3位ドランクドラゴン、第2位だいたひかる、第1位アンガールズ。
- 第7位 EURO2004でギリシャ優勝
- ナショナルチームよりもクラブチームが強くなってしまったという、ある意味当然だが多くの人が目を背けている事実を傍証した。 無名選手しか集められなくてもクラブチームなみにチーム練習をたたき込めばヨーロッパでトップに立てるというのだから。 トヨタカップ(脱線だが、トヨタカップを呼んだ男たち@sportsnaviというインタビュー企画は一読の価値あり)が衣替えする世界クラブ選手権の方が、そのうちワールドカップよりも権威ある大会になる可能性も否定できない。
- 第6位 「韓流」
- きゃあきゃあ言っている人間の年齢層等を考えても、お約束のベタなドラマのニーズは一定程度存在するということの帰結であろう。 舞台が日本ではないことによる若干の非日常感があるので、そのベタな展開がそれほどは鼻につかず広く受け入れられるに至ったのでは。
- 第5位 アテネオリンピックで日本代表が16個金メダル獲得
- 最も鮮明な記憶として残っているのは男子体操団体。 出だしで躓き、徐々に追いつき、最後の鉄棒での冨田の吸い付くような着地、その際の「伸身の新月面が描く放物線は、栄光への掛け橋だっ!」(by刈屋アナ。 ちなみにあの実況は、まぎれもないプロの仕事である)、そして選手たちを包んだ満場の拍手の嵐まで、あの一連の流れは陳腐な言い方だが筋書きのないドラマそのものとしか形容のしようがない。
- 第4位 カルロス・クライバー死去
- webmasterが生きている姿を知っている中でもっとも指揮者らしい指揮者であった。 録音が少ないことで有名であったが、少ないといえど録音を残してくれたことを感謝したい。 ・・・っていうか、ヴォツェックの全曲録音の話、本当であってほしいなぁ・・・。
- 第3位 Winny作者47氏逮捕
- 判決がいつになるかは知らないが、悪い意味で歴史に残るような判決にならないことを祈るばかりである。
- 第2位 日本プロ野球界再編騒動
- とりあえず楽天の参入とソフトバンクによるホークスの買収で一区切りはついたものの、来年の動きも十分にあり得る。 要注目はやはりライオンズであろう。
- 第1位 イチローのメジャーリーグ年間最多安打記録更新
- メジャー史上最強バッターの座をバリー・ボンズから奪うことは不可能だろうが(出塁率6割超はやはり空前絶後と言わざるを得まい)、メジャー史上最高の安打製造器となるための今後の活躍が大いに期待される。 テッド・ウィリアムス以来の打率4割や年間300安打など夢は広がるが、さすがのイチローでも破るのが難しそうなのはジョー・ディマジオの56試合連続ヒットと、タイ・カッブの通算打率.366(ピート・ローズの通算4,256安打やタイ・カッブの9年連続首位打者は難しいのではなく無理だろう(前者は日米通算ならともかく))。 今引退したとしても十分メジャーの歴史に残るだろうが、これらを達成する日が来るのを楽しみに待ちたい。
(2004-12-22記)
2004-12-07更新分
[その挑戦、受けよう(仮)]:その8「官の詭弁学 誰が規制を変えたくないのか」
今回の挑戦者
- プロファイル
- 福井秀夫, 2004, 「官の詭弁学 誰が規制を変えたくないのか」, 日本経済新聞社
- 主張の概要
- 官僚の行動原理の一つは官尊民卑であり、規制は社会の実情や経済合理性ではなく、身勝手な内向きの論理で作られていることが多い。
- 公開されている審議会の議事録には、そうした内向きの論理が数多く記されており、それらを具体的に取り上げて問題点を指摘する。
対戦の結果
非常に多くの話題を取り上げているので、一部だけをとりあげるのは適当でない(いいとこ取りしたのではないか、と思われるのも心外である)と考え、それぞれを見て通算成績で結果を判断することとした。 そういう形で取り上げるため、一つ一つの論点を詳しく検討するのも面倒なので(笑)、勝敗の判断基準は形式基準を中心とした次のとおりとする。
- 挑戦者の負け
-
- 言っていることが主張の内容以前に形式等の面で不適当な場合。 例えば、ダブルスタンダードや主張の根幹に関わる事実誤認、誤解を誘導する引用など。
