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  • 12/29/2007 (11:59 pm)

    2007年を振り返る(2)‐新刊書トップ10

    Filed under: book ::

    第10位 寒川旭「地震の日本史」

    webmasterがよく知らない分野の本だったので、新しい知識を数多く教えてもらいました。江戸末期の大地震の頻発を通して幕末維新を見ると、天変地異を為政者の責任とみなす感情がいくばくかの影響を与えていたのでは、という気がしてきます。

    第9位 飯田泰之「考える技術としての統計学」

    本書のとある部分が、webmasterが現在抱えている課題への対応を考える際に大いに役立ち、安心して新年を迎えることができそうです。多謝!

    第8位 ジョセフ・E・スティグリッツ「スティグリッツ教授の経済教室」

    スティグリッツ節を堪能したい人にとっては安心して手に取れる一冊。ただ、元が雑誌連載コラムであるからでしょう、結論に至る論証が手薄な面があるのは否めません。webmasterにとって気になったのは、温暖化ガス対策として排出権取引よりも環境税に軍配を挙げている点で、なぜそのように考えられるのかをもっと聞いてみたいと思うのです。

    第7位 小西砂千夫「地方財政改革の政治経済学」

    豊かな地方公共団体に貧しい地方公共団体を支援するインセンティヴはないので、相互扶助という将来像のコンセプトには同意できませんが、現状分析については同じテーマの諸書の追随を許しません。地方財政問題にご関心のある方々にはぜひとも目を通していただきたいと思います。

    第6位 小野善康「不況のメカニズム」

    おそらくwebmasterにとってもっとも摂取すべき内容ですが、いかんせん知識や能力の不足のため、うわっつらしか理解していないのだろうなぁ、と思います(数理モデルとしての経済モデルを組むことで悪戦苦闘した経験がある人だけが、この本の価値がわかり、また実際に役立てることができるのだ小島寛之先生もおっしゃっていますし)。本書を第1位に挙げられるだけの人間であれば、と。

    第5位 安達誠司「円の足枷」

    昨年第2位の「脱デフレの歴史分析」に続いてのランクイン。来年も勝手に期待してしまいます。(3/10に取り上げました。)

    第4位 石渡嶺司「最高学府はバカだらけ」

    タイトルでふざけた本のように思われてしまう可能性があるのが残念ですが、その内容は、現在の日本の大学が置かれた状況を見事に描き出しています。ジャーナリストかくあるべしと申しますか、次には文部科学省や教育学者の真摯な対応策の検討が求められると申しますか。

    第3位 飯田泰之「歴史が教えるマネーの理論」

    昨年のランキングにて第1位の竹森俊平「世界デフレは三度来る」について書いたように、webmasterは経済と歴史を重層的に描くものが好きなのです。まるでオーダーメイドで書いていただいたようなうれしい内容でした。(8/21に取り上げました。)

    第2位 大沼保昭「「慰安婦」問題とは何だったのか」

    慰安婦についての書物として以上に、政党や政府の関係者以外の者が政策を実現していく過程を描いた書物としての価値が大きいでしょう。webmasterは寡聞にして類書を知りません。(7/3に取り上げました。)

    第1位 蒲島郁夫、竹下俊郎、芹川洋一「メディアと政治」

    ネットとの関係においてメディア批判が喧しい昨今ですが、そうした議論をする際の必読書です。(5/6に取り上げました。)

    11/28/2007 (11:59 pm)

    続・「ワークブック法制執務」改訂

    Filed under: book, law ::

    昨日のエントリに対して、kei-zuさんから言及いただきました。

     自治体の職員の方々におかれては、むしろ

    自治立法実務のための法制執務詳解

    作者: 石毛正純
    出版社/メーカー: ぎょうせい
    発売日: 2004/07
    メディア: 単行本

    の方がスタンダードであろうと思うところで、課内で法制執務を担当して間がない後輩に聞いてみたやり取りは以下のとおりです。

    私「改め文を書くときに『ワークブック法制執務』って読むかい?」

    後輩(女性)「『法制執務詳解』は参考にしますけどぉ、『ワークブック法制執務』は読んだことありませぇん」(そういう風に喋る人なのです)

     「法制執務詳解」がかくも自治体法務職員の頼りにされている理由は、昭和58年に初版が発行されて以来、4回の改訂を経て、内容がアップデートされていることと、掲載例の網羅性、そして引きやすい目次構成によるものでしょう。

    同僚「『ワークブック』って、調べたいことがあっても引きにくいじゃないですか。国で、法令改正の初心者の人は、どうやって改め文を書くんですかね」

    私「うーん、『ワークブック』を見ながらとりあえず書き上げて、先輩にガシガシ修正を受けるOJTなのかなあ」

    「「ワークブック法制執務」と「法制執務詳解」」(@自治体法務の備忘録11/28付)

