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  • 07/03/2007 (4:57 am)

    大沼保昭「「慰安婦」問題とは何だったのか」

    Filed under: policymaking, government, book, politics, law ::

    稲葉先生のご推薦を受けて読みました。結論から申し上げれば、伊勢崎賢治「武装解除」とセットで読め、ということとなります。相乗効果はてきめんでしょう。言い換えれば、伊勢崎本を読んで感銘を受けた方には、ぜひとも手に取っていただきたいのです。

    なぜセットで読むことをお薦めするかといえば、これら2冊は政治の現実という同じ対象を、まったく異なる観点からそれぞれ描いたものだからです。本書は、外部から政府(や国民、とするのが正確なところですが)に対して何らかの行動を求め、それを実現する過程を描いたもの。他方で伊勢崎本は、(現地人から見れば)政権内部の人間として政策をいかに実現していくのかを描いたもの。その交点に、世の中がどのように動いているかが鮮やかに立ち表れるでしょう。

    対象が同じだというだけでなく、著者の姿勢もまた共通の基盤を持ちます。つまりは徹底的なリアリストなのです。リアリストといっても人によって使われ方が違ったりもしますが、ここではwebmasterは、プライオリティを明確にし、実現すべきものは何で、実現できなくても我慢すべきは何かを冷静に判断できること、という姿を念頭に置いています。具体は本書を紐解いてもらうとしても、いわゆる評論家的な態度ではなく、何がしかを実現するとはどういうことなのか、ここまでバランスの取れた記録というのはなかなか見られません。

    したがって、著者は世間的なイデオロギー分布でいえば左に属するわけですが、右の人には左にもこのような実践があると知っていただくために、左の人には自らの為してきたこと/為さんとしていることを客観的に見直す機会を得るために、いずれであっても読む価値があるものと言えましょう。右の人が左の人間の書いたことと食わず嫌いをするにはあまりにも惜しいですし、左の人が本書を読んで違和感が生じる‐というのは生ぬるいかもしれません。なんとなれば、厳しい批判が左にも向けられているのですから‐ならば、それは次への発展の契機をつかんだに等しいのだとwebmasterは思います。

    webmasterにしても、著者が専門(の一部)として取り組んできた慰安婦問題について、この文脈で軽々しく意見を書くほどずうずうしくはありませんが(笑)、それ以外でも見解の相違はあります。たとえば、

    戦争責任に関する日独の比較は、評価が過度の単純化に傾きがちだという点を別にすれば、当たっている点が多い。ブラント、ヴァイツゼッカーにあたる国家指導者を、戦後の日本はもつことができなかった。社会全体の非ナチ化に相当する、国民全体による戦前の体制の見直しも行わなかった。とくに1970年代以降の西ドイツにおける戦争責任の内面化の努力は、日本よりはるかに徹底したものだった。

    p179

    というのは、ナチスを外部に見立ててすべての責任を押し付けることにより、自己を正当化している側面を無視していますし‐仮に昭和天皇が東京裁判で死刑になっていれば、あれは天皇制が悪かったのです、もう二度と天皇制には復帰しません、との「戦争責任の内面化」が日本においても行われていたことでしょう‐、また、

    法的な観点からみれば、女性国際戦犯法廷は、法定の構成をはじめ、裁判として満たさなければならない公平性の要件の欠如やその他多くの面で深刻な問題を抱えていた。また、法廷は当然のことながら国家の支持を欠き、判決を執行できない法廷だった。しかし、同法廷による審理と判決は、出席した多くの被害者に巨大なカタルシスを与え、さらにそれをニュースで知り、また出席者から聞いたほかの被害者にも大きな高揚感と満足感を与えた。

    pp219, 220

    というのは、かつて「法的な観点からみれば・・・多くの面で深刻な問題を抱えていた」といみじくも論じたことがある身としては、評価が逆(=カタルシスを与えたかもしれないが、あまりに法的な問題がありすぎた)だろうと思いますし、著者のたとえばクマラスワミ報告への否定的評価(pp149-151)との整合性も問われるものだといわざるを得ないでしょう。

    しかし、こうした話は本書の価値を低下させるものではありません。繰り返しにはなりますが、あくまで本書は著者が現実の政治と向き合ってその重要と思うことをさまざまな困難を乗り越えて実現した記録ですし、その中には、著者がアジア女性基金以前に取り組んだ諸運動から得た反省が確かに活かされています。著者の長年にわたる政治運動経験の精華、惜しげもなく公にしてくれているのですから、それを無視するというのではあまりにもったいないのです。

    なお蛇足ながら、webmaseterはアジア女性基金に寸志を出させていただいたのですが、このような整理を運営陣から示していただき、かつどのような形でお金が活かされたかを実感でき、わずかながらの協力をさせていただいた身としてうれしく思うのです。

    06/04/2007 (3:50 am)

    続・中国における「垂直分裂」(後編):丸川知雄「現代中国の産業」

    Filed under: economy, book ::

    というわけで、何とか読み終わりました。豊富な実地データに基づく分析は、非常に勉強になりました。他方で、問題設定がwebmasterから見るとずれているので、その評価を誤っているのではないかという気がします。たとえば、

    そして、そうした産業体制の違いが、中国の家電市場における中国企業の台頭と日本企業の後退を説明するのではないか、と考えた。かつて、日本の電機産業の優位性はほとんど揺るがないものと信じられており、その優れた技術をどうしたら発展途上国に移転できるかということがアジア経済研究の世界で関心を集めていた。そのとき多くの研究者が感じていた日本企業の優位性が錯覚だったとは思えない。日本メーカーが中国市場で後退したのは技術の優位性の消失では説明できない。経営の現地化が不十分だといったような戦術的失敗だけで説明することにも無理がある。何かもっと構造的な要因があるのではないか。

    p246

    という記述があります。ここでいう「中国企業の台頭と日本企業の後退」とは、

    プロローグで見たように中国のテレビ市場では、1990年代後半に中国メーカーのシェア拡大と日系メーカーのシェア下落が見られたが、これは競争のなかで垂直分裂が垂直統合に対する競争上の優位を示した出来事だと解釈することができる。つまり、販売量の拡大と低価格が勝負の分かれ目だというときには、部品の調達先をどんどん増やし、部品メーカーどうしを競争させる戦略が有効であり、日系メーカーのように基幹部品を内部で調達することにこだわっていたのでは、量の拡大でも価格でも中国メーカーに負けてしまうのだ。

    p51

    といった記述のごとく、基本的には消費者向けのシェアを指しています。しかし、たとえばコンピュータ産業において、インテルはその意味でのシェアはゼロですが、それは後退なのでしょうか。インテルが後退したと評されるような場合とは、AMDにCPUのシェアを奪われているような場合であって、デスクトップやノートパソコンを自ら売っていないことを指していうものではないでしょう。

    中国における日本企業のあり方を本書に見るならば、

    中国のテレビメーカーを日本の電機メーカーが背後から支える関係がより鮮明なのが、テレビ用ICの世界である。中国メーカーが大量生産している21〜29インチのテレビは6から10個ほどのICで回路が構成されている。テレビの回路図を見ると、中国のテレビのICでは日本の電機メーカーが圧倒的な地位を築いていることがうかがえる。