- 上記に該当しない場合において、主張の内容が官僚側よりも明らかに劣っている場合(つまり、どっちもどっちな場合は負けではない)。
- 挑戦者の勝ち
-
- 上記「負け」基準に該当しない場合
- 備考
- 判断はあくまで本書で触れられているものに基づいて行う。 それ以外の場における議論等において官僚側が挑戦者を論破していても、それはノーカウント。
五分五分なら官僚側の負けという挑戦者に有利な基準ではあるが、できるだけ外形的に判断したいというのはwebmasterの勝手な都合なので、仕方があるまい。 ではさっそく、各部分の勝敗の判定に移ろう。
- 第1章(1) 審議会議事録はすべて公開すべし
挑戦者の主張の骨子
- 審議会は「族学者」を集めて役所の決定を追認するようなものが多く、そこでの議論をまっとうなものとしていくためには、議事録公開が非常に有益。
- 公開により官僚の悪行が暴かれた一例としては、マンション建替え要件を4/5以上の合意のみとすることの検討を促した閣議決定に背いて、4/5以上の合意要件の問題点のみを法制審議会に説明していた法務省があげられる。
- 4/5以上の合意以外の要件として法務省が主張するものの一つ、築30年以上というものには、なんの根拠もなかった。
判定
本書の活字だけを見ると、特に挑戦者の主張におかしなところはなく、勝ちを宣せざるを得ないか・・・と思ったのは早計であった。
二〇〇一年十二月の閣議決定では建替え要件を「五分の四以上の合意のみとする」ことを明示し、法務省に検討を促していたが、法務省はこの案を法制審議会に論拠を付して説明することを怠ってきただけでなく、閣議決定を無視し、三十年以上経過すること、効用維持のために現在建物と同等の建物を建てる費用の二分の一を超える費用を要すること、といった特殊な要件を付加し、法案化しようとしてきた
(p19)というのは相当ミスリードである。実際にはどのような閣議決定であったかを見ると、
区分所有法の建替え要件の緩和(建替え決議の要件を関係者の5分の4以上の合意のみとすることを含め検討) <14年度中に措置(法案提出)>
(規制改革の推進に関する第1次答申(平成13年12月11日))(webmaster注:真の閣議決定は、総合規制改革会議の「規制改革の推進に関する第1次答申」(平成13年12月11日)を最大限に尊重し、所要の施策に速やかに取り組むとともに、平成13年度末までに「規制改革推進3か年計画」(平成13年3月30日閣議決定)を改定する
(総合規制改革会議の「規制改革の推進に関する第1次答申」に関する対処方針について(平成13年12月18日閣議決定))と定めているのみなので、答申を引用)というもの。 4/5要件をそのまま法制化しなければ閣議決定違反と半ば決めつけているが、その要件はあくまで例示であり、要件を緩和すれば閣議決定には4/5要件を法制化しなくとも何ら閣議決定違反ではない、というのが素直な日本語の解釈である。しかし、例示にそれなりの意味があるのも事実であり、挑戦者の負けと解するほどの瑕疵ではないため、挑戦者の勝ちとしよう。 (ちなみに、挑戦者が総合規制改革会議を代表して法務省に赴いた際の議事録のuri(http://www.moj.go.jp/SHINGI/020806-1.html)が本書で紹介されているが、それを見ると、とある出席者が非常にお粗末な主張をしているのがよく分かる。 「「現行法がそうだから」は,法改正の議論において理由にならない」と主張しておきながら、結局4/5以上の合意のみが妥当と判断する根拠を詰められると、2/3や3/4では建替え反対者に酷かもしれないが9/10では今より重くなるから8/10が適当だと、結局は「現行法がそうだから」という理由で自説を合理化したり、ひどい雨漏りで多くの住民が悩んでいても30年経過しないと建て替えられないなんてひどいじゃないか、と損傷や一部滅失の場合は30年という期間要件の適用除外になるという法務省案でも対応可能なことをあたかも不可能であるかのようにプレゼンしたり、法務省にさんざん30年の根拠付けとして意識調査もやっておらず問題だとけなしておきながら、自分だって4/5については意識調査をやっていないとか。 これらは非常に高い確率で挑戦者の発言だと思われるが、実名が伏せてあるので、これらをもって負けにはしない。 実名を伏せる法務省をくさしているが、感謝すべきじゃないのか(笑)。)