    「法制執務詳解」は読んだことがないのですが、「ワークブック」が霞が関スタンダードなのは、ひとえに内閣法制局を相手にするときにもっとも有効だからに他なりません。条例の事例を引いても内閣法制局では相手にしてもらえませんから(それどころか、法律であっても、議員立法のものは、それしか例がないような場合にのみやむなくという感じで、可能な限り内閣提出法案の事例を用いることが望ましいとされます)、「法制執務詳解」では実際に使える部分が限られるということでしょう。

    霞が関での改め文の学び方は、たいていはOJTです。まったく条文作成の経験がない者が「ワークブック」を引きながら、ということではなく、自分が係長時代に補佐が書いた条文案の法制局審査に同席し、そこでのやりとりを聞きながら学んでいく、ということが多いように思います。補佐が教育的配慮に富んでいる場合は、「じゃあここの部分を書いてみて」と下請けに出して学ばせたりすることもあります。

    ちなみに昨日のエントリにて、「ワークブック」も時代遅れの部分があると書いたわけですが、

     また、「法制執務詳解」では、著者が属される自治体のローカルルールなのか、独自のご見解と思われる記載もあり、利用に当たっては注意も必要です。

     「各号列記以外の部分中」は、そこで改正しようとする字句が同一条項中の他の部分にもあり、その部分の字句は改正しない場合のように、これを用いるほかに方法がないやむを得ない場合に限り、用いるものとされている(中略)。このため、法令における取扱いは、このような場合、「各号列記以外の部分中」を用いない方式によるものが多いようである。しかし、条項中の字句の改正は、前の方から順に行われている方が、改正箇所を知る上で利点があるので、各号列記以外の部分と各号中の双方の字句を改正する場合には、前の方から順に改正を行うために改正箇所を特定する手段として、「各号列記以外の部分中」を用いる方が適当であろう。

    (336〜337頁)※強調はkei-zu

     同書は次回の改訂に改訂に際しては、多くの自治体で運用されている横書きの例規を想定したものとすることが検討されているそうであり、そうなると、自治体職員向けの性格がより明らかになるでしょうね。

    「「ワークブック法制執務」と「法制執務詳解」」(@自治体法務の備忘録11/28付)

    この「各号列記以外の部分中」こそが、webmasterが念頭に置いていたものでした。なんという偶然でしょう! といっても訳が分からない人が大半でしょうから、詳しく書いてみます。行政事件訴訟法の一部を改正する法律(平成16年法律第84号)の附則第9条(地方自治法の一部改正)の中に、次のような規定があります(ということは、webmasterがお相手いただいた参事官の方が間違っていた、ということに・・・まあ、できるだけ使わないように、ということになっているのだと思います。「法制執務詳解」においても、法令としては「これを用いるほかに方法がないやむを得ない場合に限り、用いるものとされている」とのことですし)。

     第251条の5第1項各号列記以外の部分中「行政庁」の下に「(国の関与があつた後又は申請等が行われた後に当該行政庁の権限が他の行政庁に承継されたときは、当該他の行政庁)」を加え、同項に次のただし書を加える。   ただし、違法な国の関与の取消しを求める訴えを提起する場合において、被告とすべき行政庁がないときは、当該訴えは、国を被告として提起しなければならない。

    他方、現行の地方自治法第251条の5第1項は次の通りです。

    第251条の5 第250条の13第1項又は第2項の規定による審査の申出をした普通地方公共団体の長その他の執行機関は、次の各号のいずれかに該当するときは、高等裁判所に対し、当該審査の申出の相手方となつた国の行政庁(国の関与があつた後又は申請等が行われた後に当該行政庁の権限が他の行政庁に承継されたときは、当該他の行政庁)を被告として、訴えをもつて当該審査の申出に係る違法な国の関与の取消し又は当該審査の申出に係る国の不作為の違法の確認を求めることができる。ただし、違法な国の関与の取消しを求める訴えを提起する場合において、被告とすべき行政庁がないときは、当該訴えは、国を被告として提起しなければならない。
     一 第250条の14第1項から第3項までの規定による委員会の審査の結果又は勧告に不服があるとき。
     二 第250条の18第1項の規定による国の行政庁の措置に不服があるとき。
     三 当該審査の申出をした日から90日を経過しても、委員会が第250条の14第1項から第3項までの規定による審査又は勧告を行わないとき。
     四 国の行政庁が第250条の18第1項の規定による措置を講じないとき。

    両者から、行政事件訴訟法の一部を改正する法律による改正前の条文を復元すれば次のようになります。

    第251条の5 第250条の13第1項又は第2項の規定による審査の申出をした普通地方公共団体の長その他の執行機関は、次の各号のいずれかに該当するときは、高等裁判所に対し、当該審査の申出の相手方となつた国の行政庁を被告として、訴えをもつて当該審査の申出に係る違法な国の関与の取消し又は当該審査の申出に係る国の不作為の違法の確認を求めることができる。
     一 第250条の14第1項から第3項までの規定による委員会の審査の結果又は勧告に不服があるとき。
     二 第250条の18第1項の規定による国の行政庁の措置に不服があるとき。
     三 当該審査の申出をした日から90日を経過しても、委員会が第250条の14第1項から第3項までの規定による審査又は勧告を行わないとき。
     四 国の行政庁が第250条の18第1項の規定による措置を講じないとき。