    (略)基本回路ICのメーカーはユーザーに対して参照設計、つまりこの通りに回路を組めばテレビとして動作しますよ、という設計図をサービスで提供している。ICがすべて東芝製というのはおそらく参照設計通りに作った結果であり、このテレビの中身は東芝が開発したものだといっても過言ではない。

    (略)

    (略)この東芝製基本回路を採用した中国メーカー6社のテレビの回路を分析してみると、基本回路以外のICの5割強が東芝、他に三洋、三菱電機、松下電器のものがそれぞれ1割程度を占め、日本以外のメーカーのICは1割以下だった。各社のテレビの回路図を分析すると、中国メーカーのテレビが使用するICの8割前後は日本メーカーのものだと推定される。

    以上のように、垂直統合志向が強かった日本メーカーは、中国政府の描いた垂直分裂の構図に否応なく巻き込まれてしまい、ブラウン管やICは中国メーカー向け販売が好調な一方、テレビのほうはハイエンド市場に追いやられるという股裂き状態におかれている。

    pp53-55

    に代表されるように、コンピュータでいえばCPUを売っているような存在です。webmasterの見るところ、著者は「垂直統合志向が強かった日本メーカー」という先入観ゆえに、このようなあり方を「垂直分裂の構図に否応なく巻き込まれてしまい」「股裂き状態」と評してしまっています。しかし物はいいよう、コアコンピテンスへの経営資源の集中ともいえるわけです。その結果が、日本企業は基幹部品、つまりは利益率の高い分野に注力し、利幅が薄く儲からない分野は中国企業にある意味で押し付けている、という「垂直分裂」に他なりません。

    それがわかっているからこそ、

    中国のトップメーカーは、従来の戦略に限界を感じ始め、基幹部品の一部を内製化する動きに出ている。たとえば、海信や海爾はデジタル放送対応のテレビ用ICの自主開発に乗り出した。長虹とブラウン管メーカーの彩虹電子が共同で韓国のプラズマディスプレイのメーカーを買収するという話も進んでいる。TCL、創維、康佳、長虹のテレビメーカー4社の共同出資により液晶パネルの工場を建設する計画もある。

    ただ、世界中のよいものを「整合」(組み合わせ)することを旨とする中国メーカーであるから、ICを自主開発したり、パネル工場に出資したとしても、自社のテレビには相変わらず日本メーカーのICや台湾メーカーの液晶パネルを使うということは大いにありうる。中国メーカーがおいそれと垂直統合路線に転換するとは思えない。ともあれ、これまでの中国メーカーの経営姿勢に転換の兆しが現れていることは注目に値する。

    pp56,57

    という現実があり、中国企業としてもより利益率の高い分野にシフトしようと努力しているのです。というのも、薄利多売を極めるという中国企業のコアコンピテンスは、しょせんは中国の消費者の購買力が小さいからこそ大規模に成立しているのであって、今後の中国の経済成長に伴い購買力が大きくなれば、そのもっともおいしい部分は、結局日本企業その他に持っていかれてしまう可能性が高いからでしょう。

    その意味で、

    従来、工業化を目指す途上国は、まずは輸出向け衣服縫製業のような、外貨を獲得でき、かつ雇用も創出できるような産業から着手することが望ましい、と考えられてきた。だが、これは外国企業の下請生産を行うことにほぼ等しく、こうした発展戦略からは自立的な経営主体は生まれにくい。中国でも輸出向け衣服縫製業は外貨獲得と雇用創出に大きな役割を果たしてきたが、輸出向け生産でいくら技術を磨いても自立はできない。中国でも自社ブランドの衣服で市場に挑戦する経験を経た企業だけが有力アパレルメーカーになることができた。

    発展途上国が外国企業の下請だけで持続的な工業化が達成できるとは思えない。下請は工業化のとっかかりにはなるが、工業化をより高次な段階に進めていくうえでは、自立的に経営する自国企業の存在は不可欠である。外国メーカーの力を利用しながらも、特定の外国メーカーには依存しない自立的な企業を生み出した中国の経験は、外国の下請生産とは異なる工業化戦略を示している。

    pp231,232

    というのは、過大評価であるとwebmasterは思います。中国の家電メイカーその他の製造業は、単にその在り様が縫製業とは異なるだけで、構造としては電機製造における下請に他なりません。

    にもかかわらず、仮に中国の製造業が他の途上国のそれと異なり「より高次な段階」の「工業化」への発展を遂げられるとすれば、その原因は巨大な国内市場の存在ではないかとwebmasterは思います。たとえばアメリカなり日本なりへの輸出である程度発展するとしても、その結果として人件費等のコストが上がってしまえば、そうした国への輸出元は他の国に切り替えられてしまい、発展が頭打ちになる危険性があります。

    ところが、中国は一人当たりの購買力は小さくとも巨大な人口がいる結果、市場規模は幸いにして(購買力平価基準で)世界第2位であり、しかもそれが大いに成長しています。そこでのビジネスチャンスは数え切れないほど存在するはずで、実際、本書で描かれる各企業は、国内市場での成功により大いに発展してきているわけです。

    現時点では、急速な産業発展により労働者の所得水準が向上し、それが市場規模の拡大につながって国内企業の発展を導いていくという好循環が中国経済を覆っています。短期的には北京オリンピック後の需要減をどう乗り越えていくのかがその課題とされていますが、中長期的には、既述のように一定の所得水準の向上によって国内市場において価格ではなく品質等に消費者の目が向くようになったとき、それにどれだけの中国企業がついていけるかどうかが最大の課題であるのではないか、webmasterが本書から得た最大の印象は、そのようなものになるのです。

    補論:中国企業の低生産コストについての私論

    そもそもの議論の発端であった中国企業の生産コストの謎は、以上のように「垂直分裂」を他の分野の分業と枠組みとしては同じものであると理解すれば、「垂直分裂」がもたらしたものということにはなりません(本書においても、定量的に「垂直分裂」が劇的なコスト削減をもたらした、との論証はなされていません)。手がかりらしきものを本書に探せば、たとえば自動車産業について、小メーカーの半数以上は本当は赤字なのに、地方政府からのサポートや銀行からの借金に頼って無理に生産を続けている状態だと見られる(p198)といったものはありますが、それで多くが説明できるというものでもないでしょう。

    webmasterが本書を読み可能性に思い至ったのは、激烈な価格競争がもたらした適者生存こそが、低コストの源泉ではないか、というものです。たとえば本書のp7にはテレビブランドのシェア変遷が掲載されていますが、その入れ替わりの激しさは目覚しいものがあります。また、本書で紹介されるほとんどの産業において、かつては全国で何百というメイカーが乱立し、それが数十、産業によっては数社にまで淘汰されていっています。

    有名な詐欺のテクニックとして、次のようなものがあります。

    1. 毎週株価の上下を予言する手紙が届き、10週間にわたり、株価の上下を当て続けた。
    2. 10週後、この株価予測の方法を教えて欲しければ金を払えという要求がきた。
    3. 金を払ってもなしのつぶて、株価予測もこなくなった。

    からくりは簡単で、最初に1024通の手紙を株価の上下512通ずつ送り、結果的に予想を当てた512通につき256通ずつ上下の予測を送り、以後繰り返せば1通は10週間当て続けたということになります。中国企業においても、これと同様のことが生じているのではないでしょうか。