あとこれは余談だが、役所に都合のいい委員だけを選ぶ審議会運営をあれだけ批判するのだから、行革担当の役所にとって都合の悪い「規制改革反対派」であるワタミの社長を規制改革・民間開放推進会議の専門委員から外した件については、自分が属している会議の運営なのだから、先ず隗より初めよということで、十分批判をしていただきたいものだ(笑)。
通算成績:挑戦者の1勝
- 第1章(2) 「行政」が「行政」訴訟を改革する限界−新行政訴訟制度立案の紆余曲折
挑戦者の主張の骨子
- 行政コントロールがうまくいっていない一因は行政事件訴訟法の不備にある。
- しかしながら、その改正作業は行政が担っており、泥棒が刑法を作っているようなものだ。
判定
行政が行政事件訴訟法をいじるのは泥棒が刑法を作っているようなもの、というのはおっしゃるとおりだが、それに引き続いて法務省と最高裁による会議運営を延々と愚痴るのはいかがなものか。 まあこれは百歩譲って、泥棒が刑法を作っているようなもの、との主張を補強するための記述だと認めるとして、そうした事態の解決策が、依然として行政に原案作成を委ねた上で、政治家やジャーナリスト、弁護士等がチェックしようってのは、相も変わらず面倒なことは行政に押しつけようというものではないのかね。
泥棒が刑法を作るのがおかしいというなら、常識的な対策は泥棒以外の人間に刑法を作らせるというもの。 行政がやっているのがおかしいなら、自分たちで改正案を作ればいいではないか。 自分たちが楽したいからって、そういう正攻法を回避して、行政はダメですなぁと評論家然として偉そうな口をきいても何ら根本的な解決にはならない。 というわけで、問題意識は正確でも処方箋が明らかに間違っているので、挑戦者の負け。
最後に蛇足だが、先のマンション建替え要件の議論について、森ビルの社長が専門委員として参加しているが、森ビルがマンションを経営しているのに議論に参加できるのは、泥棒が刑法を作っているようなものじゃあないんですかぁ?(笑)
通算成績:挑戦者の1勝1敗
- 第1章(3) 労災保険はモラル・ハザードの集合体
挑戦者の主張の骨子
- 自賠責保険がそうであるように、政策に基づく強制加入保険であっても民間企業に実施を委ねることは可能なのに、労災保険はそうせずかたくなに政府直営を墨守している。
- その結果、業種別のリスクと保険料率の関係がおかしくなっている。
- そのため、事業主にモラルハザードが生じており、かえって労災を増やす構造となっている。
判定
挑戦者のプロファイルを見ると、研究対象の一つに法と経済学が入っているので、専門が行政法とはいえ、経済学のテクニカルタームは正確に使ってしかるべきだろう。 しかるに、モラルハザードというテクニカルタームの使い方が、しかもその用語が発祥した分野である保険において間違っているのはいったいどういうことか。 本書で紹介されるモラルハザードの説明は、挑戦者自身によるものではないが、特に異論を唱えているわけではないので、その用法に賛成していると考えられる。 で、その説明とは・・・
リスクの多い業種ほど高い保険料を課すことによって、保険料を減らすために事故を防止する、そのために投資をするという事業主のインセンティブを促進するというのが労災の重要な役割ですね。 それが極めて曖昧な分類によってモラルハザードが起こっているのではないか。
(p51)そんな理由じゃあ起こってねぇっつーの。 モラルハザードが労災保険において起こっているかどうかは知らないが、仮に起こっているとしたところで、保険事故の発生確率と設定される保険料率との関係がおかしいことが原因ではあり得ない。 モラルハザードとは、例えば火災保険を掛けると、火災が起きても損害が補償されるので火災を防ぐインセンティブがそがれるというもの。 保険を掛けた段階で保険料はサンクコストになるので、保険料の水準がいくらであっても、インセンティブがそがれるかどうか=モラルハザードが生じるかどうかには無関係である。 モラルハザードの防止には、保険事故の発生を回避するための努力を怠っていた場合には保険金を払わないこととするとか、保険金額ですべての損害額をカバーすることをやめて一定の自己負担を求めることにより、防止の努力を怠ることが被保険者にとってマイナスになるようにする=インセンティブ構造をかえることが必要なのであって、リスクに見合った保険料を設定したところで防止などできるはずもない。 そこは厚生労働省もきちんとわかっており、個々の事業主の労災防止努力等に着目するメリット制により、正しくモラルハザードの防止に努めている。