    ここで、行政事件訴訟法の一部を改正する法律の地方自治法の改正規定に「各号列記以外の部分中」がない場合を想定してみますと、第2号や第4号の「行政庁」の下にも「(国の関与が・・・)」と加えられてしまって都合が悪い、ということとなります。では、「各号列記以外の部分中」を使わずに同じ改正を行う(=webmasterが当時参事官の指摘を受けて書き直したやり方でやる)場合にはどうすればいいのでしょうか?

     第251条の5第1項中「行政庁を」を「行政庁(国の関与があつた後又は申請等が行われた後に当該行政庁の権限が他の行政庁に承継されたときは、当該他の行政庁)を」に改め、同項に次のただし書を加える。(ただし書略)

    とすればよいのです。同項第2号は「行政庁の」、第4号は「行政庁が」ですから、これらの号まで改正されてしまうことはこの書き方で回避できます。すなわち、これで同じ改正が可能となるのです。

    11/27/2007 (11:59 pm)

    「ワークブック法制執務」改訂

    Filed under: book, law ::

    kei-zuさんのご紹介ですが、あの「ワークブック法制執務」ついに改訂とのこと。「あの」といっても霞が関で法令案の作成に携わっていないと意味不明でしょうけれども、法令案を作成する場合に、規定したい内容を如何に法令用の公用文に「翻訳」するかの手引書、と申し上げれば大まかなイメージはお掴みいただけるでしょうか。

    「法制執務」で検索すれば類似書は見つかりますが、本書が霞が関スタンダードです。何か困ったときに3分以内でこの本の該当箇所が探し出せる(同じことの言い換えですが、これはこの本には載っていないな、ということが問題を見た段階でだいたい見当がつく)ぐらいに使いこなせれば、法令案作成担当として使い物になると認めてもらえるような、そんな本です。霞が関においてもっとも冊数が多い書籍候補の筆頭でしょう。

    「ついに改訂」といったのは、それほどの本書ではあっても、最近ではさすがに時代遅れとなった例が散見されるようになってきました。webmasterの個人的経験でも、

    内閣法制局参事官

    この規定はどこから持ってきたの?

    webmaster

    ワークブックの○○ページです。

    内閣法制局参事官

    (該当部分に目を通して)うーん、最近ではこういう書き方はしないなぁ・・・。

    といったやりとりをした記憶があります。

    本書に触れる機会があるのは日本人の極々一部に限られるとは思いますが、霞が関での仕事(の一部)がどのようなものかを知りたいという人がいらっしゃいましたら、目を通してみると面白いと思います。ま、そのために買う価値はありませんから、図書館ででも(って、普通の図書館に置いてあるのでしょうか・・・)。

    11/05/2007 (11:59 pm)

    荻上チキ「ウェブ炎上」

    Filed under: book, politics, WWW ::

    きわめて皮肉なことに、およそヒトというものが見たいものを見たがる傾向にあることから論を発する本書もまた、その傾向から逃れられないでしょう。本書を読んでなるほどと思うような人は、おそらくは本書を手に取る以前に、漠たるものではあっても同様の問題意識をもっている場合が過半ではないかとwebmasterは思います。といっても本書を腐したいわけではなく、

    • 関連する学説等の紹介が豊富で、そのような問題意識を持っている者が改めて考え方を整理するに役立つ。
    • 「同様の問題意識をもっている場合が過半」であろうとも、全てではあり得ないので、まったくの新たな知識として受け止める者がそれなりには存在する。

    という点に意義があるでしょう。とりわけ後者について、書籍というネットとは異なるメディアで流通することが大いに利いてくるものと考えられます。

    ただ、このように多くの人に読んでもらいたいという観点から見ると、本書には残念な点があるといわざるを得ません。というのも、本書ではサイバーカスケードという現象に多くの紙幅が割かれ、それを客観的に解説するために「炎上」現象への評価は極力中立的であろうと努力がなされているのですが、いかんせん著者が世間的に見れば「左」であることから、おそらくは若干「右」側に踏み込まねば中立とは捉えられないと考えられるのです。

    端的には、イラク人質事件の取扱い‐これがまた、個別の事象としては、一番大きく描かれていますから‐は、少なからぬ「右」側の論者からはためにする議論と受け止められてしまうようにwebmasterは思います。もちろん、著者と人質たちの見解・立場には相違があるわけですが、それこそサイバーカスケード流に「右」「左」の二分法が支配する世界においては、そのような相違はほとんど意味を持ちません。いわゆる自己責任論への批判としてこのような面妖な概念を持ち出した、などという理解が広まるのは著者としても本意ではありますまい。