    つまり、何らかの秘訣があってコストが下がっているのではなく、激しい価格競争の中で、結果として何とかコストを下げ続けることができた企業だけが生き残り、そうした企業を「中国企業」として観察しているということではないかとwebmasterは思うのです。日本(や他の先進国)の企業では、ある企業はそうした戦略で生き残り、他の企業はブランドをうまく構築して高付加価値で生き残り、と生き残る途が数多いため、平均値を見れば、コストは引き下げられる限界よりも相当程度高くなるでしょう。

    しかし、中国企業はコストを下げるしか生き残る途はありません(上海等においては高付加価値路線も可能ですが、そこは外資に押さえられてしまっています)。そのようなフィルタを通したものの平均値は、引下げの限界値に限りなく近くなるでしょう。「コスト引下げに特化するというバイアスのかかった集団を観察しているのだから、そうしたバイアスを持たない他の集団に比べてコストの低さが際立つのは当たり前」‐これこそが中国企業の生産コストの謎に対する答えではないか、そのように本書を読んでwebmasterは思ったのでした。

    #誰か実証してください(笑)。

    05/14/2007 (3:47 am)

    鷲田小彌太「夕張問題」

    Filed under: economy, government, book, politics ::

    夕張市の財政再建団体転落については、これまで興味を持ってなんどか取り上げてきたwebmasterなので、本書についても関心を持って入手しました。しかし、期待は悪い意味で裏切られたようです‐単に印象論・感想が綴られているだけなのですから。それが端的に表れている箇所を引用してみましょう。

    美唄は、かつて夕張とともに空知炭田の、ひいては日本の炭鉱の両雄であった。夕張は三井北炭が、美唄は三菱石炭鉱業が、主導権を握って開発した炭鉱町として隆盛を極めた。

    しかし、両市は異なった歴史を持ち、異なった現況に至っている。

    (略)

    しかし、美唄は67頁の年表でも分かるように、閉山を正面から受け止め、企業誘致、福祉サービス地域、学術都市、そして本来の農業振興にシフトして生きてきている。結果として、人口流出を最低限度に止めることができている。しかも注記すべきは、美唄がその本来の機能である農業においても、立派な成績を上げていることだ。

    p68,69

    夕張も、あたかも美唄のように「閉山を正面から受け止め、企業誘致、福祉サービス地域、学術都市、そして本来の農業振興にシフト」していれば生き残れたかのような認識ですが、夕張と美唄とではここで著者が触れていない決定的な違いがあります‐美唄は、札幌と旭川の間にあるのです。わかりやすい例を示せば、美唄駅からは一日48本電車が出ます(札幌方面行き(上り))が、新夕張駅からは一日16本しか電車は出ません(同じく上り)(盲腸線の終点である夕張駅にいたっては、一日9本です(これもまた同じく上り))。それだけ、人口稠密地へのアクセスに差があるのです。

    中山間地の人口維持の可否にとってもっとも重要な要素はDIDへの距離だ、という分析をかつて紹介したことがありますが、これを踏まえれば、夕張と美唄との差は、まずもってこの立地条件の差の影響が大きいと考えるのが自然でしょう。こうしたことを無視して、市が主導した観光事業の破綻に全ての責任を帰するのは、確かに観光事業は頓挫したわけですからそれが悪いということ自体は正しいわけですけれども、代替策を考える前提としては実現可能性に疑問符をつけざるを得ません。

    たとえば筆者は、夕張メロンに代表される農業に可能性を見、その理由として夕張のメロン生産は、石炭にも観光にも、国にもそして夕張市役所にも依拠しない、文字通り、夕張のメロン生産者と生産組合の長年にわたる、試行錯誤に満ちた真摯な努力によって成長してきたのであるp90)と説きます。夕張の生産者の努力を多とするにやぶさかではありませんが、そのメロン生産とて、多額の補助金がつぎ込まれている道央用水、さらにはその水源たる大夕張ダム・川端ダムがなくては不可能公共事業により畑地としての整備がなされたからこそ可能になったのです(5/15訂正)。公的支援がお嫌いなのは結構ですけれども、失敗したものだけを言挙げし、成功したものの貢献は無視するというのでは、今後の再建策を検討するに望ましい態度と言えるでしょうか。

    まして、別荘地としての価値を見出す(pp198-202)などというのは、筆者が指弾する、観光に活路を見出した中田元市長らと何が違うというのでしょうか。まだ中田元市長の推進した観光事業は現地に雇用をもたらしましたが、過疎地だからこそ自然に親しむ快適な暮らしが可能で人を引き付ける力があるというのは、生活に困らないインテリの趣味以外の何だというのでしょうか。別荘地としての魅力として、著者は

    • 交通の便
    • 整備されたインフラ
    • 夕張のネイムヴァリュー

    の3点を挙げますが、交通の便ならば他にいくらでもよいところがあります(それこそ、美唄に比しても劣っていることは既述のとおりです)し、インフラは財政再建団体となった今その維持が危ぶまれます(一回作れば永遠に使用可能と勘違いしていることはないと信じたいものですが)し、ネイムヴァリューといっていかほどのものがあるのでしょうか。夕張で雇用が不足だって。大いに結構ではないか。他自治体、とりわけ札幌に求めることだって可能だ。エッ、遠いって? わずか一時間少しだ(p163)というなら、交通の便もよく、インフラの維持可能性も夕張に比べればはるかに安心でき、ネイムヴァリューもまさる札幌郊外にでも住むのが普通でしょう(笑)。

    先日の統一地方選挙にて今後の夕張を担うこととなった、新市長や新議会議員たちが、本書に惑わされぬことを祈るばかりです。地方交付税交付金の減額が夕張市財政に与えたダメージに着目する(p61)など、部分部分としては見るべきところがないわけでもないだけに、残念なことです。

    05/07/2007 (7:59 am)

    江頭憲治郎、碓井光明編「法の再構築 (1)国家と社会」

    Filed under: government, book, law ::

    これまでの法が「国家と社会との間の境界」の存在を前提にするものであったとの問題意識の下、21世紀初頭の境界の揺らぎの状況に直面して「国家と社会」関係を新たに見直し「法の再構築」を図ろうとする(p iv)という本書ですが、おそらくは著者陣の狙いのほか、予想外の内容をも含んでいるといえます。実は本書を読むと、霞が関ではどのような議論が行われているのかということが、よくわかるのです。

    本書は、分野としては行政法各論ということになるのでしょうか。市場化テストの導入等に当たってどのような関連法整備が必要なのか(第1章)、M&A規制はどうあるべきか(第2章)、PFIの普及等を踏まえあるべき公有財産規制は何か(第5章)、民間団体によるルール設定と利益相反問題をどう捉えるべきか(第7章)といった興味深い話題が取り上げられていますが、これらは皆流動的な事態についての今日的課題であり、当然ながら定番の答えがある話ではありません。

    いきおい見通しのよい議論ばかりというわけにはいかず、この考えにはこういうメリットがあるけれども、他方でこのようなデメリットもあり、だからといって別の考えも一長一短で、といったような論述が数多く見られます。また、関連して考慮しなければならない法制度を丁寧に拾っており、細かいことにこだわるなぁという感想を持たれる方も多いでしょう。

    この歯切れの悪さや枝葉に渡る議論がなんともいえず霞が関テイストといいますか、そうやってああでもないこうでもないと議論しながら、何らかの方向を定めていくというのはよくある風景です。だからこそ、何らかの批判を受けたとしても、ついついそんなことはわかってるよとか、対案にしたって別の問題があるじゃないかと思ってしまうわけです。