これに対する挑戦者の反論が傑作である。
もし個別にリスクが正確に判定されているのであれば、個別の集積である業種だって不均衡が出ないような保険料の収支になっていないと変だということになるはずです。
(p53) ならねぇっつーの。 挑戦者によると、個別の事業主が労災防止努力を怠ると業界全体の保険料率が上がるようにすれば、みんな保険料率の上昇をいやがって労災防止に努めるはずなのに、そうしたことをしないからモラルハザードが起きるということなのだが、個別の事業主は保険集団全体の労災発生確率にフリーライドできるから、挑戦者の言うとおりにしてもモラルハザードの防止にはつながらない(だいたい自分がその直前にモラルハザード防止策の例として、1回事故を起こしたら次の保険加入に当たっては保険料率が上がるという、同一の被保険者のインセンティブ構造に着目した事例を紹介しているというのに、自分の言っていることの意味がわかってなかったのか?)。そもそも、保険料率設定が(保険数理に照らせば)おかしい理由は、厚生労働省がはっきりと相互扶助だと説明している。 そうした相互扶助を労災の内部で仕組むか、それとも外部で仕組むかは政策判断であるので、挑戦者が言うように課税等で配分財源を別途徴求して政府が配分するという選択肢は検討対象たり得、その意味で保険料率設定のあり方と相互補助のあり方は挑戦者の言うとおり独立の問題ではあるが、挑戦者によると、なぜか外部でもできる=内部ではやるべきでないということになってしまう。 独立の問題という場合、それはそれぞれを別途検討し得るということを指すのであって、一方の問題は放置してもう一方の問題のみを部分均衡的に解決すればいい、ということを指すのではあり得ない。 外部にした場合にはどうなるかという検討は自分の守備範囲外なので知ったことか、自分の守備範囲である保険料率設定の適正化等の運営の効率化さえできればいい、というのは無責任きわまりない話だ。
以上から判定は挑戦者の負け。 1敗としてしかカウントできないのが悔しいぐらい間違った主張だが、ルールはルールなので1敗にとどめておく。 ただ、今後モラルハザードの話はしないよう忠告しておこう。 ホント、恥かくだけだから。
通算成績:挑戦者の1勝2敗
- 第2章(1) 患者本位の治療は医療法人と個人開業医のみなしうるか−「である」論理と「する」論理
挑戦者の主張の骨子
- 株式会社による病院経営を認めれば、資金調達が容易になる等のメリットが多いにもかかわらず、厚生労働省は株式会社は利潤追求が目的である存在で、病院経営にそぐわないと主張し認めない。
- しかし、既存の株式会社病院が特に問題ある経営をしているということでもなく、他方で利潤追求を行うのは個人経営も同じである。
- 結局のところ、厚生労働省は競争をいやがる日本医師会の利益を代弁しているだけで、国民の利害を無視しているのだ。
判定
まったくもって挑戦者の言うとおりであり、挑戦者の勝ちとしか判定のしようがない。
ただ、その負けも厚生労働省の自滅と言えなくもない。 挑戦者の言っていることにも結構つっこみどころがあるにもかかわらず、よりにもよって株式会社は利潤追求が目的だからダメだ、というまさに挑戦者が待ち望んだ土俵に上がってしまったからである。 株式会社的な制度(出資額に応じた議決権の付与等)がなければ近代的な経営は不可能だ(p67)というなら、そもそも株式会社参入を認めろではなく医療法人という法人格を禁止しろという主張であるべき(ひいては、その他のあらゆる協同組織的な組織形態には存在価値がないという主張になるのだが、そこまで影響を慮ってのことではあるまい)とか、株式会社の利点として有価証券報告書や第三者監査による会計や情報開示をあげている(p77)が、それが当てはまる株式会社などほとんどない(有価証券報告書提出会社、大目に見ても商法特例法適用会社しか挑戦者の主張する「株式会社」には当てはまらないが、それらが株式会社全体に占める比率はなきに等しい)とか、借金の利払いと株主への配当はいずれも資金調達の対価であり同等だという(p77)が、それは出資額に応じた議決権が必要だという主張と矛盾するだろうとか・・・。