    しかし、著者がこの点に無自覚であったとは、webmasterには信じられません。となると、

    • 多くの人が誤解することを覚悟の上で(誤解するような人は、本書を読んだから誤解するのではなく、読む前からそうであるでしょうから)、少数でも理解してくれる人が増えることを望んでのことか、
    • 著者の名前が出た時点で読者層は限られると割り切って、そうした読者層向けに書いたのか、

    いずれかなのかな、と邪推してしまいます。いずれにしても達観でしょう。

    蛇足ながら、当サイトで以前紹介した蒲島郁夫、竹下俊郎、芹川洋一「メディアと政治」との併読を強くお薦めいたします。本書を先に読まれた方にとっては、本書で紹介されるさまざまな理論・仮説について、周辺も含めより多くを知ることができるでしょう。「メディアと政治」を先に読まれた方にとっては、理論を現実に適用することの面白さを味わうことができるでしょう。

    10/25/2007 (11:59 pm)

    竹森俊平「1997年――世界を変えた金融危機」

    Filed under: economy, book ::

    上記Amazonのリンク先でも明らかなように多くの賛辞を集めていて、おそらくは本年の経済書の中でもトップクラスの高い評価を得る本だと思います。本書のキーコンセプトとなる「ナイトの不確実性」についても丁寧な解説がなされていますが、うれしいことにこの分野については小島寛之「確率的発想法」という格好の一般向け入門書がありますので、もし不足を感じてもすぐに補うことができます。小島本自体、非常に面白くわかりやすい本ですので、未読の方におかれましては本書の次にぜひとも手にとっていただきたく。

    以上で推薦は終わりとして、天邪鬼な重箱の隅つつきを。褒め言葉が多いので、そのあたりに比較優位を見出すことでこのエントリの価値を創出したいと思います。要するに、霞が関への評価が、FRBなどへのそれと比べてダブルスタンダードでないの、ということとなりますが、ご存知のとおりwebmasterは霞が関の住人ですから、以下、不公平な自己弁護ではないかとの疑いを持って十分に眉に唾をつけてお読みいただければ。

    以下、結構長い引用となりますが、細切れにするとかえってわかりづらくなるでしょうから、お許しいただきたく。

    つまり、銀行はまず今すぐには全額の返済に応じられないことを「債権者」に告げる。その上で可能になった時に返済できるように、「債務条件」を変更してもらうのである。それが「再交渉」で、うまくいけば「流動性の問題」による経営破綻は防げる。(略)

    しかし、ここに一つの問題がある。つまり、「再交渉」によって経営破綻を回避する方法は、「債権者」が少数ならば可能だが、多数だと困難になるという問題である。なぜかといえば、「フリーライド(ただ乗り)」が発生するからだ。たとえ一部の債権者が「再交渉」に応じ、支払いの延長を認めたとしても、他の債権者が回収できるうちに債権を全額回収しようとするならば、「再交渉」の成功の見込みなどなくなる。

    (略)

    IMFのような第三者からの救援資金の投入を「ベイル・アウト」というのに対して、「再交渉」の方式は、当事者(つまり貸し手)の救援(返済の猶予はそのような性格を持つ)によって問題の解決を図るので、「ベイル・イン」と呼ばれる。(略)

    (略)

    IMF改革から話が変わるが、ここで「再交渉」の問題に絡んで一つ見ておきたいことがある。それは日本の問題、具体的に言うと住専問題に対する公的資金の投入である。そもそもCACのような仕組みを設ける理由は、債権者の数が多数である場合にはそれがない限り「フリーライド」が深刻になり、「ベイル・イン」が困難になるということだった。(略)

    しかるに、ここに実際に債権が少数の債権者に集中していた二つの「債務問題」がある。一つは日本の住専問題であり、もう一つはアメリカにおけるヘッジ・ファンドLTCMの経営破綻問題である。どちらの場合も、公的な保護が定められている「銀行」以外の金融機関の救済に、公的な機関(中央銀行または政府)が関わったという点では共通している。しかし、二つの問題の解決法には大きな違いがあった。つまり、1998年における「LTCM問題」の解決法は「ベイル・イン」の形を取ったのに対して、96年における「住専問題」の解決法は「ベイル・イン」ではなく「ベイル・アウト」の形をとった。先ほど確認したことから考えれば、「住専問題」も「ベイル・イン」で解決できたはずだ。なぜ、そうしなかったのだろう。

    (略)

    ようするに、「住専問題」の場合には、「住専」の破綻処理を混乱のないようにすることよりも、初めから農林系統金融機関自体の「ベイル・アウト」が目的にされていた。(略)

    (略)