    しかし、これが霞が関の姿なんだなぁとわかるのも、霞が関住人でないとつらいといわざるを得ず、果たして本書を読んで得るものが多い読者がどれだけいるのやら、という気がしてしまうのもまた事実。ある程度の土地勘があれば、本書のような各論を見ても、「うちの分野でいえばああいった話だな」ということが察せられるでしょうけれども、そうでなければ、あくまで個別論にしか見えないのも仕方がありません。

    加えて、税抜きで5,200円という決して安くはない価格を考えると、お薦めするにもためらってしまいます。結局、立ち読みをした霞が関住人が、「分かる人は分かってくれているんだなぁ」と自己憐憫に浸るぐらいが関の山でしょうか。もちろん、専門の研究者にとっては読み応えがあるのでしょうけれども、専門の研究者は法学者の中でも圧倒的少数ですし・・・。

    05/06/2007 (8:10 am)

    蒲島郁夫、竹下俊郎、芹川洋一「メディアと政治」

    Filed under: book, politics, media ::

    以前のエントリのコメントで買った旨をご報告した本です。メディアを論じたいならば必読だと自信をもってお薦めいたします。以下、webmasterがうなった記述をいくつか(特にポイントと思うところは強調します。よって、以下の引用中の強調は、すべてwebmasterによるものです)。今さらうなるなんて、学部時代に政治学をまじめに履修していなかったand/or履修後すぐに忘れてしまったということを公言するようなものかもしれませんが(笑)。

    その1

    ドナヒューらは、監視犬も愛玩犬も、メディアの実態を表すものではないとし、「護衛犬」(Guard Dog)という概念を提起する。(略)そこでメディアは、特定の党派・派閥に従属し、その主張を代弁することで、他の党派・派閥を批判したり攻撃したりすることもある(略)。

    たとえば、歴史学者の佐々木隆が描写する、第二次世界大戦中の日本における政府と新聞の関係は、まさに護衛犬モデルに当てはまるように見える。

    「反軍記者」「反戦記者」といわれる者も多くは「海軍記者の陸軍批判」であったり、「陸軍皇道派記者の陸軍統制派批判」など番記者型活動に伴うものがほとんどで、戦争や対外膨張そのものを批判したものは稀なのである(たとえば竹槍戦術を批判して東条首相の怒りを買い、懲罰召集を受けた『毎日』の新明丈夫(ママ)(5/7追記)記者がしばしば「反軍記者」といわれるが、彼は航空主兵主義の立場から東条首相の戦争指導を批判したのであって戦争中止を訴えたのではない)(佐々木、1999、390-391頁)。

    pp21,22(webmaster注:佐々木(1999)とは、佐々木隆「日本の近代14 メディアと権力」

    その2

    (略)各集団リーダーの政治的立場は異なるものの、リーダーたちの評価する影響力のランキングは驚くほど似ている。影響力のランキングの一致度を表す順位相関は、体制派の4集団間(自民党、官僚、財界、農業団体)で0.79、反体制派の4集団間(野党、労働組合、市民運動、女性運動)で0.96であった。体制派リーダー間の一致度が他の集団リーダー間のそれよりも低いのは、前者が日常の経験に基づいて判断し、政策決定過程の外側にいる後者は似通ったステレオタイプ的な社会認識を共有しているためではないかと思われる。

    これはワーナーの古典的発見、つまり下層階級にいる者は上層階級を一枚岩的と考え、上層階級にいる者はより多元的と考えることに似ている(Warner, 1963)。反体制派集団は、政策決定の中核において、どのような交渉や影響力の行使がされているかの情報をあまり持たないために、体制派集団が共同して自分たちの立場を脅かしていると思いがちである。

    pp35,36(webmaster注:Warner(1963)とは、Warner, W. L., 1963, Yankee City, Yale University Press)

    その3

    (略)各リーダーたちに、自己のイデオロギーを「最も革新的」から「最も保守的」の間に位置づけてもらった。(略)自民党リーダー、財界リーダー、農業団体リーダー、官僚の順に保守的な位置にあり、逆に野党、労働組合、市民運動、女性運動リーダーは革新的な位置にある。これらと比較すると、マスコミ・リーダーのイデオロギー位置はほぼ中間に位置している。左翼陣営は、マスメディアがあまりにも右翼的であるとし、右翼陣営は、マスメディアがあまりにも革新的であると批判する状況が、図にもよく表れている。

    p44

    その4

    経済学者のダウンズは、小選挙区制の下では、合理的な二大政党は中道の位置を目指して政策上の立場を変えていくと予想したが、二つの図はこのことをよく示している。興味深いのは、安倍晋三首相のイデオロギー位置で、自民党の平均値から大きく乖離し、強い保守の立場に位置している。しかし、安倍首相もダウンズ流に合理的に行動すると仮定すれば、中央に向かって動くだろう。

    p53(webmaster注:「二つの図」とは、自民党と民主党の衆議院議員の自己のイデオロギーの分布図)

    #「その10」をあわせてご覧ください。

    その5

    記者に対する政治家の影響力には、人間的な迫力や魅力といったパーソナルな側面もある。新聞記者からニュースキャスターに転じた筑紫哲也の次の発言はそのことを示しており、大変興味深い。

    (略)

    つけ加えておかなければならないことは、政治マンガなどで戯画化されるのと違って、実在の政治家は、それなりの人間的魅力を備えているという点である。それぞれが、その個性の故にそこまでのし上がってきたという何がしかの人間としての”磁力”を備えており、政治がすぐれて人間関係のマニューバーで成り立っているこの国の場合、その点でも彼らにはかなりの能力がある。(略)

    pp72,73(webmaster注:筑紫哲也の発言は、筑紫哲也「メディアの海を漂流して」より引用されています)

    その6

    また、競争のあるメディア市場では、国民が関心を持つさまざまなニュースをカバーせざるをえず、権力者に有利な記事だけでは国民受けしない。むしろ興味深いニュースやストーリーを好むというマスメディアの構造的バイアスは、権力者に不利なケースももたらしうる。権力に追従するようなストーリーは興味をひかず、逆に、権力者に対する批判的行動、スキャンダル、異議申し立てが、とりわけ興味をそそる。メディアが反権力的であるから政府批判をするというよりも、刺激的な特ダネ、激しい対立を好むというメディアの特性ゆえに政府を攻撃し、政府の問題点を暴くのである。

    p75

    その7

    ソフトニュースとは、娯楽志向の強いニュースのことである。対語はハードニュースであり、こちらは伝統的で「きまじめ」なニュースを指す。

    (略)

    アメリカでは、1980年代からソフトニュースが目立つようになったと言われる。それは先に述べたような、巨大メディア資本である親会社やその株主からの収益性重視の圧力が強まったというだけでなく、別の理由として、メディア市場での競争状況の変化がある。1980年代以降、ケーブルテレビや衛星放送などの普及によって、地上波ネットワークの寡占体制が崩れ(略)テレビ局間・番組間の競争は激化した。新聞もまた、若い世代の読者の減少に危機感を持つようになった。こうした状況で、必死に受け手の注意を引き付けようとして、テレビニュースでも新聞でもソフトニュースのアプローチが広まっていくのである(竹下、1994)。