通算成績:挑戦者の2勝2敗
- 第2章(2) 誰が農地を棄てるのか−敵視される企業の農地保有
挑戦者の主張の骨子
- 農業従事者の高齢化等により耕作放棄地が増えているが、企業を参入させることにより対応することが可能である。
- しかるに農林水産省はなんら具体的証拠を示さぬまま、企業による土地所有は投機につながるとして反対するのみである。 政策決定の場においてこのような非合理的主張がまかり通っているのが実態なのだ。
判定
ここも基本線は直前の議論と同じく、金儲け主義の企業(株式会社)はダメだ、というのが官僚(この場合農林水産省)の主張であるが、ただ一つ違うのは、形式的には理屈だけを言い張った厚生労働省とは対照的に、担当者が
論理的でない回答になるのかもしれませんが
(p86)、経済学的な話だけをしているのではなく
(p96)という発言をしていること。 当然こうした担当者のコメントには、論理的な回答だけ聞きたいんですけれども
(p86)、そうしたお答えは信仰告白としか思えません
(p96)という厳しい指摘がなされている。とすれば、ここでも挑戦者の勝ち、という判定を予想される向きも多かろうが、webmasterは挑戦者の負けとしたい。 普通の大人であれば、ここで農林水産省の担当者が述べていることの背景には、最終的な政策決定の場−もちろんそれは役所ではない−において、論理的でもなければ経済学的でもない理由で意思判断がなされているという実態があることがわかるはずだ。 民主政の枠内で合法な手続により決定される政策は、それが論理的でなく経済学的でなくても、行政はそれを遵守しなければならないし、また、その政策を覆すには、同様の手続により別の政策決定を行うことのみが必要十分条件であって、論理的・経済学的な説明はあくまでそれを達成するためのノウハウの一つに過ぎない。
ここでの農林水産省は、少なくとも先の厚生労働省とは異なり、無理な理屈を闇雲に言い張るのではなく、なぜ受け入れられないかを率直にかいま見せている。 それを非論理的・非経済学的だと嘲ってみたところで、挑戦者の虚栄心は満足するかもしれないが、実態は何も変わりはしない。 挑戦者に税金から謝礼を払って規制改革の議論をさせているのは、個人的な満足をさせるためではないはずである。
通算成績:挑戦者の2勝3敗
- 第2章(3) 国公立学校・学校法人至上主義の破綻−物の貴きにあらず、その働きの貴きなり
挑戦者の主張の骨子
- 学校経営につき、現行法制は新規参入、とりわけ株式会社によるそれを差別的に取り扱っている。
- 具体的には、参入に当たって同業者が入った審議会にかけられる、株式会社には一切補助金が出ない、他方で学校法人であれば多くの補助金が出る、など。
- その根拠については、憲法第89条(公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。)の解釈の問題となるが、文部科学省の主張は自分勝手で非合理な解釈に基づいており問題だ。
判定
挑戦者が補論までくっつけて(pp241-263)論じている憲法第89条問題(ちなみに挑戦者は一貫してこの条文を憲法89条と呼んでいるが、法学を専門とするくせにこういう無神経な誤用をするのはいかがなものか。 例えば十七条憲法(憲法十七条)といえば条文数が17である(17ヶ条からなる)憲法を指すのであって、その中の第17条=17番目の条文を指すのではない(公平を期すために触れておくと、文部科学省の担当者もp116で同じ間違いを犯している)。 ついでにもう一つ法学者としてどうかと思う間違いを指摘しておくと、p99の「被告」とは文脈からして「被告人」の誤りだろう)であるが、挑戦者は3つの点について文部科学省を退けている。
まず、補助金適格となるための「公の支配」についてであるが、文部科学省が学校法人に対する解散命令権がそれを満たす必要条件であるとするのは、挑戦者によると十分条件と取り違えていて初歩の論理学もわかっていないとのこと。 では、その根拠として挙げられている内閣法制局答弁を見てみよう。