    これまで筆者は出来事の推移をできるだけ経済学にしたがって説明するようにしてきたが、ここから先となると経済学はおろか世間の常識で説明するのも難しい。(略)

    (略)

    (略)しかし日本の場合の「不確実性」は、足の速い国際資本の破壊力によるものではなく、純粋に国内要因としてわれわれの前に姿を現した。外部からの統制、監督を十分に受けない行政、官僚組織の欠陥など、高度成長の恩恵でこれまでは闇に隠れていたものが、ひとたびバブルが崩壊し平均成長率が1パーセント台にまで下がると、次から次へと明るみに出る。どこまで問題が発展するのか、暗闇はどこまで広がっていくのか、自民党の政治家はおろか、首相にさえそれは掴めない。国内政治の「不確実性のブラックホール」が、われわれの前にぽっかりと開いたのがこの時代である。

    pp189-204(webmaster注:最終段落の「掴めない」中の「掴」は、原文ではその旁の「国」は「國」です)

    「経済学はおろか世間の常識で説明するのも難しい」、「外部からの統制、監督を十分に受けない行政、官僚組織」であって「高度成長の恩恵でこれまでは闇に隠れていたもの」が住専問題の処理がベイルアウトになった原因であると。長くなるので略しましたが、当事者であった宮沢元総理や西村元銀行局長の証言を豊富に引用しつつ詳細に描写しており、なるほど実態はそうであったのか、と感じさせるに足る記述となっています。

    しかし、当事者の証言とは、それほど信頼に足るのでしょうか? 宮沢元総理にせよ西村元銀行局長にせよ、大蔵省(当時)側の人間でもあり、農林系等金融機関を悪者にしたいとの意図があるかもしれません。そのような故意がなくとも、記憶違いや認知的不協和の存在による選択的な記憶の強化により、当時の実情を忠実に伝えるものではないかもしれません。そして何より、証言が彼らの当時における主観的認識を忠実に表していたとしても、客観的に妥当であるとは限りません。ここでの著者の分析は、こうしたあまたの可能性に目をつぶり証言を鵜呑みにし、結果として官僚とはおどろおどろしい人非人であることにベイルアウトの原因を見出しています。

    官僚とてホモサピエンスであり、その点において「世間の常識」の担い手である普通の人々と変わりはありません。政府なるものには職員を人非人に変える魔性が存在するとしても、ではなぜアメリカの官僚は正しくベイルインを選んだのかの説明がつきません。およそホモサピエンスに共通する性質でもなければ官僚組織に共通する性質でもない何かの存在を前提としないとここでの著者の分析は妥当しないわけですが、オッカムの剃刀に照らせば、そのような前提の妥当性には疑問が残ります。

    では、オッカムの剃刀に耐える仮説はあるのかということですが、ある、というのがwebmasterの見立てです。それも、「経済学にしたがって説明する」ことが可能なものが。まずは住専とLTCMに関する、日米両政府の次のテキストをご覧ください。

    The plan, which calls for fifteen major domestic and foreign commercial and investment banks to infuse a total of $3.5 billion of equity capital into the hedge fund, provides LTCM a respite from loan repayments and with much needed liquid capital. This consortium will now own 90% of the equity in LTCM and will form an oversight committee to direct LTCM’s overall strategy and manage its exposures.

    Testimony of Richard R. Lindsey, Director(リチャード・リンゼイSEC市場規制局長の証言)(webmaster注:原文の注記は省略しました)

    住専の抱える不良債権は巨額で、かつ、住専に融資を行った金融機関は300にものぼりかつ多様であり、また、それぞれに複雑な関係にあります。このため、当事者のみでは到底解決が困難な状況にあります。また、法的な破産手続きを行った場合は、個々の金融機関の損失額がはっきりするまで何年間も要し、その間、体力の弱い金融機関は経営不安にさらされ続けることになり、場合によっては、預金者に不安が広がり、金融機関の破綻が多発するといった事態も起きかねません。現に海外から、我が国の金融システムに厳しい目が向けられていることは、ジャパン・プレミアムなどからも明らかであります。また、このような状況では、景気の回復が望みえないことは明らかであります。

    住専処理策について

    著者は「債権が少数の債権者に集中していた二つの『債務問題』」として住専問題とLTCM問題を挙げていますが、「少数の債権者」とは住専問題では300、LTCM問題では(ベイルインに関与した者は)15と20倍もの開きがあります。著者は「『再交渉』によって経営破綻を回避する方法は、『債権者』が少数ならば可能だが、多数だと困難になるという問題」の存在を指摘していますが、「再交渉」による経営破綻回避における「少数」「多数」の閾値は明らかにはしていません。現に成功したLTCMでの15は「少数」であるとして、300は果たして「少数」と言い得るのでしょうか?