    メディア市場の競争の激化がソフトニュースの増大をもたらすという事情は、日本でも同様である。たとえば平日の夕方5時台6時台は、民法テレビ各局がニュース番組を放送しているが、そこでは「企画・特集」と称してタウン情報や健康情報などが紹介される。

    pp81-83(webmaster注:竹下(1994)とは、竹下俊郎「変化する仕事環境と記者の意識――米・市場志向型ジャーナリズムの台頭」『総合ジャーナリズム研究』1994年秋号、pp20-24)

    その8

    第三者効果と強い関連をもち、かつ意見の風向きの知覚に影響するという点で示唆に富む仮説が、心理学者のバロンらが提起した「敵対的メディア認知(the hostile media phenomenon)」である(Vallone, Ross, & Lepper, 1985)。これは、党派性の強い人ほど、メディア報道が自分とは反対の立場に偏向していると知覚し、かつ中立的な受け手がそうした報道に影響されるだろうと推定する現象を指す。バロンらが実験で、親イスラエル派と親アラブ派の両方の人々にベイルート虐殺に関する同一のテレビ・ニュースを見せたところ、どちらの立場の実験参加者も、番組や番組制作者が自分たちの側と敵対する方向に偏っていると評定した。

    p137(webmaster注:「第三者効果」とは、自分はメディアに左右されないが、他人は左右されるかもしれないと思う効果のこと。Vallone, Ross & Lepper(1985)とは、Vallone, R. P., Ross, L., and Lepper, M. R., 1985, “The Hostile Media Phenomenon: Biased Perception and Perceptions of Medhia Bias in Coverage of the Beirut Massacre”, Journal of Personality and Social Psychology, 49, pp577-585)

    その9

    実際のところ、小泉ポピュリズムの「日本的特徴」はほとんど存在しない。比較政治学者のウェイランドによるラテンアメリカや東ヨーロッパにおける「ポピュリズム」の定義(Weyland, 1999; 2001)は、小泉首相のポピュリズムの特徴も表現している(Yamada, 2004)。ウェイランドによれば、政治的ポピュリズムとは、無視されていると感じている追随者に政治的リーダー個人が訴えかける時に用いられる戦略である。政治的リーダーは既存の中間諸機構を迂回して(特にテレビを通じて)追随者に直接訴えかける(Weyland, 1999, pp.381-382)。

    さらにウェイランドによれば、政治的ポピュリズムと新自由主義は、それらが共に現状打破の方向性を持っている時には両立可能であるという。一部の利益集団が重要な影響力を行使し、ポピュリストが、それらの集団には「特殊権益」を得ている既成政治家と官僚が含まれている、と非難するのである。このような特殊利益に対する弾劾によって、新自由主義的な改革が強力なイデオロギー的正当性を獲得する。小泉首相は巧みにポピュリズムと新自由主義を結び付けた。そのイデオロギー的結合が、痛みを伴う政策手段を政治的に実現可能なものにしたのである。加えて、政治学者の山田真裕が指摘しているように、有権者は新自由主義的改革の細部を理解してはいなかっただろうけれども、改革イメージを投票の手がかりとして使うことはできたのである(Yamada, 2004)。

    pp250-254(webmaster注:Weyland(1999)とは、Weyland, K., 1999, “Neoliberal Populism in Latin America and Eastern Europe”, Comparative Politics, 31(4), pp379-401。同(2001)とは、Weyland, K., 2001, “Clarifying a Contested Concept: Populism in the Study of Latin American Politics”, Comparative Politics, 34(1), pp1-22。Yamada(2004)とは、Yamada, M., “The Effectiveness of Adopting a Populist Strategy and the Importance of Trust”(2004年日本政治学会研究会(札幌大学)での発表))

    その10

    (略)横軸は防衛力強化や集団的自衛権行使の是非など伝統的な「防衛・安全保障政策」で、軍事力の保持や使用に「積極」的な立場か、それとも「穏健」な立場かの軸である。

    縦軸は「日本型システム」で、終身雇用や公共事業による雇用確保など旧来型システムを「維持」する立場か、自由競争を重視して「改革」する立場かという軸である。主成分分析という統計的手法を用いて、いくつかの質問項目からそれぞれの軸に関して指標化し、分析した。

    自民党の伝統的な政策位置は第一象限(右上)の位置であった。(略)

    しかし小泉首相は、アフガン戦争〜イラク戦争で日米防衛協力を強化するなど安全保障政策では積極的な立場をとる一方、社会経済面では構造改革を掲げ、従来の日本型システムの改革を主張した。図では第四象限(右下)の立場をとったことになる。(略)

    安倍首相についてはどうか。図によれば、安倍首相も2003年の時点では「安保=積極派、日本型システム=維持」という旧来の自民党と同じ立場にあったことがわかる。安倍首相は元来典型的な「自民党システム」の位置にあり、必ずしも改革志向は強くなかったのである。ところが、2005年になると安全保障面は積極的で、日本型システムについては改革という小泉首相と同じ立場へと大きく変化した。

    p258(webmaster注:縦軸については、引用文中にあるとおり、グラフの目分量で1.3からマイナス0.6へのシフトですが、実は横軸についても、1.0から0.7へのシフト(同じく目分量)が見られます。「その4」との関係で興味深いところです)

    05/05/2007 (2:23 pm)

    高野秀行「アヘン王国潜入記」

    Filed under: economy, book, politics ::

    ゴールデンウィークということで、積読解消中です。本書は、以前大屋先生が取り上げられ、それを見て購入したものです。

    大屋先生は本書で描かれる地域(ビルマ(本書の表記に倣ってます)東部の少数民族居住地)が近代国家(国民国家)でない点に着目して論じていらっしゃいますが、無論それはそのとおりで興味深い話ではあるものの、webmasterには、にもかかわらずそこがいわゆるグローバライゼイションの一環をなしていることとの対比が、より一層面白いように思いました。端的には、アヘン王国がアヘン王国として成立・発展したのは、ペルーの原住民がコカを栽培しているのとは異なり、それが世界中で売れるからあえて栽培したことの結果なのです。

    #したがって、他のドラッグを作るということも選択肢になるわけです(p366参照)。また、「未開社会」の住民は文明に毒されておらず素朴で清らかだ、などという見方が幻想に過ぎないのは、たとえば「準原始共産社会の財テク事情」(p299以下)に明らかです。

    しかも、よく知られた事実ではありますが、ドラッグビジネスがぼろ儲けであるにもかかわらず(政府が「参入規制」をしているのでレントが生じるというやつです)、原産地の儲けは非常にわずかです‐原産地といってもその指導層は(相対的に)豊かで、実際に栽培している農民が、ということですが。これまた、フェアトレード運動のように、「先進国による発展途上国の搾取」という他の財でも語られるような文脈に整理可能です。

    これも倫理的に批判しても仕方がない話で、なぜ儲けが農民に還元されないかといえば、付加価値を生み出しているのが農民ではないからです。主たる付加価値は2ヶ所で生じていて、まずはアヘンを精製してヘロインにする段階(これについては、本書でもp309に言及があります)と、そして何よりレントの源泉であるドラッグの取締りをかいくぐって先進国に輸入し、販売する段階です。これらのいずれも農民には関係ない話ですから、彼/女らに利益が還元されるはずもありません。