私立学校法による、とりわけ学校法人の解散命令がないとどうなるかということでございますけれども、それに変(ママ)わる何らかの、例えば代替措置があるということであれば、それは諸般の事情等も加えまして、十分に検討の余地がある
(pp114,115)というものだ。 ここで引用した語句のみを見ると挑戦者に軍配が上がりそうだが、文脈を見てみると、何か助成に際して問題が起きたら、その問題を止めさせるのが筋で、それが無理なら金銭を返還させればよい、というのが普通の常識だろう。 「法人解散命令」というのは個人なら「死刑判決」に等しい。 存在自体がよほど反社会的なら発動の余地はゼロではなかろうが、しょせん「私学助成」についてのみの「公の支配」のあり方としてそんな措置が必須と言い張るのは異様ですらある
(p111)というもの、つまり解散命令と同等の代替措置は不要でもっと軽い措置でいいというのが挑戦者の主張なのだから、その意味では先の法制局答弁は十分条件ではなく必要条件と解すべきだろう。次に学校法人以外の学校に対する補助金の問題であるが、経過措置として学校法人以外の法人に学校法人への転換を条件として補助金を認め、かつ、結果として転換できなかった法人に対する補助金を合憲としたことを受け、
株式会社学校やNPO学校も、他の条件さえ等しければ、「五年以内に学校法人に転換する」と「約束」さえしていれば、私学助成を受けることになんの問題もなくなるはずだ
(p119)と挑戦者は指摘する。 しかし、既に存在し合法に補助金を受けている学校について、いきなり補助金を打ち切って生徒が就学できなくなることを防ぐために一定期間は支給を継続するものと、これからスタートする学校が設立当初から要件を満たしていないものを同列に論じるのはどうかしている(前者について一定期間(本件では5年)経過後においてもなお補助金を継続しているならともかく)。最後に憲法第89条と政教分離の関係であるが、宗教教育を行う学校へ補助金を宗教教育に当てられるものかそうでないかを区分せずに認めることを、
憲法遵守義務があるはずの公務員の憲法の読み方としてもずさん極まりない
(p122)としているが、少なくとも判例では、宗教は教育、福祉、文化、民俗風習など広範な場面で社会生活と接触することとなり、このことからくる当然の帰結として、国家が、社会生活に規制を加え、あるいは教育、福祉、文化などに関する助成、援助等の諸施策を実施するにあたって、宗教とのかかわり合いを生ずることを免れえないこととなる。 したがって、現実の国家制度として、国家と宗教との完全な分離を実現することは、実際上不可能に近いものといわなければならない
(8.2 政教分離@安念教授のページ)というものだとされており、挑戦者の主張に沿って合憲・違憲を判断しているわけではない。 上記の補論を読むと、挑戦者がその立論に強い自信を持っているのはわかるが、主観的に自信があることは、客観的に文部科学省の言い分がずさんだということの証明には、もちろんならない。通算成績:挑戦者の2勝4敗
- 第2章(4) NPO法人をなぜいじめるのか
挑戦者の主張の骨子
- 構造改革特区では株式会社とNPOによる学校経営が認められたが、その範囲には格差が設けられ、NPOは限定的な教育しか行い得ないものとされた。 その根拠はNPOは株式会社に比べ継続性・安定性に不安があるというものだが、例によってその証拠はない。
- また、NPOと株式会社を同様に扱おうという立法論を議論しているのに、両者は同様に扱われていない現行法の解釈論を持ち出している。
- 結局、規制を受ける等の官に近いものは保護し、より自由に活動できる官から遠いものは冷遇するという官尊民卑の考え方が問題なのだ。
- (その他、私学助成に関する議論があるが、既出なので割愛。)
判定
文部科学省はNPOは株式会社に比べ継続性・安定性に劣る、という主張の根拠を挑戦者に論破されており、その論破の方法も冒頭の形式基準上問題はないため、挑戦者の勝ちである。 立法論についての議論は、規制改革会議だって現行の特区法制を是認しており、その中で設けたNPOと株式会社の格差は当然その是認したものの部分集合ではないか、その是認した際と是認するかどうかに用いた判断基準に照らして状況の変化はないではないか(挑戦者は新たな申請があったことを状況の変化としているが、前回の判断の際にも申請者は異なりこそすれ同趣旨の申請があったとすれば、普通は状況の変化には含まないだろう)、という文部科学省の主張には共感するところ大ではあるが、これはあくまで傍論と位置づけられるべきものであり、勝敗を左右するものではなかろう。