    債権者が多数になるとなぜ「再交渉」による経営破綻回避が困難であるかといえば、著者によればフリーライダーの存在、すなわち抜け駆けしての債権回収が図られることによって「再交渉」がまとまらないおそれが高まるためです。誰かひとりでも抜け駆けを図れば「再交渉」は決裂しますが、各債権者が抜け駆けする確率がわずか1%であるとき、15債権者の全員が抜け駆けせずに「再交渉」がまとまる可能性は86%を超えますが、債権者の数が300となれば5%を割り込みます。債権者の数が15であるときにほぼ50%の確率で「再交渉」がまとまるには抜け駆けの確率は約4.5%となりますが、この抜け駆け確率4.5%の下では、300債権者がまとまる確率は0.0001%に過ぎません。

    まして、住専問題において農林系統金融機関はある強みを有していました‐闇に隠されてきた得体の知れぬ政治力とやらではなく、農林系統金融機関のみが、処理対象である住専の母体行ではなかったという事実です。A住専に債権を持つX銀行が債権を回収しようとすれば、A住専の母体行であるY銀行はX銀行が母体行であるB住専から同様に債権の回収を図るという「報復」が可能なので、母体行同士では抜け駆けしての債権回収には抑制が働きます。

    #農林系統金融機関は協同住宅ローンという住専の「母体行」ではありましたが、昭和60年代にその不動産関連融資が国会で問題視されたことを受け、バブル期には不動産関連融資を抑制しており多額の不良債権を抱えることはなかったため、協同住宅ローンは処理対象にはなりませんでした。

    しかし、農林系統金融機関は処理対象である住専の母体行ではないので、そのような「報復」を恐れることなく抜け駆けしての債権回収を図ることが可能でした。加えて一口に「農林系統金融機関」といいますが、その内実は農林中金・全共連の2全国組織のみならず各都道府県の信連・共済連があり、債権者数としては100近くに上っていました。抜け駆けにためらいのない100債権者、これは到底ベイルインがまとまる状況ではなかったというのがwebmasterの管見です。著者の言うとおり、多くの潜在的フリーライダーを抱える「再交渉」は、潰えるのが自然なのです。

    さて、webmasterの分析は、著者の分析に多少は伍しているのでしょうか?

    10/18/2007 (11:59 pm)

    お薦めの地方財政本など

    Filed under: treasury, book ::

    (神野直彦「地方自治体壊滅」)

    このところ数冊、地域格差関連の本を読んだのだけれど、その中では、これが一番よかった。提言の章に入ると何だかよくわからなくなってしまうのだけれど、前半〜中盤の状況整理は簡潔かつ分かり易い。倫理的な悪をどこかに見出して叩き溜飲を下げるというパターンを脱すると、視界はクリアになる。

    大抵の問題がそうだ、と感じてる。(……にしても「地方自治体壊滅」ってタイトルはどうかと思う。でも何冊かパラパラしてみた感じ、神野さんって、基本的に暑苦しい系みたい。冷静に状況を見てるっぽい印象を受ける本書前半の方が例外なのかも)

    「乞食はどこへ消えた?」(@趣味のWebデザイン10/15付)

    ここで掲げられている神野先生の本は読んだことがないので、それとの比較はできないのですが、「倫理的な悪をどこかに見出して叩き溜飲を下げるというパターンを脱」した「視界はクリア」な地方財政の本といえば、webmasterは次が決定版だと思っています。

    書評を書きたいと思いつつなかなか書けずに今に至っていますが、地方財政問題を論ずるにはこれさえ読んでおけば世の99%の人よりはきちんと考えられるといいますか、世の99%の本はどのような誤解がまかり通っているのかを知ること以外には存在価値がなくなるといいますか。小西先生による昨年7月の日経・経済教室でその片鱗をうかがうことはできますので、ぜひお目通しいただければ。

    若干話を変えると、「倫理的な悪をどこかに見出して叩き溜飲を下げるというパターンを脱」して「視界はクリア」といえば、年金における権丈先生もそうですが、その最新のテキストはこれまたすばらしいものです。

    小西先生といい権丈先生といい、政府のやることにだっておおむね正しいことは少なからずあるのだ、というスタンスこそが「倫理的な悪をどこかに見出して叩き溜飲を下げるというパターンを脱する」ポイントなのではないでしょうか。・・・なんてことをwebmaster、つまりは官僚がかくと、両先生が御用学者であるかのごとく受け止められてしまうおそれがあるのはつらいのですが、ともかく読んだ上でご判断いただければ。

    09/24/2007 (8:43 am)

    野口旭(編)「経済政策形成の研究」

    Filed under: economy, policymaking, book ::

    #本エントリには不適切な表現が含まれていたため、現在公開を停止しております。後日、書き直したものを再公開する予定です(コメントの閲覧・書き込みは可能です)。

    08/21/2007 (11:59 pm)

    飯田泰之「歴史が教えるマネーの理論」

    Filed under: economics, book, history ::