    フェアトレードについて、kaikajiさんがティム・ハーフォード「まっとうな経済学」での議論の整理としてまとめられているものを紹介すれば、次の通りです。

    1. コーヒーの価格に占める原材料費はわずかなものでしかない。コーヒー一杯あたりにかかるコーヒー豆の原価は恐らく数セントほどである。

    2. さらに、コーヒー豆の価格はかなり長い間にわたって低下を続けている。価格低下の原因は世界的な生産過剰にある。

    3. 世界的なコーヒーの生産過剰が生じているのは、もともと貧しく他に代替的な産業をもたないような熱帯地域において栽培が適していること、生産に高度な技術がいらず新規参入が容易なことから生産管理が難しいこと、などの理由による。

    4. フェアトレード団体はコーヒー豆を生産者からプレミアム価格で買い付けて、生産者の生活を支えている。フェアトレードのおかげで年間所得が二倍近くに増えた農家もいる。

    5. コーヒー会社は消費者に対し、フェアトレードによって仕入れた商品を他の商品よりも高い価格で販売することがある。これは、コーヒーを「何らかの理由があれば少し多めに支払ってよい」という客と「ギリギリの値段でなければ買わない」という客との間で異なる価格付けをして売るという、「差別化戦略」としての意味がある。

    6. コーヒー生産国が世界的な価格低下にもかかわらずコーヒー豆の生産に頼らざるを得ない背景には、欧米の農業保護政策により、他の農産物では輸出の利益が見込めないということがある。欧米諸国ではコーヒー豆は生産できないので、そういった国の農家はコーヒー豆に関税をかけることには関心がない。このため、貧しい熱帯の途上国でも参入が可能なのである。

    「まっとうなフェアトレードの経済学」(@梶ピエールの備忘録。2006/11/23付)

    1.については、ヘロインの価格に占めるアヘン(さらにはその原材料たるケシ)の原価が低いということで、同様でしょう。2.や3.についても、アヘン栽培について新規参入があるとはあまり聞きませんが、小売市場において競合する他のドラッグの存在を考えれば、同様の理由から原材料費が上がらないと整理可能でしょう。6.もまた、アヘン生産に先進国が参入してくることはないわけですから(本書の言い方を借りれば、この世の常識では、いかなる国や地域もアヘンを基幹産業にしてはいけないのだp362)ということになります)、同じように当てはめることが可能です。

    フェアトレード的にアヘン生産を目的としたケシ栽培農家にもっと儲けを移転することが可能かどうかは、上記の整理でいう4.ないし5.が成り立つかどうかにかかっています。そうした観点からすれば、筆者が現地で作成した「建白書」は、非常に理にかなったものであることがわかるでしょう。つまり、先進国から自発的にお金が払われ。かつその付加価値がきちんと現地に落ちるような仕組みを構築しようというものですから。

    逆に言えば、「建白書」が握りつぶされたままというのも、これまた経済学的にきちんと説明がつく話です‐それによって儲けを奪われかねない者に対して提案をしてしまっては、実現に努めようという気が起きるはずもなく(「建白書」へのコメントは、当人の意図はわからないにせよ、つまりは代償は何か、ということですし)、むしろその阻害にこそ努める方が自然です。本書で現地へのODAによる作付け転換の話が出てきますが、その関係者などに言ってこそ、実現可能性があったのでしょう。

    蛇足ながら申し上げれば、以上のような読み方は‐僭越ながら、大屋先生のそれを含め‐本書の多様な側面のひとつのみを取り出すものでしかありません。冒険記・探検記としても十二分に楽しめる本ではありますが、再読の際には、こうした面から読み解くのもさらに味わいが深くなるのでは、ということです。

    05/04/2007 (6:24 am)

    中川右介「カラヤンとフルトヴェングラー」

    Filed under: book, history, music ::

    webmasterは非常に面白く読んだのですが、amazonの書評をみると否定的な見解もあります。表題の2人、さらにはチェリビダッケらの指揮者の極めて人間臭い部分を書いたことが誹謗中傷に当たると受け止めていらっしゃるのだと思いますが、それらを含め人並みはずれた感情の起伏があるからこそ偉大な芸術家足り得たとwebmasterが考えてしまうのは、おそらくは本書に登場する誰よりも俗界の欲に執着したヴァーグナー好きだからでしょう(笑)。

    ただ、読者を選ぶのは事実です。全くクラシック音楽になじみのない人が読んでもわけがわからないでしょうし、他方でナチスドイツや第二次世界大戦史についての知識がある程度はないと、本書で描かれる当時の歴史的事象はそれほど充実しているわけではないので(戦史書、あるいは一般歴史書ではないので当然ですが)、味わい深さも半減です。まして、既述のようにある種のファンにとっては憤慨の源にしかならないでしょうし。

    逆に、はまる人にはとことんはまる本だとも言えます。たとえば、音楽界に対してナチスがどのような統制を敷いていたかなんてことは、とりわけその具体は、政治・歴史学系では相当の専門書でないと出てこないのでしょうけれど、本書には詳しく書いてあります。もちろんナチスの文化・芸術政策の全体像がそれでわかるというわけではありませんが、当時の音楽界の状況を踏まえた巧妙なものだったのだなぁ、なんてことは双方についてのそれなりの知識があれば、とても納得のいく話です。

    なお、瑣末ながら、webmasterにとって気になる点がひとつ。表題の2人とチェリビダッケの次に本書で重要人物らしく取り上げられているのはウォルター・レッグ(EMIのプロデューサー)ですが、にもかかわらずエリザベート・シュヴァルツコップが登場しないのです。フルトヴェングラー、カラヤン、そしてレッグの3人とは浅からぬ縁のある彼女ですが、本書が取り上げる時間軸・人間関係においては、大した役割は果たさなかったのでしょうか。何か面白エピソードがあってもおかしくないようにも思うのですが、どうなのかなぁ・・・。

    #ご存じない方のために補いますと、シュヴァルツコップはフルトヴェングラーやカラヤンと数多くの演奏をともにした著名なソプラノ歌手であり、レッグの配偶者です。

    ちなみに本書には、絶対にwebmasterには納得できない記述があります。

    それは、セルジュ・チェリビダッケという指揮者が存在したからこそだった。チェリビダッケは一般的な知名度は低い。カラヤンはクラシック・ファンでなくてもその名前ぐらいは誰でも知っているが、チェリビダッケはクラシック・ファンのなかでもかなりマニアに近い人々でなければ、知らないだろう。(後略)

    p5

    チェリビダッケの名前を知っているだけでマニアに近いだなんて・・・webmasterはマニアに近い人ではないですから(笑)!

    #他方でカラヤンについては、死後それなりに時間がたっているので、もう知らない人も増えてきていると思いますが。

    04/28/2007 (5:39 am)

    学生街の書店の厳しさ

    Filed under: book ::

    昨日のエントリに寄せられたkogeさんのコメントに関連して。

    コメント欄でkogeさんが、学生の町京都での丸善の閉店をなげいていらっしゃって、ちょっと感じるものがあった。

    うーん、学生街で本屋ってやっていけるのかな?

    学生さんの使う支出の構成見たら儲かるのは服屋と雀荘と飲み屋とパチンコ屋、続いてラーメン屋あたりが売り上げを伸ばせて、それらと立地を競って生き残るのは本屋にはつらいのではないかと思いますが…..