以下は勝敗とは無関係に(なにせ個別テーマについては文部科学省は敗れ去った後なのだから)、官尊民卑云々について一言触れておく。
本章で見た医療、農業、教育のいずれの分野であっても、「官」や、「民」が規制や許認可を通じて深く関わっている組織や個人は正しく立派であって、手厚く金銭援助をしなければならない一方、株式会社やNPO法人など、「官」の統制の弱い「民」は資質が劣り、非倫理的だから、冷遇の限りを尽くしてよい、という官尊民卑の決めつけに満ちている
(p143)というが、では規制や許認可がないところに補助金などをばらまいていいというのだろうか。 むろん、そんなことはあるまい。 例えば補助金の使い込みを望ましいこととする価値判断はないとしてよいだろうが、であるなら使い込みを防止するための何らかの手だて、つまり何らかの規制や許認可は必要である。 上記「官」でも使い込みをしているケースがあるだろう、という反論もあろうが、それは規制や許認可のやり方に改善の余地があることの根拠にはなっても、規制や許認可が不要だということの根拠にはならない。 上記の挑戦者の主張は、審議会議事録等に出てくる具体的な役所の主張に対する批判・反論ではなく「官」の主張と対比されていないので、あえて「官」の主張を参考までに付け加えた次第である。通算成績:挑戦者の3勝4敗
さて、なるべく短くしようと思っていたがずいぶんと長くなってしまったので、いったん水入りとしたい。 挑戦者は現在負けが先行しているが、次回に逆転なるかどうか、刮目して待たれたい。
(2004-12-07記)
[共有地の喜劇]:第10幕
flapjackのbookmarksおよびisuzukiの日記でのご指摘
前回の天下りについての議論は(順番としては)例外ということで、今回は最初に戻って、なぜキャリアというステイタスが必要であるかについて考えてみたい。 この連載にあたり最初に触れたように、公務員の世界におけるキャリアのような、将来の管理職を担う人間を囲い込む特定の集団が形成されるのは、こと官界に限らず多くの世界に見られることである。 だから、他と一緒よと言ってしまえば終わりではあるのだが、そうした集団の存在意義について、公務員の世界にとらわれず論じてみることとする(なお、体系的に整理された研究に触れたわけではないので、あくまでwebmasterの個人的な経験等に基づく断片的な考察であることをあらかじめお断りしておく)。
存在意義として簡単に思いつくものとしては、集団の管理に必要とされる一定のスキルがあるから、というもの。 よく「名選手は必ずしも名監督ならず」と言われるが、選手として活躍するために求められるスキルと監督として活躍するために求められるスキルがあるのであれば、名選手=名監督となるとは限らないのは当然であるし、そうした言葉が生まれるように、プロ野球界ではそうした実例はいくらでも見られる(サッカー界になるとこれはさらに徹底していてコーチング資格制度があり、そもそも資格を有していなければ、どれほどの名選手であっても監督になれない)。
スポーツの世界から一般社会に目を向けても、実際にこの世にはビジネススクール(いわゆるMBA等を学位として授与する大学院)や軍隊における士官学校のように、集団の管理には一定のスキルが求められることを前提に、そうしたスキルを身につけさせる課程を組んでいる教育機関が世の中には数多く存在する。 これらの機関はそれなりに有用であるという社会的評価を受けているからこそ、長きにわたり存続し、今もなお衰退の兆しも見えないのだろうから、やはりその前提、つまり集団の管理にはそのためのスキルがある、という命題が真である可能性は極めて高いし、であればそうしたスキルの有無や適性を見て採用し、継続的にスキルのブラッシュアップを図る集団があることには合理性があると言えよう(今のキャリアが実際にそうした集団であるかどうかは、次回に論ずる)。