    ありがたいことに当サイトをご紹介いただいております(p141)ので、お礼を兼ねまして(笑)。

    高校〜大学(教養)時代に読みたかったなぁ、としみじみ思います。というのも、昔から歴史は好きだったのですが、となると高校教科書の記述では物足りなくなり、もっと深い話を知りたいと思いつつ、なかなかいい本にめぐり合えず、やきもきしたことがあったから。大学時代にヨーロッパ政治史の講義にはまったのも同じ文脈で、これぞ大学、と感激したものです。

    本書はその経済学版で、近世ヨーロッパからヴィクトリア期のデフレ、幕末インフレに昭和恐慌といった題材を、マネーの理論を軸に明快に分析しており、高校教科書の世界史・日本史における通り一遍の記述で飽き足らぬ好奇心を、存分に満たしてくれます。内容の充実に平易な表現が両立しているので、高校生でも十分読み通せるはず。今の学生はこのような本を手に取ることができ、本当にうらやましいかぎりです。

    なお、飯田先生にご紹介いただいたのは管子について当サイトがとりあげたことがあるとの点においてですが、実はその部分は過去ログ倉庫、つまりは別サイトになっております。もしご関心の向きがいらっしゃいましたら、下記エントリをご参照いただければ幸いです。

    #当サイトを参考にしていただいたと記されていますが、webmasterなんぞの素人エントリより、田中秀臣先生、BJ38さん、すりらんかさんのコメントこそご参考になったであろうと確信いたしております。

    07/13/2007 (11:55 pm)

    岡田斗司夫「「世界征服」は可能か」

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    古くは「ウルトラマン研究序説」にまでさかのぼることができる、フィクションを題材に現実世界を論じようとするのが本書です。大別すれば2部構成で、世界征服をしようとする場合の組織論と(第1章〜第3章)、世界征服の意義(第4章)が論じられています。

    著者ご自身が「内容が薄い」という人は、薄い内容しか読み取れなかったんだろうしおっしゃっているにもかかわらず、批判的なことを書くのは若干怖気づきもするわけですが(笑)。批判は大まかに言えば2点あって、

    • 事実関係の確認が甘い
    • 世界征服が割に合わないことの理屈に納得ができない

    ということとなります。

    前者については、たとえば次のような記述があります。

    かつて、ローマ帝国は地中海世界を「支配」していました。

    (略)

    ローマ帝国は独裁者によって運営されています。というより、独裁者(ディレクトル)という言葉自体、ローマ帝国の政治システムから生まれた用語です。

    p151(webmaster注:括弧書きは、原文ではルビです)

    世界征服の独裁者を描く本なのですから、この部分は決して枝葉末節ではないとwebmasterは思うのですが、ローマ帝国の「独裁者」は独裁官と訳すのが通例ですし、何よりディレクトルではなくてディクタトルでしょう。ディレクトル=独裁者ということですと、テレビ局のディレクターは独裁者ということになってしまうわけですし(笑)。

    アメリカの南北戦争時に、奴隷制を維持するかどうかで南北の経済力格差が生まれた(pp148-150)なんていうのも、奴隷に購買力がなくても南部はヨーロッパへの輸出で購買力を確保していたとか、南部において奴隷が解放されていたとしても南北の人口格差は十分にあったとか、そういった事実を無視して、奴隷制の存廃のみに経済格差を帰するのはいかがなものかということになります。そもそも北部だって、黒人を白人並みに豊かになれるよう遇していたわけでは決してないわけですし。

    これらは著者の専門分野ではないので仕方がないといえば仕方がないのですが、たとえばルパン三世・カリオストロの城に関して「ゴート札(ふだ)」(p76)(webmaster注:括弧書きは、原文ではルビです)と書かれているのを見てしまうと、webmasterがよく知らない話題についての本書の記述も、どこまで信じてよいものか、迷わざるを得ないというのが正直な感想です。いや、webmasterも本エントリを書くに当たってカリ城を観直してはいないので裏は取っておらず、おぼろげな記憶が頼りではありますが、偽札(にせさつ)なんだから「ゴート札(さつ)」でしょ?

    後者については、本書の(webmasterの整理に基づけば)第2部=第4章に関することとなるわけですが、総括的な記述としては、著者のご主張は次の部分が典型でしょう。

    あなたが世界を征服したとしても、実はそんなに「うまみ」がない、ということになるんです。あなたやあなたの一族、友人たちが「支配者階級」を作っても、その人たちだけのために作られる「贅沢」など、今の自由社会・大衆社会の「金で買える贅沢」に比べれば取るに足りないものなのです。