    「共存共栄の終わり」(@くまくまことkumakuma1967の出来損ない日記4/27付)

    かつてのことはよくわかりませんが、近年においては、生協書籍部の存在こそが、学生街の書店の経営を圧迫しているのではないでしょうか。webmaster自身、学生時代にもっとも多くのお金を支払った書店は生協書籍部でしたが、生協書籍部には、

    • 再販商品である書籍なのに割引がある、
    • 教科書に代表される学生向きの専門書の品揃えが豊富である、
    • キャンパス内にありアクセスがいい、

    といった競争上の優位を確保しています。一般書店がこれに対抗してやっていくのは大変ではないでしょうか。教科書は書籍部、それ以外は一般書店という棲み分けができればともかく、雑誌やマンガなどもそろってますからねぇ、書籍部には。書籍部の売上げの推移がわかるデータがあれば、きちんと検証できると思うのですが・・・。

    04/27/2007 (6:43 am)

    ブックファースト渋谷店閉店

    Filed under: book ::

     阪急電鉄グループ(本社=大阪市)は4月25日、渋谷文化村通り沿いにある旗艦店「ブックファースト渋谷店」(渋谷区宇田川町、TEL 03-3770-1023)を今年10月中旬で閉店すると発表した。

     同社によると、閉店は入居中のビルの建て替え工事に伴うもので、閉店後は近接するビルに新店舗を出店するほか、「新旗艦店」として新宿に売り場面積=1,000坪を超える大型店を開設する。

    (略)

     新店舗「ブックファースト渋谷文化村通り店(仮称)」は、大盛堂書店の閉店に続き同年9月に閉店した「旭屋書店渋谷店」が入居していた道玄坂下交差点近く「渋谷第一勧業共同ビル」(宇田川町)地下1階・地下2階にオープンする。売り場面積は約200坪で、営業開始は渋谷店閉店直後の10月中旬を予定。

    シブヤ経済新聞「大型書店「ブックファースト渋谷店」が閉店へ−旗艦店は新宿へ」

    とてもショックです・・・これでは渋谷に大型書店と言える店舗がなくなってしまうではないですか。新宿は紀伊国屋本店・南口店に加えて、最近ジュンク堂の拡張があったので、これ以上増えてもあまり利便性の向上が期待できないわけで。

    04/16/2007 (4:18 am)

    魚住昭「官僚とメディア」

    Filed under: government, book, media ::

    著者の作を読むのは「野中広務 差別と権力」に次いで2冊目なのですが、「野中広務」を読んだときに思ったとおり、著者は優秀なジャーナリストなのだな、と実感させる一冊です。検察に食い込んでいった様の描写など、プロとはかくあるべしと感心してしまいます。

    しかしながら、本書の醍醐味は、そこにはありません‐あるいは、優秀なるがゆえに著者の狙いとは違った問題をも図らずも抉り出してしまった、というべきでしょうか。つまりは、優秀である著者であっても逃れられないということから、今のマスメディアの抱える問題の深刻さがあぶりだされてくるのです。

    歴史は繰り返す

    今なおメディアの世界においては、昭和初期の全体主義体制の確立に当たって、被害者意識のみを持つ人も多いように見受けられますが。

    私がまだ共同通信の記者をやめる直前の『沈黙のファイル』の取材で、同僚と一緒に太平洋戦争開戦前夜の参謀本部作戦課の内情を調べたことがある。作戦課は陸軍大学校出身の超エリート参謀二十数人からなる陸軍の中枢機関で、国防方針に基づいて作戦計画を立案し、約四百万人の軍隊を意のままに動かした。

    その作戦課の元参謀たちに「勝ち目がないと分かっていながら、なぜ対米戦争を始めたのか」と聞いて回ったら、ある元参謀がこう答えた。

    「あなた方は我々の戦争責任を言うけれど、新聞の責任はどうなんだ。あのとき新聞の論調は我々が弱腰になることを許さなかった。我々だって新聞にたたかれたくないから強気に出る。すると新聞はさらに強気になって戦争を煽る。その繰り返しで戦争に突き進んだんだ」

    この言葉は私にとってかなり衝撃的だった。というのも、私はそれまで新聞は軍部の圧力に屈して戦争に協力させられたのだと思い込んでいたからだ。それが事実でなかったとしたら、私たちが教えられた日本のジャーナリズム史は虚構だったということになる。

    p126

    参謀に聞く前に気づけよ、という気がしないといえば嘘になりますが(笑。ついでに言えば、参謀本部作戦課が「約四百万人の軍隊を意のままに動かした」とは言いがたいことは、取材を通じて理解してほしかったような)、過ちては則ち改むるに憚ることなかれ、戦前を鑑として著者は自らの職歴を振り返ります。

    佐々木によれば、新聞の親軍的記事はすべてが強制ないし暗黙の強制によるものではなかった。誘導の効果はいくらかあったかもしれないが、もともと親軍的な記者、軍にシンパシーを抱く記者、誘導を受け容れる素地のある記者はいくらもいた。それは軍に批判的な記者や記事が存在したことと同様にまぎれもない事実だった。

    彼ら新聞記者たちは政官界の随所に濃密な人間関係を設けて食い込み、情報を物々交換することで、あるいは情報を通貨のように利用することで密着度を高めながら、実態としては情報提供者・情報幕僚として振る舞い、時としては政治ブローカーのごとき役割をも果たしていたという。

    まったくその通りだったろうと私はかなりの確信を持って言うことができる。なぜかというと、戦後の記者である私自身が検察庁に「濃密な人間関係を設けて食い込み、情報を物々交換することで、あるいは情報を通貨のように利用することで密着度を高めながら、実態としては情報提供者・情報幕僚として振る舞」っていたからだ。

    たしかに政官財界の腐敗を摘発する検察と、日本を破局に陥れた旧陸軍は違う。しかし、それは戦後の我々が陸軍を罪悪視しているだけであって、戦前・戦中の「親軍的な記者」たちにとって陸軍は今の地検特捜部のような「正義の味方」だったのだろう。

    pp127,128

    これを読めば、きちんと歴史の教訓を活かし、今後は過ちを繰り返さないのだろうな、と考えるのが自然でしょう。

    そして、昨年末に明るみに出た裁判員制度タウンミーティングの問題は、私の問題意識があながち見当外れではなかったことを示してくれた。この数年、マスコミの論調や世論がいつのまにか変わり、一昔前だったら反発を受けたに違いない国策(たとえばイラク派兵や教育基本法の改正、そしておそらくは近い将来に実現するであろう憲法改正)がすんなりと受け入れられる現象が相次いでいるが、その裏には政府や最高裁とメディアが一体となって仕掛けたプロジェクトがあったことが次第に浮かび上がってきたのである。

    p210

    結局はわかっていないんですねぇ。自らがなしたことを含め検察報道について筆者が客観的に分析可能なのも、既に筆者が検察報道に対して批判的な立場(本書に何度となく出てきます)にあるからに過ぎなかったのだとwebmasterは思わざるを得ません。軍部や検察が陰謀を企んだからといって世論を好きなように動かせるわけではないと認識しながら、ではなぜ「政府や最高裁とメディアが一体」となればそれが可能と考えるのか、単なるご都合主義を超えるものではないでしょう。

    「一昔前だったら反発を受けたに違いない国策」が「すんなりと受け入れられる現象が相次いでいる」のは、そのような陰謀論の帰結ではなく、世論が変わってきているからに他なりません。大衆の側にあると自らを位置づけておきながら、大衆から遊離している現実を直視するのは、確かに辛いことではあるでしょう。しかし、そこから逃げていては、いつまでたっても陰謀論の虜でありつづけるだろうとwebmasterは思います。ただ、対象が異なるだけで。