他に考えつくのは、就職市場のセグメントとシグナリング理論。 就職市場のセグメント、などと大げさな言い方をしたが、これは単に、いわゆる就職活動では、通常似通った待遇を提示する会社同士を学生は選択肢とする、ということ。 言うまでもないことだが、大まかな傾向として、世間的に評価の高い大学の学生は総じて待遇のいい会社の中から就職先を選び、以下相対的に評価が低い大学、大卒未満の順に待遇は下がっていく。 したがって、もしキャリア制度を廃止して、全ての公務員を一律の基準で採用することとすると、学生に提示される待遇はI種、II種、III種の差がなくなりその加重平均値に落ち着くこととなるが、国家公務員に支給される人件費等のコストの総額は固定だという前提をおくと、当たり前だがこの新たに提示される待遇は、従来I種志望者に提示されていたそれよりも低い水準のものとならざるを得ないのだが、これにより、従来I種採用されていた学生層にとっては、公務員という職種は選択肢からはずれることとなる。
つまり、一般にキャリア制度を廃止すると出身校を問わない全員一律の競争が行われるかのように言われているが、実際に起こるのは、そもそも「一流大」卒をほとんど含まない(で、おそらくは高卒等もほとんど含まない)一定の集団内での競争であって、今I種採用されている人間とII種採用されている人間、III種採用されている人間が競争することにはならないだろう。 多少きつい表現をするなら、(前回紹介したような)現在I種採用される学生が志望する他の職種−法曹、学者、外資系を含む金融関係者、コンサルタント等−には就けない学生しか公務員にはならない、ということになってしまう。
もちろん、いわゆる学歴(正確には学校歴だと思うが)には何の意味もないのであれば、そうなってもまったくかまわないと言えるが(厳密には、公務員の母集団が小さくなるのでその副作用があるとは思うが、意味のない採用・待遇格差を解消するメリットの方が大きいだろう)、そうではないのだよ、というのがシグナリング理論(提唱者のスペンスが2001年のノーベル経済学賞を受賞したので、ご存じの方も多かろう)。 仮に大学教育にたいした意味がなかったとしても(ちなみにそうした意味があるのだ、というのは人的資本論)、大学教育を受けるというコスト負担を受け入れることに意味があるのだから。
最後に、ある程度大きな組織となれば、どうしたって人事管理は細分化せざるを得ないとことを無視してはなるまい。 人事の理想は結局は適材適所ということに尽きるのだろうが、それを判断するためには人数の限度というものがある。 ではどういう基準で細分化するかだが、常識的には能力別か業務別かのいずれかであろう−少なくとも血液型や出身地、年齢や趣味で分けるよりは合理的なはずだ。
実際のところ、現在のキャリア制度はこの能力別区分と業務別区分の折衷型である。 I種・II種・III種の区分で能力別に分けた上で(繰り返しになるが、その区分が適正に能力を表しているかどうかは次回に論ずる)、各省庁別採用により業務別に分けている。 とりあえず能力別・業務別以外の区分がないとすると、現在のキャリア制度を変更するには、より能力別のみで区分する方向か、より業務別のみで区分する方向のいずれかに折衷の際のさじ加減を動かすということになる。 前者であれば、今のキャリア以上に人数を絞った各省庁横断的な管理職層−いわばスーパーキャリア−を生み出すことになるし、後者であれば、今以上に各省庁間の断絶が深くなる、要すれば縦割りがより深刻なものとなる。
なお、民間では総合職・一般職の区分をなくしている企業があるではないか、という指摘もあるかもしれない。 しかし、よくあるパターンは全体の人数を絞り、従来一般職が担っていた事務を派遣社員やアウトソースにより処理させるというものである(転勤あり・なし区分への変更の場合、人数を絞ることはないのかもしれないが、転勤なし区分で本社以外の所在地で採用されれば、それは事実上役員クラスへの昇進の道は閉ざされている=従来の一般職と大差ないものと言えよう)。 公務員についてもII種・III種を廃止してそれらを皆派遣社員やアウトソースに切り替えれば、採用試験は今のI種のみとなり(呼称は単に国家公務員試験となろう)、いわゆるキャリア・ノンキャリア問題はそもそも存在しなくなるが、キャリア制廃止論者はそうした解決策を念頭に置いているわけではあるまい。
(2004-12-07記)