    たしかに、十八世紀ぐらいまでなら世界征服にも意味があったのかもしれません。国王同士や将軍同士が戦って、勝ったら支配して上流階級の文化を独り占めできた時代なら。

    しかしいまや、世界を征服して「富を独占」することには、意味がなくなってしまいました。富を独占するのではなく、市場を活性化して、みんなが豊かな世界を作ること。それが支配者がもっとも簡単かつ確実に「栄耀栄華」を楽しめる方法なのです。

    p175

    これは、世界征服に意味がないことを示すのではなく、富を独占することに意味がないことを示しているに過ぎないわけで、この理屈が妥当すると仮定しても、世界征服した上で、世界中で「市場を活性化して、みんなが豊かな世界を作る」こととすれば、立派に「『栄耀栄華』を楽しめる」ことになります。第1部では、目的別に世界征服を類型化して論じていたのに、ここにきていきなり世界征服=富の独占とは、残念なことです。

    webmasterの管見では、18世紀以降(実際は17世紀だと思いますが)に世界征服(とまではいかなくとも、大規模な征服事業)が非現実化した理由としては、

    1. 貧しい地域が豊かな地域を征服するからこそ割に合うこと、
    2. 16世紀に、それまでユーラシア大陸において総じて最強の兵科であった騎馬民族軽騎兵に対する火力の優越が確立し(典型例としてはチャルディラーンの戦い、基本的に豊かな地域ほど強いという状況になったこと、

    が挙げられます。1.については、帝国主義華やかりし頃に植民地経営が軒並み赤字であったり、最近では統一ドイツにおいて旧東ドイツ経営がいかに困難であるかとか、イラクでアメリカがどのような目にあっているかをご覧いただければということです。征服には、征服それ自体においても、征服後の経営においても、それなりのコストが必要です。豊かな地域を征服してこそ、そのコストを支払ってなお利益が出るわけで、貧しい地域を征服したところで持ち出しにならざるを得ません。

    2.については、1.で書いたように豊かな地域を征服してこそ利益が出てくるわけですが、貧しい地域が豊かな地域に勝てなければ、前提となる征服そのものが夢物語となってしまいます。16世紀までの間、貧しいにもかかわらず豊かな地域に勝つ、その秘訣が騎馬民族軽騎兵でした。中世において世界中で最も発展した地域であった中国やイスラム世界が何度となく騎馬民族に蹂躙されたのは、軽騎兵が他の兵科に対して軍事上の優越を保っていたからといえます。

    しかし、銃砲の発達によって、この優越は覆されました。銃砲を装備し、その運用を可能とするためには、他の何よりも経済力が必要となり、つまりは豊かな地域ほど強いという夢のない(笑)時代になったわけです。そんな時代において、相対的に軍事的に優位な地域=豊かな地域が征服事業を起こせば、必然的にその対象は自らよりも貧しい地域となってしまいます。つまりは赤字事業となることが運命付けられており、無理を承知で強行しても長続きは不可能であるというのが、現在の状況ではないでしょうか。

    07/04/2007 (4:02 am)

    武田邦彦先生の信頼性

    Filed under: treasury, book ::

    以下の論争(お互いの意見の応酬はないので、たまたま重なった、というのが正確な表現ではあります)が話題のようですが。

    「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」は読んでいませんし、そもそも環境問題はwebmasterにとってそれほどなじみのある話でもないのですが、他方、多少はなじみのある分野についても、武田先生はご健筆を揮われています。

    書店で立ち読みをしてみたのですが、到底買う気にはなれませんでした。というのも、なぜ国債を買ってはいけないとお考えなのか、そのロジックというものが、仮に国債を100万円買ったとして、

    1. 国債購入代金を100万円支払い、
    2. 利払い財源として5万円納税し、
    3. 国債償還財源として100万円納税し、
    4. 国営の赤字事業の損失補填財源として100万円納税し、
    5. 赤字事業民営化に当たっての株式購入代金を100万円支払う、

    ため計405万円を国に支払う一方で、国債を買った見返りに受け取るものが国債の償還金100万円に5.の株式の資産価値100万円の計200万円なので、差し引き205万円損をするから、というものなのです。

    一対一の貸借関係で考えればおかしさがわかるなんて書いていますが、その例で言えば「赤字事業」への補填分100万円は国民=国債購入者に結局は支払われるのだから損はしないでしょう等々ツッコミどころはいろいろあるわけですが、最大のものは、利払い財源を5万円払ったのになんで利子5万円は受け取れないの? というもの。経済がどうのとか財政がこうのとかといった話とはまったく無関係な内的整合性の問題です。

    まあケアレスミスではありましょうが、この程度の推敲もせずに書を世に問うてしまう武田先生、専門分野ではもちろんその知識・経験が活かされているのでしょうけれども、どこまでその書かれた内容を信じてよいものか、疑義を呈せざるを得ないでしょう。少なくともこの本で代金1,575円を読者からせしめることに比べれば、国債を買ってくださいという政府の方が良心的ではないでしょうか(笑)。

    #最大の問題は、こうした内容の「国債は買ってはいけない!」が東洋経済新報社から出版されていることであるような気も。石橋湛山が泉下で浮かばれないでしょうに、これじゃあ。

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