    報道に貴賤なし

    先の話と半ば重なりますが、仮に著者の認識が、軍部や検察だけなら世論を動かせないけれども、それにメディアが加われば動かせるというものですと、必然的にメディアの特権的能力を認めることになります。

    と同時に、これは特に朝日新聞に顕著に見られることだが、自分たちは新聞人として特権的な地位を与えられているがゆえに普通の人間よりも高い倫理性を求められている、だから疑惑を招いたり、批判を浴びたりするような行為はしてはいけないのだという、いわばノーブレス・オブリージュ論とセットで語られることが多い。

    (略)

    そもそも報道とはそれほど神聖な仕事ではなく、情報という商品を不特定多数の消費者に売る仕事にすぎない。そして、その商品の原料である一次情報の約七割(これはあくまでも私の実体験に基づく推測だが)は、官庁もしくはそれに準じる機構からただで提供されるものだ。そういう意味で報道に携わることを恥とするならともかく神聖視したり、特権視したりするいわれはまったくない。

    p172

    webmasterは、「そもそも報道とは・・・情報という商品を不特定多数の消費者に売る仕事にすぎない」との指摘こそ卓見だと思うのですが、どうやら筆者にとってはそうではないようです。多くの場合において官庁等からの情報を右から左に流すだけだから「売る仕事にすぎ」ず、「恥とす」べきものだと。逆に言えば、独自取材に基づき巨悪とやらを告発するような報道は、それを「神聖視」「特権視」と呼ぶかどうかはともかく、社会的に意義深いものだと考えているのでしょう。

    しかし、そうした報道を含め、すべての報道は「情報という商品を不特定多数の消費者に売る仕事にすぎ」ず、売れない商品は市場から退出せざるを得ません。先の例で言えば、「一昔前」の「反発」は、既にマスを対象とするものとしてはその商品価値を失ってしまっているからこそ、少数派に転落しているわけです。筆者の政治的立場には批判的なwebmasterではありますが、少なくとも筆者が現状を憂うのであれば、もう少し「商品」の売り方を考えた方がいいのでは、と老婆心ながら。

    #右から左に流す仕事を神聖視・特権視しているメディア関係者よりはましであることは否定しませんが。

    さらに付け加えるなら、現在のメディアに対して広く見られる不信感は、そうしたメディア側の姿勢がどうか以前に、メディア自身がエスタブリッシュメントの側にあると大衆が見ている(実際にそうかどうかは二の次)ことに根源があるわけで、つまりは官僚不信や政党不信と同種のエスタブリッシュメント全般に対するものの一部に過ぎません。官僚や政党は、それに有効に対処しているかどうかはさておき、少なくとも自覚はしているとは思いますが、メディアにその自覚はあるのでしょうか?

    報道の生産性

    これまた続きのような話ではありますが。

    私は読売を取材してはじめて、共同通信で起きた出来事の意味をはっきり知ることができた。もちろん共同には渡邉氏のような怪物はいない。しかし、ミニナベツネともいうべき上司なら掃いて捨てるほどいた。彼らはジャーナリズムの精神とは無縁な存在だった。彼らの害毒は一線記者たちの心を蝕み、職場の空気を荒廃させていた。

    そんな幹部連中に限って「訂正を出すな」「速報が遅い」「経費を節約しろ」と口やかましく部下たちを叱り、管理統制を強化して記者たちを萎縮させていた。おかげで社内の自由な空気は失われ、記者たちが相互に分断されて、組織全体がもの言えば唇寒しの空気に覆われるようになった。

    しかし、組織の変質を許してしまったのは他ならぬ私たちだった。私自身が上司らの理不尽な行為に遭遇したとき、彼らの責任を徹底的に追及できず、逆に泣き寝入りしてしまうことが多かった。たぶん同じようなことが他のメディアでもこの半世紀の間に何百回となく繰り返されただろう。

    そのたびに本来のジャーナリズム精神(それはとりもなおさず戦後民主主義の理念でもある)が少しずつ失われ、職場の荒廃が進み、権力の暴走をチェックする機能が衰退していったのだと思う。

    pp53,54

    辰濃の文章を読みながら、私は自分が共同通信に入社した75年当時のことを思い出した。あのころの共同通信には自由と活気があった。造反有理。部長やデスクと口論するのは当たり前だった。

    (略)

    ところが、それから20年後、私が退社するころには共同通信の空気は一変していた。もの言えば唇寒し。記者たちは一人ひとりが孤立させられて何も主張できなくなり、言いようのない虚無感と倦怠感と疲労感が職場全体を覆っていた。入社当時とはまったく別の会社になってしまったなというのが私の実感だった。

    なぜそうなったのか。自分のふがいなさを抜きにして言わせてもらえば、20年の間に2倍も3倍も仕事が忙しくなり、記者たちには考える余裕もなくなった。それと並行して「他社に抜かれるな」「訂正を出すな」「経費節減しろ」といった指令がのべつ幕なしに現場に降りてくるようになった。結局、労働強化と管理強化が組織の活力を失わせ、記者たちが本来持っているみずみずしい感性や想像力まで奪い去ってしまったのである。

    pp174,175

    このような感慨も、筆者が本当に「そもそも報道とは・・・情報という商品を不特定多数の消費者に売る仕事にすぎない」と思っているのであれば出てくるはずもありません。マスを相手に競争市場で事業を営んでいる企業であれば、欠陥品を減らす(=訂正を出すな)、ライバル社の製品に対抗する(=他社に抜かれるな)、工期を短縮する(=速報が遅い)、経費を節減するなんてことは、当たり前のように行っていることだからです(霞が関の住人に言われたくはないでしょうけれども)。

    ここでの筆者の嘆きは、端的にはラッダイト運動にも似た、資本の論理に対して古き良き牧歌的な職場環境を追憶するものに過ぎません。いくら「情報という商品を不特定多数の消費者に売る仕事」といったところで、「本来のジャーナリズム精神」「記者たちが本来持っているみずみずしい感性や想像力」などという言葉が出てくるようでは、その意味するところをわかっておらず、芸術家か何かと自らを勘違いしているのでは、と疑われて当然でしょう。

    客観的に見れば、かつての言論市場は不完全競争で、大手マスメディアはレントを享受していたがゆえに、生産性を低める要因である「本来のジャーナリズム精神」「記者たちが本来持っているみずみずしい感性や想像力」といった無駄を抱え込んでいられたのだということになります。情報流通のさまざまな流れができてくる中で、そうしたレントが失われ、他産業なみに効率化が進行していった現場が、筆者が上記引用で描いた状況なのです。

    冷たい言い方になりますが、2ちゃんねるなどでよく言われる、余計な解説はいらない、一次ソースをなるべく歪みなく知らしめることがマスメディアの役目だ、という主張は、まったくもってそのとおりだということになります。「本来のジャーナリズム精神」「記者たちが本来持っているみずみずしい感性や想像力」なるものに本当に価値があったのであれば、先にそれらを失った共同通信はとっくに倒産し、あるいは後になるまでそれを持ち続けた朝日新聞がもっと部数を伸ばしていてしかるべきなのですが、現実はそうなってはいません。

    それが、市場が出した答えなのです。

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